06




 黒ずくめの服を纏うことが組織の規律となっている。表社会に出る場合はその限りではないが、組織に入れ込む人間ほど黒を身に着けることへのこだわりを持っていた。
 組織内の常識は、組織外の人間にさえ浸透している。組織を暗喩する交渉や組織の機嫌を取りたいとき、ケースや布、宝飾品に至るまでが黒に染め上げられ、売買された。
 バーボンは組織きっての探り屋、情報収集のプロとしての地位を確立している。場に馴染むための変装は不可欠であるため、状況に応じて黒以外を纏うことも多い。それに関して、一部にでも黒を取り入れるよう口を酸っぱくして言う組織の人間もいたが、バーボンはどこ吹く風と聞き流していた。組織に染まりきっていない意思を自己満足程度に示していただけだったが、ジン以外は渋々折れるのが決まりとなっている。
 だがこの日だけはバーボンも意識して全身黒服を纏った。組織と繋がりのある富豪との密談が予定されていたのだ。幹部として出向く以上、組織の人間であることを主張しておいた方がいい。
 収縮色である黒は、鍛えられることで無駄な贅肉を落とし切ったバーボンの体をより細身に見せる。しなやかな体躯をしたバーボンが夜の街を歩くと様になった。気配を殺して動いていなければ、あらゆる人の目を惹いただろう。
 バーのドアを開いて中へ入る。洒落た内装の店だ。入店に気づいたバーテンダーが声をかける。
「マスターのオリジナルを」
 バーボンが口にするとバーテンダーはにっこりと微笑んで、バーボンをカウンターではなく奥の個室へ案内した。
 通された個室には既に先客がいた。初めて顔を見るが相手の素性はわかりきっている。
「随分と魅力的な、名前に相応しい雰囲気の方だ」
「フ……お上手ですね」
 望まれた通り色気のある笑顔を向けてやれば、富豪はすぐさま相好を崩した。どうやらバーボンのような優男然とした男は好ましいようだ。やりやすい仕事が回ってきたものだとバーボンは薄ら笑う。
 バーボンを案内したバーテンダーは消え、別の店員が入室した。未開封のボトルとグラスを持っている。富豪の男とバーボンが各々のグラスを手に取り、手持ちのクロスでグラスを拭う。ワインが開栓される音を確認して、目の前で注がれる液体を見つめる。
 裏社会では飲食物を通した暗殺は当然のように行われる。組織と富豪の間にある縁がいかに深かろうと、バーボンと富豪は初対面だった。毒物を警戒しグラスを拭うのはむしろ互いの潔白を示すための礼にもなる。
 バーボンへの敬意を込めて富豪が先にワインへ口をつけた。一口目を飲み干したのを見届けてからバーボンもワインへ口をつける。舌に芳醇な香りが広がっていった。
「前祝い、と思っても?」
 富豪がバーボンの顔色を窺いながら口にした。
「ええ……まだ幾分か先ではありますが、夢想の日々と比べれば、手に届く未来というのはかけがえのないものでしょう」
「もちろん。待ち望んだ日が漸く……ああ、感慨深い」
 満足げにグラスを傾ける富豪をバーボンは笑顔のまま眺めた。感動で気が大きくなったのか、中身を飲み干したグラスをすぐにまたワインで満たすと、富豪は饒舌に話し出す。
 初めは密談の場に相応しく、裏社会の情勢などを掻い摘んで話していた程度だった。だがバーボンの絶妙な相槌で富豪の飲み方に拍車がかかり、話題は多岐に及ぶ。己の無知を恥じるような表情でバーボンが問えば、自尊心を擽られた富豪の調子は増すばかりだ。
 これまで組織へどれほどの貢献をしてきたか、組織形態の変遷について、組織内部にも自らのコネクションを築いていること……自らの価値を誇示するような内容へ変わった富豪の話を聞き洩らさないようにバーボンは神経を集中させる。酔いが回った富豪は、バーボンの目にあやしい光が宿っていることに気づかないまま話し続けた。
