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ミミズと這うなら地の果てまで


 バーボンとして潜入していた組織があらかた壊滅して、僕は日本警察としての顔を取り戻していた。消されていた戸籍を取り戻し、代わりに安室透の名前を消す。パスポート、免許証、口座に保険証。喫茶店も私立探偵も辞めて、さらにバーボンとして所持していた銃器や違法薬物も廃棄した。二人の役目はこれで終わり。
 次に必要となったのは、降谷零だった。警察官で、日本への愛国心を持っている。正義感が強く、自分にも他人にも厳しい。そういう人間だ。
 どれも、間違えなく自分だった。喫茶店でニコニコ笑っているのも罪のない人を撃ち殺すのも正義のために身も心も尽くすのも、確かに自分だった。キャラの切り替え。誰もがやっていることだった。そこに、名前をつけて都合のいい設定を少し付け加えただけ。嘘はたくさんついたけど、本心じゃない言葉はほとんど言わなかった。もしくは、繰り返して口に出すうちに、「あるいはそうかもしれない」と喉から飛び出す言葉は本心に変身した。
俺はたぶん、潜入捜査官と言うものにとても向いていたのだと思う。身分を偽るには、仮面を被るわけでもなく、自分と言う人間の多面性の違う面を表にしてみせるだけでよかった。
 ただ、降谷零の発する言葉も安室透の発する言葉もバーボンの発する言葉も「確かにそういう考えもある」と、同意してみせる、この自分がいったい何なのかが分からなかった。鏡の前で、お前は誰だと聞いてみる。おそらく、降谷零がこの自分に一番近いのだと思うけど、それでもイコールではない。俺は、本当は、日本を大切に思う一方で、そんなものはどうでもよかった。どちらも本心だった。死ぬまで生きるための。
 降谷零に戻って困ったのは、時間が余ることだった。やるべきことがない時間は苦痛だ。常に役割が与えられている方が楽だった。何をしてもいいというのは不自由だ。だから、降谷零は休みの日の度に買い物に出かけた。金を渡し、代わりに商品やサービスを受け取る。そうすることで、世界の中でぐるぐると回る経済の歯車の一つ、という役割を簡単に手にすることができた。
 赤井と偶然再会したのは、本屋で並んだ本のタイトルを眺めている時だった。壊滅作戦中はともかく、作戦成功後の後処理では、日本警察の責任者側である自分と、FBIの一捜査官である赤井との接点はほとんどなかった。何度か行われた合同捜査会議でも、各国の代表数名が参加するだけで、赤井はそこにはいなかった。だから、おおよそ半年ぶりの再会だった。
 俺の姿を見つけた瞬間の赤井は、わかりやすく面倒くさそうな顔をした。思い当たる節はたくさんある。ただ、その時の自分は赤井秀一を嫌いかどうか考えるのも億劫で、何もかも考えるのがだるくて「ああ、お久しぶりです」と六か月ぶりに会った知人への対応として日本人の八割が取るようなテンプレート的対応をした。
「久し振り……。君、本当に降谷くんか?」
「そうですね、あるいはそうかもしれません」
「……、ムラカミハルキなんて読むのか」
「嗜む程度には」
 料理コーナーの前で、背の高い(片方は人相も悪い)男が二人。ちょうど真ん中に置かれたレタスクラブが、所在無さげに息を潜めている。料理は好きじゃないけど、料理本は好きだ。口に入れて胃で消化するためだけのものを、手間暇かけて作り上げることが好きなんて人間はおかしな方向へ進化したものだな、と感心できる。
「前から思ってたんだが、その嗜む程度、って具体的にどれくらいなんだ」
「可もなく不可もなく、ってところじゃないですか、知らないけど」
「そうか」
