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「#エロ」のBL小説を読む
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- ナノ -
 
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生きとし生けるもの達よ。俺の願いを聞いてくれ。
どうか二人が、


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飼えない犬には優しくしないで


 俺に母はいない。いるのは父だけだ。母は、若くして亡くなったらしい。それ以来、父は、忙しい仕事の合間を縫って俺を男一人で育ててくれた。それには、感謝している。例え運動会も授業参観も試合の応援も、三者面談にすら現れない父だとしても、育ててもらった恩は感じている。金に困ったことはないし、やりたいことは何でもやらせてもらえた。休みの日に遊園地に行きたいと小学生の頃に言ったら、父の知り合いらしいお姉さんが連れて行ってくれた。そういうことじゃない、って、どうやら父さんにはわからないらしかった。その時のその、もどかしい思いを言葉でにできずにいたら、いつのまにか意思の疎通なんてさっぱりできなくなってしまっていた。
 父さんのことは昔からよく分からない。特に仕事。出勤時間も、服装も、靴も時計も車も眼鏡も財布も携帯も日によってバラバラで、苗字も変わる。本当の苗字は降谷だけど、安室さんって呼ばれているところもよく見る。新一くんなんかは降谷さんって呼んでるけど、みんなの前では安室さんって呼んでいる。昔喫茶店で働いていて、眠りの小五郎の弟子をやっていた「安室さん」という男のことを、俺はずっと知らないままだ。
 家にいなかった父の代わりに、俺は色々なところに預けられていた。みんないい人だった。俺が学校から帰るとおやつを用意してくれたり、休みの日には水族館に連れて行ってくれたりした。しかし、その誰もが父について詳しくは知らなかった。死んだらしい母のことも。

 中学生のころ、一度だけ父が授業参観に来たことがある。グレーのスーツ姿で現れた、褐色の肌で金髪碧眼の若い(少なくとも若そうに見える)男は、教室でたいそう目立った。クラスメートも、保護者もざわついた。父はその視線をまるで気にせず、当然であるかのように受け止めて、掃除ロッカーの前に立った。
 授業が終わって、俺は慌てて教室を飛び出し父にメールを打った。
『来てくれてありがとう。でも、もう帰って』
 四十五秒ほどして、父からは返信が返ってきた。
『わかった』
 教室に戻る。さっきの男は誰だと、その話題で持ちきりだった。父さんと俺は、肌の色も、髪の色も、顔だちも似ているところはなかったから、あれはお前の親かと聞かれることはなかった。ただ、目の色だけはよく似ている。しかしそれもカラコンで隠しているため、誰も知ることはないのだった。
 その日、家に帰ると、机の上にメールアドレスを書いたメモが置いてあった。俺は、そのアドレスを登録すると、さっき送ったメールと登録していたアドレスを消した。父は、一度使ったメールアドレスはもう二度と使わないのだった。アドレスを書いたメモは、灰皿の上でライターで燃やした。粛々と燃えていくその紙片は、この世になんの未練もないようだった。
 灰皿は、十歳の誕生日にもらったものだ。小学生への誕生日プレゼントに、灰皿。その時よく預かってもらった家の人がくれたのがゲーム機だった俺は、父からの誕生日プレゼントなんて、気にも留めなかったけど。
 高校生になって、もう人に預けなくて平気だよと言ったら、セキュリティが頑丈過ぎてカギを開けるのが面倒くさいマンションの一室をもらった。一応父と住んでいるという名目だが、基本的に父さんは帰って来ない。父の家はいくつあるのか。もし、他にも二つ家庭を持つ男だと言われても、俺はきっと驚かないだろう。
 父さん、父さん。部活の都大会、団体戦で優勝したんだ。父さん。いつ帰ってくるの。ご飯は何合炊いたらいい?父さん。生徒会長になったよ。誰にも負けない成績表。親からの承諾が必要な書類。大人の男らしい筆跡。勝手に押す、捺印。父さん、父さん。疲労骨折になってしまった。保険証、どこにある?お金は、たくさんあった。帰ってこない。ずっと。最後に会ったのはいつだっけ?父さん。お父さん。ねえ。俺のこと、どう思ってる?
 不自由することはそんなになかった。虐待されているわけでもなければ、学費を出してもらえないこともなかった。恵まれた生活環境だった。殴られもせず、否定もされず、考えを押し付けられることもなかった。生活において、困ったことなんてほとんどなかった。周りを見渡して、平均的に見ても、恵まれた環境だった。だが、しかし、だからといって、それがなんだというのだろうか。