「ところで……最後の仕上げをするのに、どうにも資金が不足しているのだとか……。このままでもいずれ完成はするでしょうが、一日でも早く、と望まれるのであればお力添えいただけますか」
「当然だよ。必要な物があれば何でも揃えよう。この世界は陰気な人間が多くて鬱屈とするが、君のような、華やかな男の頼みであれば惜しまないとも」
 身なり、所持品、懇意にしているバーの雰囲気などから、富豪が高級志向であることは窺えた。容姿の整ったバーボンは相当富豪の気に召したようだ。
 にっこりと微笑んで、バーボンは懐からリストを出す。組織からの発注を受け取りながら、富豪は未だ「君やベルモットのような人間が増えれば私も嬉しいのだがね」と愚痴を零している。富豪の夢は叶うまい。
 組織は世界中にあらゆる資金源を持っているが、とりわけこの富豪は財界の大物で、組織と親密な関係にある。
 富豪は、政界にも癒着していることが前々から指摘されていた。決して逃してはならない魚だ。組織と繋がりがある証拠を作り、舞台から引きずり下ろさなければ。バーボンは空いたグラスを置いた。
「名残惜しいですが……貴方から快い返事をもらえたと組織へ報告しなければいけません」
 バーボンは富豪に向かって微笑む。富豪もまた、微笑みを返した。傍らに置いていたグローブを手に取り立ち上がったバーボンを見て、満足げな顔をしている。
「一秒でも早く支度を整えて、全てが終わったとき、また喜びを分かち合いましょう……」
「是非とも。君のことは気に入ったよ、ではまた」
 席を立った富豪が握手を求める。分厚い皮が、バーボンの手を熱っぽく握った。
 富豪と別れ、バーボンはバーの外へ出た。夜風が体温の上がった体を撫でて心地いい。富豪との会話を思い出し、我ながら良くあそこまで口が回るものだとバーボンは自嘲した。

 組織へ戻った足でそのままウォッカの付き添いをすることになるとは思わず、バーボンはウォッカの運転するバンの助手席でアームレストに肘をついていた。
 幹部は、要事にはツーマンセルで行動することが多い。ジンが不在にしたためバーボンに役柄が回ってきただけだが、幹部二人が出向く必要がある任務は一つでも多く把握しておくべきかとバーボンはひっそり溜息を吐く。
 多少酒が入った程度で他人に弱みを見せるつもりは更々ないが、任務の内容によっては支障をきたすかもしれない。場をもたせる意味もあってウォッカに少々飲酒したことを告げれば、ウォッカは不敵な笑みを浮かべた。
「酒に酔わされるほど柔には見えねえぜ、バーボン」
「僕だって酔ったつもりはありませんよ。任務の内容を聞いていないので、支障があるかと思って言っただけです」
「武器の引き取りを行うだけだ、心配要らねえさ」
 ジンをアニキと呼び慕うウォッカは、組織内でも情に厚い部類の人間だが、他の構成員を相手取れば隙のない悪人としての気配を色濃く纏う。幹部の中でも一線を画すジンと共によく任務に当たるためか、ウォッカの持つ重圧感は凄まじいものがあった。
 ここにいたのが降谷であれば、警戒の仕方からウォッカに素性を悟られたかもしれない。まだどこか酔いから醒めていないのか、バーボンはありもしないことを考える。
 それでも、ウォッカはジンほど強い警戒心をバーボンに対して抱いていなかった。ジンは疑わしきは殺す大胆で強引な男だが、些細な違和感を見逃さないのは繊細さも併せ持つからだ。傍にいるウォッカまでもがそうとは限らない。
 他人が、加えて犯罪組織の幹部が運転するという、命を他人に握られている感覚を刺激にしながらバーボンは意識を保っていた。じき酔いも覚めるだろう。
「ここだな」
 ウォッカが倉庫街の前でバンを停める。
「取引相手は何という呼び名で?」
「チンピラの集まりらしい。使い捨てにするそうだ」
「へえ、名前もない小さな組織ですか。面倒事にならなければいいですがね……」
