05

「申し訳ありません、遅くなりました」
「気にしないで。どうしても今日中に参考人から話を聞かなければならなくなったんでしょう? 報告は上がってきたから」
 申し訳なさそうに頭を下げる風見くんの肩を叩く。お疲れ様、と続ければ風見くんは複雑そうな顔に喜色を混ぜた。降谷にはそう労われたことがあまりないと言いたげな哀愁漂う表情だ。たまに言葉を濁しながら私と会話する彼は、未だ降谷の死を受け入れられていない様子が見て取れる。
 気にしないでいいとは言ったものの風見くんは歯切れの悪い返事をした。原則的に、連絡役の彼らは緊急時以外でゼロへ直接の連絡を入れることができない。私たちの間で行われる通話は、主にゼロから公安刑事へ向けた一方的なものばかりだ。
 緊急性がないと判断したとは言えども、連絡を一本入れなかったことに対してはやはり居心地の悪さを感じずにいられないらしい。所属は違えども、相手が上司にあたる立場の私となれば気にするなと言われても仕方ないのかもしれない。
 だが私は気を遣ったわけではなく、連絡がない遅刻が本当に気にする必要のないことだからそう言っただけだ。風見くんと行動するのは今から一時間後と初めに決めていた。諸々の最終確認をするために余裕をもって待ち合わせしていただけに過ぎない。
 空気を変えるべく手荷物の紙袋を揺らして「早速行きましょ」と言う。風見くんはこれから行う任務を思い出して表情を公安刑事のそれに変えた。
 今回風見くんには共に潜入工作を行なってもらうことにしていた。潜入工作と言っても危険な任務ではなく、演技指導的な側面が大きい。
 警視庁に勤める公安刑事は、公安と言っても正確性と信憑性を求められる潜入捜査を行うことはない。だけど今回、灰原哀という少女の警備をより少数精鋭で行うことになったために、風見くんにも警備企画課相当の技術を突貫的に身につけてもらう必要がある。
 周囲の目がない建物、二人だけの部屋に到着して紙袋を開けると、中から作業服を取り出して風見くんの前に掲げた。

 インターホンが鳴り響く。降谷や他の刑事たちの作成した書類などで名前だけは目にしたことのある阿笠さんの自宅前でバインダーを持ち作業帽を目深に被りなおした。インターホンに対する反応はない。もう一度ボタンを押す。
「……おお申し訳ない、少々手が離せない状況だったもので……どちら様でしょう」
 年配のしゃがれた声が響いてくる。一般人にはわからない程度だろうが、阿笠さんの愛想のいい声にはこちらを警戒する気配が含まれていた。
 モニタ越しにでもわかるほど顔いっぱいに人好きのする笑みを浮かべて「いつもお世話になっております、東都電力です!」と快活に挨拶をする。
「お宅の前にある変圧器に異常があるため工事に参りました。作業員が一時間ほど作業しますのでその間騒音が予想されます。そのご挨拶に」
「そうでしたか、ご苦労様です」
「工事に伴いましてこちらの電気設備の見直しをご案内させていただきたいのですが……近年ではデバイスの高度化で犯罪の敷居が下がり、一般人による盗電などの被害も相次いでおりますので、屋内設置型のセキュリティシステムなどのサービスなども開始しています。以前パンフレットでご案内したこともありますが、改めて説明させていただいてもよろしいでしょうか?」
 にこやかに工事業者を労う阿笠さんは、挨拶だけでは済みそうにない私の言動に警戒を継続させる。
「セキュリティには困っておりませんでの……」
「いえ! トーデン・ゼロセキュリティという新サービス、ぜひ説明させてください」
 ゼロを強調すればインターホン越しの声がはっとする。「そこまで言うのでしたら伺いましょう」と言った阿笠さんはインターホンを切ったあと玄関を開けて出てきた。門に近づいてくる阿笠さんに笑顔を向けながら阿笠さんの背後に視線を投げる。玄関の奥、影が差す場所から同じようにこちらを眺めている保護対象を視界に入れた。
「おっと、そちらの方は……」
「変圧器の作業員です。じゃあ飛田くん、まずはこちらのお宅のメーターに影響がなかったかどうかからチェックしてきてくれる?」
「わかりました」
