04

 国内にはあまり流通していなかったドラッグが、この数日で若者を中心に流れている。それだけでなく、未成年が家に帰らないという通報も相次いでいた。ドラッグが原因で何かが起こっていることは間違いない。
 警察は出回っているドラッグ自体は回収できなかったようだが、ヨーロッパで流通しているものに症状が似ているという情報を入手したため僕はイゴールを訪ねた。公安の案件ではないが、ゼロを辞めた今は以前ほど扱う案件を取捨選択する必要がなくなっている。
 そんな僕を出迎えたのはネオン街の大通り、新装開店を祝うクラブだった。
「よーおバーボン! どうだ俺のクラブ、アジア一号店だ!」
 上機嫌に言い放ったイゴールは僕が扉を潜るなり肩を組んできた。早くも女性に囲まれて、権力者らしい堂々たる振舞いでその腰を抱いている。
「こんばんは、お兄さんは彼のお友達?」
「こんばんは。友達……というよりも同僚といった方が近いかもしれませんね」
「ふうん……じゃあ、お祝いのためにお店に来てくれたわけじゃないのね」
 華美な見た目に反して落ち着いた話し方をする女性だ。そう考えていれば、イゴールの反対側を陣取った別の女性が彼を問い詰めているのが聞こえる。
「ねーってば、私のこと彼女にしてくれるの? それともしてくれないの?」
「ンー? なあこの子さっきからなんて言ってるんだ? 日本語は少ししかわかんなくてさあ」
 幼稚に怒ってみせる女性をなんてことない顔をしていなす彼に呆れた。日本語も話せずによくクラブを出す気になったものだ。
 英語は世界共通語などと言われることもあるが、真偽はさておき少なくとも日本人に外国語を話せる人はそう多くはない。形ばかりの英語教育は実際に日常生活で使用することを想定していないのだ。
 実情を知ってか知らずか、彼自身がビジネス上の必要に駆られたマルチリンガルだからか、頬を膨らませた女性に対して英語で話しかけ続けるイゴールに溜息を吐く。
「恋人にして欲しいそうですよ」
「ああ、そう言ってたのか。イイヨー」
「……」
 すかさず頬にキスをする様は実にイタリア男らしい。日本にない文化を目の当たりにしながら黙っていれば落ち着きのある女性が英語で「彼、仕事の話で来たんじゃないの?」と口にした。店を操業するにあたりこの女性の力を借りるつもりでいることが説明されなくとも察せられる。
 ようやく僕が来訪した目的を思い出したのかイゴールは腕に絡みついた女性を引き剥がして追い払う。今日は開店前だから俺の金で好きに遊んでくれと言えば、通訳によって彼の言葉を聞いた女性たちは喜びで沸いた。
 イゴールはカウンターの中へ入る。すらりとした長身は背の高いカウンターでは隠せないようだ。棚からシャンパンを取り出して中身を片手に持ったグラスへ注ぐ。
「君も飲むだろ」
 そう言って差し出されたグラスを一応は受け取った。
「で、話はなんだ?」
「あるドラッグが新宿の外れで回っているんですが、それについて少し……」
「いいね、俺以上にドラッグに詳しい男はいない。何でも聞いてくれ」
「オピオイド系で先週の頭から市場に出されたようです。出元はわかりますか?」
「……ソイツは俺の薬だ!」
 カウンターに身を乗り出し、真剣な表情だが挑戦者のような高揚も見せながら耳を傾けていたイゴールは、やられたとでも言いたげなオーバーな身振りをする。箸が転がるだけでも楽しい時期でもあるまいが、彼は声を立ててしきりに笑った。
 僕はといえば、今度こそ眉を顰めざるを得なかった。ここへ来たとき、彼は僕を見て一瞬だけ動きを止めた。決して新装開店を祝う好意的な態度ではなかったことから、概ね僕が彼を訪ねた理由を察していたはずだ。
 それなのに人を食うような態度を改めない。それが、彼自身の僕に対する評価を如実に表している。彼は僕を──バーボンを内心小馬鹿にしている。
 僕の視線に笑いを止めると、イゴールはわざとらしくたっぷり思案してみせた。
「……何か問題があったか? 俺は元々アジアでビジネスを拡大させるためにあの話に乗ったんだが……」
「当然、ありますよ……貴方がたは僕の意向を尊重するはずがこの件は僕の耳に届いてもいない。僕が独自に情報を得るまでね……」
 怒りから自然と声のトーンが落ちる。イゴールはこちらを軽んじる気配を隠しもしないまま鼻で笑った。
「勘違いしてないか? 俺たち組合の人間はあくまで協力するだけだ、互いのビジネスをより良くするために利用しあうだけだ。君は俺たちにブランドを与えるための顔で、君には情報ネットワークの拡大という十分すぎる見返りがある……」
