08




 建物の至る所で発砲音が鳴り響いていた。
 黒ずくめの組織は世界的にも凶悪な犯罪組織だ。日本の公安警察だけでなく、アメリカからは連邦捜査局が協力を申し出て、掃討作戦に参加している。同国中央情報局でさえ、掃討作戦のために協力に前向きな姿勢を見せるほどだった。またアメリカほどではないが各国の一部捜査官も参加して決行される大捕物は、まさにその時終局を迎えていた。
 各国が組織に工作員を潜入させていることは言わずとも知れたことだ。ジンが裏切りの疑いが出た構成員に対して容赦しなかったのも、組織に潜む警察組織の人間の多さからだった。降谷零は、その中でも未だ裏切りが露見していない数少ない捜査官である。先んじて組織へ侵入していたバーボンは幹部として警察と相対していた。
 一般の刑事や捜査官にはバーボンが警察側の人間であることが知らされていない。激しい命のやりとりが行われる最中に、潜入捜査官である幹部を識別し、組織の人間に勘付かれないよう対応するのは困難を極めるためである。
『潜入捜査中は何かと鍛えられたからな、立場を隠したままでも現場経験の浅い捜査官に撃たれるようなヘマはしないさ』
 一部の捜査官を対象に行った最後のミーティングで、皮肉と自信を垣間見せながら事も無げに言い切った降谷は場の人間を唖然とさせた。降谷という男を噂でしか知らない人間ばかり揃っていたため、風見は上司の何気ない一言が不興を買い作戦に影響を及ぼすのではないかと肝を冷やしたほどだ。
 よって、バーボンは躊躇なく放たれる警察の攻撃を躱しながら建物内を移動していた。
 組織側の用意も周到なものだった。侵入者を阻むための罠が至る所で作動し、時折規模の大きな爆発音が響き渡っている。警察側が無線で連絡を取り合うことを危惧してか、妨害電波も出ていた。
 バーボンが幹部として立ち回ると決めた理由はここにある。警察側とコンタクトが図れないのであれば、幹部として先行投入された方が便利に動けるのだ。もっとも、高い状況判断能力と頭脳を持つ降谷零だから行えることではあるが。
 だが組織もこれほど大規模な突入作戦を実行されるとは考えもしなかったのか、次第と迎撃は弱まっていた。建物の八割方が警察によって制圧されているといったところだ。
 バーボンは混乱に乗じて、差し込むだけでシステムをハッキングする装置のプラグを組織の認証システムや隔壁の操作パネルの差込口へと突っ込む。ロックを解除しておくだけでも制圧にかかる時間と労力の短縮は桁違いだ。
 バーボンは建物の深部に向かって突き進んでいた。最深部には脱出のための非常口や、あらゆる最終手段≠フための道具が揃えられている。ジンや組織の重要人物は全員そこを目指していることだろう。バーボンも先を急ぐ。
「バーボン……生きていたか」
「お行儀のいい人達と遊んであげるほど優しくありませんので」
 ジンの鋭い視線をいなしてバーボンは場を見渡す。既に何人かはこの場を離脱したらしい。内心で舌打ちしながら被害の規模を問うと、重要なデータは安全な場所へ転送済みだと責任者らしい人間が回答した。
 長年生き長らえてきただけはある、とバーボンは組織の力を再確認した。集まった構成員が今後の打ち合わせをしていると様子を窺っていたらしい警察が一斉に場へ突入する。
 激しい銃撃戦が繰り広げられた。バーボンはジンが負傷したのを横目に捉えた。
 最終手段に出た一人の構成員が捨て身で建物を根本ごと爆発させる。バーボンは咄嗟に受け身を取ったが、爆風により壁に叩きつけられて視界が明滅した。意識を失わない内に落ちてくる瓦礫から逃れるように這い出す。崩れていく建物から脱出すると、木陰に身を隠した。頭を強く打ち付けた、そう考えた次の瞬間には意識を失っていた。

