×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -
 
5
 
生きとし生けるもの達よ


 特に理由もなく、カフェで二人、コーヒーを飲んでいた。外はうだるような暑さで、蝉の鳴く声が耳にやかましい。赤井は向かいで文庫本を読んでいて、俺は何をするでもなくただそれを眺めていた。『ミミズと這うなら地の果てまで』小説本らしいけど、タイトルからは内容が全く予想できなかった。読み終わったら、感想とあらすじでも聞いてみようと思う。いつまで経っても、俺は本を読むという行為があまり好きではなかった。一番楽なのは、今みたいに、何もしないこと。それを知ったのは最近のことだった。何かしなくても生きてていいんだ、って、思えるようになったってこと。そして、何もしないことを俺に許容してくれる赤井の隣は呼吸がしやすかった。
「俺は、あなたのそういうところに惹かれたんです」
「……なに?」
「他人にあんまり興味ないところ」
「そうでもないよ」
「そう?」
 アイスコーヒーを一口飲んで、赤井は再び読書の海の航海へと戻っていった。アメリカから来る赤井と何となく会って、何となく食事をして、時々セックスをする。俺が潜入捜査に何ヶ月か潜ることもあったけど、そんなわりかし穏やかな日々が、何だかんだ続いていた。
 家に帰るとアメリカにいるはずの赤井がいたのは、初めてセックスをしてから、もうすぐ二年になるような時だった。
「FBIを辞めたんだ。ここに住ませてくれ。あまり金もない」
「は?……給料と退職金は?」
「使った」
 何に?何で辞めた?疑問は頭に浮かんだけど、聞かなかった。代わりに一番大事なことを聞いた。
「なんで、うちに来たの」
「君と一緒に暮らしたくて」
 それが聞ければ充分だった。我ながら心配になるくらいにチョロい。
「引っ越しましょうか」
「なんで?ここでいいじゃないか」
「……あなたに破られるようなセキュリティの家に住んでいたくない」
 赤井は笑った。アメリカ人みたいに大袈裟に笑った。

 共同生活は、概ね順調だった。赤井は俺が家にいるからいいだろうと言って引っ越しを拒否した。宣言通り赤井は大体家にいた。最強の自宅警備員すぎて何も言えなかった。どうやら仮想通貨で金を稼いでいるらしかった。使い込んだらしい大金の使い道は、まだ聞いてない。
 そうやって、家に帰ると赤井が出迎えてくれて、一緒にご飯を食べて、時々セックスをして過ごした。順調だった。どこがゴールか分からないのに、何故だかやたらと順調だった。赤井の金の使い道が分かるまでは。