 つまり僕と組合の人間は対等だとイゴールは話す。会食で僕を持ち上げたのはあくまで組合に属する者として、他の参加者に向けて体裁を整えただけだったのだろう。
「だからボス面されるのは困る」
 シャンパンをぐいと飲み干して、イゴールは空のグラスを振り回して見せた。まるで考えの足りない人間に対して優しく手ほどきをしてやったかのような顔だ。
 組織の幹部だから顔を立てられたといって、彼らが僕個人を敬っているわけではないことは理解している。金儲けのために互いを利用しあうことを初対面のときからはっきり名言した目の前の男はなおのことそうだろう。
 だが、イゴール・ボセという男は嘘をついている。
 彼はビジネスという建前の裏で新たな闇の王になろうと画策していた。ヨーロッパの夜を統べると豪語するほど権威に固執する派手好きの男が、ビジネスの利点だけを見て組織に身を置くはずがない。
 組織残存時代に純粋なビジネスだけではのし上がれなかったからこそ、彼は新たな統率者に成り上がる組合に迎合した。黒ずくめの組織に対してコンプレックスを抱えているのは見抜いている。彼は僕を出し抜いたつもりなのだ、組織の幹部だったバーボンを。
 態度を隠さなくなったのは僕よりも優れていることを実感したいからなのだろう。もしくは、僕を挑発して何かを得ようとしているか。
 ただ、僕は日本人の血が混じるためにヤワに見られ、侮られることには慣れていた。
「勘違いしているのは貴方だ」
 わかっていないのはどちらだろうな。動揺しない僕をイゴールは目を細めて見た。
「日本にはすでに薬物のルートがある。外国からの観光者に突然市場を荒らされてはかなわない……ここで商売がしたいなら手順を踏んで彼らとしのぎを削らなければ」
「それは日本のヤクザの話か? ヤクザってのはお行儀がいいんだな、みんなで平等に稼ぐのか。俺の国じゃ競争相手は蹴落とさなきゃ生き残れないぜ」
「……貴方は日本がどういう国か知らない……」
 アジアでのビジネス拡大を狙う割には不勉強なものだと笑ってしまう。思わず零れたそれにイゴールは不快を滲ませた。カウンターに備え付けられたイスに腰掛けると、革と衣服の擦れる音が僕たちの間に響く。
「教えてあげますよ……日本のヤクザは本拠地が警察に割れているんです。日本国民は物心つく頃には彼らが犯罪者であることを知って生きていく。だが彼らは犯罪者と指を差されながらも民間人と共生している。彼らは民間人に直接手出しをしない、だからこそ物的証拠と共に現場を押さえられない限りは生きるだけで悪だとわかっていても処罰されないんですよ。暴排条例は存在しますがね……」
「それは日本の警察が無能だって話か?」
「いいえ、規律を守る限りは犯罪者の人権も守られるという話です」
 いまひとつ要領を得ない顔をしているイゴールに口を閉ざすことなく続ける。
「随分と解体され規模も縮小しましたが、ヤクザが日本でほぼ独占的にその地位を確立したのには色んな理由があるんです。その一つを僕も重宝しています」
「……」
「彼らは日本全国に根を張っている。地域に密着した組織力は情報収集の際にすごく有用なんですよね……。彼らはとても義理堅い、そういう性質だからこそ僕たちの組織に好まれ、社会からの決定的な排斥を受けなかった。中には、僕たちの組織とも密接にしていた組もあります、彼らとの信頼は崩したくありません。……それなのに貴方が彼らの庭を荒らす。組合のトップメンバーという称号を引き下げて、僕の顔に泥を塗りながら……」
「……!」
 組合の内情は組合に属する人間にしかわからない。外部の人間は、組合という新興勢力を僕の顔とビジネスの結果でしか判断できないのだ。僕が組合のトップであると大々的に謳われている現状では、日本のドラッグディーラーやヤクザたちの目にはバーボンが自分たちの仕事を奪いにかかったようにしか映らないだろう。
 イゴールは、自らの行動に問題があったことにようやく気づいたようだ。
「僕は情報屋で、情報屋はその性質上信頼を何よりも大事にします。だから僕は貴方を従えようとしているんじゃない、僕を攻撃するイタリア人をどうしてやろうかと考えているんですよ……」
 殺気を飛ばすまでもなくイゴールは顔を青ざめさせた。口元は完全に引き攣っている。
 仮にこの場で銃を引き抜いたとして、彼の陣地に単身で乗り込んできた僕には、数人の女性を巻き込みながら良くて彼のボディーガードを数人道連れにして倒れるのみだ。状況は圧倒的にイゴールが優位に立っている。
 だがイゴールは焦っていた。自分が日本について無知であるという事実を突きつけられ、ヤクザが黒ずくめの組織と古い付き合いがあると知った。さらに僕から報復に来たと脅されれば、僕が何かしらの準備を済ませてやって来たと考える。たとえ僕以外の姿がなくとも警戒してしまうというわけだ。