「アンタ舐められそうな見た目だからな、気をつけた方がいいんじゃないか」
「怖いですね。頼りにしていますよ、ウォッカ」
「ハハッ、良く言うぜ」
 バーボンは銃を腰に差し、マガジンの予備も手にした。ウォッカも同じようにスーツの内側を確認している。バンのドアを閉める音が夜の静かな空気に溶けて消えた。
 倉庫の中へ行くと五人ほどの男が屯していた。裸電球に照らされる倉庫内で、武器が収まっているらしい物体は、木箱が数個とカーボン製のガンケースがいくつか見えるのみである。木箱は良く見れば組み方に違いがあり、複数の国から仕入れたことが窺えた。
 一度に大量の仕入れができないと見るか、各国に伝手を作る途上の組織と見るか。バーボンは男たちを観察しながら、挨拶もそこそこにウォッカと中身の確認を行う。
 木箱に詰められた小銃の一つを取る。手入れはされているか、品質に問題はないか、注文した数は揃っているか。丁寧かつ迅速に作業する二人を、男たちも黙って眺めた。
 ウォッカがガンケースへと手を伸ばしたとき、男の一人が痺れを切らす。
「なあもういいだろ。ちゃんと物は揃えてる、ご希望通りにだ」
「確認はちゃんとする、金を払う以上それが仕事だ。文句があるってんなら聞くけどな」
 男の言葉に憤る様子もなく、目線を合わせないままウォッカは話した。ただ威嚇代わりの殺意を発したため、質問した男は慌てて訂正する。
「文句じゃ……ただ、その、あんたら相当でかい組織みたいだが、やけに細かいもんで気になっただけさ。そこの兄ちゃんみたいにお綺麗なのも来るもんだからよ! 本当にあの¢g織なのかって思っちまったんだ」
「こっちは確認終わりました。問題ないとは思いますが、使い物になるか試し撃ちしてみましょうか……」
「ヒッ……!」
 バーボンを軽んじた男に、失言を繰り返しただけだと警告を込めて持っていた銃を向ければ、男は小さな悲鳴を上げた。ウォッカとバーボンが放った殺気は、当人達からすれば猫がじゃれ合う程度のものだったが、小悪党の身を竦ませるには十分すぎる。
「お綺麗な顔してる奴こそ恨みを買うと怖いもんだ、気をつけな」
「ウォッカ?」
「冗談だ。遊ぶのもほどほどにしてやれ、バーボン。載せてくる」
 三人がウォッカの指示に従って木箱を持ち上げる。バーボンは残った男の一人へ、出て行った武器の分だけの金を渡して、ウォッカ達が残りを取りに戻るのを待った。
 木箱の上に胡坐をかいて座っている男からの視線を感じる。バーボンはその男から顔を逸らすようにして立っていたが、静かに過去の記憶を手繰った。追われて整形でもしたのか肉付きが異なっているが、見間違いでなければ、幼い頃に同じ区画に住んでいた少年の面影がある。──降谷零を知っている人間だ。
「あんたさ、どこかで会ったことあるか?」
「いえ。悪いですが、そういう趣味はないんですよ。諦めてもらっても?」
「ちげーよ……どこかで見たことある顔だなって、どこだったかな……」
 考え込む男の気配を探る。金を渡した男は、入り口でバンに武器が搬入されているのを眺めているようだった。男が思い出すようなことがあれば、口封じをする必要がある。
 男の方を向くと、ここぞとばかりに男はバーボンの顔を見た。
「ああ、ガキの頃よくケンカしてた奴に似てんだわ、あんた」
「へえ……そうなんですか?」
「金髪で青い目だからそう見えるだけかもなって思ったけどまさか本人か? 確か……」
 降谷零、幼馴染にはゼロと呼ばれていた昔のあだ名を男が口にしようとしているのだということは、考えずとも理解できた。あだ名で得られる情報などたかが知れているが、ウォッカの前でゼロという呼称が出るのは問題がある。
 殺すならウォッカのいない今しかない。理由もなく発砲した事実を揉み消すためにもう一人の男を殺し、証拠を隠滅する意味でもだ。