 適当な言い分に、分かったような顔をして頷く赤井。なんとなく腹が立ってくる。一目見た時から反射的に嫌いだと思った。そんなことは初めてだった。好きとか嫌いとか良い人そうとか優しそうとかそういうことを見た目でなるべく判断しないよう生きてきた。先入観に振り回されるのはうんざりだ。だから赤井は特別だったのだ。ある意味で一目惚れだった。一目見た時からひたすらに嫌いだった。
「僕、あなたのことが嫌いなんです」
「そうか」
「一目見た時から嫌いでした。初対面から今までずっと嫌いです。嫌いであることと、ヒロのことは関係がない」
「ヒロ」
「スコッチのことです」
 捜査会議の資料には、あいつの本名はもちろん、組織に正体がバレ、携帯電話のデータ諸共自殺したこと、しっかりと書かれているのだった。カンカンカン。頭の中で足音が響く。間に合わなかった。あと、もう少しだったのに。間に合わなかった。俺は負けたのだった。俺の親友に。そして、赤井秀一に。だから恨んだ。多分、そうするしかなかったから。
「場所を、変えようか」
 赤井は、手に持っていた一冊の文庫本を、すぐ近くの棚に戻すと、後ろも振り返らずに店から出て歩き出した。置かれた文庫本のタイトルをちらりと見ると、『死者たちのハイビスカス』と太いゴシック体で書かれていた。

 二人で入ったイタリアン系のファミレスは特に混み合っておらず、順番待ちのための偽名も考えずに済んだ。パッチリとした二重のウェイトレスに案内され、四人席の対角線上に座る。テーブルに置かれたお手拭きのビニール袋を破くと、中からミントのにおいがした。指先を拭く。親指、人差し指から順番に、最後の小指の、爪の先まで。
「腹は空いているか?」
「まあ、それなりに」
「じゃあ、何か頼むといい、俺も何か食べよう」
「何か話があったんじゃないんですか」
「俺が?いや、ないよ」
「俺もないです」
「そうか」
 何のために来たんだっけ?赤井が場所を変えようって言ったんだ。俺はそれにただ着いてきただけ。なんで黙って着いてきてしまったのだろう。文句の一つもなく。疑問の一つもなく。
 赤井のせいだ。何も考えていなくても、意味ありげに背中を見せれば自然と人が着いてくる。そういう性質をしている。どんな振る舞いをするか考えなくても、自然体が一番人を惹きつける。気負わないで生きていける。カリスマ性。そこが嫌いだ。自分にないものを持っている。妬みとも言える。人に対して羨ましいだとか妬ましいだとかいう感情を抱くのは、世界で赤井以外いない。
 ボロネーゼが運ばれてくる。頼んでないのに。
「お待たせしました、季節の野菜のボロネーゼです」
「ありがとう。だが、違うテーブルじゃないか?頼んでない」
「あっ、失礼しました」
 去っていく店員。二〇代女性。間違いを指摘された瞬間の焦りの表情。おそらく、わざとではない。わざとだとしたら。目的は。敵は多い。俺も、赤井も。
「俺はpizzaにしよう。君は?」
「やっぱり、いいです。あなたどうぞ食べてください」
「そうか?」
「僕、出て行ってもいいですかね?用事もないみたいですし」
「うん、嫌だ」
「……なんで?」
「俺は君と食事がしたいんだ、君がたとえ何も食べていなくても」
「……そうですか」
 赤井が店員を呼ぶ。生ハムのサラダ、マルゲリータピザと、食後のコーヒーを注文する。すぐにサラダが運ばれてくる。赤井は箱からフォークを取り出して、サラダの卵の黄身を割り、中身を崩した。
「君の、好きな食べ物は?」
「赤ワインと、よく合うローストビーフ」
「それは君じゃないだろう」
 卵とドレッシングを絡めてキャベツを口に運ぶ様子を見ている。ぱかりと開いた口の中に、運ばれていく食物。咀嚼。飲み込んで、唇についたドレッシングを舌で舐める。少しレモンのにおいのする水を飲む。
「君は、何が好きなんだ?」