***

 三者面談のお知らせ。プリントを前に、携帯で電話をかける。三回のコールの後、相手は電話に出た。
『おお、どうした?』
「もしもし。三者面談、なんだけど」
『ああ、いつ?予定送るから、ちょっと待ってな』
 俺の父にしては、新一くんはちょっと若すぎるんだけど、小さい頃から三者面談は新一くんだったから、もう俺も新一くんも慣れたものだ。それに、教師という人間は、母親という存在に比べて父親という存在に踏み込まない傾向にあると思う。新一くんが、真摯な顔で常識的な行動を取れば、二人がどんなに似ていなくても血縁を疑われることはまずなかった。 まあ、そもそも父さんと俺も似てないし。
 三者面談の帰り、恒例行事として喫茶店でサンドイッチを食べた。初めて来た時、俺はオムライスを食べていたのだけど、新一くんから一口もらったハムサンドが美味しくて、それ以来来るたびにサンドイッチばかり注文している。
「それにしても、オレの後輩になるとはなあ」
「うん。まあでもその先、何になるかとかまだ全然決まってないけど……」
「いいっていいって、悩めよ青少年!」
 そう言うと新一くんは冗談めかして自分のアイスコーヒーをチャランと俺のオレンジジュースにあてた。ぐい、とグラスを煽る。なんとなくつられて、俺もストローを避けてコップからゴクリとオレンジを飲んだ。
「大学のこと、お父さんに言ったか?」
「メールしたよ。がんばれ、って返ってきた」
「そっか」
 ハムサンドを齧る。イマイチ味音痴なので隠し味が何だとか全然わからないけど、おいしい。俺が初めてこれを食べて美味しいと言った時、新一くんは曖昧な顔でよかったねと笑った。その笑顔の意味を、俺は知らないし、聞かない。
「そういえばさ、娘さん、何歳になったの」
「先月で九歳。蘭に似てすっげー美人だよ。写真見る?見るだろ?」
「はいはい、見ます見ます」
 スーツの内ポケットから差し出されたスマートホンの画面を覗き込むと、そこにはきゅるんとした瞳でこっちを見ている女子児童の写真があった。
「かわいいね」
「蘭にそっくりだろ」
「うん」
 本当はよく分からないけど、そう言ってみる。そうやって言うことが正解だって、俺は知っているから。
「女の子は父親に似るって言うけど、やっぱり蘭に似てほしいよなあ、少なくとも母さん似の女の子よりは蘭似の女の子のほうが……」
「別に、新一くんに似ても美人になるだろ」
「そう?」
 聞き返して、無邪気に笑う新一くんは、とてもじゃないけどもうすぐ四十になるような男には見えなかった。
「お前も、そっくりだ。あのひとに」
「……え」
 俺と父さんは、百人見て百人が「似ていない」と言うような容姿をしている。血縁どころか、人種すら一緒に見えないような。黒い髪に白い肌。目の形も違うが、ただ一つ、瞳の色だけが全く一緒。それを、よく似ていると形容するには到底無理がある。
「あのひと、って」
 子孫というのは、一人では残せないものなのだ。知っている。
「なあ、知りたくないか。生みの親のこと」
「……お母さん?」
「うーん、うん、まあ。降谷さんがどう思ってるか知らないけど、俺は、お前に、降谷さん以外の家族がいるって知らないことは損だと思うんだよね」
「……俺に、親戚いたんだ。で、それを、新一くんは知ってた」
「ああ」
 親戚。今まで血のつながった家族と呼べる人間は父さんしかいないと思っていた。父さんがある日ぱったりと死んだら、俺は天涯孤独となるのだと。家族。父親以外の、家族?
「どんな人なの。その、親戚って」
「……あのさあ、……今まで、降谷さんが嫌がりそうだから何も言わなかったけど。一度、会ってみないか」
 眉間にしわを寄せて、悩みながら、しかしあらかじめ考えていた台詞のように、その年上の男は言った。
「なんで、父さんは拒否するの」
「さあ……。降谷さんと結構長い付き合いだけど、俺も、あの人のことはよく分からない。特に感情的なことなんて、基本的に絶対見せようとしないだろ」
「ああ」
 覚えがある。意地悪でも警戒でもなく、そもそも感情がないみたいに感じること。よくある。
「で、どうする?俺は、どっちでもいいとは思うけど、選択する権利までお前から奪うことはないと思う。もう、高校生になったわけだし」
 あの時の俺も高校生だった、と独り言のようにつぶやく。
「……考えとく」
「うん。なんでも相談に乗るから。あ、でもできれば降谷さんには言わないでほしいかな……いや、言ってもいいんだけどさ」
「言わないよ」
 父さんに言ってみて、会うなと言われるのも、会ってみろと言われるのも怖かった。でも、たぶん一番は、「好きにすればいい」と恐らく父さんが言うであろう台詞を吐かれるのが怖かった。
 愛情の反対は、無関心。確かにそうだと、俺も思う。