 会釈をして庭を通って行く風見くんを見送る。案内された玄関の床石を踏んで、後ろ手にドアを引いた。ドアが閉まりきると壁に隠れるようにしていた志保さんが出てくる。
「気づいていただけてよかった。このたびはこちらの事情でのセキュリティ強化にご理解とご協力をいただきありがとうございます」
 帽子を脱ぎ感謝の言葉と共に自己紹介をすると、会釈を返す赤みがかった彼女の髪がさらりと揺れた。
「……どうも。後ろにいたのはあの人の部下? 前に少し話したことがあるわ。さっきはモニタ越しだったし、帽子を被っていたからすぐにはわからなかったけれど……」
「ええ。基本的には私が護衛任務につきますが、警察とコンタクトを取るのは風見です。だから顔合わせを……。ずっと降谷の橋渡しをしていた捜査官ですので我々と連携を取ることには慣れています、ご安心ください」
「そう。彼にもあとで挨拶しなきゃいけないわね」
 メーターが壁に設置されているためか、風見くんが作業している音が壁越しにも聞こえる。そちらを見ながら宮野さんがつぶやいた。取っ付きづらそうな印象を受ける女性だけど礼儀正しそうだ。
 若くしてここまでの落ち着きを身に着けている彼女は相当過酷な環境で過ごしたことが窺える。降谷からも簡単にではあるが志保さんの来歴は聞かされていたため、大人びた言動を実際に目にすると胸が痛んだ。二度と彼女をそんな環境に関わらせないようにしなければ、そう意思を強めて今日行う作業の詳細を明かす。
「今日はこちらの回線に信号を暗号化する装置を備え付けさせていただきますね。それとは別に非常システムとして外に中継器を置かせてもらいます。これは降谷か私の元へしか送信されない経路を辿るようになっています」
「暗号アルゴリズムには何を使っておるのかの?」
「暗号鍵長が2048ビット以上のRSA暗号と聞いています」
「量子コンピュータがなければ復号が不可能と言われてるレベルのものね。民間人の家に設置されるものじゃないと思うけれど……それを導入する必要性はあるの? 通信ではなく他のセキュリティを強化する方が現実的だわ……」
「詳しいことは私も不明で……どうにも、こちらの中継器の使用にも関わるものだそうです。降谷は把握しているようですが、説明させましょうか」
「……いいえ、いいわ。彼とは直接会わない方がいいだろうという話になっているの」
「そうですか。ではこちらは追々」
 つらつらと説明をする私を制止することなく二人は頷いている。
 説明にわずかにでも首を傾げない目の前の二人は、専門性で言えば間違いなく私を凌いでいる。そんな人を相手取り専門的な知識を用いて説明することほど苦しいことはないが仕事だと割り切ってかからなければ。
 いくつか説明が不足している点を二人からの質問という形で補われながらすべて話し終える。何も間違った説明はしなかっただろうという安堵から一息吐くと、風見くんが玄関のドアから顔を覗かせた。
「住宅の周辺は作業終了しました。変圧器に移動します」
「お願い」
 風見くんは二人を見て軽く頭を下げる。お久しぶりです、と口にする声は少し硬い。知人の家で作業をするのに、潜入捜査という体裁を取り繕っている状況は妙な心地がするのだろう。
「定期的に私がこちらへ伺いますがご了承ください。設置した機械のチェックなどが主ですが、何か揃えておくべき物がありましたら遠慮なくお伝えくだされば調達してきます」
 買い物は自分がすれば問題ないだろうと阿笠さんが口にする。こちらの真意を理解しているのか不明だが、彼の発言で緊張した空気が幾分か穏やかになったのは確かだった。
「ああそれと、降谷がここへ来たことなどは風見には伏せておいていただけますか」
「何かあったの?」
「降谷を守るための措置です。降谷の名を出さないでいただきたい」
「わかったわ」
 素直に頷く志保さんにありがとうと感謝を述べた。冷静で、物分かりが良く、好意的な女性だ。降谷からは少々気難しいところがあると聞かされていたが、同性である私には当たりがやわらかいのだろうか。疑問を顔に出さないようにしながら機器を仕舞っていたバッグを閉じる。
