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- ナノ -
 
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 テロ組織に潜入しているにも関わらず、あの頃は楽しかった。組織でヒロミツ──スコッチと再会した時は、顔にこそ出さなかった自信はあるが本当に驚いた。上から、警視庁公安部の人間が潜入していると教えられてはいたものの、個人を特定できるような情報は何も教えられていなかった。結託する必要はないと。組織の裏切り者、つまり、他の潜入捜査官は積極的に殺せ、信頼を勝ち取れと、そう指示されていた。それなのに、まさか幼馴染に会うとは思いもしなかった。俺とあいつの関係を、洗いざらい俺の経歴を調べ尽くしたはずの上層部が知らないのも無理はない。知り合ったのは、あいつが夏に家族で毎年訪れるキャンプ場だった。野良犬を拾ったものの、飼えるわけでもなく途方に暮れている俺の前にあいつは現れた。しばらく二人と一匹で遊んで、あいつは親に飼ってもらえるよう頼みに行った。許可はあっさり降りた。ちょうど一年前に、飼っていた雑種の犬が死んだのだと後から聞いた。
 それ以来、毎年夏の数日間だけ二人と一匹で遊んだ。お互い連絡手段も何も知らなかったから、その時期になると俺は毎日のようにキャンプ場に通っていた。それは、俺が中学を卒業するまで続いた。俺が中三の夏、あいつは高校二年生だった。家族のキャンプは中学生までで終わっていて、高校に上がってからは一人で来てくれていた。
「来年からは、もう来れないと思う」
 そう切り出した自分の声は、少し震えていたと思う。あいつは、いつかこんな日が来ると思っていた、というような顔をした。今年で、約束は尽きる。住所も電話番号も、聞けば教えてもらえるとわかっていながら、聞かなかった。あいつも聞いては来なかった。連絡先を知らない相手という、特別を失いたくなかったのだ。夏のキャンプ場以外で会うお互いを受け入れられなかった。連絡を取り合って、コーヒーショップで待ち合わせしてご飯を食べる、みたいな、そういうことをしたくなかった。その日は一日中ブランコを漕いで過ごした。降りた時は、地面がグラグラと揺れているように感じた。
 再会したあいつは、なぜか生やしているヒゲ以外、ちっとも変わっていなかった。高校生の時からちっとも変わらない顔をしているくせに、その整えられたあごひげは不思議と似合っていた。初めて会った俺たちは、はじめましてバーボンです、スコッチだ、となんの面白みもない挨拶を交わした。
「NOCだろう」
 そう言ってきたのはあいつの方だ。俺はその時、彼がテロリストにならなければいけなかったような止ん事無い理由を考えていたが、それを聞いてやっぱりな、とも思った。あいつはテロなんかするようなやつじゃない、とか思うよりまず、悪い方の可能性から考えていた。
「随分なあいさつですね。仮にそうだったとして、はいそうですと認めるような馬鹿がいるんですか?ああ、疑わしきは罰する、とか言って何の根拠もなしに撃ってくるのなら別ですが」
「ハハッ」
 スコッチはさも愉快ですといった様子で笑った。
「ちょっと付いてきてくれないか?すぐ近くだからさ」
 気付くと、組織から指定されたバーを出て、彼の後ろを付いて歩いているのだった。十分ほど歩き、雑居ビルの地下階段へと降りる。階段の底にあった扉を開ける。スコッチが壁際のスイッチをつけると、そこは、明らかに使われていない小さなバーだった。
「なんですか、ここ」
「俺の家」
 カウンター上部の、本来酒瓶を並べておくような場所は空になっていて、代わりにカウンターの上に何本かボトルが並んでいた。その中には、バーボン・ウイスキーも並んでいた。スコッチも。
 カウンターの前に椅子が二つ並んでいる他に、フロアには何もなかった。打ちっ放しのコンクリートが、ひしひしとした冷たい印象を与えている。何かの名残のように、名前も知らないバンドのポスターが壁の隅に二枚貼られていた。どうやら同じバンドの違うライブのポスターだ。
「安心しろよ。ここが盗聴されてたら俺はもう死んでる」
「わかりませんよ。昨日盗聴されてなくても、今日はされてるかも」
「そしたら、一緒に逃げよう。……ゼロ」
 後にも先にも、スコッチがバーボンのことをそう呼んだのは、その一度きりだった。

