07




 恨まれることばかりしてきた自覚はある。犯罪者なのだから当然だ。
 ときに恐怖を使って、ときに権威を使って、あらゆる方法でその恨みを消しながらここまでやってきた。それでも、抑えきれないものがあったということだ。
 バーボン個人に恨みを持っていた人間に襲われ、被弾したバーボンは壁に体を預けながら歩いていた。
 相手はバーボンを罠にはめたと思っているのだろうが、バーボンは陥れるための準備が行われているのを別の情報筋で掴んでいた。掃討作戦の直前に実行されては堪らないと、自ら敵陣に乗り込んでいったのだ。
 弾を食らうつもりはなく、一方的に鏖殺するつもりだった。事実、バーボンは敵方を全員始末している。
 組織の人間が見ていれば驚きから目を瞠ったことだろう。単身で乗り込み、勝手の知れた相手の陣地で猛攻するバーボンは鬼神の如き様相だった。情報を武器に暗躍する、頭脳派として行動するバーボンからは想像もつかない光景のはずだ。
 負傷したのは、たった一つの想定外によるものだった。現場に一人だけ見慣れない顔がいた。記憶力に長けるバーボンが、既視感を覚えはしたものの結局だれだか思い出せなかった。その不審さにもっと注意を払っておくべきだったと後悔する。
「あれは、確か……ジンの子飼いでしたか……」
 小柄な人物は、何度かジンに付き添って組織に出入りしていた。すぐに思い出せなかったのは印象操作をされていたからだ。子飼いが自動発砲するように組み上げた仕掛けに捉えられバーボンは被弾してしまったのだ。
 大方、秘密主義で協調性のないバーボンへの疑いを捨てきれないジンが、計画を耳に挟んでバーボンを探るために敵方へ貸し出したのだろう。あわよくば殺してしまえとでも言ったに違いない。バーボンは舌打ちする。
 既に応急的な処置は施しており、病院に駆け込まなければならないほど緊急を要する事態には至っていない。ひとまずは安全な場所へ身を隠すことが重要だ、いつまた子飼いが追ってくるかわからない。それのみでバーボンは弱る体を動かし続けていた。
 ここまで来れば大丈夫かとバーボンは路地の暗がりに身を潜める。息を吐くと撃たれた腹部が重くなった気がした。今はまだアドレナリンが分泌されているため痛みを感じないがじき痛みだす。朝まで意識を保っていられるか。バーボンの額に汗が伝う。
 夜が明け始めたら協力者に傷の処置を頼まなければ、と考えていたバーボンは、人が歩いてくる音を拾って息を殺した。地を叩くような軽い音、時折引っ掻くような動作も感じられる。ヒールを履いた女性のものだ。子飼いが追ってきたわけではなさそうだとバーボンは息を殺したまま音のする方へ意識を向ける。
 歩いてきたのは恵だった。動揺はしなかった、心拍すら停めたのではないかと思わせるほどバーボンは見事に自身の存在ごと音を殺す。だというのに恵はバーボンを見つけた。
「! っ……、……えっ?」
 バーボンとしっかり視線が交わったものの、声をかけるなと言ったバーボンとの約束を守ろうとして恵は目を逸らす。だが、見るべきではなかったものまで見てしまった恵は驚きと共に再びバーボンへ視線を戻してしまった。そしてあろうことか近づいて来る。
 学習能力のない、とバーボンは内心で舌打ちした。危険な状況に陥るのを厭うくせに、バーボンを放ってはおけないらしい。
 被弾した腹部がおびただしい量の血で染まっているのを確認した恵は息を飲む。しゃがみこんだ恵の心臓が早鐘を打っているのがバーボンの耳にまで届いてきた。
「放っておいてください、あなたには関係ない」
 恵が何かを口にする前に、バーボンは突き放すように言う。
「放っておけるわけありません」
「貴方の都合は聞いていないんですよ。いいからすぐに……」
「傷口は? 深いんですか?」
「……僕が危機の渦中にいると見てわからないんですか? 応急処置はしてありますから問題ありません。いいから、ここを離れて、家に帰りなさい」
「でも」
「くどい。貴方に心配されてどうこうなるものじゃない」
 かつての降谷と同じ言葉でバーボンは恵を突き放す。降谷が過去に行った拒絶と同じ言葉を選べばバーボンが本気で恵が立ち去ることを望んでいると伝えられる、そう考えたのだ。ところが恵はバーボンの予想に反して引かなかった。
「じゃあどうして私の家の傍なんて通ったんですか……!」