 ひとしきりの作業を終えて、ふと疑問になったのか阿笠さんの怪訝な声が届いた。
「……何だか大袈裟じゃのう。安室くんの話じゃと哀くんを探しとる男たちは滅多にこっちへは来ないという話だったはずじゃが……」
「そうね。気をかけてもらえるのはありがたいけど、思っていたよりも大事みたいな印象を受けるわ。……何か隠し事があるのかしら」
 話していないことがあるなら今話せと言わんばかりの反応だ。二人は降谷が潜入捜査をしていた時期からの知人で、あの胡散臭い安室透の秘密主義に振り回されていたのかもしれない。警備企画課の情報は一般人に開示できないから仕方ないけど、降谷への評価が同僚である私にもそのまま向けられているようだった。
 情報の扱いに関する降谷の能力は異常だ。きっと彼らにそういう姿を見せていたことすら彼の意図するもので、同僚というだけで私にまでそんな評価を持たれるのは光栄なのか心外なのかわからない。
 思わず苦笑すると、二人とも不思議そうに首を傾げる。
「志保さん……と呼んでいいのかな。今は哀さんと呼ぶのが正しいんでしょうけど」
「別にどちらでも構わないわ。あの人は私が両親にもらった名前を覚えている人がいなくなるのが寂しいみたいで志保と呼ぶけれど。私だって元の名前を捨てたつもりじゃないわ……でも今の名前も気に入ってるの。だから外で間違えないなら好きな方で呼んで」
 ふ、と初めてやわらかな表情を作った志保さんに思わず見入ってしまった。愛らしい、表情だった。
 データ上だけで彼女を知った気になって、彼女の過去を憂えて胸を痛めていた私が浅はかだ。彼女が過去の亡霊に追われている現状に違いはないが、決して過去に囚われてはいない。乗り越えて、彼女は過去も現在も大切にできている。私はそれを守らなければならない。
 相変わらず降谷とは見えている景色が違うのだと実感して歯噛みしたくなった。仕方のない気持ちを抑えながら口を開く。
「志保さん……貴方をこうまでして守ろうとするのは、降谷が私にそう頼んだからです。彼は一人で生きることに慣れているから滅多なことでは他人を頼らない。その彼が、どうか貴方を頼むと私に言いました。貴方は彼の大切な人なんですよ。……だからこうまでするんです」
 そう言えば、志保さんは少し考え込んだような素振りを見せて、どうしてか非常に不愉快そうな顔をした。
「あの人馬鹿なの?」
「え?」
 予想しなかった暴言に目を点にする。あの人って、降谷のことだろうか。降谷を馬鹿と言える人物などそういない。なのにそれを容易く、しかも不快感をこれほどまでに滲ませて口にする人は初めて見た。驚きからぽかんと口が開く。
 美人って怒ると怖いんだなあ。そんな的外れなことを考えていれば志保さんはきゅっと薄い唇を尖らせた。
「貴方達を見てればわかるわ、恋人なんでしょう。なのにあの人ってば貴方に向かってそんな言い方……勘違いされるに決まってるじゃない、ほんと馬鹿」
「は、……えっ?」
「私たち嫌なところが似てるのね……知ってるみたいだけど、あの人あまり他人を頼らないから頼み方が下手なの。私は彼にとって妹みたいなもので……母に良くしてもらったからって私の保護に躍起になってるだけ。前に一度守れなかったと思わせたことがあったから、余計にね……」
 恋人と指摘されたこと、私が勘違いしていると思っている彼女の言動。予想できない言葉の連続で混乱する。詳細の説明を求めようとする私を許さないように彼女はとめどなく言葉を続ける。
「貴方にこの件を任せたのは──私が言うのもおかしな話だけど、貴方を本当に信頼しているからよ。家族同然の私の命を、他人には任せない。貴方だから……はあ、どうして私がこんなフォローしてるのかわからなくなってきたわ」
 しまいには呆れて「とにかく、」と念を押すように志保さんは腰に手を当てる。少し屈んで私との距離を詰めた彼女は、人差し指を私の目の前で揺らしてみせた。
「あの人が私を気にかけるのが寂しいですと言わんばかりの顔はしないで」
 見ていればわかると志保さんは言った。つまり降谷は私のことを恋人として彼女に紹介したわけではない。そんな彼女にすら関係を見破られるだなんて、私がわかりやすすぎる態度を取っていたことに他ならない。