「ライのこと、どう思う?」
 頻度は多くないが、俺とスコッチの間にはそのバーで酒を飲む習慣が出来た。じゃあ、行くかとどちらかが言うと、ツマミを買ってバーに向かう。スコッチは俺の家なんて言っていたが、実際は住んでいるわけでもなく、ほとんど使っていないみたいだった。俺は苦労して勝手に持ち込んだ中古のソファで、日本酒を飲んでいた。あいつはバーボンを。
「……どうって?」
「NOCだろ。諸星大も本名じゃないな」
 この部屋に来るのは、大抵なにか周りに聞かれたくない話がある時だった。今日は、スリーマンセルを組まされることが多くなったスナイパーのことだ。
「……あいつの偽名センスはどうなってるんだ?」
「ハハハ、大って顔じゃないよなあ」
 嫌いだった。一目見た時から嫌いだった。偽名だろうが何だろうがなにもかも気に食わない。そんなことは初めてだった。特に理由もなく脳幹をブチ抜いてしまいたいと思うのは。
「まさか日本産の犬じゃないだろう。FBIか、CIAかってところかなあ」
「なんで?確かにアメリカ人を自称してるけど、あいつの英語は時々イギリス訛りだし、……まあ日本人じゃないってのは賛成する」
「お前のそれはそうであれっていう願望込みじゃん」
 同族嫌悪もあると思うけどなあとスコッチが笑う。似てないと、思うけど。
「確かに生まれ育った文化はイギリスっぽいけどさ。でもほら、愛煙してるのがポール・モールだし?」
「……これだから煙中毒は」
「失礼な。止めようと思えばいつでもやめられるぞ」
「喫煙者はみんなそう言うんです」
「俺は止められる」
 言いながら、煙草に火をつけるから呆れた。この部屋、窓もなにもないんだから止めてくれないかなあ。仕方なくあまり積極的に換気してくれない換気扇のスイッチをつけた。