「サングラスはしていないが……恰幅が良く特徴的な受け口、ウォッカだな。幹部一名、意識不明。身柄を拘束します」
「長い銀髪に左頬骨の傷跡。幹部、ジンを発見! 重傷を負っているが十分注意しろ!」
 そう遠くない場所で警察の緊張した声が次々と上がる。黒服を纏った幹部と思わしき人間を囲み、動きを制限して確認作業、拘束、安全を確保次第逮捕する。決して気を抜かずに当たること。事前に何度も打ち合わせした内容を、全員が正しく遂行していた。
 瓦礫に埋もれて意識を失っている人間が多いらしく、威嚇射撃はどこからも聞こえない。
 バーボンは脱力した状態で、まるで他人事のように幹部が次々と拘束されていくのを眺めていた。ふと上から影が落ちる。よく見知った警察官が、硬い眼差しでバーボンを見下ろしていた。手には国から支給される拳銃が握られている。
「金髪碧眼、細身で長身。……バーボンだな。大人しく投降しろ」
 風見が降谷に向かって言い放つ。
 パン、と初めて発砲音が響いた。風見の目元を銃弾が走る。あと数ミリ横へずれていれば被弾していた、そんな位置を狙って撃ったバーボンを見て、風見の周りに拳銃を持った警察官が駆け付ける。
 大勢に囲まれてついに無抵抗の意を示したバーボンは、傷を負っておらず反抗的な態度を見せたため厳重に拘束された。
 肝を抜かれた顔を隠せないでいる風見を見てバーボンは挑発的な笑みを浮かべる。必ず複数で囲んで制圧しろと再三言い聞かせたのに、仲間だと思って気を緩めるからだ。バーボンに灸をすえられた風見は、ぐっと拳銃を握り直した。
 幹部ラムの死亡を確認。ボスと思わしき人物は──。終わることのない警察側の報告を、バーボンは小型護送車の中から聞き続けた。



 黒ずくめの組織、長年にわたって世界中を跋扈していた巨悪は、世界から姿を消した。
 予測できていたことではあったが、組織は各国の高官にまでも手を伸ばしていた。日本警察は国を挙げて世界に警告を発し、証拠提示のための書類作成や、外交官との連絡、未だ逃走を続ける末端構成員から外部組織との繋がりを探し出して摘発、と慌ただしい日々を送っている。
 数か月が経過しても終わらない処理に、警察は組織がいかに根深い存在であったかを嫌というほど実感することになった。
 降谷は据わった目をして仕事に追われている部下達を眺め、苦笑する。息抜きにと外回りへ出た際に購入してきた差し入れを置けば、もう徹夜を何度繰り返しているか知れない部下の表情から涙が流れた。
「適切な休息を取らないとかえって効率が下がるぞ」
「気をつけます……降谷さん、どちらに?」
「警察庁へ報告に戻る。何かあれば遠慮せず連絡してくれ、組織に一番詳しいのは僕だ」
「わかりました。差し入れ、ありがとうございます!」
 合唱を背に受けながら降谷は警視庁を後にした。