「……セロリ」
「ほう」
 赤井はサラダをもう一口食べて、「この中には入ってないな」と言った。
 ピザが運ばれてくる。赤井はそれを、ピザカッターで八つに切って、縦に二つ折りして口に運んだ。適度な回数の咀嚼。喉仏が上下に動く。伸びたチーズはパクリと咥える。手についたソースを、お手拭きで拭う。ミントのにおいがするお手拭きで。赤井がそれを黙ってこなすので、僕もただそれを黙って見ていた。
 食後のコーヒーに対して、赤井がぽつりと、うまいなとこぼした。俺はその落とされた言葉も、ひたすら黙って見送っていた。
「連絡先を教えてくれないか?君の、君につながる連絡先を」
「……わかっ、た」
 登録されたAの文字を軽く爪でなぞる。赤井の携帯に俺がどんな名前で登録されたのかは、知らない。

 それ以来、時々、俺の携帯にはAからのメールが届くようになっていた。用事は多種多様で、単純に飯を食べに行こうとか飲みに行こうというものから、深夜の散歩に付き合ってくれ、妹の彼氏とのデートの尾行を一緒にしてくれなんていうものもあった。俺はその呼び出しに三割くらいの確率で答えた。行かなかったのは、暇じゃなかった時もあるし、ただ行きたくなかったときもある。それでも、十回の呼び出しのうちの三回は、特に理由なく赤井と二人で会った。いつの間にかそれが普通の出来事になっていた。
『本を探すのを手伝って欲しい』
 特に何もない夏の日に、Aからメールが送られてきた。俺はそれにいいよと返信した。
『神保町 11時半 改札前』
 時間帯からして、いつの間にか昼飯を食べるということまで決定していたらしい。まあ、いいけど別に。

 駅の改札を出たところで、背が高く黒いキャップを被った男が、柱に寄りかかって文庫本を読んでいた。それを見ながら、改札にICカードをかざす。電子音とともに、そのゲートは気軽に開いた。
「赤井、」
「ああ、きてくれたか。久しぶりだな」
「そう、……そうでもないですよ」
 そうですね、と口走りそうになったのを慌てて方向転換する。最後に会ったのは十三日前。たった二週間会っていないだけで、久しぶりと挨拶を交わすような間柄になった覚えはなかった。そんなこちらの心境なんてお構いなしに赤井は「そうか?」なんて涼しげな顔で聞いてくる。この暑いのに。
「ニット帽はやめたんですか」
「ああ。日本の夏は蒸れる」
 まるでアメリカでは夏でも被っているみたいな言い草だ。赤井が閉じた文庫本の表紙には、『真夜中のサニーサイドアップ』と書かれていた。

 まずは腹拵えをしようと、赤井が定食屋に入っていくので少し驚いた。勝手に、カレーを食べるものだと思い込んでいたのだ。神保町だし。ただ、だからといってここで「カレーじゃないんですか?」なんて聞いたら赤井は君はカレーが良かったのか、と聞いてくるに違いないし、俺は別にカレーを食べたいわけでもないので黙って食券を買う。そんなに広くない店内、店員に食券を渡し、壁沿いのカウンター席に並んで座った。
「それにしても、本当に暑いな……」
 店に入るなりキャップを脱いだ赤井は、それを団扇がわりにパタパタと扇いでいる。普段隠れている額には、汗で髪が貼り付いていた。首筋を流れた汗が、一筋黒いティーシャツの中に滑り込んでいく。
「水、いります?」
「ああ、ありがとう。頼むよ」
 入り口の近くに置いてあったポットから、グラスに水を二つ注ぐ。そのうちの一杯を一息で飲み干して、もう一度注いだ。二つを両手で持ち、席まで戻る。
「ほら」
「ありがとう」
 受け取って、赤井が水を飲む。その液体に対して、うらやましいという言葉がぽっかりと浮かんで、意味がわからなくて打ち消した。どこへ、どこへ向かっていくって言うんだ。
