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「敵に襲われた!?」
「……ハッ」

 冬美さんと話している内に、いつの間にか眠ってしまっていたみたいだ。枕にブランケット、轟くんのフリース。インターンで励んだ後に完全装備で温められてしまえば、そりゃ寝落ちもしちゃうよね。まだ寝たい、と訴えるまぶたを擦りながら身体を起こした。寝ぼけた頭に、ひとつ襖を隔てた先にいるエンデヴァーさんたちの声が聞こえてくる。
 冬美さんとエンデヴァーさんと、それから夏兄の声だ。覇気のない声の内容を辿るに、どうも三人の帰宅途中、敵に襲われたらしい。またなんかトラブってたんか。

「焦凍と夏雄には既に話したのだが」

 エンデヴァーさんが切り出した話に、ああ、またセンシティブな話を盗み聞きしちゃった、とぼんやり思った。轟くんのお母さん、退院が近いんだ。お母さんを迎えるために、新しい家を建てる、とエンデヴァーさんが言った。

「いきなりで悪いが、引越しの準備をしておいてくれ」
「待ってお父さん! ……お父さんは……?」

 これ、私聞いてない方がいいよなあ。とは思うものの、耳を塞いだところで今更だ。あーあ、もうちょっと寝てたらよかった。起こした身体を倒して二度寝の準備に入ると、お父さんはどうするの、と戸惑い少し震える冬美さんの声。

「ここに残る」

 エンデヴァーさんも、勝手だ。



「んーじゃ、お邪魔しましたあ〜」
「磨ちゃん、ありがとう」
「ん、こちらこそ。冬美さんまたね〜」
「うん、また」

 トントン、とつま先を蹴ってローファーを合わせる。うわ、外寒そ。すっかり夜だもんなあ。明日からは学校だ、やだやだ。いやじゃないけど始業ってなんかやだよね。明るい見送ってくれるけれど、冬美さんの顔にはさっきまでにはない戸惑いが隠しきれていなかった。その後ろには、さらに思い悩む青年の姿が。

「夏雄もまたねえ」
「え……うん。……え、うん? ああ、また……?」
「おに戸惑っててうける〜……うわさむっ」

 夏兄にも手を振ると、すっごい戸惑いながらも会釈してくれた。夏兄ってなんか夏雄! って感じ、するよね。
 エンデヴァーさんに続いてハイヤーに乗り込んで、流れていく夜の景色をぼんやりと眺めた。えもい。

「ここ車内BGMない?」
「ケェーー! ラジオでも付けるか!?」
「けぇー! いやラジオはいいや。なんかチルりたいだけ〜」
「チルってなんだァ!?」

 運転手のケェー! さんは車田さんって言うらしい。髭のかわいいおじさんだ。けぇー! 真似してこ。

「え、チルるとか言わない?」
「……緩名の喋り言葉は少々独特だからな」
「若者言葉ってェやつか!」
「それそれ」

 なんか……チルりたいじゃん。ね。夜の車内ってエモの権化みたいなとこあるし。目から力を抜いて焦点をバグらせて、色とりどりの街の光をぼやかして見るとキラキラしてて綺麗だ。一緒に見てるのおじさんたちだけど。それでも、綺麗なものはいつだって綺麗だからいい。夜景大好き。この光の中に溶けて消えれたらどれだけ楽になるのか、なんてらしくもなくメンタル鬼凹みみたいな事を考えてしまう。センシティブをね、喰らいすぎた。ゴツン、と頭を冷たいガラスにくっつけると、ハア、と漏れ出たため息が、白く曇らせた。

「……変なところを見せたな。すまない」
「……寝てたし。私」
「そうか」
「寝てたし」
「そうか……」

 並んで座ったエンデヴァーさん。威圧感すらあるほどみっちり大きいのに、なぜか窓ガラスの反射で見たその姿は、普通のおじさんくらい弱っちく見えてしまった。
 エンデヴァーさんが一人で残る、つまりは別居という選択が、間違ってるかっていうと、別にそうとは思わない。そもそも、私なんて全く轟家には関係の無い赤の他人だもん。なにか口を挟むつもりも一切ない。けど。傍で見ている轟くんは、少なくとも、変わろうとしているんだから、エンデヴァーさんがそれを無視して、一人離れようと選択するのは、勝手だなあ、って思っちゃうよね。受け入れるのも、無理だって拒むのも、選択肢を与えたらいいし、ゼロか百かみたいなのも極端じゃん。それに。もう遅いかもしれなくても、エンデヴァーさんには冬美さんも、夏兄も、轟くんも、轟くんのお母さんもいる。取れる手が、やり直せる機会があるなら、虫のいい話だけどそんな意固地にならなくてもいいんじゃないの、って。家族なんて血の繋がっただけの他人だけど、血の繋がりって束縛で、しがらみで、根っこから完全に切り離せるものでもない。