 自分より十ほども年下の女の子に嫉妬したことを見破られるなんてゼロ失格だ。熱くなった頬を押さえていれば志保さんはぎょっと目を剥いていた。



 デートでもしないか。そんな直球もいいところな提案をされて、人通りの多い場所で合うのはリスクが云々といった問答の末に、折れた私がこちらの指定するカフェで待ち合わせることになった。
 カフェは公安の管理下にある店ではない。だが、カウンター席の一区画が店の外からは死角になっていてちょっとした密談なら可能だった。客足は多いわけでも少ないわけでもなく、店内に流れる音楽も穏やかで心地良い空間だ。
 控えめにドアベルの音が鳴る。待ち合わせぴったりの時間だから他の客じゃないだろうと席から少しだけ顔を覗かせれば、やはり降谷が私を探して辺りを見回していた。
 手足がすらりと伸びたモデルのような体躯をしているからか、降谷が喫茶店にいる光景は非常に様になる。片手で数えられる程度の客も、彼が気配を消すのが上手くなければみな彼を注視したことだろう。目が合えば降谷は私のいる席まで歩いてくる。
「雰囲気のいい店だな。よく来てるのか?」
「個人的にね」
「ホォー、個人的に……」
 仕事で良く使うのかを聞かれたのだと思って返事をすれば、何が琴線に触れたのか降谷はとても嬉しそうな顔をした。
 潜入捜査では多種多様なキャラクターを演じることがある。演技に合わせてより多くのロケーションを把握しておくことは欠かせない。てっきりその点を想定した質問だと思ったんだけど……その顔は一体どういう顔だ。
「君のプライベートに立ち入らせてもらえたのが嬉しくてね……」
「……私の家に入ったこともあるでしょ。いまさら何を言ってるんだか」
「住所なんて自己紹介を聞くよりも先に手に入るさ。それに比べて、君が私的な時間に何をしているかだとか、他人に話したことのない秘密についてだとか、そんなことは君の口から聞かされなきゃわからないんだ……だから、この店を教えてくれて嬉しいよ」
 そう言って一人満足したように降谷は壁側に立てかけてあるメニューを手に取った。
 今日降谷と会ったのは先日行なった阿笠邸のセキュリティ構築を含めた報告をするためだ。こういった報告や連絡は状況に応じて通話と対話と文書でのやりとりを使い分ける。
 カモフラージュするにしてもわざわざデートを装う必要はないと言った私に対して、それはそれでデートがしたいなどとごねられたら、私の知る限りでそういった雰囲気に適した場を選ぶのは当然だろう。
 あえて指摘するなんて意地の悪いことをする、と睨みつけるが微笑むだけで降谷はちっとも動じない。店員が注文を聞きに来たので、互いに軽食を注文してメニューを閉じた。
「阿笠さんの件は言われたとおりの物を準備して設置も終えた。風見くんに降谷のことを話さないように口止めもしておいたから安心して」
「そうか、助かる」
「頼まれてた本庄厚人の調査だけど……去年の八月に会社を辞めてた。前職では営業をしてたみたいだけど、彼自身はエンジニアとしてもやっていけるだけの教育を受けてる。アメリカで博士号を取得してて、志保さんとは大学へ通っていた時期も重なるみたい」
 裏社会で本庄厚人の情報はないに等しかった。それを知った降谷は、本庄が犯罪者として役員に協力しているのではなく、ゼウス社から正式に雇用されて犯罪行為を行なっている可能性を指摘したのだ。もし降谷の勘が当たっていれば、いくら裏社会を駆け回って情報を集めても本庄について知る日がくることはない。
 そこで降谷は私に調査を依頼し、実際本庄についての情報の多くは裏社会ではなく表社会にあることが判明したのだった。
 なるほど、と納得がいったように頷いた降谷は仮説を立てる。
「本庄は志保さんのことをシェリーと呼んでいたが本名も知っていた。奴は大学に在籍していた頃すでに今動かそうとしている計画を立てていて、彼女の優秀さに目をつけていたのかもしれない」
「志保さんが本庄のことを知らないから、二人に直接の接触はなかった」