***


「は?」
「だから、妊娠したんだ」
 中学生の保健の時間に、男子と女子で教室を分けられて人間の受精の仕組みについて授業を受けたことを思い出した。直接的な表現は用いられず、ただダラダラと表面的なことだけ説明された。女の子の体にある受精卵が──男の体から出るオタマジャクシみたいな精子が──とりあえず、コンドームとオナホの使い方から教えるべきなんじゃないか?と思わないでもない。
「つまり僕がなにが言いたいかっていうと、あなたは男で受精卵なんか持ってないでしょってことなんですけど」
「移植手術したんだ」
「は?移植?……な、え、……子宮を?」
「そう。子宮を」
 男性に対する人工子宮の移植手術は、確か、数年前にアメリカらへんで初めて行われたとニュースになっていたような。その後三人目くらいで妊娠に成功して、その何年か後に出産まで成功した例が、世界で数件あったはず。……え?妊娠?
「その、そのペラい腹のなかに、俺と、あなたの、……子供がいるって言うんですか?」
「そうだ」
「え、む、むり」
 足元がガラガラと崩れ落ちていくようだと思った。裏切りだ。ひどい。そんなのは、ひどい。
「な、なんで、勝手に、そんなこと」
「言ったら止めるだろう」
「……止めるって、わかっててしたの?」
 地面がグラグラと揺れている。それが動揺からくるものなのか、怒りからくるものなのか、俺にはもうわからなかった。
「お願いします。堕ろしてください。俺にはとても、受け入れられません」
 まさか自分が人生で「堕ろせ」なんて台詞を吐くことになるとは思わなかった。避妊はしっかりしていた。……赤井を除いて。
 これは、……つまり、俺が悪いのか?赤井相手に避妊しなかった、俺が?
「嫌だ。俺はこの子を産みたい」
「…………気持ち悪い」
 昨日までよく見知った人間だった赤井が、突然、得体の知れないモンスターのように感じた。妊娠している。腹のなかに、命が宿っている。俺とお前を、ちょうど半分にした命が。頭の中が、真っ白になった。空白だ。五秒して、その空白に、とても言葉じゃ表現できないような、鬱々として暗いものが流れ込んだ。胸の真ん中は重く、それは一生なくならないように思えた。
 吐きそう。妊娠してるわけでもないのに。
 いっそのこと、体の中のものすべて吐き出したら、この何かもなくなるのだろうか。
「あなたが妊娠したこと自体は、喜ばしい?よく分かんないけど、きっと良いことなんだろうなと思います。でも俺は、自分の遺伝子を半分持った存在がこの世界にいるってことが、とてもじゃないけど受け入れられない」
 ごめんなさいと、そう言う自分の声が遠くに聞こえた。赤井の腹を見る。そこに、いるってこと。怖い、と思う。昔から妊婦が苦手だった。自我を持った新しい生命の誕生、という摩訶不思議な出来事が、どうしても飲み込めない。それが他人事ならまだよかった。自分の、子供。仮に産まれてきたとして、それは、一体何なんだ?全くの他人なのに、濃いつながりがある。何もかも違うのに、何もかもは違わない。怖い。よく分からない。理解できないものは恐怖だ。妊娠という現象自体に、恐怖を感じる。
「……、子供、欲しかったんですか?」
「うん。子どものいる未来が、欲しかった」
「……僕以外と作ればよかったのに」
 それまで表情を変えなかった赤井の顔色が、初めて変わった。良くないことを言った自覚は、ある。咄嗟にごめんと言いそうになった。でも意味がない。本心だから。
「君との子どもが欲しかったんだ。誰とでもいいわけじゃない」
「そんな、普通のことみたいに、当たり前のことみたいに言わないでください。理解できないんです。パートナーとの子どもが欲しいとか、そういうの。老後の介護のためとか言われた方が、まだ納得できる」
 深い溝がはっきりと見えた。今までで一番、絶対に分かり合えないと思った。どんなに言葉を尽くしても、この溝は越えられない。赤井はこっちにこれないし、俺も向こうにはいけない。もう一生、きっと、分かり合えないのではないかと、そう思った。
「間違ってる。俺がしたことは間違ってる。こんなことは、するべきじゃない。それは分かってる」
 人間て、間違ってるってわかっててもそのまま進むこと、よくある。なんでだろうなあ。正しいことすればいいのにね。
「俺は、君の……、未練が欲しかった」
「未練」
「生きるか死ぬかの選択を迫られた時、自分が死ぬことが正しいと感じたら、君は死ぬだろう?だから、なにか、絶対に生きて帰ると、そう思えるような、未練が欲しかった」
「そんなこと、」
「あるよ。君はいざという時、自分の命に天秤が傾かない。命より、正義の方が大事だろう?それが、君の生きる意味だから。俺じゃダメなんだ。君、死ぬ間際に俺のこと思い出したって、別に生きようとは思わないだろう」
 赤井は、迷わないんだと思ってた。だって、いつだって進んだ道を正しくできるから。不安になんてならないと思ってた。他人にそんなに興味がないから。間違ったこと、しないんだと思ってた。赤井秀一だから。
 赤井の全てを知りたかった俺は、赤井の何を、知っていたのだろうか。
「俺じゃ、君の未練にはならない」
 生きてほしい、と。ただ、生きていて欲しいと。言われても、俺は、死ぬんだろうと思う。自分の命を捨てることによって、正義のヒーローとして正しいことができるなら、きっと迷わない。赤井のことを愛していたとしても。
 その通りだ。
 赤井秀一は、俺の未練にはならない。
「……お前でも未練にならないのに、子どもなら、未練になるって?」
「ああ、そう思うよ」
「馬鹿にするなよ。赤井秀一を、馬鹿にするな。お前でダメなら、もうだめだよ」
「違う、違うよ。そうじゃない。世界でたった唯一、俺だけが君の未練になれないんだ。君が、手放しで甘えられるのは、世界で唯一俺だけだ。そうだろう?だから、俺は世界でただ一人、絶対に君の未練にならない人間なんだ」
 崖のギリギリとギリギリ、対岸で叫びあっている。近づけないけど、声は届く。
「君は未練になるものを選ばない。君は俺を選んだ。俺は君の荷物にはならない。足を引っ張らない。背を引き止めない。それは俺の誇りだよ。でも、それだけじゃだめなんだ。俺は君の荷物にはなりたくないが、未練にはなりたいんだ」
 そんな、あまりにもどうしようもない。咄嗟に、かわいい、と思った。俺の未練になりたいと本気で思って、こんなことまでしてしまう赤井は、すごく哀れで、かわいそうだ。可哀想で可愛い。
「子供って、新しい命って、こうやって産まれてくるんですね。親の、勝手な都合で」
 そんなものが産まれてくる意味なら、人生とはなんてくだらないものなのだろう。産まれてから死ぬまで、ずっとくだらないことをし続けるのかもしれない。何の意味もない。何の価値もない。人生なんて、くだらない。
 だったら。こんなどうしようもない身勝手さが産まれてくる意味なら。俺は、なにか価値のあるものになろうともがいて生きようとしなくても、よかったのかもしれない。
「俺、ソレが未練になるとも思えないし、愛する自信もありません。煩わしいとすら思う。それでも、産むんですか」
「ああ。一人でも産む。俺は君以外にも頼れる人がたくさんいる」
 だから、大丈夫だ、なんて。なぜか君しか頼れる人がいないと言われるよりも嬉しかった。
「じゃあ、どうぞ産んでみてください」
 口にしてみて、それが想像を絶するほど重い言葉であるということに気付いた。人間なんて。人間なんて、こんなどうでもいいことで産まれてしまうのか。