 男の口が音を出す前に、バーボンはサイレンサー付きの銃で男を殺した。眉間に一発、胸部に一発。近い距離にいたため一ミリのずれもなく被弾している。
 入り口に立っていた男が顔色を変えて自分の銃を構えたが、バーボンは男の手首に発砲して銃を地面に落とさせた。次は、銃を拾おうとする男の脚を狙う。手首だけでなく脚までも負傷した男はバランスを崩して倒れ込んだ。
「な、何の真似だ!」
 バーボンが二人目までも手にかけたとき、戻ってきた男達が転がる二人を目にして血相を変えて叫んだ。身を守るために銃を引き抜こうとしたが、それよりも早くウォッカが懐から出した銃を構える。
 バーボンとウォッカに牽制されて、三人の男達は言葉にならない唸りを発しながら両手を挙げる。
 相手を優位に立たせないように拳銃を構えたものの、ウォッカは男達をすぐ撃つ気はなかった。現状把握を優先したウォッカがバーボンを問い質す。
「バーボン、何してやがる」
「小者が二匹、死んだところで問題ないのでは?」
「煽るのはやめろ、それじゃこいつらも納得しない」
「親の言うことを聞けない子供には躾をしないと」
 頑なに殺意ばかりを撒き散らすバーボンが、ウォッカを見る目をぎらりと光らせ、残った男に向けられた銃の引き金をわずかに引いた。
「らしくねえな……何があった」
「……流石の僕でも気が収まらないことがあったと思ってください」
 冷静なバーボンが問答無用に相手を殺した事実に驚愕するものの、尋常ならない殺意を纏う様子にウォッカはそれ以上問い質すのを止めた。
「このままそいつに殺されたくなけりゃ、馬鹿な仲間が消えて良かったと思って金持って消えるんだな」
 溜息をつくようにして銃で散らばった金を指すと、男達は悲鳴を上げながら金を掻き集める。逃げ腰で走っていくのを見送って、ウォッカもバーボンへ声をかけた。
 バーボンの威圧感が車内を満たしていく。バーボンの機嫌をどうやって戻そうかとウォッカは考えるが、しばらく考えて、口達者なバーボンが満足する言葉をかけられると思えずに止めた。
 そうそう気を荒立てないバーボンが荒れているとなれば余程のことがあったに違いない。藪を突く気はなかった。
 エンジン音が鈍く響き渡る。ウォッカの気の重さを反映するかのように、銃を載せたバンを操作するハンドルが重く感じる。
 バーボンはウォッカを誤魔化せたことに胸を撫で下ろしていた。



 外出は控えるというバーボンとの約束を恵は守り続けた。弱っていた降谷の様子を思えば胸が痛んだが、バーボンの言葉は最終通告のように感じられた。あのとき向けられた怒りの眼差しは本物であったように思うのだ。
 ポアロは行っても構わないと言われたが、気が進まなかった。思えば、バーボンに会った二度目の夜も、ポアロへ行くように勧められた。寂しがっていると言われたときはてっきり梓のことを話しているのだと思っていたが、今になってみれば安室のことを指していたのだとわかる。
 安室が恵に好意を寄せていると知っていての発言だ。バーボンは、安室に甘い。
 よって、恵は通勤以外で外を出歩いていなかった。必要なものは全て通販で調達している。生鮮食品の配達は利用したことがなかったが、これを機に手を出してみると便利なものだった。電車はあえて人の多い便を利用する。今まで以上に神経を擦り減らして過ごしている気がしたが、安全にはかえられない。
 電車に揺られながら恵は外の景色を眺めた。今日も定時で上がれたことに安堵する。もういっそ転属願を出して米花町から離れてみるのもいいかもしれない。遅刻と欠勤が少ないのは恵くらいのものだ、優良な社員の申し出ならば受理されるだろう。
 いいや逆だ、米花町勤務で遅刻と欠勤が少ない貴重な社員だからこそ受理されないに違いない。二進も三進もいかない思考に、恵は肩を落とした。
