03

 呼び出された住所に建っていた高層マンションのエントランスに入る。何重かのセキュリティを抜けて目的の部屋でインターホンを鳴らせば、降谷が笑顔で出迎えた。
「急に呼び出して悪い。入って」
 お邪魔します、と言いながら玄関に入る。いい香りが漂ってきて思わずスンと鼻を動かした。小さく胃が鳴る。今日は過密なスケジュールだったせいで昼も食べていないのだ。
 降谷が私の行動を見てくすりと笑う。意識が散漫になっていたせいで手に持っていた資料や提出書類が収まったバッグを奪われていた。ジャケットを脱いでと言わんばかりの動作を見せながら降谷が「夕飯、もうできてるよ」と話す。
「食べていってくれ。徹夜続きだと言っていたし、どうせ適当に食べてるんだろ。ここらで栄養取っておいた方がいいぞ」
「……ん、ありがとう」
「洗面所はそこだから」
 手を洗ってくるよう指示されたので渋々着ていたコートを脱いで預ける。手早くハンガーにかけると、降谷は音もなくキッチンの奥へ消えた。まるで良妻賢母の手本を見せられている気分だ。
 リビングへ向かえば降谷はすでに食事の支度を終えていた。
 この十数秒の間にどうやって。一瞬頭を過ぎった疑問は、おそらく私の到着時刻を逆算してすでに配膳の支度を大方終えていたのだという結論ですぐ掻き消えた。降谷零という男は、この程度であれば容易くこなしてしまう。
 それにしても、存外普通の生活をしていて安心した。警備企画課を辞めてからは住居も移すと聞いていた。話を聞いた時点ではどこに移るかがまだ決まっていなかった。引っ越しを終えたと報告があったため、今日は新居の確認も含めて訪ねたのだ。
 何か必要な情報があればその場で調べるから、ついでにひと仕事すればどうか。
 情報屋であり協力者でもある降谷からそんな提案を受けた。だから私は遠慮なくここ数日分の業務に関する書類を持ってきたわけだが、この様子ではどうも最初から仕事以外のことまで見越して声をかけてきたようだった。
 降谷、仕事を辞めてからどこか生き生きとしてない? なんて、降谷の笑顔の理由に思い当たる節がある立場としては軽率なことは言えない。墓穴は掘りたくないものだ。
 豪華な食事にありつきながら降谷の話を聞く。話の内容は、彼が裏社会で得た新たな情報源についてだった。
「ベアトリスという女性……彼女の目的は読めないままだけど何か検討はついてるの?」
「いや……全員を調べ尽くしたが、ベアトリスに関する情報が一番少なかった。ミス・ロレンシアが身元を保証していなければ、ベアトリスという曖昧な存在だけで組合に手を貸す気にはならなかっただろうな……。もしベアトリスが邪魔な存在になったとき、彼女が中心となって成立した組合から彼女を排除するのは難しいから。だが……おそらくベアトリスは詐欺師だ」
「詐欺師……? 根拠は?」
「表にも裏にも社会的身分がない、二つ名さえもだ。隠蔽工作を得意とするか、彼女が亡霊として生きていなければ有り得ない……」
「詐欺師だから、名前も経歴もすべてベアトリスについての情報が出てこなかった」
「そうだ。それにベアトリスは僕の前で品のあるレディ≠演じていた。僕も似たようなことをしているからわかった、っていうのは面白かったかな……」
「へえ……。組合……ね、闇組織を解体して警察を辞めたあとは犯罪者のまとめ役?」
 思わず呆れた声が出てしまう。
「一体何を考えてるの? いくら見返りがあるからって、組織なんかに属したら情報屋としては動きづらくなるだけでしょ。リスクも高い」
「裏社会の人間として今後動いていくことを想定すれば横の繋がりは大事だろう」
「一理あるけど……看過できない。協力者に危険な橋を渡らせるわけにはいかない」
「協力者だからこそ危険な橋を渡らせるんだ……」
 私の苦言を受け流した降谷がまだまだだと言いたげな様子で口にした。感情と行動を切り離せないのは、私たちのような潜入捜査をする立場の人間にとっては危険だ。
 私たちは、協力者のどんな行動にも責任を負う。代わりに、私たちが必要だと判断したときは彼らに無茶な要求をして拒否を許さない。機密を開示しないことを除けば対等な関係だからこそ、私たちは彼らに人道を外れない程度の危険を冒させる。