 解体された犯罪組織の幹部だと僕を軽んじていても、やはりあの強大な犯罪集団の威光は今も根強く印象に残っているのだろう。
 誤魔化すように零された笑い声は掠れていた。せっかく裏社会を支配しようと足を踏み出したはいいが、少し勝手を間違えただけで人生を終えるのは惜しかったのだろう。しかもこんな僻地≠ナ野垂れ死ぬような真似はしたくなかった。
 無理に作られた友好的な表情からは彼の心境がありありと見て取れる。
「わかった、悪かった……言われてみれば、君たちの組織に対する侮辱行為でもあるか。俺も偉大な先達を貶めたいわけじゃない……君のボスは日本人だったな、ボスを立てるってのも尊敬するぜ。日本からは手を引くことにするよ」
 少なくとも今は。そんな副音声が聞こえた気はしたが、ひとまず撤退させることができるのならいい。彼の手綱を握るためには今後も注意深く観察していく必要がありそうだ。
「そうだ、この店も好きに使ってくれ! 何ならそのヤクザに挨拶代わりのプレゼントなんてはどうだ?」
「……それはいいですね。ぜひそうしましょうか」
 険しい顔になっていたのか、少しも懸念が晴れないと受け取ったかのようにイゴールの焦りは消えず、取り繕うように最後のダメ押しを口にする。
 穏やかな声で返せばあからさまに安堵された。渡されたシャンパンにようやく口をつければ、気を緩めた彼は僕の顔色を窺いながら尋ねてくる。
「海を渡ったお隣さんでもビジネス禁止か?」
 日本が海洋国家である以上、どの国を指して隣国と言っているのかはわからないが、少なくともアジアであることは間違いない。アジアでドラッグを捌くとなれば日本への影響を完全に断つことはできないが、制限ばかり課しては不満を募らせるだけだろう。
 何事も信頼が鍵だから博打に出るのはやめるように、と釘を刺してから承諾すればイゴールは素直に頷いた。

 翌日、イゴールから連絡が入った。ある人物が組合に依頼の打診をした、というものだった。昨夜の脅しが効いたのは明らかだ。
 組合に接触してきた相手はゼウスの役員だった。
 警備企画課が敷いた警戒態勢により、国内への荷運びはもちろん出すことも叶わなくなっている。そのせいでゼウスは航路を変更し、荷を一時的に大陸へ運んだらしい。隣国で伝手を探していたところヨーロッパで名を馳せるイゴールの滞在を聞き、組合と呼ばれる新興勢力の存在を知って依頼してきたようだ。
 あちらから接触してくるとは幸先がいい。ただ、ゼウスのような小企業の存在を把握している理由を悟られないために、経緯を話すイゴールには努めて気がないふりを続けた。
『日本でのビジネスには気をつけるべきだと先輩としてアドバイスしてあげたのさ、君の名を出してね。そしたら直接挨拶がしたいと畏まっていた……あれは何かある』
「彼らに会うべきだと?」
『さあ……でも金の匂いはした、何かイイものは持ってそうだ』
 気乗りしない返答をした僕に対してイゴールは会うべきだと仄めかした。金銭に鼻の利く彼が言うのであれば、ゼウスの企みは僕の想像を超えてくる可能性を孕んでいる。
 組合の人間伝いに情報を集めるのが得策なため僕が出向くつもりは更々なかった。僕の顔が割れれば彼らの行動を探る方法も制限される。
 だがあちらは僕を知っているばかりか僕に会いたいと言っている。ここで僕が断ればそれが組合の意思として伝わり、もしかするとゼウスとの縁自体も切れてしまう可能性が出てきた。つくづく思い通りにならないイゴールに内心舌打ちする。
 こうなれば、ゼウスの役員が僕と話したがる理由に賭けるしかなくなってくる。バーボンに対して好意的な印象を抱いているのだとすれば、あちらの意図によっては、顔を合わせた方が深部まで内部に入り込める可能性はあった。情報を掴めるのなら多少の危険も冒さなければならない。
『どうする? 君が会わないって言うなら、もちろん俺はボスの意向に従うぜ』
 彼らが研究開発の拠点を日本へ移そうとしている理由は未だに謎だ。やはり情報が集まってこないという不安が僕を駆り立てた。バーボンの名を聞いたゼウス側が僕に会いたがっているという話も気にかかる。
 会話の中で探りを入れてみるか。イゴールにゼウスの役員と会う約束を取り付けるように指示を出して通話を切った。休むことなく今度は彼女に繋がる番号を呼び出す。
 ワンコールで繋がった相手に尋ねた。
「僕だけど、今いいかな」
『大丈夫。例の件?』
「ああ」