「ああ。仮に志保さんが在学時に名を轟かせていたにしても、噂だけを頼りにした割には志保さんなら研究を完成させられるという具体的な根拠を持っているかのように本庄は話していた。エンジニアとしての道が開けていたのに前職で営業職に就いたのも何かしらの意図を感じる……」
「……思ってたより危険そう。ゼウスの役員よりも本庄を警戒した対策を練るべきね」
「そうだな、その方向で進めよう。志保さんにも本庄の情報を伝えておいてくれるか」
 志保さんには不要不急の外出を避けてもらいたいと考えてはいるが、外出を禁止しているわけではないため、外出する際には危険を想定した動きを取る必要が出てくる。
 警備をつけるにしても、当人と情報共有をしておいて悪いことはない。余計な不安を抱かせてしまうことにはなるが、知らずに危険に晒されるよりはずっといいと思える程度には彼女自身が賢いからだ。降谷の言葉に頷く。
「そっちは? 組合のメンバーについての情報はどれくらい集めてるの?」
「大方集めたよ」
「彼らのことを信用できる?」
「信用? まさか……全員犯罪者だぞ。それも組織に台頭しようとしている指折りの悪人ばかりが揃っている……」
 降谷が犯罪者集団の中にいて安全な状況など、いつどんなときでも生まれることはない。それでも、少しでもそう言える環境であればという願望をから尋ねた私に、降谷はあっけらかんとした様子で否定した。
 降谷が自分の置かれた状況を甘く見ているわけではないことはわかっている。バーボンが組合の顔になることを引き受けてしまってはいまさら撤回できない。だからメンバーについてより多くの情報を集め、危険因子であると判断すれば排除する。そう口にしていた降谷が楽観的な返答をしたということは、彼らは大した脅威にはなり得ないという判断なのだろう。
「私が共有しておくべきものは?」
「そう焦らなくても、日を改めてちゃんとまとめた資料を渡すよ」
「……会うって言うからてっきりデータの受け渡しをするんだとばかり……」
「志保さんのことはひとまず対策を打ったし現状の報告は最優先すべき事柄ではないよ。それに……せっかくデートに誘えたのにこんな話ばかりじゃ楽しくない」
 私の顔を覗きこんで魅力的に微笑んでみせる降谷に眩暈がする。「それはそれで」が、まさか本当にデートが目的という意味だとは思わなかったからだ。
 冷静に考えれば、デートの最中にデータを紛失することがあってはならないから、膨大な資料が入ったデータの受け渡しなどするはずがなかった。降谷が本気でデートがしたいと言うならなおさらだ。
 騙されたと叫びたい気持ちではあるが、降谷の押しの強さに振り回されてつい思考を放棄してしまった私に大方非がある。はあと溜息を吐いていると、店員が注文を持ってくる姿が視界に入って会話は一時中断となった。

 もぐ、と咀嚼を繰り返す。ごく、とそれを嚥下する。水の入ったグラスを手に取ると、降谷が口を開いた。
「おいしそうだな」
 私が注文したパンケーキに対して──パンケーキというよりは私の唇を凝視している気もするが──興味深そうな視線が注がれている。
 よくデザートは別腹などと言われるが、私も例に漏れず食後のデザートはしっかり食べるタイプだ。それでもパスタと別に軽食に相当する量のパンケーキを食べれば大抵の友人に引かれることの方が多いが、降谷にとってはたいして気になることではないらしい。
 だが、そうまで興味津々といった様子で見つめられれば私は気になってくる。
「……もう一皿注文しようか?」
 この後の予定は空けてあるから別に時間は気にしなくて構わないし、食べたいなら頼めばいい。そんな言葉を早口で告げて再びパンケーキを口に放った。
 降谷は私の提案に生返事を返しただけだった。だけどやはり視線はパンケーキに注がれている。何かを考えている様子でもない。もしかして味見をしたいだけなのだろうか。そう思い至った私が尋ねようとすれば、降谷は身を乗り出して口を軽く開けた。
 あーん。そう言わんばかりの動作は、子が親へ、もしくは人目を憚らない恋人たちが行うものだ。何を求められているのか理解して思わず半眼になる。
「何させようとしてるの……」