 友達との別れは、いつも唐突だ。
 スコッチが裏切り者のネズミだと、僕に言ってきたのはジンだった。僕は我ながら、裏切り者を軽蔑する組織の人間としてうまくやれたと思う。精神は研ぎ澄まされ、凪のように、驚くほど静かだった。無音が聞こえるような気がした。キーンと聞こえる耳鳴りが、耳鳴りだとはっきり分かった。
 ジンと別れた俺は車に乗り込み、走り出した。始末にライが向かっている、とジンが言っていた。僕が殺す、あいつに手柄は渡しませんとジンに言ったような気がする。ジンは、ライがNOCだったら殺してこいよと言った。僕はええ、喜んでと返した。
 急がないと。景色が飛ぶように流れていく。バーボンは、スコッチが裏切り者ではないかと疑い、GPSを仕掛けていた。表示は、あの地下室だ。急がないと。僕が殺す。嘘は言わなかった。裏切り者は、積極的に始末しろと上から言われている。結託する必要はない。俺が殺す。ライには渡さない。バーボンが組織に忠誠を誓うため、日本のネズミを殺す。スコッチは、俺の手で殺す。
 階段を駆け下りて、扉を開けた。電気がついていない。銃を構える。狭い室内だ。人の気配はない。カウンターの裏に回り込んだが、やはり生物はいなかった。あいつに仕掛けたGPSが落ちているわけでもない。中は相変わらずガランとして、ソファとイス以外なにもなかった。気づく。カウンターの上の、飲みかけのボトルがなくなっている。俺はソファに向けて一発弾丸を放った。人間椅子みたいに、誰かが隠れているなんてことはなく、中の綿がただただ飛び散った。俺は扉を開け、外へ駆け出す。
 GPSの反応は、平面的だ。同じ座標の、違う高度に居たらわからない。雑居ビルの一階はケバブ屋。二階はバス会社の営業所。三階、四階、空きテナントはない。……そうか、屋上。
 エレベーターが降りてくるのを待ちきれず、階段を駆け上る。違う、違うんだ。エレベーターが待てないんじゃない。どちらにせよ、屋上に出るには非常階段を上るしかないから。だから俺は階段を上っている。足音が反響して、一階から屋上まで乱反射する。焦っている。焦っていると自覚できるくらいには落ち着いている。スコッチは、俺が殺す。それでバーボンはより深いところまで潜る。コーヒーショップで待ち合わせなんかしたくなかったのに、閉鎖された埃っぽいバーカウンターで酒を飲むような、そんなたった一人の友達を、俺が殺すのだ。
 まず、煙が見えた。白い煙。煙草の煙だと思った。いつの間にか、煙草を吸うようになっていたから。長生きしてほしいから止めろ、と今度こそ言おうと思った。矛盾してる。殺そうとしているはずなのに。
 次に、音が聞こえた。衝撃音。その音を、知っている。銃の、引き金が。違う。順番が逆だ。始めに音が聞こえた。それから煙が見えた。煙が上っていく。星の綺麗な夜空だった。髪の長い男の後ろ姿。ニット帽が相変わらず暑苦しい。嫌味なほどに長い足が、あいつの、あいつの前に立っている。
 胸元にべったり付いた血は、暗くて真っ赤には見えなかった。ただ、濃く。濃く染まっている。ぐったりと力の抜けた体が、壁にもたれかかっている。死んでいる、と思った。まだ撃たれたばかりなら助かるかもしれない、と頭の隅で声がするのに、もう助からない、と何故だか確信していた。もう、死んでいる。
 それが、自殺死体だったから。あいつが死のうと思って引き金を引いたのなら、死に損なうことはないだろうと思って。彼は俺が殺す前に死んでしまったのだと理解した。あいつは、捜査官であることがバレたら、俺が殺しにくると、知っていただろう。約束したわけじゃないけど、でもきっと、知っていたはずだ。上から受けた指示はおそらく同じ。俺がその指示に正しく従うと、あいつはたぶん知っていた。お互いの個人情報について何も知らない俺たちだったけど、その分、性格についてだけは誰よりも知っていた。一年に一度しか会わなかったから。毎日会う同級生よりも、親しい他人の方が弱音をこぼしやすい。そうやってぽろぽろと、お互いのどうしようもないところばかり知っていた。人間とはどうしようもない部分が精神の大半を占めているとも知っていた。
 それなのに、あいつは死んだ。俺が殺す前に。自殺した。守られたのだ。あいつは俺がきっと殺しにくると知っていて、実際に躊躇なく殺すということも知っていて、でも、それでも、俺が、友達を殺して平気な顔して生きていられるような人間でないことまで、知っていた。たぶん。きっと。だから、死んだのだ。俺が来る前に。俺が殺す前に。スマホとカバーの間に薄いGPSを貼り付けていた。それは綺麗に撃ち抜かれていた。そうやって、守られた。どうしようもないくらいに。どうにもできないところまで。