 通話という、内容を傍受されやすい媒体を介して情報共有を行う場合、通話を受ける側に問われる「通話は可能か」は盗聴の疑いはないかという確認を意味する。
 盗聴の危険よりも情報伝達をしなければ状況が許さない場合もありはするため、そういう場合は別途合図を出すように決めているが、今回はそれもなくスピーカー越しの彼女はいつもどおりやわらかな声音で応答した。
「過程は飛ばして話すが、ゼウスの役員にバーボンとして会うことになった。輸送に関わる人物だから計画の詳細も知っているはずだ。探ってみるよ」
『わかった。何か準備するものは必要?』
「いや、いい。あちらは独自の入国ルートも持たない小規模な組織だ、新興勢力を頼らなければならないほどの……。計画の全容を把握する方を優先する」
『そう。……必要ないかもしれないけど、気をつけて。いい結果を待ってる』
 彼女の激励に頬がゆるんだ。ありがとうと口にした言葉が、自分でもひどく優しい声になったことを自覚して少々面映ゆい。
 こんな姿は絶対に風見には見せられないなと思っていれば彼女が暗い声を出した。
『……連絡、頻繁に越すようになったよね』
 彼女の声は悲痛な響きを含ませていて、なんとなくその心情を察した。
『降谷は秘密主義だから……私たちのだれよりも特殊な立場に置かれていたから仕方なかったんだろうけど、降谷が潜入先で何をしてるかは私たちも知らないままだった。昔は私たちとさえ最低限の情報しか共有しなかったでしょう。だから……この変化を喜べばいいのか、嘆けばいいのかわからない』
「今は協力者だから僕には報告の義務がある。……君が言いたいのはそんなことじゃないんだろうけどね」
 たとえ僕が警察庁に在籍していたとしても、国防に大きく貢献した実績が過去にあろうとも、今は国防のために罪を犯しているだけだとしても……僕は今ではただの犯罪者だ。
 報告と連絡を欠かさず、常に警察が僕の同行を把握できるようにしておくこと。これがバーボンという犯罪者を、デルタと称して見逃すための条件だ。国を裏切る気は毛頭ないが、判断基準がなければ僕が国を裏切っていない証拠も作れない。だからこそ、僕は僕が裏切った場合を想定した資料を作成し、黒田管理官に提出してから警察庁を辞めた。
 公安の協力者はすべてゼロに報告され、番号で呼ばれている。だが僕にはそれがない。彼女は当然、デルタの番号を調べたはずだった。管理官に提出した資料を見たかどうかは知らないが、デルタに割り当てられた番号がないことを知って彼女が事態を憂いていることに違いはない。
『……受け入れるって決めたのに、だめだなあ』
 ごめん、としおらしい声がした。あの日、警察庁を辞めてこの道を選んだ僕を受け入れると言ってくれたものの、彼女のままならない感情が綺麗に消え去ったわけでも、乗り越えられたわけでもないことはわかっている。
「気にしないでくれ……君に心配されるのは、正直なところ気分がいいんだ」
 軽口で空気をやわらげてこの会話を終えようとした。すると彼女が電話口で微笑んだ。
『心配なんていつもしてる。だから、本当は連絡くれて嬉しい』
 彼女の言葉は、願望を抜きに考えてもかつての同僚にかけるものではなかった。
 同僚だったときは冷静な言動ばかり見ていた。情が深いことは知っていても、こうまで心を砕かれるのは初めてだ。先日のことといい、彼女の心はもう十分と言えるほどこちらへ傾いていると自惚れていいんだろう。
 だらしなくゆるむ口を押さえるものの、どうしようもなく彼女に会いたくなった気持ちまでは抑えきれなかった。
「もう夕飯は済ませた?」
『え? さっき仕事が終わったばかりだしこれからだけど……』
「やっぱり。君はお腹が空くと弱気になりやすい……揚げ物が食べたいなら作ってあげる」
『……どうして揚げ物?』
「いま庁舎にいるだろう? さっきからテレビの音が聞こえる、昼の録画だ。君は番組のレシピをそのまま作ることが多いようだから、今夜もそうするつもりだったんじゃないかと思ったんだ……」
 警察庁でまま目にした光景を頭に思い浮かべながら言えば、彼女は『……良く見てる』と感心しているのか呆れているのか微妙な声を漏らした。好きな人のことはつい観察してしまうと正直に話したがそれへの反応は沈黙だけだ。
『じゃあ……材料を買って向かうから』
「そうしてくれ。ああいや、君の家で作ろう。ちょうど外に出ていて君の家の方が近い。ハロの散歩中だったから一緒に連れて行くよ……ハロも君に会いたがってる」
 あえてハロも、と言ったことに気づいた彼女はまた通話口で黙り込んでいた。