 呆れ半分で一口サイズに切り分けたパンケーキを差してフォークごと渡すが、降谷はゆるく首を振るだけで受け取らず、口をもう少し大きく開けて「あーん」と主張する。
 三十にもなって恥ずかしくないのか。頭の中ではそう冷静にツッコミを入れるが降谷が引く気配がなさそうだったためフォークの先を彼の口へ押し込んだ。パンケーキが口の中に入るタイミングを見計らって降谷は口を閉じる。フォークを引き抜くと、挟み込んだ唇の重みが伝わってきて妙な気分にさせられた。
 どことなく気まずくて自分が食べるパンケーキを切り分けにかかる。口に放り込めば蜂蜜の甘さが舌の上に広がった。降谷の「美味しい」という感想に同意する。
「このあとは予定を空けてくれてるんだよな? どこへ行こうか」
 唇についた蜂蜜を舐め取ったあと、声を弾ませる降谷に私は咀嚼で返事をした。


 遠出するにしても私たちの時間は限られている。降谷は警察庁を辞めて以前よりも随分と時間に余裕はできたようだが、私のことを考えてどこかへ向かおうと提案されることはなかった。
 行きたい場所があるわけでもなかった私たちは、結局近場のショッピングモールなどを回って潜入に必要な物品の購入などに勤しんでいる。
 女性たちが降谷とすれ違うたびに振り返る。服を物色していれば、たとえその店がメンズ商品であろうと店内に女性の姿が増えたし、休憩スペースで一休みしていれば他の席もじわじわと埋まった。存在しているだけで周囲が色めき立つなど芸能人でなければ有り得ない光景だ。
 降谷は気配を隠して人目に留まらないようにする術を身に着けているはずだった。普段はそうして過ごしているのに今日はそれをしないので奇妙だった。
「……普通、恋人は気配を消してデートしたりはしないよ」
 私の視線の意味に気づいた降谷が呆れたような物言いをする。それはそうだけどと納得がいかない顔をしたのが自分でもわかった。
 外で気配を消さないのはあくまで普通の恋人たちであればの話だ。一方は警察、一方は新たなる犯罪組織のトップともなれば、人目を避けることは必至のはずだろう。
 組合のメンバーは大半が日本を離れていると話していた。だからデートしようと思ったと言われたし、大丈夫だと降谷は判断したのだろうがそれにしても……と考えていれば、降谷が先ほどからずっと黙り込んでいることに気づく。テーブルに肘をつき、目を逸らしている降谷は少々むくれているように見える。機嫌を損ねてしまったらしい。
「どうして怒るの」
「怒ってはいない。でも君があまり楽しくなさそうにしてるから……」
「……」
 楽しくない……わけじゃない。ただ、今も周囲で私たちを気にしている女の子のようには、私は降谷を見ることができないだけだ。
 私たちは同僚という立場でずっと過ごしてきて、同じ信念を掲げ、それこそ身命を賭して生きてきた。いまさら、降谷の傍にいることを幸福だと思う段階はとうに過ぎている。私たちは、死ぬまでは心が共に在って当然の間柄なのだから。
 言葉に迷っていると挑発的な視線が向けられた。何か言いたいことがあるなら言ってみろと言いたげだ。職務にあたっているときですら向けられたことのない類の視線にたじろいで、思ったままに先ほど考えたことを口走ろうとする。
 そこではっとした。これ、もしかして相当気障なことを言ってしまうんじゃないか。
 否定しようのない事実なので別に恥ずかしがる必要はないが、こんなことを言えば最後、別れ際まで降谷にからかわれてしまうに違いない。下手を打てば今後一生だ。それこそ言質にでもされかねない、降谷はそういう男だ。いや、別にそれは構わないけれど。
 そうやってしどろもどろになっていれば、まだ言葉にしてもいないのに降谷は私の考えたことを察してしまったようだった。にやりとして「へえ……」と零された声は低く甘い。
 なんて男だ。いいように解釈された可能性もありはするが、とにかく降谷の機嫌が直ったのはそういうことだ。会話なしで意思疎通が図れるのは便利だがこういうときばかりは参ってしまう。
 降谷は立ち上がって私の手を引くと、さっきまでの不機嫌が嘘のように気分のいい一歩を踏み出した。