 友達との別れは、いつだって唐突だ。人はすぐに死ぬ。呆気なく。羨ましいと、一瞬だけそう思って、そう思った自分に絶句した。使命を全うした上での死。まるで、命を使い切るみたいな。正しいみたいな。友達が、目の前で死んだのに、羨ましいって?いやだ。そんなことは思いたくない。なぜ、なんで素直に悲しんで、絶望することもできない?なあ、お前は潜入捜査官だから、感情を隠さなきゃいけない。でも、それでも、その前に、一人の人間だろう。もっと、取り乱すとか、大丈夫だよ、どうせライだってNOCだよ、だからさあ、もっと、……なんで、なんで友達の死体を冷静に見ていられる?
 そうだ、ライ。俺が殺す前に、自殺。つまりライは、諸星大は殺さなかった。なぜか?ライがNOCだからだ。日本ではない国の捜査官は、日本の捜査官を、助け、ようと。
 ライは殺さなかった。諸星大は引き金を引かなかった。あいつのGPSがこの場所を指してから俺がここに着くまで、時間はあった。ライは諸星大は、赤井秀一は、殺さなかった。助けようとした。裏切りがバレた他国の捜査官の命を。逃がそうとした。殺さなかった。
 俺は、あいつを助けようなんて、一瞬だって思いつかなかった。バレたなら、俺が殺すと、それが正しい、それが、日本のため?わからない、わからないけど、でも、殺すことが一番正解に違いないと、それしか思わなかった。それ以外の選択肢なんて思いつきもしなかった。俺が殺すと、それしか考えていなかった。
 助ける、という、選択肢が、あったのだと、気付く。ライが、白々しいことを言って去っていく。NOCのくせに。助けようとしたくせに。知らない。もしかしたら、自国のために利用しようとしただけかもしれない。でも、そうじゃないと俺は気付いていた。ライは、こんなところにいる赤井は、それでも、なんの打算もなしに他人を助けようと動ける人間だった。……俺と違って。
 耐えられない、と思った。こんなものは耐えられない。だって、まさか、友達の命を救おうと走ること、考えもつかないなんて!赤の他人にもできるのに。自分が耐えられない。俺の手で殺そうと、それしか考えられなかった。それも失敗した。うんざりだ。自分は自分一人しかいなくて、替えがきかない。こんなにもチェンジ、と叫びたいのに、控えがいない。自分の意識は自分からは離れられない。一生、一生こんな人間と付き合っていかなくちゃいけないのか?うんざりだ。そもそも、なんでヒロを殺す必要がある?日本なんて、本当は大して大事に思っていないくせに。生きていくためだった。目的も理由もなしに生きるのは耐えられない。死んでしまいたくなる。だから、正義のヒーローになるという、すごく簡単でシンプルで幼稚で適当な目標を、大真面目に掲げて生きていくことにしたのだ。それが自分の願いであると言い聞かせて。
 どうして飛び降りていないんだろうか、と不思議に思う。友達の死体の前で、飛び降りたら死ぬ高さがあるのに、どうして落ちていないんだろうか?自分なんて、何もかも思い通りにならない。意識と命は別なんじゃないか?怖いと感じる。今にも死にそうな自分が、怖い。死にたいのに、放っておいたら死にそうで怖い、なんて。こんなに死んでしまいたいのに、それでもまだ死に恐怖を感じる自分に絶望した。自殺した友達の前で、死にたくて、それでもまだ死ぬのが怖いという、愚かさが、情けなさが、とんでもなく死にたい。
 耐えられない。こんなものは、耐えられない。俺だって、助けたかった。白々しい。殺すことしか頭になかったくせに。一緒に生きていたかった。嘘ばっかり。死にたくなる。とてもじゃないが生きていけない。それなのに死なない。死にたくなる自分にもうんざりする。羨ましいなんて言って。死んでしまえ、と思う。なんで願うだけじゃ心臓は止まらないんだろう?何もかもがままならない。生きる理由なんて本当は全然ないのに、それでもまだ、死んでない。もう耐えられない。うそだ。まだ大丈夫。まだできる。多分まだ、普通に生きていける。頭おかしくもならず、自殺もせず、使命を全うするために、生きていける。まだ大丈夫なのだった。限界なんて、こないのだった。まだ大丈夫。まだできる。でも、まだできることが、もう耐えられない。
 俺は諸星大を恨んだ。それがお門違いな恨みと知りながら、それでも許せないと思った。助ける選択肢があったなんてこと、知りたくなかった。矮小な人間だ。自分の愚かさなんて、出来れば見たくないし知りたくもない。でも、仕方ないんじゃないか?器が小さいのは、どうしようもないだろう。自分からはもう死ぬまで離れられないんだから、受け入れるしかない。諦めるしかない。自分を否定するのは疲れる。情けない。でも、いいんじゃないか?赤井を恨んでもいいかな、許して。いいよ、許すよ。俺は自分を恨む代わりに、赤井を恨むことにした。罪状はあいつを助けられなかったこと、だ。嘘だけど。本当は、助けようとしたことを恨んでいる。ずっと。赤井もまさか、そんなことで恨まれているなんて予想もしていないだろう。きっと、友達を助けようと走れない人間がいるなんて、想像もつかないだろう。


