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運命なんかじゃ誤魔化されない


 病室の前、ひたすら手術中のランプを見つめるという、ドラマみたいなことをするのは初めてだった。この扉の中で、今、父親が死にかけている。父が死んだら、俺は一人で生きていかなきゃいけない。いや、きっと、父のことだから、死んだ後でもなにか色々と手を打っているのだろうけど、でも、そういうことじゃなくて、やっぱり一人になる気がするのだ。
 違う。多分違う。考えるべきことは、これじゃない。気がする。じゃあなんだ?死にかけてる親の前でなにもできない自分が考えるべきこととは?
 廊下は静かで、人の気配がなかった。父は死にかけている。一人で死にかけている。俺以外、誰も来ない。いっそ、別の家庭の人間でも来てくれたらよかった。俺の母じゃない妻と、俺の兄弟じゃない子供が来てくれたらよかった。そうしたら、取り乱し泣き喚くその人たちを見本に、自分も逝かないでって涙を流せたかもしれない。でも父にはやっぱり別の家庭があるわけでもなくて、きっとそれは随分前から知っていた。
 目が乾いてきて、カラーコンタクトを外した。目が悪くはないから、本当はこんなもの必要ない。黒いうろこみたいなそれ。綺麗だねと、褒めてもらえるのが嬉しかった青い瞳。晴れた空の青をそのまま閉じ込めたみたい。言ったのは、初恋の女の子だ。とってもきれい。俺も、俺もそう思うよ。嫌だったのは、「ハーフなの?」と聞かれること。知らない、って言うと、踏んではいけない地雷を踏んだ、みたいな顔をされる。だから、そうだよって答える。そうすると、「お母さん?お父さん?」とか「どこの国なの?」って聞かれる。それに対して、「死んだ母がアメリカ人だったんだ」って答える。そうすると、相手は何も聞いてこなくなる。それが、いやだった。俺は母の目の色なんて知らないし、父がどこの国の人間なのかも知らない。知らないということを思い出したくもなくて、昼間の青い空は夜の闇の中に閉じ込めた。そうして俺は「普通」を手に入れて、綺麗な瞳ねと言われない代わりにどこのハーフなのと聞かれることもなくなった。
 俺は父さんのことを何も知らない。聞いたこともない。拒絶されるのが嫌だった。踏み込まなければ、踏み込めないということも忘れていられる。俺は、父さんに踏み込みたかったのだ。心の内側を見せて欲しかった。どうして俺を産んだのか、教えてほしかった。
 産んでくれてありがとうなんて、何もなしに思えない。俺は俺の生まれてきた経緯を知りたかった。子供のために子供を産む人間はいない。誰だって、最初は別の目的だろう。子供を産むということを通してあなたが得たかったものはなに?自分の子孫を残そうという、その根源はどこからきたものだ?子供を産み、育てるという多大なるデメリットを払ってまで、得たかったものとは一体なんだ?死ぬ前に、教えてくれよ。俺の起源を。
 だって、俺の目から見て、どうしたって、降谷零に子供が必要だとは思えない。むしろ、不要、邪魔なものだと、そう思えて仕方ないのだ。
 昔、基本的に怒らない父に、一度だけ怒鳴られたことがある。あれは、怒りというにはあまりにも突発的で情熱的で、感情の発露、慟哭と呼ぶにふさわしいものだった。
「お母さんは、僕のせいで死んだの?」
 そう、聞いたのだった。お母さんがいない。なんでいないのかお父さんは話してくれない。だから、自分のせいなのではないかと思ったのだ。結果を聞いた後の対応なんて考えていない。ただひたすらに、不安だった。
「ちがう」
 その叫びはあまりにも大きくて衝撃的で、幼い自分には言葉として認識できなかった。
「お前じゃない。お前にあいつが殺せるか。……俺だよ、あれを殺したのは、俺だ。お前じゃ、ない」
 わからない。理解できなかった。立ち去っていく父の背中を呆然と見送ることしかできなかった。ただ一つわかったのは、自分が侵してはいけないところまで踏みいったということ。お父さんには周りに見せずに大事に大事に隠している領域があって、自分はそこに踏み込ませてもらえないということ。そしてその領域の中心にいるのが、お母さんという存在であるということだ。だからずっと聞けなかった。踏み込ませてもらえないことを、再確認するのが怖くて。
 人間が産まれて来るには、二人の人間が必要だ。どうして俺は産まれてきたの?その一言が、ずっと、ずっと、聞けないままだった。