 上機嫌な足取りが突然危険な足取りに変わったのはエスカレーターに乗ってすぐのことだった。さっと気配を殺し、私を抱き寄せて空間を狭めて、さりげなく私の視界を阻んだ降谷の行動にはっとする。──裏社会の人間がすぐそこにいる。
 質問はしなかった。戸惑いもしない。こういうとき、いくら劣等感を感じても私も間違いなく降谷と同じ存在なのだということを実感する。遮られた側の景色にだれがいたのか、一瞬だけ視界に入った景色を頭の中に思い浮かべて考えた。薄い栗色の髪を無造作に横に流したロシア人がいた。ソフィア・ヴォルコフスカヤだ。
 エスカレーターを下りきったら真っ直ぐ歩いて、すぐ先にある通路で身を隠す。それが降谷から伝わってきて私も必死に気配を殺す。だけどソフィアもまたエスカレーターの降り口に近い場所までふらりと歩いて来ていて、今からでは彼女との接触を避けようがなかった。
「……あら、」
 気づかれてしまった。
 ソフィアはばっちりと私たちを視界に収めたが、口元へわずかに笑みを浮かべただけだった。私たちはどこからどう見ても二人の時間を楽しんでいるように見える。邪魔はせずに挨拶を交わすだけにしよう、という思考が伝わってくる顔だ。
「ショッピングですか」
「アーニャに何かサプライズをしようかと思って見て回ってるの。そちらは?」
「僕の大切な人ですよ。彼女はソフィア、最近解決した事件で知り合った女性なんだ……。誤解しないでね」
 顔を寄せてささやいてくる降谷に動じないよう必死に返事を喉から絞り出した。知り合いだと押し切るには降谷との距離感が近すぎたため恋人だと説明されることは想定していたが、組合のメンバーというたいして親交の深い相手でもないソフィアにそこまで演じて見せる必要があるのか謎だ。
 ソフィアは私に関心がない。だが降谷の行動は少々意外だったのか、ぼんやりと景色を見るような感情のない瞳にわずかながら驚きが混じった。
 一言、二言だけ言葉を交わして私たちはすぐ別れた。ソフィアの気配が遠くなっていくのを肌で感じながら通路の先で右折する。降谷が私の腰を抱いたまま、さらにぐっと引き寄せて首元に顔を埋めた。はー…と長い溜息が落とされる。
「……大丈夫、よね今の」
「……多分」
「多分じゃ困るでしょ……あまり私に関心がないような雰囲気ではあったけど」
「ああ……彼女、というかアーニャとソフィアは互いにしか興味がない。僕の恋人だと言ったからなおさら踏み込んでこないだろう。二人が組合に入った理由が理由だから、プライベートなことに他者が踏み込むこと自体をあまり好んでいないんだ。仮に君のことが気になっても個人情報を調べるまではないはずだ」
「それならいいけど……」
 はあ、と私も降谷の方に額を当てて溜息を吐いた。通路の片隅で抱き合って互いに顔を伏せているのは人目を引く光景だろう。背後を歩く人の足音が怪訝そうに緩められ、また速まってから遠ざかっていくのを繰り返している。
「たしかに近くにはいたけど……あの角度から私たちに気づけるものなの? 私も気配は殺してた……つもりだけど」
「完璧だったよ。ただまあ、職業柄だろう。彼女は立ち寄る建物の構造は必ず頭に入れると話していた。明らかにウィンドウショッピング中だったのに、あの速度で歩いて人にぶつからずにいたのは、四階まで突き抜けた構造のフロアだけでなく人の流れまで把握していたから以外に考えられない。建物内部を俯瞰して見る癖がついているんだろうな。しかも僕は会ったことがあるからマーカーをつけたも同然だ……」
 上のフロアから眺めていたならまだしも、エスカレーターに乗って上からやってくる知人に気づけるだろうか。ソフィアならできるかもしれないと言われてもあまりピンとこない。
 唸って顔を上げれば、同じく顔を上げた降谷と目が合った。……デートしようなんて言うから鉢合わせすることになるんだ。そんな批判を込めて見つめれば苦々しい顔をされる。
「僕の予定ではこうなるはずじゃなかったんだ……」
 なおそう言って不服そうにする降谷に今日はもうお開きにすべきだと言えばしおらしく同意された。

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