***


 そして赤井は今でも悔やんでいる。助けられなかったと。助けられたはずだと思うのは傲慢だ。自分には出来たはずだと思うから悔しいんだろう。馬鹿だな。あいつは俺を守るために自殺することに命を懸けた。それなのに、助けられたはずだと思うなんて、それを一生後悔するなんて、あいつを舐めてる。馬鹿なんじゃないのか?
「君は、俺のことを恨んでいるか」
「ああ、恨んでる」
 そこで少し、ほっとした顔をするのが心底嫌いだ。嫌いなのに、……惹かれている。その人の本棚の中身に興味を持つというのは、きっと、惹かれているということに他ならない。
「俺はあなたがあいつのことを助けられたなんて一ミリも思っちゃいませんよ」
「だが、」
「思い上がらないでください。あいつが殺そうと決めた男を、お前が助けられるとでも思うなよ」
「……じゃあ、君はなにを恨んでいるんだ」
「……、」
 雨でも降ってくれれば、この痛いくらいの沈黙も少しは緩和されるだろうと思うのに、空は憎いくらいに晴れている。ただ、クーラーの稼働音が、ぼんやりと聞こえるだけだった。
 自分の愚かさなんて、見たくないし、知りたくないし、……知られたくもない。
「俺は、君が、ううん、なんだろう……読むのは好きだが、言葉で表現するのはあまり得意ではないんだ、だから作家も諦めた……ええと、健やかに?平和に?元気に……楽しく?生きてほしいと思ってるよ」
 お前は親か、と突っ込もうかと思ったけど言わなかった。そもそも、親というものが本当にそんな言動をするのかどうか知らないし。
「日本語は、読書で覚えたんですか」
「いや。父が、日本人だったんだ」
「そうですか」
 赤井は、正しく育った人だった。根っこの栄養がしっかりしている。目的も。父の真相を解き明かすという目的は、達成されたのだろうか。真相なんて知ってどうするんだと思ったけれど、価値観は人それぞれだから、言わない。
「俺を恨むことは、君の人生において必要なことなのか?」
「……どうなんでしょうね」
 耐えられないと思った。実際、耐えられなかったのか、なにが最善だったのかは考えたくない。過去のことだ。ああすればよかったと考えてはしまうけど、でもできれば考えたくない。精神衛生的に。
「多分、選択肢はいくらでもあったんです。その中で、俺はこの現在を選んだ」
 恨んでいるということ。嫌いだということ。赤井だから、大丈夫かな、いいかなと思った。そうやって人を頼ったのはほとんど初めてかもしれない。それは、一種の信頼だ。認めたくないけど、でもそうなのだから仕方がない。
 いつから惹かれていたのかと聞かれると、きっと最初からだ。一目見た時から嫌いだと思った。知り合ってますます嫌いになった。愛情の反対は無関心。確かにそうだと、俺も思う。
 嫌いだから恨んだんじゃない。恨んだのは、信用していたからだった。
「でもなんで、あなたの家であなたの本棚を見てるんでしょうね」
 惹かれているからだ。でも、最初に誘われなかったら来なかった。訪れたのは俺だけど、招いたのは赤井だ。
「ここにある本全部読んだら、その答えも見つかるんですかね」
 こんなにも雨が降れと思っているのに、空は雫一つだって落としはしない。聞こえてしまう。息遣いが。粉っぽいコーヒーを飲み込む音が。反対に、聞こえてしまうのではないだろうか?自分のこの、心臓の鼓動が。
「君のことが知りたいと思った。好きな本とか、そういう個人的なことが」
 それは、どういう感情なんですかと、聞きかけてやめた。言葉に、しなくてもいい。形にすると、少しだけ嘘になる。まるきり飲み込んでしまいたいから、わかりやすい形にしなくていい。何もかも全部、知りたいと思った。それが、どんな感情なのか。
「俺も、あなたのことがもっと知りたい」

 さっき、あれほど降ってほしいと思った雨が、今頃降ってきた。電車の窓に張り付く雨粒が、ビルの光をちかちかと反射する。左手に持った紙袋が、少し重い。
 夕飯は、結局食べなかった。ウイスキーも飲まなかった。ただ、本を何冊か借りて、帰りますと言って帰った。
 どこまで知ったら、何もかも知っていることになるのだろうか?それすらも知らないから、やっぱり全然足りない。どうやったら満たされるのかもわからない。もっと欲しい。もっと知りたい。足りない。めちゃくちゃにしてしまいたい。
 こんなものが、恋か。どうしようもない。


***


「珍しいですね、降谷さんが読書してるの」
「ん?うん。人から借りた」
 借りたはいいものの、読む時間がさっぱりなかった。残業はしても、昼休みに仕事はしないと決めているので昼休みにパラパラと読む。何冊か借りた内の一冊目は、映画化もされた、ピアノ調律師の話だった。
「明るく静かに澄んで懐かしく、少し甘えているようでありながら、きびしく深いものを湛えている、夢のように美しいが現実のようにたしかな、」
 赤井の書く文章を読んでみたいと思った。英語でもいいから。それで音読して欲しい。そうやって、赤井の文を読んで、目で見て、耳で聞いて、自分でも口に出して、ぐるぐる、ぐるぐると、体内を循環させる。それはきっと、とても満たされることだろう。
 本の貸し借りというのは、すごい。これを読んでいる相手と、過去と現在で繋がって、同じものを読んで違う想いを抱く。この本が好きだと、教えてもらう。それだけで、深く繋がる。本というのは、すごい。