 報告を終え、降谷は自分のデスクに溜まった書類を片付ける。警視庁で仕事をする人間の倍以上の業務をこなしていた降谷だが、その顔に疲労はない。美しい男だ。
 均整の取れた体躯を持ち、美しい佇まいで連日入庁する降谷に、関係者達が色めき立つのは当然と言える。声をかければ爽やかな挨拶を返され、しかし硬派を貫く様子に、警察庁は警視庁とは違った意味で死地と化していた。
 掃討作戦の折、バーボンとして逮捕された降谷の正体が、警察庁警備局警備企画課の人間であることを知らされたのはやはりごく一部だけだった。組織が壊滅したといえども、潜入捜査は最高機密事項である。おいそれと共有していい情報ではない。
 だがあれほど華やかなバーボンという幹部と、警察庁の降谷を結びつけることができる人間は少なかった。降谷が印象操作を可能とするのは、皮肉なことに潜入捜査官特有の技能だ。よって降谷として釈放された後にも公然と警察庁へ登庁することができている。
 書類を片付け終えるまでに警視庁から降谷へ連絡が寄せられることはなかった。大方、処理に追われて連絡する間もないのだろう。降谷は短く息を吐く。
 室内の人間は出払っている。同僚の中には掃討作戦に手を貸した人間もいたが、降谷と同様に普段は一般人の振りをして他の任務に就いている者ばかりだ。本来の任務に戻った今、情報収集に明け暮れているだろうことは容易に想像できた。
 降谷はそっと目を瞑った。
『……どうしたんですか。勤務中では?』
 バーボンが降谷に気が付いて声を上げる。鼓膜を揺らしはしない、だが耳から声が流れてくるような、不思議な感覚に身を委ねる。
 降谷はバーボンに話したいことがあった。
『変わりましたね、零。だれかに劣らず警戒心の高い貴方のことですから、次に僕を呼ぶのはセラピストに会うときだと思っていましたよ』
 挑発するような言葉に、降谷は何と返せばいいのか言葉に迷った。
 バーボンの言う通り、降谷は全てが片付けば人格の統合を行うべく医師に相談しようと思っていた。だがバーボンや安室にとっては望まない選択のはずだ。降谷のために生まれたが、二つの人格はすでに自らの意志を獲得している。不要になったから切り捨てられるなど納得できるはずがない。
 バーボンはただ降谷の言葉を待っていた。降谷がバーボンを消そうとしていることには気づいているのだから、もっと憎まれ口を叩かれると思っていた降谷は疑問を覚える。
 バーボンは体の主導権を奪い、降谷から全てを遠ざけた。さも自身の意見が最適解だと言わんばかりに物事を決定していく。たとえバーボンの行動が降谷の正義にしたがうものであれども、バーボンの言動はどこか独善的に見えて、降谷はそれを警戒していた。何か裏があるのではないかと思えてならなかったのだ。自身が高い能力を有していると理解しているからこそ、同じ存在であるが故にバーボンを危険だと降谷は思い込んでいた。
 降谷は閉じていた目を開いて手帳を取り出す。バーボンと会話をするために使用していた手帳だ。潜入中の行動をあらためて洗い直すために持ってきたものだった。
 やりとりを読み直して再び目を瞑る。
「お前に言いたいことがあるんだ、バーボン」
 危険な男だと思っていた。だがバーボンは、降谷の意見を否定することだけはしなかった。理想を折って悪事に手を染めなければならない降谷の代わりに、降谷が果たすべき責務を請け負ったのはバーボンだ。
「これまで、ずっと助けてくれてありがとう」
『は……?』
 何とも間の抜けた声だった。裏≠ナひどく動揺しているらしいことが伝わってくる。こんな声も出せるのか、と降谷は他人事のように考えた。
『何を改まって……。別に……それが、僕の役目でしたからね……お礼を言われることでもないでしょう……』
「……お前も殊勝なことが言えたんだな」
『零、貴方本当に感謝しているんですか?』
「してるさ。書面上は精神疾患という扱いになるんだろうが、一人で壊れて、使い物にならなくなる可能性だってあったんだ……お前が生まれて、代わりに動いていてくれたのは救いだったと思うよ。僕にとっても、国にとっても……」
『……』
 沈黙するバーボンにどこか気恥ずかしさを感じた降谷は、頬を掻きながら「安室とも話したい。代わってくれないか」と言った。有無を言わずにバーボンは安室へ切り替わる。
 降谷は安室とも同様に会話した。安室との会話はバーボンと比べると世間話に近いものだ。恵に対する言動に小言をいくつか投げて寄越され、虫の居所が悪い安室の機嫌を取るために降谷はしばらく頭を悩ませることになる。
 将来的なことを考えれば人格の統合は避けられないが、しばらくはまだこのままでいい。感傷に浸る降谷はそんなことを考えていた。
 人格統合のために何をすればいいのか降谷は知らない。それがとうに叶えられる条件を満たしたことも、知らなかった。