 寝るときはいつも隣だった。広くはないが手狭でもないマンション。今度こそ新しい家が必要だ、と思った。この家は、二人で暮らすにはちょうどいいが三人で住むにはちょっと狭い。男だか女だか分からないが、きっと高身長になるから、そうなると三人だと窮屈だ。
 改めて恐怖が襲ってきた。人間が、一人誕生するのか。責任が、そんなの無理だ。どうやって生きるのが良いかなんて全然わからないのに、教えられるはずもない。生きる意味なんて分からないのに、どうして生きてと言えるだろうか?
 人間を生む資格のある人間て、どんな人間だろう。分からないけど、俺でないことは間違いない。
 殺そう、と思った。お腹の子だけをうまく殺す方法なんて知らないけど、でもきっとあるはずだ。無理だ。とてもじゃないが、親になんてなれない。
 キッチンから包丁を取ってきて、平和そうな顔で寝ている赤井の前に立った。まだ分かりにくいが、きっとこれから腹だって膨らんでくる。それが怖い。得体が知れない。生命の誕生というのは、訳が分からなすぎて、怖い。
 赤井の腹に手のひらを押し付けた。何も感じない。お前は、こんなところにいるのか。いま、体長何センチくらいなんだ?子供を殺すのは、別に初めてじゃない。胎児を殺したことはないけど。中絶は、殺人じゃない。何でだろう。お前はまだ人間じゃないのかな。違うだろう。人間はこの世に存在が誕生した時から人間で、それ以外になんてなれやしない。
 ふと思った。外の世界は怖いから、だから赤井の胎の中しか知らないで、そうやって死んでいくのも、案外幸せなのかもしれない。エゴだ。他人の幸せを決める行為は傲慢だ。その人にとって何が幸せなのかは、本人にしか分からない。それがたとえ胎児だとしても。
 羨ましいなあ、と思った。俺も、赤井の中から生まれて来たかった。でもそうすると、赤井の息子になるのか。それは嫌だなあ。でも、羨ましい。俺もそこに生きたい。体の周り全部赤井に包まれて、それで死ぬなんて、羨ましい。
「君、……何で泣いてるんだ?」
「起きてたの」
 予備動作もなく赤井が目を開けるから驚いた。それで、え、なに?泣いてる?
「ほんとだ」
 俺の目からはぽろぽろと液体が流れ出ていて、いつのまにか鼻呼吸がしづらくなっていた。
「自律神経の乱れかな」
「妊娠もしてないのに」
「本当にね」