***

 夜の十一時、リビングでテレビを見ていたら、玄関の扉が開く音がした。聞こえない足音。リビングの扉が、ゆっくりと開く。
「おかえり」
「……ただいま」
 電気が付いていたのだから、俺が起きていることなどわかりきっていただろうに、父さんはまるで驚いたみたいな顔をした。
「久しぶり」
「ああ、……うん。学校、どう?」
 聞きながらネクタイの紐を緩めたが、ダークグレーのスーツのジャケットすら、脱ぐ気はないようだった。家に帰ってきたというよりも、知人の家に用件を済ませにきた、みたいな。ひさびさに会った父の髪はボサボサで、顎にはうっすらと髭が生えていた。まるで知らない大人みたいに。俺は昔から知らない大人とばかり過ごしていたから、むしろ見慣れているような気もした。
「別に。普通だよ。元気」
「そっか」
 よかった、と口の中で呟いていたような気がするけど、本当にその音だったのかどうかは自信がない。
 見ていた番組が終わって、テレビはニュースを流し始めた。国内の大規模なテロ事件から二十年。最近はその話題でもちきりだった。
「暑い?」
「いや、そんなに」
 答えると、父は開いていたベランダへ続く窓から外へ出ると、そのまま閉めた。夜の闇にぽつりと頼りない明かりが一粒浮かぶ。ライターの火だ。父が煙草を吸っているのを見るのは初めてだった。閉ざされたガラスの向こうからにおいは少しも伝わってこない。口から吐き出された白い煙が風に流されて消えていくのを、ただなんとなく目で追っていた。
 そのままいくらかの時間が経過して、父は火のついたままの煙草を持って部屋の中へ入ってくると、リビングの机の上にいつも置きっ放しになっている灰皿に押し付けた。その時漂ってきた臭いは、銘柄なんて分からなかったけど、何故だか少し懐かしいような気がした。
「ちゃんと睡眠しろよ」
 それだけ言うと、父は家から出て行ってしまった。煙草を吸うだけなら、家じゃなくたってできるだろうに。とってつけたような台詞なら、無い方がいくらかマシだ。
 噛んで潰された、紙煙草のフィルター。それを見ながら思う。暗闇を背景に、リビングの蛍光灯に照らされる金色の髪。濃い色の肌。煙草の吸殻。
 これがあれば、DNA鑑定ができるなあ。


 俺が初めて父さんに会ったのは、しとしとと静かに雨の降る梅雨の日だった。その時お世話になっていた女の人に、たくさんのビルの中の一つの、会議室のようなところに連れて行かれた。その後その人は「ここで待ってて」と出て行ってしまい、俺は一人ぽつんと椅子に座っていた。廊下の人通りもなく、ただクーラーの稼働音だけが鼓膜を揺らしていた。あまりにも暇で、覚えたての平仮名で自分の名前を空中に何度も書いていた記憶がある。
 リズムの早い革靴の音ともに、その男はやってきた。今考えれば、わざと足音を立てて歩いていたんだなと思う。父さんは歩くとき、いつも足音がしないから。もうほとんど、無意識みたいに。
「はじめまして」
 そうやって美しく、あまりにも完璧に微笑んだその男を見て、幼い俺は綺麗な人だなとどうでもいい感想を抱いた。
「だれ?」
「きみの……父親だ」
「……おとうさん?」
「うん」
 その時俺の頭に浮かんだのは、ピンク色の「バーバパパ」だった。だから、たとえ俺とその人が全く似ていないとしても、父親だというその人の言葉を驚くほどすんなり受け入れることができた。
「お母さんは?」
 黒くて、お団子頭のバーバママのことが頭に浮かんだ。
「お母さんは、いない。俺だけ」
「ふーん」
 初めましてと言うからには、きっとほとんど初対面に違いないのだろうけど、それでもどこかやっぱり懐かしい感じがした。
「ねえ、君は……○○さん(その時お世話になっていた女の人の名前。もうさっぱり覚えていない)のところにいる方がいい?それとも、俺と一緒に、暮らす?」
 父親と聞いても、一体父と子とは何をするものなのかよく分かっていなかったので、それを聞いて俺は驚いた。でも、返事の言葉はすんなりと出てきた。多分、なにも考えていなかったんだと思う。
「うん」
 ぼくのバーバパパは、うれしそうな顔もせず、ただしずかに「ありがとう」と言った。