「あっ……すみません」
 ずるりと肩から落ちていくバッグが横にいる人間に当たった。慌ててバッグを引き寄せると、上から落ちてくる声は知人のものだった。
「お気になさらず。お久しぶりです」
「風見さん……お久しぶりです。お仕事帰りですか?」
「いえ、まだ」
「……お疲れ様です」
 わずかに疲労を滲ませた風見の表情を見て恵は心の底から労いの言葉をかけた。勤務中に電車を利用するのであれば、現場へ向かうのではないのだろう。一人で納得する恵を風見はまじまじと眺めた。
「彼について、貴方に訊ねて良かった」
 風見が零した言葉に恵は弾かれたように顔を上げる。
「あれから彼と話をしました。まだあらゆる問題を抱えてはいますが、懸念したことは起こらないようです。貴方の言葉がなければ事態は悪い方向へ進んでいたかもしれない……」
「彼、って、一体どの……」
「……彼は、元気にしていますよ。それを伝えたくてここへ来ました。では」
「待って、風見さん……!」
 三人のうちいずれかの話をしていることはわかったが、風見の言葉ではだれを指しているのか判別がつかない。
 人の波を掻き分けて恵から離れていく風見を追おうとしたが、風見はあっという間に恵の視界から消えた。じき最寄り駅へ到着する恵は深追いすることができず、その場に茫然と佇んでいた。



 カラカラとベルの音が控えめに鳴った。久しぶりにポアロへ来た恵を見た瞬間、梓の表情がぱっと明るくなる。
「恵さんいらっしゃい! 久しぶりね、仕事は落ち着いたの?」
「……まだ忙しいけど息抜きをしたくて」
 連絡は取り合っていたものの、恵は仕事の多忙さを理由にしてポアロへの来店も梓の個人的な誘いも断り続けていたため、梓の喜びようは凄まじい。飛びつくように恵に駆けよれば、カウンターまで手を引いて案内された。久しぶりに会う友人の勢いに恵は面映ゆさを覚える。
 ゆっくりできるのか、最近変わったことはあったか、先日メッセージでやりとりした内容について。梓は話したいことがたくさんあるのだと言いたげに話題を選ぶ。
「……とりあえずコーヒー淹れてほしいな」
 圧倒されながら言えば梓は思い出したように準備に取り掛かった。
 週の頭だからか店内には客が少ない。しばらく来ない間に、ポアロが知らない場所になってしまった気がして落ち着かなかった。
 安室は今日シフトが入っていないらしい。バーボンの言葉を汲むと、出先に安室がいるのであれば問題ないとのことなのだろうが、ポアロに梓しかいない場合はやはり適用外なのだろうか。恵はひそかに頭を抱える。
「そういえば、恵さんメグって呼ばれてるのね」
「え? ああ、うん。……どうして知ってるの?」
「何日か前に、恵さんがそう呼ばれてるのを街中で見たの」
「そうだったんだ。幼馴染といたときかな、中学以降は離れてたんだけど就職先で再会して……声かけてくれれば良かったのに」
「だって仕事中だったんでしょ?」
「まあ……」
 梓は気遣いができる人間だ、長々と話し込むなんてことはしないだろうし、多少の立ち話くらいなら問題なかっただろう。幼馴染に会わせてみたい気持ちもある。どちらも人が良く快活だからきっと気が合うだろう。数少ない友人同士が仲良くなってくれたら恵も嬉しくなる。
 今度良ければ三人で出掛けないか、と提案する恵に、梓は忌憚なく頷いた。
「メグってかわいい呼び方よね」
「めぐるって呼びづらいし、あまり女の子っぽくないからって。親もメグって呼ぶの」
「ええっ、ご両親も?」
 名前を付けておきながら面倒がるとは、おかしなものだ。そう思っているのを隠しもしない梓は、顔をこれでもかというほどの驚きに染めて声を張り上げた。梓の反応に堪えきれず恵は笑う。つられて梓も笑った。