***


 そうやって俺は三十八回胎児を殺そうとした。一時期本気で殺そうと思った時期があって、このままではやられると悟った赤井がプライドもかなぐり捨てて実母の元へ逃げたので俺はメアリーさんにしこたま殴られた。業務に影響が出るから顔はやめてくださいと言ったら肋骨を二本折られた。今も痛い。
 レイプしようとしたこともある。妊娠中にセックスしたらどうなるのかは知らないけど、してみたら子供は流れるんじゃないかと思った。あの時は銃を持ち出されて、銃刀法違反で逮捕すべきか一瞬迷った隙にこめかみをグリップで殴られた。だからセックスは一回もしていない。
 妊娠六ヶ月で赤井はアメリカに渡った。それを行ったと言うべきなのか帰ったと言うべきなのかは分からない。そもそも日本にいたのが無茶だったらしい。日本での男性への人工子宮移植手術は前例がない。アメリカの赤井の主治医は、手術後、受精(というあからさまな呼び方もどうかと思うが)、妊娠生活、出産まで全てアメリカで行って欲しかったらしい。それを無理を言って来日、俺と受精して、安定期に入ったのでまたアメリカに戻った。
 アメリカへ戻ると聞いた日は、ほとんど初めて口喧嘩をした。今まで手足か武器の出る喧嘩ばかりだったので。
「あなたそうやって何でもかんでも一人で決めて、俺の意思を尊重しようとかそういう殊勝な心がけの一ミリでも持ったらどうなんですか!?」
 赤井は、意思を尊重するなんて言葉は初めて聞きましたみたいな顔をした。ますますムカついた。
「あなた他人の意見を聞くとかしたことないでしょう!背中を見せれば人が勝手について来るって知ってるから!クソ、実際そうなのが死ぬほどムカつく」
「……ちゃんと、」
「あ?」
「ちゃんと、帰ってくるから」
 頭に血が上ってて、だから、その時の赤井が申し訳なさそうな顔をしてたのか、困ったような顔をしてたのか、頼り甲斐のありそうな顔をしてたのか、よく覚えていない。
「この家に、帰って来る。今度は二人で。だから、待っててくれ」
 俺は、俺の意見を聞けと言ったんだ。通じない。全然伝わってない。それでも、頷いてしまう自分がいる。この男のこういうところが、心底嫌いだ。頷く自分にも呆れる。なのに、許してしまう。当然のように。
「君を一人にしない」


『Hello?』
「もしもし?そっち今何時です?」
『昼の一時だ。日本は夜中だろう』
「まあ。時差の計算、何故だか無性に苦手なんですよね。できないわけじゃないけど。調子どうですか?」
『結構悪い。人生稀に感じる最悪の気分だ』
「大丈夫?俺が殺しに行きましょうか」
『やめてくれ。俺はもう目の前で君の肋骨が折れるシーンを見たくない』


──晴れてる。空がきれいだ。写真を添付するよ。
 こっちは雨です

──日本の雨が好きだった。傘がカラフルで。
 今すれ違った子どもの傘。小さくてオモチャみたいでした。

──体調が悪い。制御できないのが嫌だ。
 何でもかんでも思い通りになると思わないでください

──煙草吸いたい
 あとでいくらでも吸えばいいでしょ

──はやく帰りたい
 待ってる




『落ち着いて聞いてください。赤井秀一さんは、』




「降谷さん?」
「ああ、風見か」
「どうしたんですか、そんなところで。何か重要な電話でも?」
「ん、ああ、なんでもないよ」
「そうですか?……失礼」
「ああ、風見もその銘柄だっけ」
「なんですか今更。一本いります?」
「……いや、いらない」
「本当に大丈夫ですか?何かあったんじゃ……、」
「悪い。別に、本当になんでもないんだ」