 それを自分に対しても行えと、降谷が言外に伝えてくるのを理解して眉根を寄せた。
「侮らないで。降谷だから止めてるの、じゃなきゃいくらでも危険に突っ込んでいくから」
「……」
「大体、自分を駒として使う降谷のやり方は前々から疑問だった。一番成功率が高いからって自分を投入する人間がどこにいるの? どう考えても線引きを間違えてる。私たちの業務は前線に立つことじゃなくて──」
「……ふ、」
 ふふ。
 小さな笑い声が聞こえてきて言葉を止める。降谷がたまらないといった様子で笑っていた。笑うというよりはにやけるという表現の方が近い表情にはっとする。
 私が彼の辞職にいい印象を抱いていないのをわかっていて、ことあるごとに元の地位へ戻そうとしていることを知っていて、わざと私が心配するような言い方をしたのだ。
 裏社会に長年潜入していた降谷なら、組合などという小さな寄り合いの組織力に旨みがないことなんてわかっている。きっと組合とやらに迎合した理由は別にあったのだ。
「からかわないでくれる?」
「ふ、すまない。ゼウスという連中の話をしただろう、彼らの情報を集めるのに組合を上手く利用できるんじゃないかと思ったんだ……だから手を貸すことにした。もっとも、貸すのは顔だけでいいらしいが」
「……ああそう!」
 胡乱な視線を投げれば、すぐさま崩していた相好を元に戻して爽やかに告げる。私は降谷のことを本気で気にかけているのに、当人はそれを逆手にとって私を弄んでいる。人を食うような態度が気に障って、茶碗を持って勢い良く席を立った。
 まったく、たちの悪い協力者を得てしまったものだ。

「君が好きだって言ってたタルトがあるけど、食べないか?」
「いい」
「……風呂を焚いたんだが、煮詰まってるようだし気分転換に入ってきたらどうかな」
「ここで止めると流れが切れるから」
「そうか。じゃあ僕が入ってくる」
 作業に徹している私へ、機嫌を窺うように降谷が尋ねる。仕事に関する情報が欲しくてここへ来たわけだが、降谷にからかわれてへそを曲げた私は、波立った気の収めどころがわからずにすげない返事を繰り返した。
 でも甘いものはもらっておけば良かったかもしれない。静かな空間で、疲労のせいもあって瞼が下りてきているのを自覚して少しだけ後悔した。シャワーの音が次第と遠くなっていく。何か咀嚼すれば意識を保っていられただろうに。
 書類にペン先を置いたままだからこのままではまずい。大変まずい。
 脳内ではそう警告が鳴っているのにペン先を動かすどころか意識が薄れていくばかりだった。背中を預けるこのソファが心地よすぎるのもいけない──。なんて持ち主に悪態を吐いてみるが効果はいまひとつだ。
 ガチャリ、と音がした気がした。何の音だろう、タルトを食べようとした手を止める。
「終わった?」
 びくり、と肩が跳ねる。あと少し。そんな返答をきちんとできたかは自信がない。シャワーを終えて顔を覗き込んできた降谷は非常に驚いた顔をしていた。まさか私が眠りこけているなどとは思いもしなかったのだろう。濡れた髪からぽたぽたと雫が落ちているのも気にならない様子だ。
「寝かけてるじゃないか。ほら、やっぱり風呂に入って目を覚ましておいで」
 降谷は仕方ないといった様子ながらも微笑ましそうに私の手を引いた。強制的に書類から引き離された私はまだ書き終わってないと口にしたかったのだが、実際は舌足らずな声が漏れただけだった。
 やはり、さきほどはきちんと返事ができていなかったのだろう。私の言い分も聞かずに降谷が世話を焼き始めたのはそのせいだ。
 夕飯はもちろん、入浴まで世話になる予定はなかった。だから着替えなど持ってはいない。それでも目の前にある書類を終わらせるためには切り替えが必要だ。仕方ないが、降谷の親切に甘えることにする。
 着替えは……洗濯機を借りて、入浴中に洗っておけばいいだろう。乾燥機付きだろうか。そんな考えでふらふらと脱衣所へ向かった。

 シャワーを浴びる前とは比べられないほど意識がはっきりとしている。降谷に借りた服を着てタオルドライをしながらリビングへ戻ると、降谷が私の書類をまとめてバインダーに挟め終えているところだった。
「何してるの」
「仕上げておいた」