 ひとしきり笑うとどっと疲労が押し寄せてくる。だがその後は不思議と体が軽くなった。バーボンと最後に会った日から、警戒心を強く持とうと自覚している以上に恵の神経は高ぶっていたのだ。常に張り詰めていた気が、梓との会話で解れたのだろう。
 恵は表情を緩めたまま長く息を吐き出す。目元に浮かんだ涙を拭っていると、勢いよくポアロの入り口が開けられた。
「恵さん……!?」
 信じられないものを見るような目をして安室が恵を見ていた。ドアを開けたままの恰好で立ち尽くす安室に梓も驚くが、呆れた顔をして手招く。
「入るなら早く入ってください、寒いので」
「え、ええ……」
 ドアを閉めたのはいいが立ち往生してどうしたいのかわからないでいる安室に、梓は恵の隣へ座るよう指差した。
「安室さんったら、いつもはポアロを飛び出してばっかりのくせに、恵さんがいたときだけ飛び込んで来るんですね」
「は、はは……すみません……いや、そんなつもりじゃあ……」
「それで、今日は探偵のお仕事だったんじゃないんですか?」
「毛利先生のお手伝いに行ったんです。終わったので毛利先生を送っていたら、ポアロに恵さんがいたので……」
「はいはい、お腹いっぱいです」
 呆れた梓は注文を聞きもせずコーヒーを準備し、書き込んだ伝票を安室の前に差し出した。安室は苦笑しながら伝票を受け取る。こういったやりとりも同僚ならではのものだろう。恵は会話する二人を眺める。
「お仕事は……落ち着いたんですか? しばらくは会えないと思っていたので……」
 梓と同じ質問を、全く異なる意味を込めて投げてくる安室に、恵は可もなく不可もない返しをした。恵がもう二度と近寄れないような対応を取り、警告したことを、安室もバーボンから知らされているのだ。
 ポアロだけは例外措置を取られても、警戒心の高い恵が、あれほどのことをされて近寄るわけがない。安室は嫌というほどそれを理解していたため、恵には滅多なことがない限り会えないだろうと落胆していた。それなのに恵がいたものだから混乱しているのだ。
 安室の真意に馬鹿正直な回答をするわけにはいかない。笑って言葉を濁した恵を見て、安室は悶々とした気持ちを抱えながらも恵と会えた喜びを噛みしめ、梓は生ぬるい視線で二人を見守った。

 梓と、安室も交えて談笑する。客足が増えて、ディナーの忙しい時間帯に差し掛かっていた。シフトの予定はないが安室は手伝いを名乗り出る。新しいバイトが来る予定だから不要だと梓は断った。
 代わりに恵を送るようにと片目を瞑って茶目っ気たっぷりに言う梓に、恵は思わず苦々しい声を漏らした。今更安室との仲を取り持とうとする梓を止める気はない。もう辺りも暗くなっている、安室が送ってくれるのは心強いが、と躊躇いがちに安室を見る。安室が当然のように「車は近くに停めてあるので……」と笑顔で了承したので、やはり恵は顔を引き攣らせることになった。
 心強いが、正直なところ、バーボンに銃口を向けられた記憶が軽くトラウマだ。車に乗れば嫌でも思い出してしまう。できれば勘弁してほしい。
 恵が固まったのを見て、安室もきまりが悪そうに頬を掻いた。すっかり恵を送り届けるつもりの安室が決断を覆すことはない。安室は恵が思い悩む間に二人分の清算を済ませ、車を回すべくポアロを出た。ここで安室の厚意を断ればバーボンの機嫌を損ねかねないかと恵は腹を括る。
 表に停止した安室の車を見て恵も店の外へ向かった。見送る梓に手を振ると、安室がわざわざ助手席のドアを開けに来る。その様子を見て梓は歓声を上げたが、かつてないほど緊張する恵の耳には入っていなかった。
「最近、新しいコーヒー豆を入荷したんです。オススメですよ、きっと恵さんも気に入ると思うので次はそちらを出しますね。メニューも近々入れ替えをする予定なんです、もし良ければ試食しませんか? それから……」