 少しして、料理が運ばれてきた。示し合わせたわけでもないのに、親子丼が二つ。つい、二人で顔を見合わせて笑ってしまった。なんだこれ。
「うまいな」
「はい」
「毎度思うが、結構なネーミングセンスをしているよな」
「確かに。おおよそ趣味が良いとは言えないですね」
「名前を付けた人間は、おおかた変な性癖でもあったんだろう」
 赤井が変なことを言うから、笑ってしまった。噎せた。今度は赤井が水を持って来てくれる。
「ほら」
「ゴホッ……ありがとうございます」
 水を飲み干す。赤井が、しょうがないなあみたいな顔でこちらを見ていた。なんだこれ。なんだこれ。なんだこれ。
 平和だ。
 ぞわりと、鳥肌が立った。たぶん、汗が冷えたんだ。ここは少し、冷房が強いから。

 大体ワンコインで食べた親子丼は、想像よりも美味しかった。次も食べよう、と思えるくらいには。別に神保町に来たからといってカレーを食べなきゃならないルールはない。
 引き戸を開けて、心地よい冷房から外の世界に足を踏み出す。コンクリートから立ち上る蒸した熱気が、目に見えるようだった。既に冷房が恋しくなっている。
「それで、どんな本を探そうっていうんですか」
 このクソ暑い中、という文句じみた音は喉の奥にしまった。誘われたとはいえ、行くと言ったのは自分だ。勿論、今が暑い夏だということを知っていて。
「うん。君が好きな本を探そうと思って」
「はあ?」
 通りに並ぶ本屋の二〇〇円ワゴンを眺めながら、そういえば言ってなかったかな、と赤井は呟く。その長い指先で一つ一つなぞっていく背表紙の中に、俺が読んだことのあるものは一冊もなかった。赤井は一冊一冊、本をなぞっていく。まるでそれで内容を把握しているみたいに。
「なあ君、本を読めよ。嫌いじゃないだろう、他人の人生を覗き見するの。本とはある種、そういうものだよ」
 赤井はまるで優しい笑みで、スルリと抜いた本を差し出す。表紙の中からは片目を閉じた女が、強いまなざしでこちらを見つめていた。『まぶたの裏のヒル』。
「どんな、話なんですか」
「さあ、知らないなあ。ああ、こんなのはどうだ。少女ヒルはその名前のせいでクラスメイトから虐められていた。血を吸う化け物だと。だが、そんな彼女はある日、片目を怪我した、自分そっくりの吸血鬼に出会うんだ」
「なんですかそれ。あなたの捏造?」
「小説家になる将来も考えたことがあるんだ」
「……似合わない」
「だろう?」
 そうやってFBIのスナイパーはくすぐったそうに笑った。

 好きな本探しは、困難を極めた。それでも、赤井の語る本紹介は面白かった。実際に読んだことのある本は、目を満月みたいに輝かせてあらすじを語り、読んだことのない本は、タイトルから想像した物語を、三日月みたいに目を細めながら楽しそうに語った。赤井の口からは、いくつもいくつも物語が飛び出していく。お母さんの読み聞かせみたいだ、と体験したこともないくせに思った。
「ああ、これなら僕でも読んだことありますよ」
「『モモ』か。俺も読んだな」
「でもあんまり覚えてないなあ。確か、時間泥棒が人々を灰色にするんだっけ……」
「君は、その本を気に入っているか?」
 ボロボロになった表紙を、手にとって眺めた。古本屋の片隅に、ひっそりと置いてあった児童書。紙の匂いに囚われて、帰ってこられなくなるようなその空間。昔、どうしてこの本を読んでいたのか、忘れてしまった。
「……本とは、時間を、空間を切り取るものだ。でも泥棒じゃない。与えるものだから」
 そう、切り取られている。読んだことは覚えているのに、読んだ場面は思い出せない。それはまるで記憶が盗まれたみたいだけど、赤井が言うんだから、きっと違うのだろう。
「好きな本は、まだ読んだことのない本から選びたい」