 何でもないことのように言い放った降谷が時計に視線を投げる。
「もう他にやることはないだろ? 仮眠を取っていけばいい。帰る時間がもったいない」
「……それ機密の書類なんだけど」
「今さらだろう……。それに僕は民間人じゃなくて犯罪者だから、君がすべきはどちらかというと僕への注意喚起じゃなくて公文書が流出した事実の隠蔽だな」
「やめて笑えない」
 あっけらかんと答える降谷に顔を引き攣らせていれば「髪、乾かさなかったのか」と聞かれた。
「すぐ続きをしようと思ってたから」
「そうやっていつも後回しにしてるのか? 髪が傷むだろう……髪の乾かし方にもコツがあるんだ、きちんとした手順を踏めばそう時間も取らないんだが……」
 待ってて、と言って降谷は洗面所へ向かった。ドライヤーを取りに行くつもりなのだろう。あの調子はおそらく何かのスイッチが入った、そんな気がする。
 降谷は博識で、しばしばそれについて語り始めると止まらないきらいがある。簡潔な説明もできるのに彼がつい多弁になるのは、彼の本質が話好きであることに起因する。
 すぐに戻ってきた降谷は私をソファに座らせてタオルドライの続きから始めた。説明しながら温風を当てていく。美容師並みの手際の良さだ。どんなことでも器用にこなしてしまうんだなあと思っていれば、つい心の声が漏れた。
「許せない」
「何が許せないんだ?」
「降谷が辞めたこと。私たちには踏み越えてはいけない境界線があるってずっと言ってきたのに、私との約束を破ったこと」
「……ああ」
 だれよりも危険な捜査にあたっていた降谷にこそ、私はこの言葉を彼に一番言い聞かせてきた。彼の現場がどれだけ厳しいか知らないだろうと馬鹿にされたとしても私はきっと言い聞かせることを止めなかっただろう。
 実際は彼に反発されたことなど一度もなかったが、穏やかに私の言葉を受け入れていた彼の本心を知る手段は私にはないのだから、本当はどう感じていたかわからない。
 そうやって彼の意見など無視した約束をした結果がこれだ。彼は約束を破って、悪の道から国を守ることを選んだ。一方的な正義の押し付けだったとは理解しているが、私は彼の選択を許せないでいる。
 降谷ならもっと器用に生きられたはずだ。その気持ちが今も消えない。
 いいや、本当はわかっているのだ。私たちがもっと頼りになれば、先輩として、同僚として降谷と同じかそれ以上の能力を発揮できれば、彼が闇に進むことはなかった。
 己の無力感を、怒りとして降谷にぶつけていただけだと、もうわかっている。
「本当に許せない……この現状の何もかもが。でも受け入れることにする……降谷はいつも私たちには見えない何かが見えてるから……必要なことなんだって、受け入れなきゃ」
 喉が詰まりそうな感覚を覚えた。
 私以上に能力のある降谷が選んだ道であれば口を挟む余地はない。警備企画課としての私はそう判断できている。それなのに納得がいかなかったのは個人的な事情だ。
 互いにそれをわかっていたから、私の言葉で降谷の決断が揺らぐことなどなかったし、私も降谷を説得しきれなかった。
 ドライヤーの音が止まった。うなじの上を髪が流れていく。降谷の顔を見ることはできなくて、背を向けたまま声をかける。
「だから行動には気をつけて。だれにも……だれにも、理由を与えないで。降谷を繋ぎ留めるのは私、でしょ」
 降谷は何も言わなかった。
 警備企画課を辞めた降谷が協力者として裏社会に通じ、国に貢献することを認めるという非公式の決定は、降谷の存在が明るみに出ても警察が関与しないことを示している。
 警備企画課に所属していれば、どれほど法を破っていたとしても、自らかたをつける限り警察の保護を受けられる。だが降谷が警察庁に籍を置いていなければ、協力者であっても犯罪者として然るべき処罰を受けなければならない。
 私は降谷を繋ぎ留める存在であり、監視役でもある。降谷を切り捨てるべきか否かを判断するのは私だ。だが、降谷が犯罪者であると社会的に認められてしまった瞬間、同時に社会的制裁を与えられることになるのもまた私だった。
 私には私の生きたい道を進んで欲しい、そう口にする彼が、私を悪に落とすことは絶対にしない。仮にそうなってしまう未来が確定すれば、降谷は今度こそ自分の痕跡をすべてこの世から消すだろうという確信があった。
