00. むかし、彼女が幼かった頃。それも彼女が思い出すことが出来る最古の記憶。 彼女は一度だけ、その言葉を口に出したことがある。 その言葉の由来は分からない。元々そうだったのか、誰かが与えてくれたのか。もしかしたら、彼女自身で、どこかで聞いた言葉を繋ぎ合わせてそれらしく見立てたのかもしれない。それ程その言葉は曖昧で不鮮明なものだったが、幼かった彼女が自我を確立していく過程の中で、それは確信めいたものに変化していった。 だから口に出した。 胸の内に確固とした居場所を築き上げるその言葉は、彼女にとって、おはよう、とか、いただきます、とかそういった類の言葉と同列になっていたからだ。 何の躊躇いもなく自然と出たその音に対して、降ってきたのは拳だった。 ーー二度と口に出すんじゃねぇ 驚いて見上げたその双眸に映ったのは、見た事もない憎悪の表情であった。 それ以来、彼女はその言葉を閉ざした。 身寄りのない自分を置いてくれていることに感謝こそすれ、彼女の言葉があのような表情をさせたことに後悔を覚えたからだ。 そして彼女の周りの大人たちは、別の言葉で彼女を呼び始めた。彼女の髪色からとった単純な記号で。 彼女は、自分しか知らないその言葉を胸に抱き、甘んじて別の言葉で呼ばれている。 ーーいつかその言葉を口に出す時がくるのを夢見て。 |