 二冊目は、夜の十一時の牛丼屋の中で読み始めた。いつか話をした、ムラカミハルキだった。『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』。赤井も、色の人だ。アカ。これを読んでなにを思っただろうか。
 あいつの本棚に並ぶ本は、これも含めて、日本人作家のものばかりだった。名前も日本名だし、関係ないかもしれないけど弟は天才棋士だ。俺の見せかけの愛国心が、少し嬉しいと発言しだす。形ばかりの帰属意識。思いつく。日本人と赤井、どちらか一方だけを助けられるとしたら、どちらを助けるだろうか?考えるまでもなかった。迷わず、赤井じゃない方を助ける。理由なんかない。でも、俺たちはそういう関係だった。赤井は俺が助けに来ないと、きっとそう信じているだろう。俺は俺がピンチになったらあいつが助けにくるって、知ってるけど。

 三冊目は、可愛いイラストが表紙の、らしくない本だった。あいつらしい、がどんなものなのかイマイチ知らないけど。内容も、高校生の女の子がパン屋に居候する、というらしくない、みたいな本だった。平和な話。でも、平和だからといって、平坦なわけじゃない。
 仕事帰りに、駅のパン屋でメロンパンを買った。二十三時まで開いているパン屋だった。外側のクッキー部分がパリパリで、中の記事はふわふわでもちもちだった。パン屋のパンを久しぶりに食べるから、余計にそう感じるのかもしれない。
 赤井にメッセージを送った。
『メロンパンを食いました』
 返事は直ぐに返ってきた。スマイルマークの絵文字一つだった。

 最後の四冊目は、なぜか絵本だった。『あおくんときいろちゃん』。折り紙をちぎって貼った絵で作られている。あの有名な、一匹だけ黒い魚が主人公な絵本と同じ作者のものだった。そっちは俺も小学生の頃に読んだ覚えがあるけど、この話はタイトルも初めて聞いた。また登場人物たちの名前が色だ。そのうちバスケの漫画でも出てくるんじゃないだろうな、となんとなく構える。
 あおくんときいろちゃんはすごく仲が良い。ある日、二人で遊び回っていたら、お互いにお互いが混ざり合って、緑の一つの個体になった。最初は喜んだ二人だったけど、家に帰ろうとして困ってしまう。あおくんのおとうさんもおかあさんも、きいろちゃんのおとうさんとおかあさんも、みどりになった彼らを自分の子どもだと認識できなかったのだ。彼らは泣いた。あおときいろの涙をたくさん流した。涙はだんだん集まって、あおくんときいろちゃんになった。元に戻った二人は無事家に帰ることができました。おしまい。そんな感じ。
 すごい。僕は少し憧れを感じた。二人が融合して、一つになるなんて!一つになって、そしたら、もう失うこともないだろう。もう人と別れるのはうんざりだった。墓の前で思い出す命を増やしたくない。混ざって、一つになりたい。自分の輪郭をぐちゃぐちゃにして、一緒になりたい。それにこの二人はすごい。どちらかをどちらかが飲み込むんじゃなくて、それぞれの特性を残したまま、綺麗に均一に混ざった。それってすごく、美しいことだ。
 赤井は、どんな気でこれを貸してきたんだろう。どんな気持ちでこれを読んだんだろう。どこが好きなんだろう。いつ、どうして買ったんだろう。買ってから何回読んだ?小さい子に読んであげたりしたんだろうか。初めて読んだのはいつ?どうして読んだの?
 もっと、もっと知りたくなる。
『本を読んだら、あなたに会いたくなった』
 はやく、はやくメールを見て欲しい。電話じゃないのがつまらないと思ったのは、生まれて初めてだった。