 挑発を買った恵は目を吊り上げて怒りを露わにする。
 恵の言葉は耳に痛かった。恵に助けを求めていたわけではなかったが、被弾した現場はここから近いわけではない。行く当てのなかったバーボンがわざわざ恵の自宅周辺まで来てしまったのは、無意識に恵の影を探していたからだ。
 恵にどうする力がなくとも、バーボンは恵に一目会いたかった。
 馬鹿々々しい、とバーボンは自らを嘲笑した。わざわざ恵を怯えさせてまでバーボンから遠ざけようとしたのは恵の安全を考えたためではない、掃討作戦までに気を緩めることがないよう自分を戒めたつもりだったのだ。
 たかが腹を浅く銃弾が掠った程度で決断を翻すとは。情けなさに笑うことしかできない。
「……銃弾は貫通しています。出血は多いですが緊急性のある傷の処置は一通りできる、本当です。だから救急車は呼ばなくて構いません……」
「それは……すごいですね、良かった……」
 恵の剣幕に降参した姿勢を取ると、バーボンは恵が落ち着くようにきちんと説明した。脱力する恵を見て、バーボンも固い表情を弛緩させた。
「もしガーゼを持っているのでしたら分けていただけると助かります。手持ちだけだと止血が不十分で」
「痛み止めとかは要りますか? 要るなら買ってきます」
「薬に耐性があるのでろくに効きません、無駄になるので結構です。それより少し休ませてもらえますか……」
 暗に家に上げろと言われていることを察して恵は頷いた。路地の外壁に背中を預けて座り込んでいるバーボンの補助をするべく手を差し出すが、バーボンは首を横に振る。自力で歩くだけの体力はある、と言いたげだった。
 代わりに所持品を持てと言わんばかりにバーボンは恵のバッグへ救急用品やらスマートフォンやらを入れていく。
「これも持って」
「はい、……う、わ」
 一つだけ恵の手に荷物を持たせる。バーボンが愛用する銃だった。月の光を受けて鈍く光るシルバーは先日恵の米神に当てられたものだ。
 途端に真っ青な顔をする恵を見てバーボンはおかしそうに笑った。すぐさま腹部に痛みが走ってまた顔を歪めた。
 物騒な物を渡されて戸惑えばいいのか、自分を笑って痛みに襲われるバーボンに呆れればいいのか、どうすればいいかわからず狼狽える恵は意気地のない声を絞り出す。
「バ、バーボンさん、これ……どうしろって……」
「まだ敵が傍にいるかもしれません。そのときはお願いします」
「そんなあ……」
 そんな状況になれば傷口が広がっても恵から銃を奪い応戦するが、バーボンはやり場のない腹立たしさを紛らわすために、どこまでも無害な人間をからかって遊ぶことにした。

 神経過敏な恵はそうそう怪我をしない。申し訳程度に準備したまま触ることのなかった救急用品は未使用だったが、バーボンの出血に対応できるほどの用意はなかった。そのため恵は結局近隣住民を訪ねてガーゼ一式を分けてもらえないかと頼み回ることになった。
 一人きりになった恵の自宅でバーボンは考える。バーボンは、自分が恵に甘いことは理解していた。安室が好いた人間だ、殺すのは忍びないと思ったのは嘘ではない。だがそれだけでないのもまた事実だ。
 バーボンは自分の務めを理解しているが、降谷という正義感の強い男から生まれた以上、人を殺すことに呵責がないわけではない。人を殺せる人間を、そうでない人間が恐れることも理解できる。だから、初めて会った夜、死体の処理をしているバーボンを見た恵は恐怖に怯え、悪行を非難し、バーボンを嫌悪するだろうと思っていた。
 だがバーボンを見た恵の瞳は有り得ないほどに澄んでいた。自分に迫る危機に怯えはしても、バーボンのことを否定はしなかったのだ。恵の異常な行動の真相が、人嫌いで他者にかける温情がなかっただけだったとしても、バーボンにとって恵の反応は救いだった。降谷にすら未だ受け入れられない、バーボンにとっては。
 あの夜から、恵はバーボンにとっても得難い人間だったのだ。今晩ここへ来なければ死ぬまで理解できなかっただろうことをようやく実感した。
 同時に複雑でもあった。バーボンが恵に向ける感情は安室と同じものではない。バーボンは恵に焦がれているが、降谷にはかえられない。降谷の行動によっては、また恵への苛立ちを募らせることになる。
 バーボンはもどかしさから目を背けるように瞼を下ろした。