「ちょっとぼんやり、してただけ」


 赤井秀一。元FBI捜査官。人工子宮の移植手術後、パートナーの子を妊娠。出産するも、妊娠高血圧症候群による血圧上昇により脳出血で死亡。今まで男性への人工子宮移植による妊娠は世界で四十三人に行われ、十一人が妊娠。三人が出産し、死亡例は初だった。日本人警察官がパートナーであったことは表沙汰になっておらず、詳細については一切報道されなかった。尚、新生児は命を取り留め、現在はアメリカの病院に入院中である。



 煙草、やめろって、さっさと言えばよかった。




***


「俺が、産まれて来なければよかったと思ってる?」
 ごくりと、自分の唾を飲む音が聞こえるようだった。うるさい心音が全身を揺らして、地震のように揺さぶって、災害のようで、脳の隅っこで警報が聞こえる。
「うん、思ってるよ」
 その言葉は、心のやわいところを甘く刺して、けして抜けない針のように、深く、深く突き刺さった。それは確かに痛みであるというのに、俺ははっきりと安心しているのだった。良かった。嘘をつかれなくてよかった。これは俺の勝手な想像かもしれないけど、でもきっとたぶん、この男にとって、嘘をつかないというのは特別であるはずなのだ。父というのは、たぶん相手の望む言葉を吐くのが得意で、その人が、明らかに望まれていないだろう言葉を発するというのは、きっと特別に思われている。大切に、誠実にしようと思われている。幻想かもしれないけど、でも分かる。血が繋がってるからじゃない。ずっと、見てきたからだ。
 それはたぶん、無償の愛だった。



***



 循環している。あいつが死んで、新しい命か残った。でも、一人じゃダメなんだ。僕らは二人いたんだから、二人いなくちゃだめだったんだ。あおくんときいろちゃんは一つになったら家に帰れないんだ。二人いなくちゃいけなかった。二人でないと。二人、いないと。一人は、だめだ。一人じゃ、なんで、どうして?
 ひとりに、しないって言ったのに。


 アメリカにいる子供を、どうするんだと連絡が来た。メアリーさんから。当たり前だ、そりゃ来るだろう。俺の子供なんだから。
 無理。無理だよ、無理だ。子供の育て方なんて……愛し方なんて、分からない。正しいことも良いことも分からない。あいつが教えてくれるはずだった。そうだろう。子供の愛し方、お前なら知ってたんだろう。僕には分からない。分からないよ。
 僕の肋骨は、折られなかった。子供の行方は、知らない。


 仕事をした。日本を守ること。正しいことをしているうちは、自分のことを正しい人だと思える。人格は行為に伴う。正しい人間がすることが正しいのではなく、正しいことをするから正しい人間なのだと、そう思い込んだ。なにも考えたくなかった。赤井のことも子供のこともヒロミツのことも伊達も松田も萩原も。なにも。墓が嫌いだった。墓石に話しかけたって、誰にも何も届きやしない。
 それでも、時々墓地を散歩した。自分に関係のある人が全くいない霊園。静かだった。木々のざわめく音。無音よりも、圧倒的な静寂がそこにはあった。特に知らない誰かの墓の、封の開いていないワンカップ酒をなんとなく飲んだ。そのあとコンビニで同じものを買って、同じように供えておいた。なんの意味もないことだった。


***


「殺してやろうと思ったよ。どうしようもないものは、殺せばいいと、……別に、思ってたわけじゃないけど、多分自暴自棄だったんだ。メアリーさんが五歳までお前をアメリカから出さなかったのは正解だった。俺は個人的な理由じゃ日本を出られなかったから」
 殺すとか、殺さないとか。さっきから、ぼかされて伝えられる父の仕事は結局何なのだろうと思ったけど聞かなかった。気にならないわけじゃないけど、でもたぶん、聞かなきゃいけないことでもない。
「それじゃ、逆になんで五歳で俺は、父さんに出会うの」
「……迎えに行かなきゃ、と、思ったんだよ。実際には、日本に来てもらったわけだけど」