***

 目が覚めて、初めて自分が眠っていたということを知った。遮光カーテンから漏れる朝の光が部屋を照らし、時間の経過を伺わせている。
 ……部屋?
 そこは意識が落ちる前にいたはずの廊下ではなく、どこかの病室で、俺は簡易ベッドの上にタオルケットをかけて寝かせられていた。腰が少し痛い。体を伸ばしつつ起き上がると、カーテンの隙間からスポットライトのように細く差し込む朝日がベッドの上の金色の髪を輝かせているのが見えた。何本かの管が繋がれたその男は、小さく胸を上下させながら、静かに眠っているのだった。まるで、死んでいるみたいに。
「父さん」
 心電図が、規則的に振動している。ドラマみたいだ、とやはり思った。点滴がポタリポタリと定期的に落ちていく。呼吸器の中の、落ち着いた呼吸音。あらゆる動きが、規則的だった。生きていないみたいに。
 コンコン、と軽いノックの音がする。俺が答えていいのかと迷いつつも、はいと返事をすると、病室の扉はごく普通の速度で開かれた。
「目が覚めたか。……俺は、君に電話をしたその人の部下だ。君のことは、お父さんからよく聞いているよ」
「嘘ですね」
「ああ、嘘だな」
 どうしてすぐにバレる嘘をつくのだろう、と思う。もしかしたら、この人は、俺よりも父さんのことをよく知っているのかもしれない。ただ血が繋がっているだけの俺よりも、ずっと。
「父さんて、どんな人なんですか」
「それは……社会的な意味で?」
「いや。人格的な意味で」
 俺が父さんについて知っていることは、年月はあれど薄っぺらだ。その年月だって、仕事の部下には負けるのかもしれない。なぜこんな大怪我をしたのか。それも気になるけど、でも、それはいい。どうして五歳の時に俺を引き取りにきたのか。それも、とりあえずいい。ただ、なにを考えているのか、一度もわかったことがなくて、それがひたすらに知りたかった。
「君の知る降谷さんは、どういう人だ?」
「さあ。よくわかんないです」
「君に分からないなら、俺にもよく分からない」
 眉を寄せて不満げな顔をしたのが、自分でも分かった。眼鏡で真面目そうな顔の父の部下は、少し困ったように笑った。
「言葉にすると、どうも嘘臭くなるな……。でも、本当なんだ。長年この人の部下をやっているが、この人のことは、いつまで経ってもよく分からない。そもそも、この人は俺に理解者であることを求めなかった」
「……だから、考えなかったの」
「考えたさ。でも、ちっとも理解できなかった。そうだな、確かに途中から感情なんか考えるのをやめてしまった。理解できない。それでも、この人の正しいと思うことに俺は従う」
 他人なんだ、と思った。父さんとこの人も。俺と、父さんも。どうしようもなく他人だ。
「なあ、降谷さんの子どもって、どんな気分なんだ」
「……さあ、」
 この人にも、子どもがいるのかなって、ちょっと考えた。休日にキャッチボールするとか、時々買い物に付き合うみたいな、そんな子どもが。
「他の人の子どもになったことないから、知らない」
 父さんの部下は、すこし笑って、なにも言わずに出て行った。