 いつまたバーボンに切り替わるか、そればかりに気を取られて恵は硬い表情を作っている。緊張を少しでも和らげようとして安室はポアロの話をした。
 安室のやわらかな声音は、恵の警戒心をいとも簡単にほどいていくのでいけない。返事が疎かになる恵を気にしていない様子で安室は話し続ける。
 ほどなくして恵の自宅前に停車した安室が、エスコートしようとして恵のシートベルトを外したところで、恵は安室を止めた。残念そうな顔をしながら、安室は恵の手を取ってとびきりの笑顔を向ける。
「恵さんがまた来てくださるなら、ポアロのシフト、増やします。……こんなことを言うと困らせてしまいますか?」
「……でも、」
「帰りは送りますから。だから……僕のシフトが終わるまで、待っていて」
 無難な返事が浮かばずに黙り込む。恵も、もはやこの熱の行き場を失っていた。



 降谷は潜入捜査が決まったときから難しい立場にいた。警察と犯罪、双方を同時にこなすという仕事量はもちろんのこと、倫理の問題を解決しなければならなかった。
 人が清廉であり続けるのは難しい。人は生まれながらに欲を持ち、それを満たすか満たせないかの選択を繰り返しながら生きていく。一度法に背いたことで取返しがつかない域にまで落ちていく汚職警官は少なくない。
 そんななか、降谷は強い信念の下に、真っ直ぐ前だけを見て歩いてきた。悪を断絶し、正義を執行するために警察組織へ身を投じた。
 だが、優秀すぎるが故に潜入捜査官になる道を拓いてしまった。日本を美しい国にしようとだれより強く掲げる降谷が法を犯し、ときに人を殺してでも、犯罪組織の中での地位を確立することを国に許されてしまった。
 幹部になるまでは組織で地位を得るために、幹部になってからはバーボン≠機能させるために、日々苦渋の選択を続けてきた。そして、どうしても悪を執行する自らを認め切れず、許せず、人格を分けることで苦痛から逃れようとした。
 バーボンは、生まれた瞬間に降谷の悲鳴を聞いた。
 バーボンは、降谷を苦痛から救うために生まれたのだ。

『零に話さないんですか? 僕達のこと』
 手帳に文字が書き込まれているのを目にして、バーボンは眠りから覚めたことに気がついた。初めて意識を得た日のことを回顧していた気がする。まるで実感はないが、夢を見るとはあのような感覚だろうか。バーボンは靄が晴れない頭で考えた。
 安室はバーボンと脳内で会話できると知っても手帳での会話を望んだ。紙にしたためることで、本来生まれなかった人間の痕跡が残るからだ。
 安室の心境を思えば、手間ばかりの手段をバーボンも馬鹿々々しいとは思わない。
「話す理由がありますか?」
『だって……バーボン、君は知ってほしいんでしょう。君自身のこと』
 バーボンは目を走らせるのを止めた。躊躇して、恐るおそる、先を読み進める。
『僕達は零を守るために生まれたんだということ……知ってほしいんでしょう』
 安室はオリジナルに必要とされて分かれた人格ではない。だが、バーボンから分かれた人格だ。未完成で、曖昧な存在だとしても、バーボンの心境がわかるのかもしれない。
 バーボンは、心の奥底でオリジナルに認められることを望んでいた。
 降谷零という人間は、何年もの間オリジナルを主人格、バーボンを副人格として過ごしてきた。往々にして交代人格は主人格を守るために生まれる。主人格が耐えられないことを代わりに行うためのツールなのだ。バーボンは生まれた瞬間からオリジナルを守るべく過ごしてきた。間違っても害するつもりはない。
 だがオリジナルがバーボンに信頼を寄せることはない。バーボンが人道あらざる道を歩いていると知るうえに、オリジナルにとって未知の情報を隠し続けてきた。今は、オリジナルの意志に反して人格が表出しないよう閉じ込めている。
 乗っ取るつもりは毛頭ない、全てオリジナルを思っての行動だったが、理解されるとは思っていなかった。