 俺が言うと、赤井は俺の手の中から本をそっと奪い、指先でタイトルをなぞった後で、丁寧に棚に戻した。それだけで、その本には存在する価値があるように思えた。
「ゆっくり、探そう」

『電撃人類』そこの街に住んでいる人間は、全てアンドロイドである。研究のために作られたその街の中で起こる、些細な事件。死なない彼らの、物語。
『梅雨前線を追い越して』もうすぐ、夏がくる。夏がくると、帰らなくちゃいけない。いやだ、帰りたくない。だからお願いする。どうか、雨が降りますように──。

 暗くなっても、本屋巡りを続けて、店が閉まる時間帯になって、ようやく帰路に着いた。気づくと夕飯を食べていなかったので、肉屋でコロッケを買ってその場で食べた。それは少し冷めていて、もしかしたらコンビニで買ったほうが美味しいかもしれなかった。
「君、買い食いが似合わないなあ」
「あなたに言われたくないです」
 結局俺は何も買わなかった。赤井は、「なんとなく手元に置いておきたくなったんだ」と、わざわざあの本屋まで戻って『モモ』を買った。どうせなら新書で買えば良いのに、と思ったけれど、言わなかった。カレーは食べなくてもいいけど、食べてもきっと楽しい。そういうことだろう。
 ふと、目が合う。赤井は目を半月みたいにして笑った。ふわりと、優しい風が少し吹いて、気づくと、赤井の口は俺の頬にくっついていた。
「衣、ついてた。ふふ……きみ、がっつくから」
 距離の近くなった赤井からは、汗のにおいがした。いいニオイだと、そう思った。
「好きな本。また、一緒に探してくれますか?」
「もちろん」
 見上げた空では、人工衛星がチカチカと輝いていた。空はビルに照らされて明るく、星はその光に負ける。
「ねえ。あなたの本棚が見たい。あなたの好きな本で構成された本棚、見せてくださいよ。あなたの家の、あなたの本棚」
「ああ、いつでも。いつでも、おいで」
 光っているのが、人工衛星でよかったと思った。もしも流れ星なんか流れていたら、きっとばかな願いを三回唱えたに違いないから。

 そうして、十回に三回が五回になって、それから十一回になった。赤井のことを嫌いだと思う自分も死なないままで、誘いを断るどころか自分から持ちかけたりなんかしている。相変わらず会う用事はバラバラで適当で、本音と建前の境界線はどこまでも曖昧だった。それでもやっぱり、用件が「会いたい」じゃ困るのだ。そんな間柄になった覚えはない。何に困るの、って、聞かれても困るけど。でもやっぱり、困る。
『そろそろ、俺の本棚を見に来てくれ』
 Aからそんなメールが届いたのは、夏の暑さも和らぎ、ミンミンゼミよりはスズムシの方が似合うような頃だった。いちょう並木にちらほらと落ちている銀杏がうざくて、街路樹にするならもうちょっとマシな木はなかったのかと考えながら歩いている時だった。
『再来週 金曜の夜なら』
 歩きスマホで、そうやって返した。日付指定をこちらからするのは初めてだった。返事は一分と待たずに来た。
『いいよ』
 その返事だけでなんとなく胸が明るくなるような心地がして、その事実に嫌気がさした。なんとなく苛立って、見つけた喫煙所でいつもは吸わない煙草を吸った。喫煙所の中は無人で汚くて、誰も入ってくる様子はなかった。俺はゆっくりと一本、煙草を吸い、仕事に戻った。任務中に殺した男の素性を調べている最中だった。その男は組織の下っ端で、使えないからという理由で殺された。初めて殺した人間だった。人を殺せる人間なのかどうか、試されていたのだと思う。俺は自分が殺せる人間だと知っていた。殺したこともないくせに知っていた。だから、引き金を引いた。その行為によって自分が壊れないことを知っていたから。その男は、急所を撃ち抜かれた人間の反応として、正しく死んだ。心臓が止まっていく様子がはっきりと目に見えた気がしたけど、多分気のせいだった。俺はその男が死んでいることを丁寧に確認した。殺せと命令されているので、俺はちゃんと殺さなくちゃいけなかった。そしてコードネームをもらった。バーボン。そうやって、今がある。組織は壊滅して、何万人と人が死ぬ計画は阻止された。良かったと、そう思う。