 父親と暮らし始めても、ぼくの生活はあんまり変わらなかった。放課後は、小学校の子供を預かってくれるところ、いわゆる学童保育というやつで六時まで過ごした。そのあとは、お父さんが頼んだ、親切な他人がむかえにくる。親切な他人はたくさんいた。若くて可愛いお姉さん、肩幅の広い男の人、それから新一くん。ごくたまに、お父さん。
 五時半。予定よりも少し早い時間。めずらしくお父さんが迎えに来た。その時ぼくはひたすらにドミノを並べていたから、その成果を見せてあげようと思った。
「おとうさん、見てて」
「うん」
 先頭のドミノを人差し指で倒すと、並べられたドミノは一斉に倒れた。ところどころ、隙間を開けて並べ過ぎたところはちゃんと倒れてくれなくて、そのたびにちょっと手助けしてあげて、そうやって三時からずっと並べていたドミノは全部倒れた。
「すごいな。一人で並べたのか」
「ううん。ヒロと一緒にやってたんだけど、四時で帰っちゃった」
「そっか。遅くなって、ごめん」
「全然。全然待ってない」
「……帰り、ファミレスで食べて帰るか」
「うん」
 ぼくは、お父さんが少し遠くのファミレスに行くために乗せてくれる白くてカッコイイ車が大好きだった。それを、お父さんは、ファミレスのハンバーグが好きなんだと、ずっと、勘違いをしている。


***


 新一くんに連れていかれたのは、都内の綺麗なマンションだった。一階のインターホンにて、新一くんは慣れた手つきで部屋番号を入力すると、聞こえてきたはい、という声に「工藤です」と淀みなく応答している。どうぞ、答えたのは、やや低くハスキーな女の人の声だった。二人で、黙ってエレベーターに乗り込む。音もなく静かに上昇して行くエレベーターは、なんとなく現実離れしているように感じた。
 部屋の扉の前で、新一くんが、インターホンを指差して「お前が押せ」と言う。なんでわざわざ、と思ったが、反抗するほどのことでもなくて、人差し指でそのボタンを押した。
 ガチャリと扉を開けて出てきたその人は、おばあさんと呼ぶには瞳が爛々と輝きすぎて、お母さんと呼ぶには父と歳が離れすぎていた。そもそも父は何歳なのか。物心ついた時から、父の顔はあまり変わっていないように思える。化け物か?閑話休題。
「ああ、こんなに……」
 女の人はそれきり黙り込んでしまって、俺は自己紹介をするタイミングを失った。俺の後ろから新一くんが声をかける。
「お久しぶりです。とりあえず、中入ってもいいですか?」
「ああ、どうぞ」
「ありがとうございます。ほら、入れよ」
 スリッパはあらかじめ二足用意してあった。緑と水色。俺は水色の方を履いておじゃましますと中に入った。後ろからは新一くんが緑色のスリッパを履いて付いてくる。
「座ってくれ、今、飲み物を……コーヒーでいいか?それとも、紅茶?」
「いえ、あの、コーヒーで」
「わかった」
 新一くんの元には、何も言わずにアイスコーヒーが置かれた。やはり、この人と新一くんは昔からの知り合いらしい。たぶん、工藤新一は、俺がだれの子どもなのか知っている。
 女の人は、俺の前にもアイスコーヒー、それからミルクやらガムシロやらなんならを置いて、自分の分のホットコーヒーも机に置き、向かいのソファに座った。この人と自分の顔との共通点を探そうとしたけれど、よく分からなかった。似ているような気もするし、全く似ていないような気もする。
「はじめまして。私はあなたの親の親、つまり祖母だ」
「……え」
 親戚、と言ってはいたが、もう少し遠い繋がりだと思っていたのだ。少なくとも直系血族とは思っていなかった。もう一度よく見る。やっぱり、自分と似ているかどうかはよくわからない。ただはっきりと、父さんと似ていないことだけは分かった。
「あなたは……母の母?」
「……違う」
 それきり黙り込んでしまったので、俺は、この人は何もかもを話す気は無いのだと悟ってしまった。いつもそうだった。高校生になっても自分は、大人の勝手な都合に振り回される力無い子どものままだった。
「覚えてないと思うけど……昔、あなたと一緒に暮らしてたことがあるわ」
「え」
 もう一度彼女の顔をよく見る。色素の薄い髪に、オリーブの瞳。ハスキーな声。
『でもいちばんのなかよしはきいろちゃん』
『あおくんと きいろちゃんは うれしくて もう うれしくて
うれしくて』
『とうとうみどりになりました』
 ゆっくりと、すこし低い声で読まれる絵本を、すこし思い出した。その声はひたすらに優しくて、俺は本の内容よりもその声が聞きたくて、読み聞かせをせがんでいた。
「あなたのこと、すこし覚えてます」
「そう」
 コーヒーを一口飲んだ。別に美味しくも不味くもない、ペットボトルのコーヒーの味がした。
「私からあなたにすべて話してもいいけど、それじゃ意味がないと思うから。でもいい加減、向き合うべきだと思う」
 俺に言っているのに、話し相手は俺じゃなかった。だから相槌も頷きもしなかった。
「連絡先を交換してくれる?」
「はい」
 今度は間違いなく俺に対しての言葉だったから、間髪入れずに答えた。スマホを取り出して、アドレスを交換する。登録された「メアリーさん」の名前は、やはり聞き覚えがあった。
「君には、幸せになってほしいんだ」
 それが、本当に自分に向けられた言葉なのか。俺には判断できなかったから、ただ黙って、それから五度くらい首を動かして頷いた。