 オリジナルにあらゆる情報を開示なかったのは、人格が分かれるほど精神が摩耗していたオリジナルに情報を与えることで、それこそ今のように乗っ取られるのではないかという不安やストレスを与えないためだ。
 一時的に意識を戻したのもオリジナルの気を休ませようと考えたからだった。バーボンを敵と見なしたオリジナルの緊張は極限まで高まり、決壊寸前だった。
 風見も期せずして恵と同じ存在になっていたため、知っていればわざわざ恵と引き合わせるために策を弄する必要もなかったが。夜に出歩かない恵と会えるかは一種の賭けでもあった。近場に停めた車内で待機していても恵に会えるかはわからなかったのだ。
 これらの行動も含めて、少なくとも事を終えるまでは理解されることはないとバーボンは考えていた。理解されないことで襲い来る空しさも理解していた。それでもバーボンは、オリジナルを守ることができているのであれば構わないと諦めていた。認めてほしいと思っていても、夢を見続けられるほど非合理的な性質に作られていない。
 バーボンは、安室の問いに曖昧に返すことはしなかった。
「子供じゃないんです、欲しいものが手に入らなかったからと泣き喚いたりしませんよ」
 風見はバーボンが危険人物ではないと思い始めている。オリジナルからの疑いは晴れないが、風見の協力があれば警察として動く分には問題ない。組織を追い詰めるために現状のままでも然したる障害はないとバーボンは判断していた。
「零が信じるならば、あるいは話すこともあるかもしれません……。まあいずれ自分で気づきますよ、何せ賢い人だ」
『そうなんでしょうけど……なんか、複雑だなあ。全部明かして僕は僕の好きにしたいんですよね、いい加減』
 残された時間は限られているんだから。
 裏≠ナ安室がそうぼやいているのがわかり、バーボンは形のいい眉を下げた。
『僕はずっと零に遠慮してきたのに、零は恵さんを抱き締めたんですっけ。ちょっと腹が立ちました』
「だから会わせてやってるんじゃありませんか。またポアロへ来るようになったんでしょう、彼女。しかも遅くまで付き合わせて、帰りは送っているとか」
『それくらいしないと割に合いません!』
「僕は君にも手を焼きますよ」
 はっきりとした言葉は伝えないものの、安室は自らの気持ちを押し込めることをやめたらしい。一時期の落ち込み具合に比べれば、安室は明るさを取り戻していた。
 安室と話をしていると、手のかかる弟を相手にしているような感覚を覚えた。安室との会話は、バーボンにとって束の間の休息になる。
 恵との会話も、気が楽だった。バーボンはそんな下らないことを考えながら優しい日々の余韻に浸った。
『それで、零はいつまで?』
 安室の問いは、組織壊滅を行うための詳しい準備を尋ねるものでもあった。
「作戦開始の一か月前までは押し込んでおこうかと。どうせ当日は僕が手引きし、降谷零が動くことはないんですから。準備は風見に一任しますし……作戦の内容に関しては一か月もあれば全容を把握するでしょう」
『今のまま過ごすつもりなら、納得させるのに骨が折れるんじゃないですか。バーボンは信用ないみたいですし』
「言うじゃないですか」
 忌憚のない感想を述べる安室にバーボンは苦笑する。
「大丈夫でしょう。納得しなくたって、僕が動くという作戦内容と、それに従った準備が整えられている……零は覚悟を決めるしかない」
『……まあ、いいですけど。日付はもう決まったんですか』
「風見から連絡がありました。準備にまだかかるようですが、おそらくは──」
 本格的に動き始めるまでに、バーボンと安室も覚悟を決めなければならなかった。


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