 赤井のことを考えた。赤井が初めて人を殺した日のことを。聞いたことがないから知らないけど。でも、ライが女を殺した日はわかりやすかった。癖があるわけでも、表に出るわけでもない。ただ、なんとなく、空気のにおいで、ああ女を殺して来たんだなとわかった。そういうところが嫌いだった。俺はライがNOCであることに大体気がついていた。大体というのはつまり、ほとんど確信していたが証拠がなかった。理屈じゃなかったのだ。ただ、わかった。あいつの瞳はさわやかな色をしているくせにどろりと重かったが、腐ってはいなかった。出会った瞬間から嫌いだった。
 殺してみようかなと、ふと思った。赤井秀一を殺してみようか。そうして自分の中の何が変化するのか、知りたいと思った。赤井は僕の特別だった。今となっては、唯一の。だから、その唯一を失った時、自分はどんな生き物になるのか、知りたいと思った。
 メールが届く。
『その日は一日家にいるから、何時でも』
 携帯を持つ手首に、蚊が一匹止まった。俺はそれを叩き潰した。蚊は、めちゃくちゃに、糸くずみたいに潰れて、肌に張り付いていた。指先で払うと、地面に落ちて見えなくなった。手首には、黒いもやみたいなものが残っていた。

 手土産として、途中で立ち寄ったコンビニで、メーカーズマークの瓶を買った。駐車場があるのか分からなかったので、電車で最寄り駅まで来た。本当は、聞けば良かったのだ。近くに車を停める場所があるのかくらい。
 赤井の家は、駅から徒歩数分の、ごく普通のマンションだった。特別に警備員が配置されているわけでもなく、エントランスには鍵付きの自動ドアがある、取り分けて何か言うようなこともないような、普通の。この防犯設備だったら、何にも悟らせないように侵入することなんて容易だったけれど、僕は普通にマンションのエントランスで部屋番号を入力し、インターホンを鳴らした。インターホンはカメラ付きだった。それを手で隠すこともしなかった。
『いらっしゃい』
 スピーカー越しに赤井の声がする。こんにちは、と、自分の声帯はそうやって震えた。
『そのまま上がってきてくれ』
 自動ドアの前に立つと、ドアはゆっくりと開いた。エレベーターが二台あったが、階段で三階まで上った。
 表札には名前も何も書いていなくて、ただ302と部屋番号だけが書かれていた。インターホンを押す前に、その扉は中から開く。
「いらっしゃい。入ってくれ」
「……おじゃまします」
 おじゃまします、なんて言葉を使うのは一体何年ぶりだろうか。むず痒い気分になって、コンビニのビニール袋に入れたままのそれを差し出した。
「これ。コンビニのやつで申し訳ないですが、まあどこで買ってもそんなに変わらないでしょ」
「ああ、ありがとう。車は置いて来たのか?」
「はい。電車で」
 酒を手土産にするのなら、車で来ない方が自然なのか、と今更思った。単純に、赤井が他にもらって喜ぶものを何も思い浮かばなかったのだ。
 赤井の家は広いワンルームだった。通されたリビングは整然と片付いていて、それでも確かに生活感が漂っている。手前は黒のラグの上にローテーブルとソファ、真ん中にパーテーションで仕切りがあり、その奥にはシングルベッドが置かれていた。そして壁際には天井まである高さの本棚が一つあり、その八割程が埋まっている。
「ここには、いつから?」