「やり直せるだけいいじゃんね」

 無意識に零れた呟きは、きっと八つ当たりだ。死んじゃったら、全然終わりなのに。



 雄英の前に到着すると、見慣れた人影が立っていた。 車内の空気を重たくしちゃった自覚はあるので、気まずさに車を飛び降りる。コス、カバン、持った、オッケー。

「じゃ、また」
「ああ」

 どうせすぐインターンだ。週末に加えて、平日も最低二日。週の半分、よりも多くインターンがあるし、学期末も迫っている。なかなか気が抜けないスケジュールだ。ふー、と息をひとつ吐いて、送迎のハイヤーに向かって軽く礼をしている黒い人影に走りよった。

「せんせ〜」
「……なんだその顔」
「エッ? 急に喧嘩売ってる!?」
「いや……」

 久しぶりの相澤先生、しかも年明け一発目! と思ったら喧嘩売られた。なに?

「……」
「なに?」

 隣に並んで見上げると、黒い瞳がきゅうと細まる。そんな変な顔してるかな。まだ車内の熱を残した指先でぺたぺたと顔を触るけれど、鏡もないのでよくわからん。

「なんでもないならいいよ」
「ふぅん……?」

 なんでもないならいいよ、ってことは、なんかありそうに見えたんだろうか。若干センシティブな感じだったとはいえ、表情に剥き出しにするほど子どもではないはずだし、いつも通りなつもりなんだけども。ううん、と指の骨でぐりぐりと頬を押す。全然わからん。

「変な顔してた?」
「別に。いつも通りだ」
「なんかそれいつも変な顔みたいに聞こえない?」
「そうだな」
「あっ対話が適当になってる!」
「はよ行け」
「うい」

 ゴツン、と後頭部を小突かれて、止まっていた足を進める。暴力的〜。今日は雪こそ降っていないものの、山の上に立つ雄英内は馬鹿みたいに寒い。少し余るフリースの袖同士をくっ付けて暖を取った。
 肌を刺す冷たい風に、意味もないのに首が竦む。襟の内側に入った髪からは、わずかに上等な畳の匂いがする、気がした。ヴ、と震えたスマホを見ると、冬美さんからのお礼ラインが届いていた。冬美さん、いい人だったな。それから、失礼な言い方だけど、必死だった。たぶん、“家族”を取り戻そうと。全く同じではないけれど、同じように“家族”を取り零してしまったから、少しだけ気持ちはわかる。と同時に、エンデヴァーさんに向けて八つ当たりのように零してしまった言葉を、今更少しだけ後悔した。完全な八つ当たり。いい歳していい歳した人に何を言ってんだって感じだよね。ソレ。重たく漏れそうになったため息をすんのところで飲み込んで、代わりにごほっ、と咳が出た。うわ、器官に入った。

「おい」
「っごほっ、まって、器官、っつ、はいったあ、っは」
「なんでだよ」
「けほっ……っはあ、ヤバ、老化かも」
「バカ」

 丸まった背中を、呆れながら先生がトントンと叩いてくれる。唾ですら器官に入る。厄日かもしれん。悪霊退散しとこ。塩撒かな。目尻に浮いた涙を袖で拭って、胸元をどんっ、と数度強めに叩いてやっとなんとか落ち着いた。ただ歩いてるだけで生徒が急に噎せたらびっくりするよね。老人か?
 ん゙んっ、と喉の調子を整えると、ようやく上手に呼吸ができる。死ぬかと思った。