「ただいま」
 家に電気がついていた。でも鍵は開いていない。それでも居るのだろうと思って、ドアを開けながら言った。
「おかえり」
 こっちを見ないまま、父さんは言った。窓の外を見つめたまま、琥珀色の液体を飲んでいる。外は暗いから、きっと窓ガラスにはその変わらず整った顔が映っていることだろう。
「何飲んでるの」
「ライ・ウイスキー」
 酒の種類なんて詳しくないから、それがどんな酒なのかはちっとも分からなかった。
「美味しいの?」
「…………嫌い」
 父さんが、好きとか嫌いとか、そういう個人的なことを言うのを初めて聞いたかもしれない。昔から、自分のことは決して語らない人だった。だから俺は、未だにこの人のことがちっともわからない。
「俺のことは?」
 魔がさしたのだと思う。そんな、怖いこと聞くなんて。好きじゃないと言われるのも怖かったけど、多分父さんはそんなこと言わなくて、一番怖いのは、美しい笑顔で好きだよと言われることだった。正解が欲しいわけじゃない。ただ、知りたくて。
「わかんない」
 それを聞いて、ただ安心した。こちらを振り返った父と、目が合う。おんなじ色の、マリンブルー。父さんが何を考えているのか、さっぱりわからない。
「……だからお前も、俺のこと好きじゃなくていいよ」
 どうして。そんなことが、言えるんだ?どうして。
 ポケットの中でスマホが震えた。メール。確認する。『また会ってくれるか』今日交換したアドレス。俺は、『もちろんです』と返した。
 今日のことについて、父さんは何も聞いてこなかった。


 それから数日後に、DNA鑑定の結果が届いた。鑑定結果送信先の住所を、近くのコンビニとか郵便局にするか迷って、結局自宅に届くようにした。隠しても、どうせ父さんにはバレるのではないかと思ったからだ。
 郵便受けを覗くと、A4サイズの鶯色の封筒が入っていた。自分の部屋に行き、制服のままで机の前の椅子に座る。封筒の底をトントンと机に軽く叩き、光に透かして上の方に書類が入っていないことを確認すると、手で破いて開けた。
 結果は、99%以上の確率で、血縁関係のある親子だと、そう書かれていた。つまり、どうやら、俺の遺伝子の半分は降谷零から受け継がれたものらしかった。これが父に偽造された書類である可能性も考える、あるかもしれないし、ないかもしれない。だが、そうだとしたら、俺にはもうどうしようもできない。だからこれが真実であるとそう考える。こういう結果が出たならば、きっとそうなのだ。そういうことなのだ。真実は別に一つでなくてもいい。
 全く似ていないけれど、俺の半分は父さんからできていた。じゃあ、あと半分は?
 父さんは、俺のことが好きじゃない。なのに、どうして産まれてきたんだろうか。どうして、生きているのだろうか。