「いつからかな。潜入捜査をしていた時から借りていたから結構前だ。まあ毎日使うようになったのは最近だが」
「へえ」
 促されるままソファに座る。少し硬い。「悪いが、インスタントコーヒーしかないんだ」と、ちっとも申し訳ないと思っていない顔でキッチンに立つ赤井にいいです期待してませんと返す。水音と、とくに食欲をそそられないコーヒーの香り。キッチンから戻ってきた赤井は、両手に湯気の出たマグカップを二つ持っていた。俺は赤井の家にコップが二つあったことに驚いた。
「あなたに客をもてなす文化があったとは」
「工藤家はいつも人気でね」
 言いながら、不味くも旨くもなさそうな顔で一口飲み、テーブルの向かいにクッションを置いて腰を下ろした。
「せっかくの酒だ、夕飯も食べていくだろう?」
「……考えてませんでした」
「なら、食べていくといい。泊まるとなると、残念ながらベッドは一つしかないが」
「晩メシだけいただきます。床で寝る趣味はないので」
「俺もない」
「でしょうね」
 会話が途切れ、手持ち無沙汰にコーヒーに口をつけた。旨くも不味くもなく、しいて言うならば粉っぽい。別にだからなんだというわけでもないが。例え水道水を出されたって塩素の味だなあと思うくらいだ。塩素の味なんて知らないけど。
「不味いか?」
「なんで?……いえ、別に」
「そうか?不味そうな顔してたから」
「どんな顔ですか」
「分からん。雰囲気だ」
「なんだそれ」
 もう一口飲む。三分の一くらいに減ったコーヒーは、やはり粉っぽかった。食感が悪い飲み物に対して何か悪い思い出でもあっただろうかと思考が進みそうになったところで別に自分のトラウマを掘り起こすためにわざわざこんなところに来たわけではないと思い出した。
「……本棚見せてもらっていいですか」
「もちろん」
 赤井は芝居がかかったような動作で俺の背後を指差した。本棚は作者の名前順でもタイトル順でもなく、大きさでなんとなくまとまってはいるものの法則性なく並んでいた。いや実際にはおそらく何かしらの基準に則って並んでいるのだと思うが、それは並べた本人にしか分からない類のものだった。
「好きに見るといい」
 言うと赤井はハードカバーの本を開く。『八方楚歌』。スナイパーが囲まれたらダメじゃないか、と咄嗟に思った。
 極めて個人的な本棚を見上げて、少し途方に暮れたような気分になった。目的もなく何かを選ぶのは難しいと思う。そもそもどうして本を選ぼうとしているんだっけ?赤井が言ったからだ。赤井が、君の本を探そうと言うから、俺はノコノコこんなところまで来ている。世界で一番嫌いな男の言うことを素直に聞いて、こんなところまで。赤井の意図を考える。あいつは、打算的な男ではない。そうではなくて、自分の正しいと思う行動をすることが、結果正しくなると知っているのだ。正しい道を選ぶのではなく、選んだ道を結果正しい道にしてしまう能力がある。こっちが必死で道の先を伺い最善を選択しようと躍起になっている横で、自分の行きたい道を悠々と進んでいくのだ。嫌いだ。でもだからこそ人が集まる。あいつの行く道は正しいから。そうやって集まった人間が、更にあいつを肯定し、正しくする。嫌いだ。そこには、羨望もある。羨ましいと思ってしまう。そう思った時点で、相手を高みに置いてしまっている。無意識のうちに、あいつを自分より優れた存在だと思ってしまっている。だからこそ、利用価値を計算できないくらいに、本当にこの男が嫌いだ。
 懐の拳銃で、滅茶苦茶に撃ち抜いてみたらどうだろうか?と考える。特に理由のない、衝動的な破壊行動。銃を持つと、人はそれを撃ってみたくなる。何もかも壊してしまったらどうだろうか?と考える。考えただけで行動しなければ犯罪にはならない。ただ、その考えただけで、行動する前の人間を捕まえるのが自分の仕事だ。変だなと思う。俺だって、自分の持ち得る力で嫌いな人間を、取り返しのつかないように壊してしまいたいと願っているのに。