「何かあったか」
「……」

 なんにもないよ、って、即答できた方がよかったのに、どうしてかそうできなかった。なんにもない事には、なんにもない。けど、全くの無かと言えば、そうでもない。たとえば寒さとか、それによる自律神経のブレとか、そんなところにぶち当たった微妙に似た境遇の家庭問題とか。微小のきっかけが積み重なって、メンタルに影が差している自覚はある。
 でも、これくらいみんな生きてたらままあることだし、そんなに重く捉えられたくもない。なんたって思春期の女子高生だもん。沈むこともそりゃあある。

「先生」
「どうした」

 少し屈んで、目線を合わせてくれる先生に、嘘を吐くのがどうも苦手らしい。だからといって、私だったら直ぐに潰れちゃいそうなくらいタスクを抱えた先生に、こんなちっぽけでしょうもないメンタルの落ち込みを相談する必要も無い。だから。
 荷物を持っていない方の手を伸ばして、見慣れた真っ黒なコスを掴む。裾のあたりに皺を寄せるそれを、少しだけ引き寄せた。

「ぎゅってしていい?」

 外の気温が低いせいか、少し近付いたくらいでは先生の匂いもなにもしない。ほんのちょっとだけ高い位置にある顔を見上げると、先生は少しだけ驚いた顔をした。

「……それはダメだろ」
「ちょっとでいいから」
「俺をここから追い出したいのか、おまえ」
「そうじゃないけどぉ……」

 ぷくっ、と頬を膨らませたら、先生が僅かに眉を寄せる。門から寮に続くこの道は、明るい内はロードワークに走っている生徒もいるけれど、流石にこんな夜には外に出ている人影もない。だから目撃なんて滅多にされないだろうけど、そもそもの問題はそこではない。倫理と道徳のお時間だ。ヒーローなだけあって、雄英の先生たちはみんなだいたい距離が近いけれど、流石に異性の生徒とハグはまあ問題だ。たとえば神野の時のような、緊急事態でもない限り真っ当な価値観を持つ先生が生徒を抱き締めるなんてこと、するわけがない。……だからこそ、その倫理観を誤魔化しに利用しちゃったんだけど。

「ちょっとだけ、先っぽだけだから。ワンタッチだけ」
「どこのオッサンだおまえは」

 下品な言い回しを辞めなさい、なんていかにもセンセーな注意を頂いてしまった。まあ下品ではある。正論。提案はもちろん却下されて、ハア、と呆れたため息まで貰っちゃった。ここも概ね計画通りだ。嘘はつかなくとも、誤魔化すことくらいはできる。
 いくら雄英の敷地が広くとも、寮までは直ぐに着いてしまう。じゃり、と砂混じりの土を踏んで、煌々と灯りの漏れる慣れ親しんだ寮を見つめた。なんか楽しそうな声聞こえてくるし、みんなまだまだ起きてるっぽい。だいたいの生徒は明日の始業に備えて今日のうちに帰って来てるし、なんなら私がラストくらいの勢いだろう。バカ笑いが聞こえてくるのは、絶対三奈と上鳴くん。うるせ〜。

「うるせェな」
「ふふふ、まあまあ、久しぶりだし」

 寮の外まで漏れる笑い声に、先生が眉間の皺を深くする。このままだと乗り込んでトレーニングさせそうな勢いなので、一応宥めておく。ふん、と鼻から息を吐いて、とりあえず抑えてくれたみたいだ。

「さっさと寝ろって伝えとけ」
「んふ、了解〜」

 どうやら先生は上がってはいかないみたいだ。私が遅く一人で帰って来ちゃったからのお迎えだろうし、始業前って教師の業務いっぱいありそうだし。知らないけど。

「インターンね、楽しいよ」
「そうか」

 一応、それだけは伝えておかないと。あ、そういえばミルコの件大丈夫だったな。ラッキー。

「ん、じゃあ先生、また明日〜」
「寝坊すんなよ」
「はあい」

 おやすみ、と先生に挨拶して、賑やかな声が溢れる扉に手をかけた。緩名、と呼びかける声に、少しだけ振り返る。

「多少の無理はしろ。……が、過剰な無理するな」
「……なにそれ、矛盾じゃん、うあ」

 頭の上に乗った手のひらが、一瞬だけぐりぐりと乱暴に首を揺らす。コーヒー、それから先生の匂いが混ざって、直ぐに離れた手と距離。おやすみ、と落とされた一言、猫背気味の背中はさっきまでのゆっくりした歩調とは違い、足早に去っていく。
 ……先生って、ずるい。



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