 看護師が時々やってくる他に、人は来なかった。ぽつんと、置いていかれている。看護師さんは気を使って声をかけてくれるけど、向こうもこっちの扱いに困っているみたいだった。だから、一度家に帰ることにした。病室から出ると扉がオートロックでびっくりした。これ俺、もう一回入れるのかな。
 タクシーに乗り込んで、自宅の最寄り駅まで向かう。タクシーの中は他人の車のにおいがした。ふと、父の、白という目立たない色のはずなのに異様に目立つスポーツカーを思い出した。最後に乗ったのはいつだっただろうか。車には詳しくないからよく知らないが、格好良くて、好きだった。
 最寄り駅について、料金を支払う。車から降りるとしとしとと、霧のような細かい雨が降っていた。涙のようにすこしだけ降る雨のこと、涙雨っていうんだって。誰に、教えてもらったんだっけ。
 折り畳み傘なんて持ってなくて、分厚い湿気の中、無防備に足を踏み出した。しとしと、しとしとと。服がしっとりと濡れて、なんだか重くなったように感じる。なんとなく何かに追われているような気分になって、足を早めた。それでも足りなくて、走り出す。何から逃げてるのか分からないまま、何かから逃げ出す。
 家に帰る頃には全力ダッシュになっていて、鍵を開ける手は荒い息で震えた。ドアを開けて、勢いよく閉める。帰ってきたから、もう大丈夫だと思った。無駄なセキュリティ以外、安心できる要素なんて一つもない家なのに、もう大丈夫だと。
 静かな部屋の中、自分の呼吸音だけが聞こえた。それがなぜか嫌で、思い浮かんだ歌を口ずさんだ。息が切れてるのに。
「とくいなことがあったこと、いまじゃもうわすれてるのはー、」
 あ、だめだ、この曲、前半があんまり明るくない。
 誰もいないことを知っていて、あちこちのドアを開けた。自室、リビング、洗面所、風呂場。それでもやっぱり、心のザワザワした何かはなくならない。なんだろう、これ。なんだろう。どうしたらなくなるんだろう。自傷癖の人の気持ちが少しわかった。自分のことを、めちゃくちゃにしてみたら、このザワザワも、木っ端微塵になって、どこかへ行ってくれるのではないかと、そんな気がしてくる。
「ずっとまえからわかってた、じぶんのためのあなたじゃない」
 問題ないでしょ、一人くらい、消えたって。
 そうやって家中のドアを開けて回って、ただ一つだけ開けられていないドアの前に立ち尽くした。父の部屋だ。さっぱり帰ってこないけど、それでもちゃんと、この家に父の部屋はある。
 恐る恐る、ドアノブに手を掛けた。鍵は閉まっていない。その扉を、まるで、ウサギを追いかけて穴に飛び込むアリスみたいな気分で開けた。
 まず目に入ってきたのは、本棚だった。というよりも、それしかないと言っても過言ではない。フローリングの上、壁際に三つ並んだ本棚と、パイプのシングルベッド。そして、床に転がっている携帯の充電器。それしかなかった。恐る恐る、なぜか足音をひそめて、本棚に近づく。
 そこには小説本ばかりが並んでいた。作家順でもなければタイトル順でも、出版社順でもない。感性で並べられた本棚だ。俺は初めて、父の個人的なところを見た気がした。読んだことのある本も、すこしある。父が読書をするなんて知らなかった。そもそも、何が好きかなんて一つも知らないんだけど。
 その本棚を、じっくり眺めた。まるで人の心の内を覗き見しているような気分だった。一冊一冊、タイトルを見る。左上から。『死者たちのハイビスカス』『真夜中のサニーサイドアップ』『まぶたの裏のヒル』『電撃人類』『梅雨前線を追い越して』『他人』『八方楚歌』。小説本に混ざって、何故か二十年くらい前のレタスクラブなんてのも所在無さげに混ざっていた。
 見たところ、小説本のジャンルも年代もバラバラで、最近のものもあれば明治のものもあるし、純文学があると思えば絵本まであった。あ、これ『あおくんときいろちゃん』だ。あの、俺があの人に、メアリーさんに、読んでもらってた絵本。ただ、どの本も読んだ形跡が全くなかった。保存状態が良いのとも違う。そのどれもが、本屋から買ってきてそのままみたいな。試しに一冊を手にとってめくってみると、スリップがページをまたがって挟まったままになっていた。読むために集めたのではないのなら、なんだというのだろうか。まるで、集めるために集められたみたいな。その本棚に並べられていることのみに、意味があるみたいな。
 その中で、一冊だけ擦り切れた本を見つけた。黄色いケースに入った、ハードカバーの児童書。『モモ』だった。時間どろぼうと、ぬすまれた時間を人間にとりかえしてくれた女の子のふしぎな物語。パッと開く。三二一ページ。
「はじめのうちは気のつかないていどだが、ある日きゅうに、なにもする気がしなくなってしまう。なにについても関心が持てなくなり、なにをしてもおもしろくない。だがこの無気力はそのうちに消えるどころか、すこしずつはげしくなってゆく。日ごとに、週をかさねるごとに、ひどくなるのだ。気分はますますゆううつになり、心の中はますますからっぽになり、じぶんにたいしても、世の中にたいしても、不満がつのってくる。そのうちにこういう感情さえなくなって、おおよそなにも感じなくなってしまう。なにもかも灰色で、どうでもよくなり、世の中はすっかりとおのいてしまって、じぶんとはなんのかかわりもないと思えてくる。怒ることもなければ、感激することもなく、喜ぶことも悲しむこともできなくなり、笑うことも泣くこともわすれてしまう。そうなると心の中はひえきって、もう人も物もいっさい愛することができない」
 このページを開いたのは、栞が挟まっていたからだった。それは古本屋の値札だった。手書きで、三〇〇円と書いてある。この本だけは、新品じゃなくて、古本で買ったものみたいだった。栞をひっくり返す。裏には、ボールペンの手書きで、すこし癖のある文字が書かれていた。

