ひげよさらば
「うおーーー?!」
突然、洗面所から純の尋常ならざる雄叫びが聞こえ、思わず私はテレビから顔を上げた。
そうか、ついにこのスピッツハウスにも奴が現れたか。取るものもとりあえず、棚からスプレーとハエたたきを取り出し純のもとへひとっ飛び。あんないかつい顔で奴がこわいだなんて、純も意外に可愛いとこあるじゃないか。
「純ー! 応援にまいったー!」
「あ?」
「あっ?!」
けれどそこには、奴と必死に対峙する純ではなく、カミソリ片手に固まる情けないスピッツがいた。シェービングフォームで泡だらけの顎は、もふもふのスピッツの毛を彷彿とさせる。
「えーと、どうしたの?......その顎。スピッツごっこ?」
「ちげーよ。ちょっとやっちまったんだよ。つか、スピッツごっこってなんだよ」
「さぁ」
困ったように眉を下げる純の顎のヒゲは、その半分が姿を消していた。
「テメェ、いつまでも笑ってんじゃねぇよ!」
「ぷっ、くくく。......だってさ」
「あーあ、いつもみたいに電気シェーバー使っときゃあよかったぜ」
「慣れないもの使うからだよ〜」
小さいソファに二人で腰かけて、今から純の“ひげよさらば会”だ。高二からじっくり育てたヒゲよさらば。さらば。
「もともと純はヒゲ濃くないんだから、いつもので十分なのに」
「チッ、たまには気分変えたかったんだよ!」
深剃りできると、大学の友達に勧められるまま普段使わないT字とI字カミソリを懸命に駆使した純は、ものの見事に失敗し、自慢の顎ヒゲを失ってしまったのだ。半分は生きていたものの、さすがに形がおかしいので結局すべて剃ってしまった。
「そういえば高三の時、増子くんもそんな失敗してたよね」
「あー、アタッチメント間違えたやつな」
「そうそう」
「......今ならあいつの気持ちが痛いほどわかるぜ」
純がむすりと口許を歪ませている。けれど、そんな苦い表情ですらヒゲがないのでどこかマヌケに見えてしまう。
「やっぱりヒゲないと幼く見えるね」
「くっそ......! だー、なんか落ち着かねー」
そう呟きながら、純はしきりに顎を触っている。当のヒゲはもうないというのに、長年のクセなんだろう。
「なんか高一の時の純みたいだね」
「あー、そういやあんときはヒゲなかったな」
「......なんか可愛い」
「あ?」
純は困惑した面持ちで私を見つめた。まるで出会った頃に戻ったようで、なんだかとても新鮮な心地がする。
「“伊佐敷くん”」
私がそう呼ぶと、純ははっとしたように目を瞬かせた。
「懐かしいな。そういや最初の頃はお前、そう呼んでたんだっけ」
「うん。出会った時から強面だと思ってたけど、ヒゲ生やした時はさすがに組の鉄砲玉かと思ったよ」
「なまえ、テメ......」
「ははは。......あ、そういえばヒゲなかった頃は付き合ってなかったんだよね」
「おう」
私は目の前の純の顎へと手を伸ばした。今や何もないそこは、剃りたてでつるつるしていた。しばらくそこを集中的にすりすり触ってみる。
「な、なんだよ......」
私があまりに熱心に触るものだから、純が照れて赤くなっている。
「つるつるで気持ちいいね。キスする時、短いヒゲが当たって痛い時あるから、ちょうどよかったかも」
「当たってたのか? そりゃ悪かったな......」
「ううん」
その時ちょうど、私たちの視線が絡みあった。視界の中の純の瞳に、わずかな熱が宿りはじめる。案の定、すっと手を伸ばして私の髪にやさしく触れた。そのままゆっくり、その手は後頭部へと移動していく。ヒゲのない、ちょっとだけ幼いその顔が、徐々に私へと迫ってきたので、胸の高鳴りが抑えられなくなる。
雰囲気が変わるだけでこんなに緊張するなんて! まだ心の準備ができてない!
焦った私はその顎を思いきりぐいーっと押しのけた。
「“伊佐敷くん”とはそんな不純なことしません!」
「おい!!」
照れかくしのためにしたことだけれど、“伊佐敷くん”への焦らしプレイは、なかなかクセになりそうだ。