 会食で組合成立が決定したあと、何名かは活動拠点へと戻って行った。アジアで商売をするべく日本に留まったイゴールも、閉店を余儀なくされてからはすぐアジアの拠点を隣国に移し日本を離れている。
 イゴールから橋渡し役を受け継いだハカムと連絡を取り合い、ゼウスの役員と会う話を進める。あくまで主導権はこちらにあるとでも言うように、ハカムは自身が所有するビルにゼウスの役員を呼び出したと告げた。
 当日、ハカムがリムジンで迎えに来た。運転することを好む僕は自分の車を走らせた方が楽しいだとか、目立つ車で移動しなくともだとかいう感想を抱いたが、何も言わずに車内へ乗り込んだ。
「ゼウスが何を日本に持ち込もうとしているかを探っておくようにと仰いましたが、電話では聞き出せませんでした。社外秘だということで……ですが必要ならば、貴方相手になら話すとのことです。……イゴールから話は聞いていましたが、やけに貴方の話をしたがる。もちろん、かの組織の幹部だった貴方の存在を知れば当然ですがね。それと彼らのような小さな企業が我々の要求する報酬を払えるかが疑問です。彼らはすっかり依頼するつもりでいるようですが」
「おや……貴方はこの取引にあまり乗り気じゃないみたいですね。交渉役を買って出たくらいですから、いい結果に収めてくれるのかと思っていましたよ……」
「ええ、それはしっかり務めさせていただきます。しかし組合は便利屋ではありませんから、相場以下の報酬で受けるつもりはありませんよ。彼らはいわば我々よりもはるかに格下、本来なら話を聞く気にもならない……。ただ貴方を尊敬しているようでしたし、彼らの開発しているものがイゴールの予想通り金になるものであれば、個人的に多少の投資をするもありかと思いまして」
「ビジネスの下見も兼ねて……ですか。頼りがいのある人だ」
「光栄です」
 彼は前を向いたまま鼻高々に言った。
 組合の人間は僕に対して忠実な姿勢を取っている。ハカムはその中でも敬意を伴い僕に従う人間だった。
 彼は僕を裏社会で目にしたことがあると言う。そのとき僕が相手取っていた人間との会話にいたく感動したのだと熱く語られた。彼の生業を考えれば、会話の中で目的の情報を手に入れる僕を見て他とは違った念を抱くのは当然と言えるのだろう。
 彼は自分のビジネスを行うための集団を率いてはいるが、野心を持って自分の版図を拡大させていくタイプではない。権力の庇護下でぬくぬくと利益を増やしていくことを好んでいる。まさに商人という言葉がふさわしい人間だった。
 商人はブランドが好きだ。ブランドの高さは金と権力の象徴だからだ。だからこそ彼は自身も認めた実力と、組織の幹部だったというブランドを持つ僕を半ば崇拝している。
 実に扱いやすい人間ではあるが……。そんなことを考えている間に目的地へ到着したらしい。建物の裏手から案内されて入った廃工場にはすでに人が待っていた。
 ゼウスの役員は名前と顔が判明していたためすぐ見分けがついた。ただ役員の隣には見知らぬ男が立っていた。見るからに日本人だが、事前に彼の存在を知らされていないこともあって目を細める。
 若い男だ。僕よりも五歳ほどは若いだろうか、スーツに身を包んで典型的な営業に就く若手社員という印象を受けた。彼がゼウスとどのような繋がりを持っているのか、彼こそがゼウスの標的が日本になった理由なのかと、僕は男の一挙手一投足さえ見逃すことのないよう観察する。
 僕が若い男の方をねめつけていることに気づいたハカムは顔を緊張させた。
「そこの男は何者だ。お前がこの場に参加することは許可していない」
 険しい声音にゼウスの役員は気づかなかったのか「彼は我々のビジネスパートナーですよ」とにこやかに返した。
「今日ここに連れて来る必要があったのか」
「はあ、それはまあ……彼もこの事業に携わっていますので……。何か問題が……?」
「知らない人間がいては困るのだ。彼の所在が知れてはいけないことくらい君も知っているのではないかね」
「……それでは、貴方が!」
 ハカムは高圧的な物言いをしてみせるが、ゼウスの役員の意識は黒づくめの組織の幹部≠知った途端に視界からハカムを消した。ハカムに睨まれても少しも気にもならないようだ。鈍い男に苛立ちが増しただけのハカムは不愉快な表情を隠さない。
 彼らが頼るべきはハカムだが、できたばかりの新興勢力は権威などあってないようなものなのだろう。僕に対して腰を低くする役員にハカムは冷たく言い放った。
「いいかね、彼は本来ならここへ来なかった。その意味を考えて、今後はこのようなことはナシにしてもらいたい。もちろん、我々を侮るのならば取引はしない」
「ええ、ええもちろん」