 初めは半年、その後はさらに半年、また数か月、と延びに延びた海外勤務がようやく終わりを迎えた。取引先は恵の働きぶりに相当満足したらしく、良ければこのまま転職してこないかと提案するほどだった。
 この一年以上、恵の給料は取引先から出ていた。形上は出向扱いになるが、恵の会社とも変わらず連絡を取り続けていたため出向した感覚は薄かった。出張から帰ってすぐ転職するのは気が引けたが、働きやすい環境だったこともあり、考えさせてほしいと返事をしておく。
 空港へ到着した恵を出迎えたのは安室だった。迎えに来るという連絡を受けていなかった恵は待ち人が他にいるのかと考えたが、恵を視界に入れた途端に安室が表情を緩めて歩いてくる姿を見て、間違いなく自分を迎えに来たのだと確信した。
 久しぶりに会うからか会話に迷う。安室に挨拶をしたのはいいものの、そのあと何を言えばいいのかわからず、恵は視線を彷徨わせた。日本を発つ前はあれほど安室と話していたのに、どんな風に話していたか思い出せない。
 言葉を探す恵の両手を安室が優しく包み込んだ。まるで恋人が再会したような空気だ。
「お久しぶりです、お仕事はどうでした?」
「そこそこ楽しかったです……安室さん、会わないうちに痩せました?」
「うーん、少しだけ体重が落ちたかも。ここのところ試作品をたくさん食べているので、ランニングしてるんです」
 恵から予想もしなかった言葉が飛び出して安室は目を丸くした。困ったように笑うと、恵の体を引き寄せる。相変わらず距離が近いと恵は身を引きかけたが、繋がれた安室の手を振り払うことはしなかった。
「……いや、不規則な生活してましたね? 締まったって感じの細さじゃないです」
「ええっ……。わ、わかっちゃうんですね……」
 まじまじと眺めてみれば、やつれたというのが近いような印象を受けて恵は探りを入れた。懐疑的な視線を向けられた安室は素直に白状する。鋭く射抜かれても、恵が自分のことに気づいた嬉しさが勝って、安室はすぐに相好を崩した。
 安室が送迎を買って出たため、恵はトランクに日用品の入ったバッグを詰めた。大抵の荷物は配送サービスを使っているため軽装だ。
 このままどこかへ行かないかと口にする安室は、遠くを見るような眼差しをしていた。
「恵さんが日本にいない間に、色んなことがあったんですよ」
「色んな事……? 年に一度は必ず大規模な爆発が起こるような地域ですから、何を言われても驚きませんよ」
「はは、爆発して建物がダメになっても懲りずに新しい施設を作る企画が上がるくらいですから、盛んな街ですよね」
「本当に……ていうかまた爆発したんですか?」
 二人を乗せた車は都心を離れて行った。
「爆発っていうか……テロですね。……ある犯罪組織が解体されたらしいです」
「こわ……日本にいなくて良かった……」
 帰国早々に物騒な方向へ話題が進んで恵は震える。恵の性質はたった一年と少し国外へ出ていただけでは変わらないらしい。耐えきれず安室は声を立てて笑う。
 恵の期待を裏切るべく、安室は穏やかな話題を選ぶことにした。恵も、相変わらず多弁な安室の話に始終耳を傾けた。
 安室は高台で停車した。エンジンを切り、車を降りる安室に恵もならう。助手席側からは都会の街並みを見下ろすことができた。目の前に広がる壮大なビル群に恵が圧倒されていると、安室が隣へ来て車に背中を預けた。
「本当はね、水族館だけじゃなくてもっと色んな場所へ行きたかったんです。二人きりじゃなくてもいい、コナンくんや梓さん……僕の知らない貴方の友人や、貴方の知らない僕の友人なんかを連れて、楽しい思い出が欲しかった」
 安室がしんみりとした声で話す。
「……今からでも遅くないじゃないですか。コナンくんとか、コナンくんと仲のいい子供たちとかを誘って行きましょう」
「コナンくんは、恵さんと入れ違いになる形で、親御さんの下へ帰ったんですよ」
「えっ……そうなんですか……!?」
 思わぬ情報が投下されて恵は思わず声を張る。はっとして口を押える恵を、安室は微笑ましそうに見つめた。
 組織の壊滅に一役かったコナンとの別れは安室も名残惜しいものがあった。入れ替わるように高校生探偵として名高い工藤新一と知人になったが、実情がどうであれ、コナンを失った寂しさは安室透には大きいものだった。
 その気持ちを恵と共有できたことが、かすかな救いだ。
「楽しかったなあ。何でもない日々でしたけど、僕にはかけがえのない毎日でした」
 短い人生を振り返るように安室は口にする。恵は安室の意図を知らない。
「貴方にずっと言いたかったことがあるんです」
「安室さん……?」
「だけど結局言えず仕舞いだ」
 とうとう泣き出しそうな顔をした安室が恵の手を取った。そして顔が近づいていく。
 視線を彷徨わせた恵は耐えるように唇を噛んだ。落ち着かない気をおさめようとして取られた手を無意識に握りしめる。そのせいで安室の手が自分よりもずっと骨ばって固く、男らしいことに気づいてしまった。殊更安室を意識してしまい恵の頬に赤みが差す。
 互いの鼻先が掠る。触れたことすらわからないような、やさしい口づけをされた。呼吸を溶かすように、呼吸に溶けるように、幾度も降ってくる唇に恵まで泣き出したい気持ちになる。
「恵さん、約束してくれませんか」
「なにを……?」
「僕のこと、また、見つけて……」
 そして安室はふたたび唇を塞いだ。