***

 本を買った。『からすのパンやさん』。赤井の本棚の一割はなぜか絵本とか児童書だった。読まずに、誰も住んでいない3LDKのマンションの一室に突っ込んだ。セキュリティの無駄にいいそこは、いつか住む予定のところだった。予定は予定で終わってしまった。
 本がいくつか溜まってきて、本棚を買った。そのうち本棚が一つ埋まった。埋まっているはずなのに、その本棚は空っぽだった。新品の本が、ただ並んでいるだけ。読まれることもなく、朽ちていくだけ。空虚だった。
 本棚を再現するだけじゃ物足りなくて、俺は記憶にある関わった本を全て買い始めた。ブックオフで、何年も前のレタスクラブまで買った。そして本棚を買い足す。それはまるで人体錬成みたいな気分だった。本棚とは、その人そのものだ。でももう、どこにもいない。
 そうして三年経つのはあっという間だった。それだけあれば、泣いて食べて寝るしか出来なかった人間が、笑って喋って走れるようになっている。どこにいるのかは、二年経った頃に調べた。アメリカで、メアリーさんと一緒に暮らしているらしかった。
 本棚を見上げて初めて、俺はニセモノの赤井の本棚が、一冊足りていないことに気がついた。もしかしたらそれはフリで、気が付いていたけど、見ていないことにしていたのかもしれないけど、でもその日、はっきりと認識してしまった。
 足りないのは、『モモ』だった。あの児童書。古本。あれは、あの本は新書ではだめだとおもった。他の古本でもだめなのだった。あれは、あれでないといけない。古本というのは、ある意味で新書よりも唯一無二だった。
 それから、ずっと足を踏み入れていなかった、赤井と暮らしたあの家に行こうと決意するまで、半年かかった。つまりだいたい三年半かかって俺は、懐かしいマンションの扉の前に立っていた。しかしそれだけですでに心は折れていた。バッキリと。もうボロボロに砕け散ってしまえばいいのにと思っていた。死にたいのかどうか考えるのも疲れていた。ただ、木っ端微塵に、粉々になりたいと思った。
 無理だ、と思ったものからは極力逃げて生きてきた。それを間違ったことだとは思っていない。弱い動物は、きちんと逃げなきゃ生きていけない。ライオンに追いかけられたシマウマに、誰が逃げるなと言うだろうか。問題は、敵はライオンなんかじゃなくて、シマウマ自身だということだった。
 無理だ、と思いながら鍵を開けて、無理だ、と思いながら扉を開けた。中は埃っぽかった。俺は地下の狭いバーを思い出していた。吐きそうだ。無理だ、と思いながら中に入った。
 中には何もなかった。当たり前だ。赤井の死体が転がっているわけもない。そこには死んだ痕跡はなく、ただ止まった時間だけが存在していた。電話があった、あの日から、変わったのは時計の針だけだった。止まっている。三時五十四分。何年何月何日に、止まったのだろう。一人じゃ自炊なんて全くしなかったから、生ゴミが全く無いのがくだらない救いだった。僕の恐れるようなものはここには何もなくて、でも多分、無いのが一番、怖かった。
 引き返しそうになる足を引きずって、本棚のある部屋の前まで来た。家の隅々まで見て回る気力はなかった。今日死ぬのならそれでもいい。でも、明日からも生きていく予定があった。生きたいとか、死にたいとか以前に、生きていく予定が。
 重くあって欲しいと思った扉は、重くもなく、軽くもなく、違和感のないスピードで開いた。部屋の中に入り、その空気を吸い込んだ瞬間、精神は時を旅して、一瞬であの、酒瓶のなくなった窓のないバーまで戻されていた。空気を数ミリリットル吸い込むごとに回想は進んで、俺はソファを撃ち、階段を駆け上がり、友達も撃ち抜いていた。違う。それは、なかった方の現実だ。息を吐く。友達は自殺していた。息を吸う。赤井の本棚を見上げている。二人で暮らしている。ずっと。息を吐く。妊娠したと、赤井が言った。息を吸う。赤井が、子供をおぼつかない手つきで育てていた。ミルクを温めて、哺乳瓶に入れる。子供は拒否する。赤井は困っていた。でも同時に、納得していた。そういうものだと。子どもとは、そういうものなんだと。
 俺はそこで、息をするのをやめた。やめたかった。でも体は勝手に酸素を欲する。吸って、吐いて、吸って、吐いてを勝手に繰り返す。ただ、息をするのをやめたい。それだけなのに、肺は勝手に膨らんだ。
 過去はどんどん再生していく。現実と妄想の区別も曖昧なままで。「聞いてくれ、さっき子どもが蹴った!生きてるんだ、生きてるんだよ」「胃がムカムカする。最悪の気分だ。……母というのは、すごい」「人間は痛みから産まれる。だから、人生ってのはずっと痛いままなんだろうな」「君に出会えてよかった。陳腐な言葉だけど、でも、本当にそう思うよ」「愛してる」
 子どもが産まれたら、全自動で愛せるようにプログラミングしてくれたらいいのに。セックスしたくなるよう作られているのなら、子どもが産まれたら、自動で愛せるように、そう作ってくれたらいいのに。ごめんなさい。ありがとう。でも分からない。愛ってなに。わからない。こんなに子どものままなのに、それでも新たな生命を作ってしまった。もう、産まれてしまった。この世に存在している。存在した瞬間から、すでに取り返しがつかない。ただの、中出しセックスが、その瞬間から、生命の営みが始まっている。
「産まれて来なければよかったのに」
 それでももう、存在している。