 生きとし生けるもの達よ、俺の願いを聞いてくれ
 どうか二人が、幸せでありますように


***


 憂慮していたオートロックのドアは、看護師さんに開けてもらえた。暗証番号で開く扉だったみたいだ。中はピッ、ピッ、と規則的な音がぽつりとひとつ漂っているままだった。部屋の中は俺が出て行った時と変わらず、人の出入りした気配は薄かった。俺はベッドの傍に置かれていたイスに腰を下ろす。
 まつげまで、金色だ。
 綺麗な人だな、と思った。恐らく父親に抱くには不釣り合いな感想だった。でも、俺のこの人の第一印象は、「綺麗な人」で、父はそれからずっと変わらず、作り物みたいに変わらず、綺麗なままだった。人形みたいに。中身なんて、ないみたいに。
 嘘だ。嘘のはずだ。この人だって、人間なんだから、考えて、感じて、そうやって生きてきたはずだ。だって、俺がいるんだから。本当に無駄なことをしない機械みたいな人なら、子どもなんてきっと産まないはずだから。人間らしさを感じさせないこの人が見せた、もしかしたら唯一の、圧倒的な無駄が、俺だ。
 起きて、起きてよ。話をしよう。まともに向き合ってこなかったら俺たちだけど、たぶんまだ間に合うから。起きて。長い話をしよう。父さんだって、しばらく入院するだろうから、その間は暇だろう。子どもの相手をする時間くらい、あるだろう。だから教えて。俺は、どうしてこの世に産まれてきたの。
 その声に応えるように、細く、長く光を反射するまつげが微かに震えて、俺とそっくりの、マリンブルーが、ゆっくりと大きくなっていく。ちがう、俺とそっくりなんじゃなくて、俺が、そっくりなんだ。
「……父さん」
 ドラマみたいだ、と思った。起きて欲しいと思ったら、目を覚ますなんて。もしくは、お伽話。もっとも、眠ったままの王子様を起こす美しい姫は、ここにはいないけど。
「いきてる……」
 呼吸器の中、口を動かしただけなのに、音なんか出てないのに、その台詞は父の声で再生された。いきてる。生きてる。生きてて良かったと、そういう意味なら良いな思った。
 父の目が、ゆっくりとこちらを向く。金色に縁取られた青いひとみ。この瞳しか、似ていないけれど、それでもこの色だけは、鏡に映したようにそっくりなのだった。目が合う。しっかりと、目が合って、それが永遠みたいに感じた。息をする。なにもかも、繋がっているように錯覚する。綺麗な形の唇が、時間をかけて開いて、そうやって、口の形だけで俺の名前を呼ぶのを見ていた。ずっと見ていた。


 数日して、意識のはっきりして、でも病室に拘束されている父に、俺はとうとう聞くのだった。
「どうして俺は、産まれてきたの」
「……お前は、俺の未練だった。いつの間にか、本当に」
 そうして、父さんは語り出した。長い話を。ひとりの、大事な人の話を。



 

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