「好きな本は見つかったか」
 赤井の家だった。二度目だ。体感としては、気づいたらそこにいた、みたいな感じ。嘘だけど。自分の足で歩いてコンビニで煙草四箱買って電車乗ってインターホン押して土産と言って煙草を押し付けたところまでばっちり覚えている。考えるの、めんどくさかったんだ。だって煙草なら絶対消費するだろう。
「まだ、出会えません」
「……また、古本屋にでも行くか?」
「うん、でも……」
「でも?」
 脳内を、色々なことが駆け巡った。生きること。死ぬこと。恨むこと。殺意。そうして言葉が。表情を、思い出して。一つ一つ、文字をなぞるとか、そういうこと。どうしようもなくて、しょうもないこと。人生で多分、尊いこと。そういうこと全部、思って、考えて、それでも考えなしに言ってしまいたかった。
「あなたの好きな本を、僕も好きになりたい」
 人生っていうのはたぶん、そうやって変わっていく。そうやって、ひとつ、ひとつ、作り変えられる。不毛だ。こんなことは不毛だ。だって、いずれ死ぬのだから。でもきっと、尊いことだ。
 この感情は、本当はいらない。いらないから、大事にしたい。
「あなたとキスがしてみたい」
 机に手を置いて、すこし身を乗り出す。唇が重なる、その瞬間、僕はヒロミツのことを想った。自殺した、特別な友達。バーでテロリストとして再会したからといって、特別が薄れるわけでもなかった。もしかしたら、乗り換えているだけなのかもしれない。なんでもいい、この男の、特別が、一番が欲しいと思った。依存なのかもしれない。そうやって、依存相手を変えているだけなのかもしれない。でも違う。ヒロミツとは違う。だって、キスをしたら、セックスをしたくなった。
「セックスしたい」
「なんで?」
「なんでだろう」
 僕は悲しくなった。性欲がある。セックスをしたくなる。その衝動が。遺伝子なんかばら撒きたくないのに、セックスをしたくなること。キスをしたから。ばかみたいに、プログラミングされたみたいに、ちんこをつっこみたくなっている。人生でおそらく全然必要のないことを、どうしようもなくしたくなる。
「君がセックスをしたくなるのは、」
「うん」
 赤井の声は優しい。なぜだか優しい。ばかみたいに。
「それが、良いことだからなんじゃないか」
「……いいこと」
「うん。君にとってさ、セックスは良いことなんだろう。だからしたくなる。それはきっと、なにも悪くない」
 ソファに座る俺の向かいに、足を投げ出したように座っている赤井のまつげが、とても長いと思った。初めて思った。
「人間は大体がセックスで産まれてくる。つまり、人類の数だけ、いやそれ以上にセックスがあったと言ってもいい。それだけの存在が、いや勿論例外もあると思うが、それだけの存在が、したいと思ってするんだから、それはやっぱり良いことなんだろう」
「そういうもんかな……」
 さっき。触れ合った唇は、ふにふにして、なんか変に柔らかくて、ウソみたいで、でもやっぱりちょっとカサついていて、ホントみたいだった。
 確かめるみたいに、もう一度した。触れ合うだけ。脳内の快楽物質がドパドパ出ているような気がして、それは確かに、良いものみたいだった。
「じゃ、するか」
「え?……えっ?本当にするんですか?セックスを?今から?」
「なんだ、しないのか?」
「いやするけど。……え、男としたことない、知らない」
「大丈夫だ。俺はある」
「……、……頼もしい」
「だろう?……なあ、俺と、イイことしよう」
 じゃ、シャワーを浴びてくると言って去っていた赤井を追いかけて、経験あるのはどっちですかと俺は聞かなくちゃいけないような気がするけど、でもその前に、元気になったちんこをどうにかしないといけないような気もする。