 握手を求められたので笑みを作って手を差し出してやればへこへこと頭を下げる。ハカムは幹部を睨み続けているが、僕は彼よりも奥の男が気になっていた。
「……彼の紹介を」
「はい。彼はホンジョーといいます。ブラザー、挨拶を」
「ども、本庄厚人です」
 ノリの軽い挨拶をされる。人当たりのいい笑顔を浮かべている彼を見て、裏のあるタイプではなさそうだと判断する。
「日本に品物を運びたいそうですね。中身を伺っても?」
「我が社の製品です。マイクロチップを生産しているのですが……日本に新しいレーンを設置しようと考えておりまして」
「……そのためだけに日本へ? 日本は人件費が嵩みますし、秘密裏に日本に工場を作ったところで利益はないように感じますが……」
「いえそれだけではなく……実は探し物をしているんです。貴方にお会いしたかったのはこのためでもありまして……」
「探し物……とは」
 すぐ本題に移らないマイペースさに呆れを含んだ問いを投げると隣から本庄が口を挟む。
「物ってか、人っすね。シェリーって幹部がいましたよね……科学部門トップの。バーボンさんたちの組織で逮捕された人間の一覧を持ってるんすけど、そこに名前がなかったからまだこの世界にいるんだろうと思って探してるんすよ」
 シェリー?
 予想もしなかった名前に眉をひそめる。シェリー……宮野志保を探しているという言葉を聞き流すことは許されなかった。想像以上にゼウスと本庄は僕たちにとって危険人物かもしれない。
 どうして彼女を探しているのか。そんな僕の気配を察して本庄は頬を掻く。
「え〜っと、シェリーとは通ってた大学が同じで、こっちの世界でも何度か顔を見たから色々知ってるんですよ。すげえ頭のいい奴だった、って。それで日本警察から逃げられたならちょっと助けてくれないかなあって思って……」
「彼女の助けを得たいこと、というのはゼウスが開発するマイクロチップに関わるものですか? それとも……何か新たな製品を作り出すのに彼女を必要としている?」
「そこはまだ企業秘密なんですけど……バーボンさんがシェリーを探してくれるなら今度また話しますよ」
 人懐こい笑顔を浮かべてはいるが、本庄はこちらを試すような気配を醸し出していた。協力するか否か、そう言外に尋ねる本庄は僕と対等に渡り合うつもりでいるらしい。
 本庄はシェリーや僕がいた組織についての噂は当然知っているようだが、だからといって僕を恐れてはいない。権力を恐れないのは若さとそれによる無謀さ故か、それとも……。とにかく、高圧的な態度に出ても大した効果はないだろう。本庄にどう対応するのがベストかを探りながらどう返答するか悩んだ。
「……シェリーの噂、知らないんですね」
 本庄が僕を試すつもりなら僕も彼を試そう。彼からどれほど情報を引き出せるだろうか、と微笑んでみた僕に本庄は驚いたような顔をした。
「ジンに始末されたってやつっすか? え、あれマジなんすか?」
 うわ〜どうしよう、と頭を抱えた本庄に毒気を抜かれたのは僕だった。
 逮捕された構成員の一覧を見た、という本庄の発言は僕にとって看過できない問題だ。だからこそ彼を警戒したが、この様子を見ればただ物怖じする方法を知らないだけの小者のようにも映る。
「どうするんだブラザー、彼女は計画の要なんじゃないのか?」
「そうだよ! 俺が知ってる中で一番頭良い奴だと思うし、あの組織の幹部やってたから当てにしてたんだけどな……」
 ゼウスの役員が揃えば、もはやただ会社員の日常を見せられているようにしか思えなくなってきた。ゼウスが小企業に甘んじているのも納得できる光景にひっそりと溜息を吐いていれば「他をあたるしかないかあ……」と本庄が気落ちした声を落とす。
 シェリーが見つからないとなればゼウスは他の人員で補填をし、僕にシェリーを必要とした理由を明かさないまま組合に密輸だけを依頼してくるだろう。
 このまま彼らを泳がせて、可能であれば彼らの計画を遅らせたい。僕はシェリーの名を聞いた瞬間から頭に浮かんでいた案を実行に移すか一瞬だけ躊躇した。
「……言われてみれば、ジンがシェリーを始末したと断言したことはなかったかもしれませんね……」
 わざとらしく聞こえない絶妙な声音でとぼけてみせるとゼウスの役員が瞳を輝かせた。
「それは本当ですか、バーボン!」
「僕はジンと親しいわけではなかったので詳細は知りませんが……嬉々としてシェリーを追いかける様子は見たものの、その後どうなったか報告はされていなかったような……。だから、もしかすると彼の予想通りシェリーは生きているのかも」
「じゃあ……」
「つまりシェリーの現在についての情報を僕に依頼したい、そういう意味でいいですね」
「いいんすか!」