「君、難しいことを考えているな」
「さあ。そうかも」
「君は、考えすぎる。少しめんどうくさい」
「……知ってました?俺、あなたのこと嫌いなんですよ」
「知ってる」
 そうか、知ってたのか。
 考えるなと言われたので目を閉じてえいやと本を抜き出す。タイトルは『掏摸』。スリ。現役警察官じゃなきゃ読めないだろうなと思う。現役警察官でも読めるか怪しい。普通、漢字じゃ書かない。同じ言葉が同じ言語の中で複数の表記をされること。まどろっこしい。
「五〇〇円玉」
「……なに?」
「血のついた五〇〇円玉を、投げるんだ。その本の中で。死ぬか生きるかの瀬戸際の時に」
「それは……、なぜ?」
「救難信号だ。狭い路地から、怪我をしている自分に気づいてもらえるよう、いつのまにか誰かからスった五〇〇円玉を、大通りに向かって投げる」
「へえ」
「物語は、それで終わる」
「ネタバレじゃないですか」
「そうだな」
 スリを、したことがある。十三歳の時だ。金を盗ろうと思ったわけではなく、ただ、上りエスカレーターで、前の男の尻ポケットに長財布が入っていて、それが、まるで飛び出してくるように、簡単に、確実に盗めてしまうのではないかという考えが脳を支配した。そうして気づくと、人差し指と親指はその黒い革財布の角に触れていた。一瞬だった。財布は、ポケットから離脱を果たす。自分の手に飛び込んできた財布はズシリと重く、指で挟みきれなかったそれが落下していくのが、スローモーションで見えた。あるいは、作為的に落としたのかもしれない。目的を果たしたから。金を盗るのではなくて、スリをするという目的を。財布は、自分のローファーの上に落ちた。黒い革と革が、まるで同化しているように見えたけど、正しくそれは思い込みで、拾い上げたそれは簡単に靴から離れた。驚くほど重さを感じなかった。重いと思った財布は、薄く軽く、大したものは入っていないように思えた。
「落としましたよ」
 自分の声が聞こえる。それから、動悸が。前の男は振り返る。何かに気づいた様子もなく、ありがとうと言って財布を受け取る。男の手に戻っていく。ポケットではなく、鞄の中に戻された。初めから、鞄の中に入れておけばいいのに、と思った。僕は、いいえ、と、何もなかったような顔で言った。
「君はスリが上手い」
「え」
 赤井だった。あの男ではない。僕は十三歳でもないのだから。
「情報収集の手段として、やっていただろう、スリ。ゼロはそんなことも練習させられるのか?」
「ああ。……機密事項です」
 嘘だ。そんなものは機密でもなんでもない。
「あの時は驚いた。ほらあの、ベルモットから無茶振りされた時の。 ターゲットが持ち歩いているパスポートを取ってこいっていう。しかも盗まれたことを気付かせるな、落としたように思わせろと来た」
「あなたがプロのスリを雇うためにスリに狙われそうな格好して誘き出そうとかふざけたこと言ったやつ?」
「そう。そしたら君が、僕がやります、ってね。満員電車の中で気付かれないよう盗み出すその技術。上手いものだなと思ったよ」
「……あれくらいじゃ満員電車って言いませんよ」
 我ながら、ツッコミどころはそこじゃないような気はしている。
「スナイパーはスナイプだけしてればいいんだから楽でいいですねなんて君が言うから……、……二人で怒った」
「…………ありましたっけ、そんなこと」
 目を閉じる。ああ、確かに言われてみればあったかもしれない。



 

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