 剣道の防具は重い。学校の練習ならば持ち帰る必要はないが、試合となるとそうはいかない。重い防具袋と竹刀袋と容量重視の水筒を持って、やたらと山の上にある他校の体育館まで、朝の満員電車を圧迫しながら運んでいく。大抵は試合へ向かう道でまず一回疲れる。そして車で会場まで来ている顧問を恨めしい目で見やったりする。
 中学生の時は、試合の帰りは駅まで迎えにきているチームメイトの保護者の車によく乗せてもらって、快適に家まで帰った。その家は母親がやや過保護で、部活によく差し入れを持ってくるような人だった。しかし高校生になると、家が近い同級生はおらず、試合後の疲れた体を引きずって無駄に重いお荷物たちを家まで歩いて運んだ。家に帰ってそれらを降ろす時に乱雑になるのは許してほしい。一度だけフローリングに傷をつけたが、何も突っ込まれていないので良しとする。まあそもそも、今まで怒られたことなんてほとんどないのだけれど。
 玄関で荷物を降ろしてへばっていたところで、ブーンブーンと規則的なバイブの音が聞こえた。防具袋のポケットに突っ込んだのは覚えているけど、どのポケットに突っ込んだのかは忘れた。あちこち手を当ててみて振動を探す。ずっと鳴ってるから、メッセージじゃなくて電話だ。探す手がすこし焦る。ペタペタと胴を触ってみたとき、手先に震えが伝わった。見つけた。結局、垂れネームの中に入れっ放しになっていた。
「はい」
『もしもし。私は君のお父さんの関係者だ。今周りに誰もいないか?』
「え」
 知らない番号には、極力出るようにしている。いつ、どんな相手から電話がかかってくるか分からないから。
『今いるのは家だな?一人か?』
「自宅、です。ひとりです」
『これはお父さんからの伝言だと思って聞いて欲しい。君は確認する必要がある。そうだな?台所の貯金箱の中に一枚だけ入っている十円玉は昭和五十七年のものだ。確認してくれ」
 電子レンジの陰にある、豚の貯金箱。よく見るやつ過ぎて、いっそ珍しさすら感じるデザインのそれ。開けるフタはないので、割るしかない。適当な紙袋の中に入れ、使ったことがあるのかもわからない工具セットの中から取り出したハンマーで叩き割った。割れた陶器の破片は危ない、と知っているはずなのに、なぜか注意する気が起きなくて、無造作に紙袋に手を突っ込む。案の定、右手の人差し指の先にひとすじ赤い線が走った。それをどうにかする気も起きなくて、そのまま十円玉の捜索を続ける。少し探すと、銅の鈍い光を見つけた。左手で拾い上げる。裏返すと、昭和五十七年と書かれていた。
「確認しました」
『よかった。これは君のお父さんから聞いたんだ。君のお父さんと知り合いであることを、信用してもらえるように』
 手の込んだことを、と思う。あまりにも手が込みすぎて、逆に騙されているのでは?というような気もしてくる。まあでもここで疑ってみても何も始まらないし、父さんのやりそうな面倒くささも確かに感じた。
「用件は、なんですか」
『本当は、これは、君に言う必要のないことだ』
 それまで淀みなく話していた電話の主から、少し躊躇するような雰囲気を感じた。ひとことひとこと、噛みしめるようとゆっくりと話す。
『お父さんからの伝言だと言ったが、本当は違う。頼まれたわけではなく、私の独断で話す。そう思って、聞いて欲しい』
「はい」
 バァン、と、外から大きな音が聞こえた。一発の大きい音の後は、バシンバシンと連続した音が、電車の通る音のように聞こえる。花火だ。姿形はみえないけれど、花火の音が、どこかから聞こえる。
『お父さんが、意識不明の重体だ。いつ死んでもおかしくないような怪我をして、病院に運ばれた』
「……え」
 部屋の中で一人で聞く花火の音に、昔の記憶が蘇る。姿は見えないその音が、孤独を重ねるようで寂しかった。花火を見に行きたかった。でも、一人で行くのは嫌だった。俺はまだ小さくて、子どもだけで夜に遊びに行けるような年齢ではなかった。だから、フローリングの床の上で寝っ転がりながら、そっと花火の音を聞いていた。冷たい床は、体温を吸い取って段々と温くなっていった。それでも、クーラーもつけずに、閉め切った部屋の中で、花火の音を聞いていた。ずっと。終わるまで。
 いつか、こんな日が来るんじゃないかと、ずっと思っていた。突然現れたお父さんだから、ある日、急にいなくなってしまうのではないかと。ずっと、思ってた。
 父さんを好きなのかどうか、俺も分からない。



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