 先ほどとは打って変わって喜びを露わにする二人にハカムが具体的な契約内容についての説明を始めた。組合への依頼は前金制、バーボンへの依頼は情報が集まった時点で都度成功報酬と引き換えるという形で、提示された金額に二人は目を剥いている。
 シェリーを探す理由を知るのはまだ先になりそうだと思いながらその様子を眺めた。

 翌日の午後、高い天井と集光のいい窓から差し込む西日を受ける室内で、阿笠さんが淹れてくれたコーヒーの馨しい香りに包まれながら、僕は志保さんの険しい視線に晒されていた。
 すごい剣幕だった。翡翠の瞳は冷たさを一層増して、母親譲りの彫りの深い顔をもっと深くさせている。
 出されたコーヒーに口をつけることさえ許されない気迫を感じながら暢気に志保さんを観察した。そんな感想をちらとでも表情に出せば般若のように怒り出すことは容易に想像できたため隠し通したが。
 志保さんの怒りはもっともだ。責められることはすでに想定していたため僕は力なく笑った。微笑みを向けたところで許されるわけではないことは当然理解している。
「それで、その本庄って男に私を探すって言ったのね」
「うん、まあ……そうなるかな。噂が本当か確かめる、というニュアンスで伝えたつもりだけれどね……」
「どんなつもりで依頼を受けたかなんて関係ないわ。貴方がシェリーの生存を否定してくれれば、私はそもそも巻き込まれなかったのよ!」
「そのとおりです……」
 摂氏三千度にも達するのではないかとすら思える熱量で一気に怒りを膨らませる志保さんに僕は平謝りすることしかできない。
 灰原哀として暮らしている少女がシェリーだと聞かされた僕は、志保さんが表舞台に出ることを嫌がっていることを理解しながら、組織壊滅に協力するよう要請した。公安が志保さんの身を守るため全面的なバックアップを行うことを約束して。組織が壊滅してからは戸籍も新たにした志保さんは、元の姿に戻っても灰原哀として暮らしている。
 志保さんのご両親──とくに母親であるエレーナ先生にお世話になっていた僕は、彼らが授けた数少ないものが残らないことが惜しくて、人の目がないときは彼女を宮野志保として扱った。志保さんも外で灰原と呼ぶのなら構わないと言って了承してくれている。慎重な志保さんが、安室透を演じきった僕への信頼を示してくれているのだと知ったときは嬉しかったものだ。
 だから、そんな志保さんのために僕が取るべき行動はゼウス側にシェリーが死んだと思わせることだった。生死はさておき、シェリーを探すと言って少しでも志保さんの生存を本庄に期待させてはならなかったのだ。
 他の人員で計画とやらを進められれば彼らに関与しつづける理由がなくなる、そんな国防を優先させた判断で約束を反故にした僕を志保さんが怒らずにいる理由の方が見つからない。
 腕を組み、イライラとした様子でその腕を指先で小突いている志保さんの隣で、阿笠さんもどうしようもないと言いたげに嘆息した。
「貴方がここへ来たのは謝罪と注意のため? 私に外出は控えろとでも言うの?」
「いや……幸い彼は関西にいる、活動拠点をあの辺りで考えているんだろうね。だから外出を全面的に禁止することはないよ……。念のため最小限に留めておいてほしいとは思っているけど、いざというとき君を守るのが僕たちの職務だからね。普段通りに過ごして」
「……ふぅん、そう。ならいいけど。まあ気をつけるわ」
 僕の行動を失策だと判断し、かなり反発的な態度をぶつけてきた志保さんは、僕の返答を聞いて捲し立てた勢いを途端に失速させた。常に最悪の事態を想定して動く慎重な志保さんのことだから、悪い想定ばかりに頭が働いたのだろう。
 志保さんは自由や意思を尊重されないことを極端に嫌う。自立せざるを得なかった環境や生まれながらの性質もあるだろうが、組織の幹部時代に彼女を襲った悲劇を思えば当然だった。
 だが、稀有な頭脳を持つ相手だとしても、悪い方向に思考が働くという傾向さえ把握しておけば比較的彼女の感情は読みやすい。志保さんをどうすれば御することができるかは心得ていた。そんなことを口にすれば余計に機嫌を損ねることになるため死んでも口には出さないが。
「それならどうして今日ここへ来たのじゃ。安室くん、君が警察として表で動くことは滅多にないと以前聞いた気がするがの……」
 阿笠さんが不思議そうな声を上げる。志保さんも同意するように僕を見るのでようやく本題に入ることにした。
「実は情報の漏洩を懸念しています。本庄は、どうしてか警視庁内部でも取得権限の限られる情報を手にしていました。組織が壊滅した際に我々が入手した詳細な内部事情と、その後の残務処理についてです」