「……海外勤務?」
「そう、先方から指名があってね。これでウチも世界進出! どうかな」
 どうかな、じゃない。恵は目の前で光る肌色の頭を思い切り叩きたくなった。
 取引先と大きな物件を扱うことになった。この事業が成功すれば、事業拡大の足掛けとなるらしい。どれくらい長期の仕事になるかまだ見通しも立たない状況だが、まずは半年チームを派遣して経過を見ることが取引先で決定したと言う。連絡役も兼ねて、恵の会社から一人随行することになった。取引先から資金援助があるから断る理由はない。
 本社の呼び出しを受けて来てみれば、突然そんな規模の大きな話をされ、目を点にしていたら、次いで飛び出たのが先の言葉だった。
 恵はどうして自分が指名をされたのかわからず、急に言われても困る、と思い切り迷惑そうな顔を作る。上司はにこやかに話を続けた。
「台湾は親日国だし、チームにはバリバリ中国語話せる人がいるみたいだから心配しなくていいよ。女の人も半数いるみたいだし、あ、英語は話せるよね?」
「高校で英語ごと卒業しましたし覚えてませんけど」
「じゃあ大丈夫だね」
 どこがだ。恵は嫌味に光る脂の乗った球体を睨んだ。
 恵の話を聞く気もない様子の上司から、もしかするとすでに恵が同行することすら決定事項なのかもしれないと予想する。本社には、それこそ海外資本の会社とも取引する有能な営業が何人もいたはずだが、恵に白羽の矢が立ったのは妙だ。
 作為的なものを感じてだれの推薦か訊ねたが、上司は見るからにわかりやすい誤魔化しを続けるだけだった。
 とにかく、まずは取引先のチームの人間と連絡を取り、海外勤務に必要な準備を整えることにした。支社に戻って事情の説明や引き継ぎの準備にもかからなければならない。
 午後休あげるよ、という上司の厚意を恵は迷惑料として有難く頂戴することにした。
 米花支社へ戻ると、恵は支社勤務の社員に囲まれる。
「ということなので、米花支社さようなら、有意義な数年でした」
「だれよりも米花町を住み慣らした女が先に消えるとは……」
 幼馴染兼同僚の言葉に支社勤務の社員面々が悔しさで涙した。場のだれもが、まず米花支社と別れを告げるのは自分だと思いながら働いていたのだった。



 仕事の引継ぎを大方終えた恵は、余っていた有給を消化してポアロを訪れた。通い始めた頃はランチばかりで、最近はディナーばかりだった。そういえばモーニングはまだ食べたことがないと思い立っての行動である。
 ポアロで食事をとった後は、海外勤務で必要な物を揃える最後の買い物をする予定だ。恵は慣れたようにポアロのドアを潜った。
「いらっしゃ……あら恵さん、モーニング? 珍しい」
「おはよ」
 まだ眠そうな顔をしていることを梓に指摘され、有給にかまけて外出間際まで寝ていたことを白状する。
「モーニングのメニューってどんなのがあるの? お腹空いちゃった」
「結構色気より食い気なところあるわよね、はいメニューどうぞ」
「ありがとう」
 恵が初めて見るモーニングのメニューと睨み合っていると奥から安室が現れた。おはようございます、と挨拶をする安室は朝から眠気が飛びそうな明るさを纏っていた。安室の笑顔は、夏は涼し気に見えて冬はあたたかさを感じるのだから不思議なものである。
 朝の日差しが舞い込む喫茶店は心地がいい。平日朝から喫茶店で羽を伸ばす贅沢に味を占めそうだ、と考える恵を、安室はにこにこと見守っていた。梓はやはり生ぬるい視線を飛ばしている。
「そういえば私、海外勤務になったの」
「ええ!?」
 べちょ、と梓が箸で掴んでいたトースト用の食パンがボウルの中へ戻っていく音が聞こえてきた。梓はフレンチトーストを作るのは二の次と言いたげに恵へ詰め寄る。
「い、いつ! いつから!?」
「明後日」
「明後日!?」
 突然の話題と急すぎる予定に梓は動揺してばかりだ。安室はさして驚きもしなかったようで、梓が放り出したフレンチトーストを代わりに焼き始める。
 明後日までは有休を消化して台湾へ発つ準備を整えることになっていると言えば、梓はわなわなと口を振るえさせ、両手を頬に添えた。
「そんなの、お別れ会をする暇もないじゃない! どれくらいあっちにいるの……?」
「まずは半年って言ってたかな」
「もう……! どうしてもっと早く言ってくれないの、ねえ安室さん!」