 モモ、は、すぐに見つかった。本棚の中で変わらず大人しくそこにいた。本棚からその本を抜き出す。手のひらに重さが伝わった。ケースの中から厚いハードカバーの本体を取り出した。その本はひんやりと冷たく、けれど持っているうちにすぐに俺の体温が移った。
 開けなかった。その本を。少しだって。赤井がその中のしおりに何か書いたの、知ってた。ボールペンのインクを乾かしているところ、見たから。
 死を、受け入れるとはどういうことだろうか。あいつが死んだこと、ちゃんと分かってる。もう会えないことも分かる。何もかも忘れられないわけでもなく、あいつとの記憶は少しずつ薄れている。それを仕方ないことだとも思う。忘れていると覚えているの境界線は曖昧で、思い出そうとするとそこには必ず多少の捏造が入る。記憶ではなく思い出になる。仕方ない。そういう風にできている。そう思う。受け入れるとはなんだろう。俺は受け入れられて、いるのだろうか。
 本は開かないままで、ケースの中にしまった。それは静かに戻っていった。あるべきところに、静かに。携帯を取り出して、電話を掛けた。時差の計算はしなかった。できなかった。相手はすぐに電話に出た。
「子供に、会いたいって言ったら……許して、くれますか」
 電話の向こうから、教会の鐘の音が聞こえた。何時の鐘の音なのかは、分からない。
『許しはしない。けど、会うのは私には止められんよ』
 自分がその時、ありがとうございますと言ったのかどうか、よく覚えていない。

 そうして、産まれてから初めて子供に会った。本当なら俺が行かなくちゃいけない、って分かってたけど、どうしようもなく俺は日本から出られないのだった。
 初めて会った子供は、ちっとも俺に似ていなかった。真っ黒で、少し癖っ毛な髪。白い肌。小さくて柔らかそうで弱そうで、しかし目の色だけは生き写しみたいにそっくりだった。その瞳は、大きくてまんまるで、つぶらな瞳、という使い古された表現が頭に浮かんだ。使い古された言葉というのは、つまりは真実なのだろう。
 その子どもは、自分でも驚くみたいに、馬鹿みたいに、ただただ、かわいいのだった。はは、なんだお前、かわいいな。驚いた。驚くくらい、普通にかわいくて。 普通に、普通みたいに、かわいくて。
「バーバパパは、ピンクなんだよ?」
 なんだそれ。訳がわからない。何にも分からないのに、かわいかった。愛も正しいことも生きる意味も全然わからないまま、それでもかわいい。もしかしたらこらが、プログラミングなのかもしれない。その生物は、ただひたすらにかわいく、かわいがられるためのものだった。
 肋骨を折られない代わりに、毎年の写真を要求された。本当は毎月と言いたいが、どうせそんなマメなことは無理だろうから、一年に一回は必ず写真を送ること。それから、誕生日を忘れたら殺すと言われた。義母を殺人者にするわけにはいかなかったので、俺はスマホのスケジュールに子どもの誕生日を入力するのだった。



 

back