 その言葉だけで、二人ともが揃って僕の言わんとすることを察してくれた。志保さんの瞳が先ほどとは違った険しさを帯びている。
 志保さんの情報は、組織時代のものから新たな戸籍を作るに至った現在まですべて詳細に記録されている。そして一部の公安刑事だけが定期的に志保さんの安全を確認し、また有事の際には緊急要請にすぐ応じることができるよう手配されていた。
 つまり宮野志保という女性にまつわる一切の情報には一般の職員はアクセスすることができない状態で厳重に保管されている。だがそれは掃討作戦についても言えることだ。
 そうであるにも関わらず、本庄は組織の情報にアクセスしている。志保さんの生存を本庄が把握していなかった事実から察するに、組織に関わる情報と志保さんの情報管理を紐づけていなかったがために事なきを得たと考えられた。
 だが掃討作戦の情報が流出したという現状を受け止めれば、今後本庄がさらなる捜索範囲の拡大を自ら行い、警察から志保さんの情報を掴む可能性もまた十二分に有り得ることだった。警察の威信にかけてもそれは避けなければならない。
「彼は情報を扱うアメリカの企業と結託しているし、その伝手を使って警察のデータベースにアクセスしたのか、それとも内通者がいるのか……現状ではその辺りが判明していないんだ。だが何よりもまずは我々が君を保護していると知られるわけにはいかない。だから、君の新たな戸籍などに関する情報は一旦すべて消去し、警備体制も再編したうえで一部縮小して情報規制に注力しようと考えているんだ」
「具体的にはどうなるの?」
「まず、この家のセキュリティを強化する……主に電子機器周辺をね。外部から傍受されないような環境を構築して、君自身が何か調べ物をしても相手から追跡できないように。最新の機械に充てがあって……阿笠さんにもぜひご助力いただきたい」
「そういう話じゃったら協力は惜しまんよ!」
 この家に果たしてそれが必要だろうか。そんな顔をする志保さんに苦笑した。
 たしかに阿笠さんは驚くような発明をすると聞いている。彼の発明品が、コナンくんの手によって危機に瀕した日本を幾度となく救ってきたことも半ば武勇伝的に聞かされたことがある。
 そこに組織でも有数の頭脳を持つ志保さんが加われば半ば無敵の要塞ともいえる通信環境がここにはすでに構築されていると言っても過言ではないのだろう。だが僕が阿笠さんの家に自分が用意したセキュリティを追加したい理由は、実は他にも存在していた。
 それは今の時点で彼らに明かす必要はない。僕の提案を快諾した阿笠さんに感謝して志保さんの懐疑的な視線をやり過ごす。
「情報の信憑性のために今日は僕がここへ来たけど、僕と君が接触するのは今後避けた方がいいだろう。だから環境の敷設や君の監視役には新しい人間をつける。この配置は僕も初めてなんだが……警察庁警備部、警備企画課の女性だ」
「! ということは、貴方の同僚?」
 同僚、という響きに表情が反応しそうになったのを僕は瞬時に取り繕った。
 ゼロ≠フ人間が警備につくのであれば安心だと話す二人を見て笑顔が漏れる。僕たちのような、表立って行動しない立場の警察が彼ら民間人に信頼される状況はあまりない。とくに隠密活動を行う僕のような一部の捜査官にとっては、守るべき彼らの信頼はとても得難いものだ。
 僕が警備企画課を辞めていたとしても、僕に彼らを守る責務があることに違いはない。そう決意を新たにして胸を膨らませる。
 セキュリティ強化計画に関する詳細を話して、顔写真を事前に明かすことができない彼女とコンタクトを取るための合言葉を伝えた。
「ところで……本庄って男とゼウスは一体どうして私を探してるの? ジンに殺されたかどうかもわからない人間を頼るなんて計画、どう考えても不安要素ばかりだわ。多少お金はかかっても研究員を調達する方がいいはず……日本に運べなかった荷物って何なのよ」
「……ごめん、それは調査中なんだ」
 あのときはゼウスの人間から企みを聞き出すことができなかった。だが彼らは僕に友好的な態度を見せていたし、本庄も計画が外部に漏れることで失われる利益のみを懸念しただけの印象を受けた。あと数回言葉を交わせば真実は明らかになる、そう感じている。
 嫌な予感がするとつぶやく志保さんに必ず守るから安心して欲しいと告げる。だが志保さんの顔は晴れなかった。神経質な志保さんの視線が静かに僕を捉えている。躊躇うような表情を見せた志保さんが何を言いたかったかは想像できなかった。

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