「そうですね、寂しいです」
 安室は淡白に返事した。
 安室に好かれている自覚がある恵は、安室にこそ過度な反応を示されると思っていた。それがない、むしろ初めから知っていたかのような気配さえ感じられる反応を鑑みると、出所不明の推薦は安室かバーボンか……三人目の手回しによるものか、と得心がいく。
 恵に見つめられていることに気づいた安室はただ眉を下げた。謝罪するような、宥めるような色が込められた表情に恵は押し黙る。問い質し、返答次第では責めようかとも思ったが、視線の色だけで安室にとっても本意ではない結果なのだとわかってしまった。
 恵の予想が真実だったとして、一個人がどのようにして職場に影響を及ぼすことができたのか不思議なものである。
 安室の立場、安室が持つ権力、安室が持つ秘密について、想定こそすれども恵は正確な情報を持たない。恵が知るのは、三つの人格が存在するという秘密や、人格それぞれの性格や特徴といった、ごく個人的かつ限られたことのみなのだ。
 だが、安室が非常に能力の高い人物であることもまたよく理解していた。安室であれば何をしていても驚きはしない。恵を海外へ飛ばすことだって可能だった、それだけの話なのだろう。海外へ追いやることにも理由はあるのかもしれないが恵は知り得ないことだ。
『私たちはどこまでも他人です』
 以前、風見にそう叫んだことを思い出す。こんなときに思い出したくはなかった。
 恵は差し出されたフレンチトーストにフォークを刺し入れる。ふんわりと焼き上げられ、所々焦げのあるフレンチトーストを食べると、砂糖の甘さと焦げた部分のほろ苦さが舌いっぱいに広がった。



 降谷は警察庁のビルから街を見下ろした。外から内部の様子が覗けないように加工されたガラスは、降谷の正体を組織から隠すための有効な盾となる。
 長年追い続けた組織、その掃討作戦のために、一か月ほど降谷は警察庁に箱詰め状態にされていた。必要なものは風見をはじめとした公安職員が調達してくる。降谷はこれまでの知識と経験を十二分に生かすことを期待されている、余計なことに気を割かずに済むよう配慮されているのだ。
 とはいえ、もちろんバーボンと安室は外へ出ていた。安室は恵が海外へ発った日からほどなくして長期的な休暇を申請した状態だ、と降谷はバーボンに聞かされていた。
 恵を海外へ出すことにしたのは降谷の判断だった。
 恵との繋がりを知られ、質に取られでもすればまともに指揮を執れる自信がない。それが、冷静に自分と向き合った結果に降谷が導き出した結論だ。恵は、もう十分すぎるほどに降谷の懸念材料になっていた。
 降谷はこれまで自身に疑問を覚えたことはない。たとえ恵と国を天秤にかけられても国を選ぶと自信を持って断言できる。だが解離性同一性障害という、精神的に不安定な面を抱える事実をもう看過しないと決めたのだ。降谷の精神はまだ安定していると呼べない。最終的に国を選べたとしても、躊躇しない自信まではなかった。
「降谷さん、準備が整いました。作戦決行できます」
「……わかった」
 風見が背後から声をかける。振り返り、降谷はゆるく微笑んだ。
「これまで迷惑をかけたな、風見」
「いえ。降谷さんを支えることが私の仕事です」
 降谷が労うと、恐縮だと言いたげに風見は身を固くする。
 バーボンを危ぶみ、日々を過ごすのもままならなかった降谷を支えたのは風見だ。風見が緩衝材として良く機能したからこそ、降谷は再びバーボンの話に耳を傾け、バーボンに敵意がないことを認めた。
 風見の肩に手を置くと、感動から風見の張り詰めた顔がわずかに崩れる。
 降谷はこれから人格を交代し、その足で組織へと向かう。バーボンとして掃討作戦を迎え撃ち、混乱に乗じて内部から警察を手引きするのだ。最後にはバーボンとして舞台から姿を消す。これが最も適切で効果的な作戦だと結論を出した。
 降谷は一足先に警察庁を出た。警察側の手配が終わり、突入を開始するまでにはまだ数時間の余裕がある。それまでに降谷は結論を出さなければならない。
 バーボンの衣服に身を包み、目を瞑る。もはや脳内で会話する方法はバーボンによって明らかにされていた。暗闇の中で降谷は二人に声をかけた。


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