***


 出したあとって、なんかもう、なにもかもどうでもよくなるよなあ。
 結局赤井はどっちもあるよと言った。君が決めていいと言った。僕はどうしても入りたかったから、そう言った。赤井は優しかった。ばかみたいに、やわらかくて。それでもやっぱり硬いのだった。
 赤井のベッドは、二人で寝るには狭かった。狭いと文句を言った。我慢しろと言われた。それがとても、いいなと思った。
「広いベッドを買って、二人で住むの。どう思います?」
「……気色わるいな」
「やっぱり?」
 俺は、狭くて埃っぽいバーに、無理やり運んだ中古のソファの寝心地を思い出していた。あのソファは一人で寝るにも狭かったから、翌朝は必ず体のどこかしらが痛かった。それを知りながら、頻繁にあそこで寝ていた。スコッチが死んだ後。ひとりで。もしもバレたら、裏切り者の情報を探していると言うつもりだった。杜撰な嘘だ。そんなものはなかった。あそこは、ただの秘密基地だったから。大人は子供の延長線上だから。
「ライがNOCだとバレた時、僕、今度こそ裏切り者を殺そうと走ったんですよ」
「俺がNOCだなんて、君、ずっと気付いていただろう」
「……だからだよ」
 ペットボトルの蓋を開けて、一口、ミネラルウォーターを飲んだ。赤井に手渡す。間接キス、なんて。
「裏切り者を殺すのがバーボンの役目だったし、……降谷零の、役割だった」
 言葉にすると、少し嘘になる。言葉というのは全然足りなくて、だから表現してしまうと、まるでアナログからデジタルに変換するみたいに、少しだけ嘘になる。でも、言葉にしないと伝わらない。この世界では、嘘じゃないと、理解できない。
「僕ね、ヒーローになりたかったんです。正義の味方。目標とか、夢とか、全然なくて。生きる意味とか、さっぱりわからない。だからせめて死ぬまで、分かりやすく正しいことをしようと思った。でもなにが正しいのかも分からなかったから、みんなの憧れ、正義のヒーロー。で、警察官。なのに、なのになんでこうなったんだろう」
 赤井の顔は見れなかったから、天井に向かって話した。きっと、ずっと誰かに聞いて欲しかった。でも誰に聞いて欲しいのかわからなかった。
 もしかしたら、このために、ピロートークをするために、セックスをしたのかもしれないと思った。
「初めてした犯罪のこと、覚えてます?俺中学生の時スリしてたんですよね。あまりにも金なくて。バイトもできないし。金持ってそうな奴のサイフから万札何枚か抜いて、サイフはポストに投函しました。サイフってポスト入れとくと持ち主に届くんですよね。一回もバレませんでした。器用だったんです。あなた公安にスリの訓練でもあるのかって聞きましたけど、馬鹿じゃないですか?ないよ。あれは別に俺がゼロだからじゃなくて、俺が、そういう……どうしようもない人間だから、できただけ」
 なにを言いたいのか、自分でもよくわからなくて。でもまるで高いところから低いところへ水が流れるように、言葉が全然止まらなかった。誰かに言いたかった。なにを言いたいのか、誰に言いたいのか、さっぱりわからないけど、でも確かに、誰かに聞いて欲しかった。
「ずっと、反省も後悔もしていません。その時の俺には、多分それしかなかったんです。過去のことはなるべく考えたくない。だから、そういうことにしておきたい。それは多分、俺が弱いからです。でも強くなんてなれない。空を飛ぶのと同じくらい、強くなるなんて不可能だ。だから、それしかなかったと、仕方なかったと、そういうことにしておきたい」
 いつの間にか、涙が出ていた。何の意味があるだろう。この液体に、一体どれだけの理由があるのだろう。
「うそです。うそなんです。全部嘘なんです。本当は、ずっと、ずっと後悔してる。あの時助けられたんじゃないかってずっと思ってる。あなたなら、助けられたでしょうって、ずっと思ってる。でも、それでも、何よりもどうしようもないのは、一番恨んでいるのは、やっぱりあなたがアイツを助けようとしたことなんです。俺と、同じ側の人間でいて欲しかった。でもあなたはあそこで、他人を生かそうと走れる人間だ。俺は、自分がこんなにもどうしようない人間だと、そんなことは知りたくなかった……」
 やっと、やっと言えたって、思う。赤井になら言えた。俺は赤井のこと世界で一番嫌いだけど、赤井は俺のことを嫌いにならないから。だってこいつ、嫌いになるまで他人に関心を向けたりしないだろう。嫌いになる前に興味を失うだろう。人を嫌いに、ならないだろう。
「……ピロートークでダウナーになる男ってうぜえなって、そう思いません?」
「別に、いいんじゃないか?きみ、かわいいし」
「そういう問題かなあ……」
 天井から目を離して、赤井の顔を見ると、赤井は穏やかに微笑んでいた。まるで優しいみたいな顔で。それがなんだか、やたらに泣けた。泣く理由なんて全然ない。意味もない。でも、泣かない理由も、別になかった。
 赤井は、泣くなよとも言わず、涙を拭うこともなかった。ただ、ひたすらに、穏やかで。
「泣いてると不細工だなあ」
「……うるさい」
 こんなイケメンを捕まえておいて、不細工なんて、全くもって見る目がないヤツ。



 

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