 私に迷惑をかけないように、きっと彼が彼自身を裁くのだ。
 そんなことには耐えられない。だからもう戻って来いなどとは言わない。黒田管理官の言葉を借りるわけではないが、手綱は握っておくことにするのだ。警察のためではなく、降谷を失わないために。
 降谷を繋ぎ留めるのは私だと彼自身が口にした。それはきっと、踏み越えた境界から遠く離れることはしないという彼の意志でもあると信じて。
 降谷の腕が伸びてきて、包めとるようにお腹に回る。その心地良さに目を瞑った。


 ピピピ、とアラームの音が聞こえる。アラームなんて設定しただろうか。
 のんびりと頭を捻り、アラームは設定していないなと考える。そこで起床時間をとうに過ぎているのではという焦りから脳が瞬時に覚醒した。
 瞼は力いっぱい開かれたが、起き抜けで視界は暈けている。目を擦りながら時計を見れば出勤予定より三十分早い時間だった。
 降谷がセットしてくれたみたいだ。安堵すると、肌に触れているきめ細やかな手触りのシーツに再び眠気を誘われた。いけない、と考えつつごろりと寝返りを打てば視界に金髪が飛び込んでくる。降谷の寝顔が、眼前にある。
 眠る前のことは覚えていたものの、寝起きだったこともあって隣で降谷が寝ている事実にひどく動揺した。寝息がかかるのではないかと思える距離に体がカッと熱くなる。やわらかな接触までも思い出してしまって羞恥のあまり視線がうろつく。呼吸でほんのわずかにベッドが軋む、その振動すら心臓に悪い。
 そっとベッドを抜け出そうとすると、肌寒さを感じたのか降谷は身じろぎした。細心の注意を払って距離を取っていくが、降谷が大きく肩を動かしたかと思うと私の腰を掴んでくる。力強く引き寄せられて、空けた距離以上に近づいてしまった私はとうとう全身を硬直させて動けなくなってしまった。
「ふ、ふるや、おきて」
「んー…」
 緊張するあまり起こしたいのかそうでないのかわからないようなか細い声しか出せない。うるさいとでも言いたげに体勢を直す降谷は私の緊張などお構いなしに顔を寄せる。まるで猫のようだ、と思ったのも一瞬で額がぶつかった。その軽い衝撃も不快だったのか、枕に頭をこすり付けるような動作をするものの降谷が起きる気配はない。
 随分と深く眠っているな、と珍しさが一瞬だけ勝った。庁舎で仮眠を取っているときはわずかな気配でも目を覚ますのに。私たちは皆等しく鋭敏な感覚を持っているが、降谷はそのなかでも随一なのだ。
 しげしげと眺めていると、もぞもぞと収まりが良い位置を探していたらしい降谷が一連の動きでさらに距離を狭めていた。気づけば唇が触れ合いそうな距離になっている。
 参り果てた私の唇がわなないたとき、降谷の口から「ふは、」と笑い声が落ちた。
「はっ……?! お、起きて……いつから!」
「っ、くく、ごめん……まさかそんなに緊張してくれるなんて……」
 枕で顔を隠して笑いをかみ殺した降谷に怒りを覚える。さきほどとは違った意味で顔を赤らめて震える私は「でも君も悪いぞ、気づかなかったんだから」と先手を打たれた。
 たしかに、起きたばかりとはいえ演技に気づかなかった私にも非はあった。あれほどわかりやすいできすぎな展開≠ノ心を乱されるなんて。だけど限界まで心拍と呼吸をコントロールして再現度の高い演技をした降谷だって悪いのだ。
 何も言えずに睨みつけていれば、笑いが収まって顔の向きを戻した降谷が目元に残った涙を拭う。それさえ様になっているなと苛立っていれば降谷の笑みが深まった。
「でもよかった。てっきり脈がないんだと思ってたけど……そうでもないんだな」
 ひとりごとのように零された言葉の意味を理解しきる前に、降谷は軽いリップ音と共にキスをした。心を確かめ終えたようにすぐに離れていった降谷を呆然と見上げる。
「朝ごはん作るから食べていくといい。まだ時間はあるだろ?」
 降谷は機嫌良さそうに起き上がって寝室を出た。私の悲鳴など聞こえていないかのように口笛まで吹きながら。

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