 組織が壊滅したことで降谷が表で活動する時間が増えると、必然的にバーボンと安室が裏≠ナ会話する機会も増えた。果てしなく広がる白い空間はバーボンが持つ心象風景とも、安室が持つものとも違う。ずっと雨雲が垂れ込めていた景色が嘘のようにクリアになっている。
 自分たち以外に何も存在しないただ白一色の空間を、バーボンも安室もことのほか気に入っている。
「結局伝えないんですね。それで満足なんですか?」
 バーボンが問う。手袋を装着しない長い指先が頬に添えられていた。バーボンの問いを受けた安室もまた、手を顎に添える。同じ顔を持ち、どちらも考え込むような動作をするが、与える印象がまるで真逆なのは奇妙なものだ。
「いいんです……言葉にしなくても伝わっていますし。僕は彼女の初恋をもらえただけで満足することにしました」
「初恋って……いつになく強気ですね……」
「ふふ、恵さんは人付き合いが浅い人だから、彼女を一番大切にした僕が消えればきっと一生ものの傷になりますよ。これから先、彼女が零を好きになることがあっても僕は超えられない」
「……さては、自暴自棄になってますね? とびきり厄介な人間に好かれて、彼女が不憫に思えてきました」
 安室が初めて我を覗かせたことにバーボンは目を瞠った。まさか、恵の後ろ髪を引く言動の裏でそんなことを考えていたとは。優しく、与えるだけの人格だけだったはずが、消滅を間際にして新たな個性を形成しているらしい。
 バーボンは片割れの可能性を見出して、そしてそれ以上は考えるのを止めた。バーボンの役割はとうに終わっている。安室に悔いがないのであれば訪れる人格統合という未来は変わらないままだろうが、過程で安室がどうなるかをバーボンが懸念することでもない。
 他人事のように感想を述べれば、安室はむっとしたような顔をして反撃に出る。
「そういうバーボンこそどうなんですか。君だって恵さんのことは大事にしてたでしょう」
「ああ、まあ……」
「煮え切らない返事ですね」
「大事、でしたよ。でも、それ以上に僕は零を優先すべきでしたから」
 徹頭徹尾自分の在り方を曲げないバーボンに、今度は安室が苦笑を漏らす。だが、最後まで自分の務めに徹し、こなし切ったバーボンのことを安室は純粋に尊敬した。安室では叶えられなかったことを、同じ顔をした違う男はやってのけたのだ。
「バーボンも大分拗らせてますよね。言っておきますけど、僕が恵さんにばかり構っていたのは、君が恵さんを切り捨てたからでもあるんですよ。わかってます?」
「……言われなくとも」
「ならいいですけど。それで、満足はしたんですか」
「欲しい言葉はもらえました」
「良かったですね」
「ええ」
 バーボンの悲願が叶えられたことを、安室もわがことのように喜ばしく感じる。
 安室とバーボンは微笑んだ。互いに満たされたことで、条件が揃ったことを口頭で確認したのだ。
 解離性同一性障害という症状に対する効果的な治療薬というものは存在しない。投薬治療は行えるが、昂った感情を落ち着かせるなどといった、安定的な精神をつくる環境づくりしか効果を望めない。人格統合のための堅実な手段は、人格を分けるに至った原因を解消することや、主人格や交代人格が人格を分けずにいてもいいと安心を得ることなどだ。
 バーボンも安室も、降谷零に自分達は不要になったと判断し、また消えるのに悔いはないと思えるようになった。いつでも戻れる、そうバーボンは笑う。
「どんな感覚でしょうね。僕は……零として、また生きることができるのかな。……何だかんだ、僕も零には幸せになってほしいと思ってるんです……僕が戻って大丈夫かな」
「戻ってみなければわかりませんよ。でもきっといいものでしょう、この景色のように」
「そうですね……そうだと、素敵です」


-8-


prev
next


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -