05




 風見が抱く疑念は日増しに膨れていた。──降谷の様子が変だ。
 降谷は怜悧で愛国心の高い男だ。国を守るためにこれほどの献身を見せる人間を風見は見たことがない。故に、自身にも他者にも厳しく、ときに傲慢にすら思えるほど高水準の無茶を要求された。
 それでも風見は降谷零という男を尊敬していた。日本を守る降谷という男、その人物を支える自身の仕事を言葉にこそしないが心の底から誇っていた。目標にしている存在だからこそ、上司の纏う空気が異なることにいち早く気づいたのも当然と言える。風見は背中を冷水が伝うような感覚に身を震わせる。
 言葉遣いも歩き方も思考も、何もかもが本人そのものだ。だが何かが違う。根底にあるものがすり替えられているような、そんな感覚を上手く言葉にできないことがもどかしい。とにかく今の降谷は風見が尊敬する男ではない、別の何かだという気持ちに強く突き動かされていた。
 行動を共にするとき、常に遥か先を行く降谷の思考についていくのが風見にとっては精一杯だった。だが風見は愚鈍ではない。風見と接触しているのは、口調を降谷のものに変え、硬質な空気を持つ降谷の皮を纏ったバーボンである。風見は真実を掴んでいた。
「僕は暫く登庁できない。こちらは任せた」
「……承知しました」
 風見は胸中に渦巻く何かを吐き出してしまいたいという衝動を抑え続けていた。いっそ気が触れてくれれば、とこの数日で風見が何度願ったことか。それとも既に気が触れているのかと、自身が正常かを疑った回数も知れない。他人が他人にすり替わることなどできないはずであるのに、目の前の人間が降谷零に見えない。
 恐怖のなか、風見は瞳に執念という光を灯す。一筋の光を掴むべく、己を奮い立たせた。かつての降谷零を取り戻さなければならない。そのために歩みを止めてはならない。



 人混みは苦手だ。それでも、無性に人気店の味が恋しくなるときはある。または、どうしても他人の料理が食べたくなるときがあるものだ。
「貴方は……」
「ええと……風見刑事」
 店の入り口前で再開を果たした風見と恵は、席に空きがないため知り合いであれば同席してくれないかと頼み込む店員の言葉に無言で頷いた。
 互いに注文は決まっていて、早くも沈黙が風見と恵の間に漂う。
「先日はご協力ありがとうございました」
「いえ。お力になれたなら良かったです」
 切り出したのは風見だった。
 駅で発生した銃乱射事件。二人の生存者を除き死者を出した凄惨な事件は、犯罪発生率の高い近隣地域でもセンセーショナルな事件として報じられた。
 大々的に報道された割には、犯人の動機も背景にある宗教団体についても国民に知らされることはなく、不自然に事態は収束していた。さして気にも止めない人間が多いのは日常的に発生する事件そのものに慣れているから、の一言に尽きる。
 捜査結果がどうであれ、恵は深く追求する気はなかった。警察が緊急を要する報道をしないのであれば、目下のところ国民を危険に晒すことはないと判断を下したことになる。安全な日常がもたらされているのであれば恵は構わない。
「その……」
 気になることでもあるように言葉を発したのは、恵ではなく風見だった。どうしたのかと短く問う恵に、風見は口をまごつかせる。言いづらいというより、言葉にすることを躊躇っている様子だ。恵は無言で見守った。
「あの時……誤魔化しましたが、美術館にいました」
 意を決した顔をする風見は、歯切れの悪い返事をしていた先程とは打って変わって表情を引き締めていた。安室と共にいたことを秘匿するため、恵に嘘を吐いた。それを改めるつもりなのだとは察したが、どうしてこの話題を出されたのかと恵は首を捻る。
「嘘をついたこと、まずは謝罪します」
 風見は深く頭を下げた。
「何故、今になって訂正を?」
「貴方に訊ねたいことがあります。そのために、嘘だったと明かす必要がありました」
「そうですか」
 風見という男は真面目な男なのだろう。深く下げられたままの風見の頭頂部を見て、とくに心が波立つこともなく頷いた。
 一向に頭を上げる気配がない風見に「そうですか」だけでは伝わらなかったかと恵は言葉を改める。
「気にしていません。貴方は刑事なんですから、事件について話せないことも、隠さなければならないことがあるのも理解できます。頭を上げてください」
「……ありがとうございます」
 他人への興味関心が薄いのが大半の理由だが、やけに聞き分けのいい恵に風見は拍子抜けした。降谷に身辺調査を行うよう指示を受けたことがあるため、風見は恵の個人情報を一通り把握している。良くも悪くも感情を荒立てないというのは本当だったか。風見は内心で得心がいく。
 恵はどこからどう見てもただの一般人だ。降谷に渡した調査書でもそれは明らかだ。調査書を疑う素振りを見せなかった降谷の反応からも間違いないと言っていい。
 そんな恵に風見が話そうとしていることは、風見の立場を考えれば褒められるものではなかった。取り返しのつかない事態を招きかねないことをしようとしている。それでも、風見は藁にも縋る思いだった。
「自分は刑事としてあの場にいました。貴方は……そこで他の人間を見ましたか。貴方の良く知る、いるはずのない人物を」
 遠回しに訊ねた。風見は絞り出した声の細さに内心自らを叱咤する。迷うな、と。
「はい」
 降谷のことを指しているのだと理解した恵は簡潔に答えた。
「彼の素性はこの場では伏せさせていただきたい。……聞きたいのは、彼についてです」
 降谷の名前すら知らず、三人目の人格として安室の中で成立しているかも確証がない男について、恵が答えられることはない。少なくとも凛々しい男の姿を目にしたのは美術館と牽制された車内だけだった。
 降谷の何を聞きたいのか恵には皆目見当も付かなかったが、真剣な表情をしている風見の目をじっと見つめる。
「最近、様子がおかしいと思ったことはありませんか」
 緊張した面持ちで風見は唾を飲む。
「……申し訳ないんですが、最近お会いしていなくて」
 恵は嘘偽りのない回答を述べた。だが風見は食い下がる。
「どんな些細なことでも構いません。貴方の知る彼は……優しい人だとは、思いますが。ときおり人を、いえ人の暗い部分へ踏み込むような、悍ましさやそれに似た言動をしたことはありませんか」
「あの、風見さん」
「たとえば他者を陥れるような──」
「風見さん」
 恵は静かに、しかして力強く風見の言葉を遮った。風見の顔は、何か恐ろしいものでも見たあとのように血の気が引いていた。
 このとき既に風見は絶望の淵にいた。降谷について調べ尽くし、降谷の行動を可能な限りで監視しても、降谷に不審な点を一切見つけられない。むしろこれまで以上に潜入先から有用な情報を手に入れている様は、優秀な潜入捜査官そのものだった。
 それでも降谷に対して抱く違和感を払拭できず、記憶に縋って思い出深い場所を回っていた。風見がここを訪れたのは、降谷に連れられて食事に来たことがあるからだ。
 恵に問いを投げようと思ったのは思いつきに近い。コナンのように事件へ介入し、刑事の仕事を奪ってまで謎を解く強引さを見せるどころか、恵は往来を気安く出歩くことすら厭う。そんな女性が一体何を握っているというのか、と平静であれば考えただろう。
 ただ、転がり込んだ小さな希望を頼ってしまいたいほど風見の精神は摩耗していたのだ。
 風見に隈ができているのを恵は目敏く見つける。降谷であれば風見の生活が乱れていることを指摘しただろうが、バーボンはそれをしない。そんな小さなことすら、風見のストレスに繋がっていた。
 恵は風見が何を知りたいのか察して、できるだけやわらかい声で喉を震わせる。風見が欲する答えを、喉の奥へと押しやりながら。
「だれしもがあらゆる貌を持つものです。彼が私へ見せる貌と、貴方へ見せる貌が同じとは限らない……違いますか? 人付き合いを重ねて、だれかと深く接するぶん、その人の見たことのない一面を目にすることだって避けられない……そのとき、少なからず裏切られたような気持ちになることもあるはずです。でもそれが人間関係だと飲み込んで生きていくしかありません」
 恵は話術に自信があるわけではない。降谷相手であれば早々に降参し白状したものだが、風見相手ならと白を切った。風見が見たことのない降谷の一側面に失望していると捉えたかのように振舞ってみせた。
 風見は恵の反応を見て、失意から力ない笑みを浮かべる。
「……すみません、貴方と彼は仲がいいんでしたね。彼を否定するようなことを言って不快に思われたでしょう」
「いいえ、人付き合いで思い悩むことは私にもあります。貴方の不安が拭えるならいいんですが」
 風見が口を引き結び、黙り込んだところで注文した料理が運ばれてきた。
 恵は料理を食べながら、風見の話に耳を傾ける。料理についての知識を話す様は安室を彷彿とさせた。恵は椀を傾けて、風見の話す健康的なスープの飲み方を試してみる。
 食事を先に終えたのは風見だった。清算するために立ち上がる風見を見ないまま、恵は口を開く。
「もし貴方が私の望む答えをくださるなら、貴方の望む答えを口にしてもいいと思っています」
「……え?」
 食事の間中、恵はあることを考えていた。三人目の人格、と恵が思っている部分こそがもしかすると男本来の姿なのかもしれない。
 バーボンでもない、安室でもない男を三人目の人格と称しているのは、単に彼の持つ名を知らないのと、恵にとって三番目に知った存在であるからである。だが、あの硬質な空気を纏う男を、無意識に三番目に発生した人格だと思っていたことは否定できない。
 もし恵の思い込みとは異なるものが真実だとすれば。バーボンも安室も必要に応じて作られた存在で、風見と共にいる、刑事然とした姿が本来の男であるならば。
 全ては想像に過ぎない。予測にすら成り得ない、恵の想像の話だ。探偵が警察にパイプを持っていることは取り立てておかしなことでもない。あれほど聡い人間が私立探偵やアルバイトという曖昧な収入に頼って生活していることも、個人の人生と言ってしまえばそれまでの話だ。
 ただ安室に関する恵の想像は、奇妙なほどに当たり続けていた。今回もそうなのかもしれないと恵は思わずにいられない。たとえバーボンが犯罪に手を染める生き方をしていると知っていても、バーボンを非道な悪人だと言うには恵に優しさを見せすぎた。
 安室もバーボンも、根幹にあるものが警察組織の何かだと思えば、事情は推し量ることができるのだ。男が警察組織の人間だとすれば、男の現状について風見は正しく知る必要があるのかもしれない。男と交わした約束を違える必要があるのかもしれない。そう考えると恵の判断もまた揺れていた。
「……何、を。何を……知りたいんですか」
「何を聞かれてもいいと思ったとき、また声をかけてください。風見さんなら答えを導き出せると思いますが……」
 恵は食事を再開する。風見は決意するように、固く拳を握って身を翻した。



 久しぶりに夕飯を一緒に食べよう、せっかくだから外食でもしようか。という連絡が恵に入ったのが数時間前のことだ。外へ出たがらない恵に両親から珍しい誘いがきたと、二つ返事で承諾した。
 どうせ外へ出るのであればついでに日用品などの買い出しも済ませておこうと恵は考えて予定より早めに家を出る。ショッピングモールをまわり、休憩がてら飲食店に立ち寄った。イスに置いたショッパーを眺めて、久しぶりに羽を伸ばす感覚に浸った。
 スマートフォンから手を離し、飲み物を口にする。顔を上げると、景色の奥に見慣れた人物を見つけた。見事な金髪と褐色の肌、体躯から遠目にも安室だと判別できる。
 慎重になるべきだと言われたばかりだというのに、視界に映れば捉えてしまう自分が恵は嫌になった。そっと視線を逸らし、据わりが悪そうに体勢を変える。スマートフォンに視線を落として、恵が休憩している飲食店を通過するだろう安室をやり過ごすことにする。
「ああ、やはり。恵さんでしたか」
「どうも……」
 やり過ごそうとしたのだが、恵を覆うように影が落ち、恵が嫌々顔を上げると、当該の男が微笑みを湛えて立っていた。空いているイスに手をかけると、そのまま引いて腰を落とす。居座るつもりだとは思わず、恵は目を瞬き、半眼になった。
「またですか」
「ええ、また僕≠ナす。それより、気を付けてと言ったばかりですが」
「わかってます、言わないでください」
「本当にわかっているんですか?」
「わかってますってば」
 言い聞かせるような声音でバーボンは恵を見ていた。叱るのは勘弁してほしい、恵はうんざりした様子を隠しもせずに応酬する。
 恵は、仕方のない子供を見るような顔で眉を下げるバーボンから逃れるように目を逸らした。行き場のない視線はスマートフォンに落ちる。
「こら、逃げないでください」
「はあ……て、えっ!」
「没収。まったく、僕がいるのにつれないことだ」
 恵の手からスマートフォンを奪ったバーボンは、そのままスマートフォンをジャケットの内ポケットに仕舞った。唖然とする恵に、今度はバーボンが目を瞬いた。バーボンの行動にぱくぱくと開口と閉口を繰り返す恵が見たことがない顔をしていたからだ。
 思わず噴き出したバーボンはなんて顔をしているんだと漏らすが、恵の耳には入っていなかった。バーボンとこんなじゃれ合いのようなやりとりをしている事実を飲み込めない。先日、この男をめぐって風見と意味深な会話をしたこともあり、まるで緊張感のない展開に上手く対応できなかった。
「ちゃんと返しますよ。少しだけ付き合ってもらえませんか」
 そう言って立ち上がったバーボンは、ショッパーを片手に取り、恵にもう片方の手を差し出した。

 待ち合わせまでの時間を潰すのに使われているらしいと気づいたのは、何を買うでもなくショッピングモール内のひとフロアを回り終えてからだった。荷物は変わらずバーボンが手にしていている。片手を差し出されたのは恵を立たせるためだけで、もう繋がれてはいないが、ショッパーを持たれては逃走不可能だった。
 周囲から見た二人の様子を思えば恵は頭を抱えたくなった。甘い空気こそ漂ってはいないが、休日にデートする男女のように見えるだろう。何の拷問だとバーボンを半眼で見上げる。バーボンは恵の視線に気づいているが、先程から無視を決め込んでいる。
 バーボンの待ち合わせとなれば、相手は犯罪者か、犯罪者に弱みを握られた一般人かに違いない。恵を傍に置くということは後者か。これまでの経験から、バーボンが恵を危険に晒すつもりがないことはわかっている。恵は溜息を吐いて口を開く。
「私、もう関わらない方がいいんでしょう、貴方に」
「そうらしいですね」
「らしいですねって……。だったらどうして?」
「僕を見つけたのは貴方ですから」
 恵に責任を被せるバーボンに辟易する。だがバーボンの口振りからすると、先日の言葉はバーボンが発したものではないらしい。安室でもなければ恵の想像通り三人目の人格がいることの証明になるが、人格交替は恵の意思では叶わないため確認しようもなかった。
 エスカレーターに乗って別のフロアへ行くと、レディースものを扱う店が並んでいる。
「僕がコーディネートしましょうか?」
「結構です」
「これでもセンスはいいつもりですが」
「結構です」
「あ! あむぴだ!」
 からかうような口振りで恵を覗き込むバーボンにすげない返事をしていると、離れた場所から明るい声がした。若い女性二人がバーボン……安室に駆け寄ってくる。私服だが、化粧の雰囲気からして学生だろう。ポアロに良く来店する女子高生だ。
 気さくに話しかける女子高生にバーボンは安室として対応した。他者を演じる人格を初めて見る恵は物珍しさから傍観する。
「あの、お姉さんってポアロに来たことありますよね」
「え? ああ……最近は行ってないけど……」
「じゃあ……今、もしかしてデート中!?」
「二人って付き合ってるんですか?」
 二人の勢いに恵は怯む。言葉を詰まらせていると代わりにバーボンが否定した。
「違いますよ。彼女とは偶然会って」
「でも安室さんお姉さんのショッパー持ってるじゃないですか。あやしい……」
「うわあ、南美泣いちゃうよ! どうするあむぴ!」
 バーボンを茶化す二人は、どうやら安室の熱烈なファンというわけではないらしい。本気で熱を上げる一部の客と違い、アイドルを応援するような感覚で接している客もいる。炎上炎上、と梓が口にする様子が脳内を過ぎって恵は思わず笑みを零した。
 だが南美と呼ばれた友人は本気で安室に好意を寄せているのかもしれない。聞いたのがバーボンだとしても、本人がいないところで暴露されて可哀想に。恵は見ず知らずの女性に心の中で同情した。
「安室さん?」
 怪訝な声が二人から漏れて、恵も横のバーボンを見る。視線は女子高生に向いているが、焦点が合っていなかった。突然黙ったバーボンに二人の声音は心配と焦りを帯びてくる。いつも明るく笑う男が急に黙れば恐ろしくもなるだろう。恵はこのタイミングで待ち人が来たのかと違うことを警戒したが。
 はっとしたように体を揺らしたバーボンは忙しなく視線だけで視界を見渡すと「あー…」と戸惑ったような声を出した。
「っくしゅん! ……すみません、鼻がムズムズしてくしゃみが」
「いいよいいよ、風邪?」
「気を付けてくださいね、安室さんは結構ひ弱って榎本さんが話してましたから」
「ひ、ひ弱?」
「ああ、言ってた言ってた」
 動揺を隠すように抑えられた声だった。女子高生は体調を案じた後、気遣うようにすぐ恵達から離れて歩いて行く。
「……安室さん?」
 雰囲気ががらりと変わったことに気づいたのは恵だけだ。安室が放心していたのは人格の切り替えを行っていたからだった。バーボンから切り替わった安室に、今度は恵が怪訝な視線を向ける。
「恵さん……、お久しぶりです」
「お久しぶりです。急にまた、どうして?」
「その……面倒になったみたいで、僕の振りをするのが」
 安室の回答に恵は呆れた。
 恵は知り得ないことだが、連日続く降谷と安室の演技にバーボンは疲弊していた。気晴らしと暇つぶしに恵を捕まえて振り回していたが、安室として女子高生の相手をする面倒さと、人格を交代して気を休めることを秤にかけたのだ。
 恵と話せるのであればふて寝した安室も喜ばしいだろうと、とってつけたような理由で強制的に安室を表出させた。事実、動揺から落ち着いた安室は、バーボンの予想通り現状に不満を抱くことなく、蕩けた瞳で恵を見ている。
「ポアロではもう会えないと思ってましたから……嬉しいです」
 久しぶりに会ったせいで箍が外れているのか、安室は恵への好意を隠しもしなかった。
 安室の視線から逃れるように恵は斜め下を向く。この調子であれば、安室もまた恵との関わりを断ちたがっていたわけではなさそうだ。やはり、安室は三つ人格を抱えている。恵は苦し紛れに考える。
「時間……ああ、じゃあ恵さんとは元々会う予定じゃなかったんですね」
「ええ、まあ……」
「このまま一緒にいても……そうですか。じゃあ好きにさせてもらいますよ」
「ん? あの、安室さん?」
「すみません、バーボンとちょっと」
 恵に話していると最初は錯覚したが、脳内で会話でもしていたと言わんばかりに独り言を繰り返す安室を見て恵は目を瞠った。
 安室自身、脳内で念話もどきのことをしたのは初めてだ。バーボンの声が頭に響いてくるような感覚に内心驚きはしたが、それよりもどれくらい恵と過ごせるのかが気になっていた。別人格と会話ができるのを伏せられていたことなど瑣末な問題だった。
 ショッピングモール内のコインロッカーで風見から荷物を受け取ることになっている、とバーボンが降谷の予定を告げる。荷物の受け取りだけであれば安室が代わりに行っても問題ない。車が駐車場のどこにあるか、コインロッカーの番号、受け渡しの時間など必要な情報を安室に告げてバーボンは眠りにつく。
「スマホはジャケットの内ポケットですよね、帰るときに返しますね。あと少し付き合っていただけませんか?」
 安室は、満足げな笑みで恵と過ごすわずかな時間のスケジュールを組み立てた。



 ショッピングモール内、風見は資料を預けたコインロッカーの鍵をあらかじめ指示されていた植栽の裏に落とす。ポケットから滑り落ちた鍵には気づかなかったかのように風見は歩き去った。
 恵と別れた安室が鍵を自然な動作で拾い、コインロッカーの中身を回収する。安室の姿がショッピングモール内から消えるのを確認してから、風見は一つ上のフロアで両親が来るまでの残り時間をつぶす恵のもとへと向かった。
「答えを聞きに来ました」
 休憩スペースに座っている恵の隣へ、微妙な距離を保って風見も座り込んだ。
「彼は多重人格……解離性同一性障害を患っている。そうですね?」
「……」
 返事はない。風見が横目で見ると、複雑そうな表情で恵は前を見続けていた。驚くことも、耳慣れぬ言葉に首を傾げることもしないのは、解離性同一性障害だという追求が恵にとって予期していたものだからだと風見は理解する。
 風見は、十数分前まで恵が上司と共に過ごしている様子を遠目で観察していた。
 降谷は風見を凌ぐ能力の持ち主だ。今まで風見は降谷の姿を追跡できた試しがない。バーボンにいたってはその上をいった。公安として職務上の待ち合わせをしていなければ、たとえ恵を連れていてもバーボンに撒かれただろう。
 幸運が折り重なって風見は目の前で上司の人格が切り替わる瞬間を目撃した。さらには慣れたように対応する恵を見て、上司の事情を把握していることにも確信を得たのだ。
 解離性同一性障害という病名は、間違いなく風見の求めていた答えだ。そして、にわかに受け入れ難い事実でもあった。
 潜入捜査官になる前に、降谷は悪に屈することのない正義の適性を客観的に判断されたはずだ。つまり潜入捜査官という肩書は、降谷が強靭な精神力を持っていることの証明である。にもかかわらず、降谷は過酷な環境によって精神に異常をきたした。尊敬していたからこそ風見には事実を信じたくない気持ちが強い。
 だが途中で人格が切り替わる様子を目の当たりにすれば受け入れるほかなかった。上司は三つの人格を抱えて過ごしていた。これまでは均衡が保たれていたが、現在はバーボンが肉体を制御している。風見が降谷の様子を変に感じていたのは、バーボンが降谷の振りをしていたからなのだと、ようやく答えを手に入れた。
 もしかするとこれまでも予兆はあったのかもしれない。バーボンの巧みな工作により降谷が気づけなかっただけで、バーボンは時折降谷の演技をしていたのかもしれない。そうであれば、降谷零という男はとうに犯罪者に成り下がっていた可能性がある。
 自分以上の機密を抱える降谷は、いつ起爆するかわからない爆弾同然だ。風見は敬愛する上司を最悪の形で失う可能性を見出していた。
「反応からして、間違っていないと思っていいようですね」
「多重人格、ですか……随分と突飛なことを平気で口になさるんですね」
「自分は手段を選んでいられない状況にあります。可能性が少しでもあるなら、それを馬鹿らしいと切り捨ててはいけないのです」
 前回と同じく白を切ってみせた恵に、風見は揺るぎない姿勢で返す。最後の決定打を求めて来たらしい風見をどれほど否定しても無駄だろう、恵は早々に緊張を緩めた。
「私は貴方に何も言っていない、そういうことにしてください。一応口止めされてるので」
「それは一体だれ≠ノですか」
「おそらく、貴方が最も良く知る彼に」
 だが、恵が観念して話したのは遠回しな肯定のみだった。
「……では続けて質問を。貴方は、彼の他の人格について知っている。それは彼を含めて三人、合っていますか?」
「……」
「恐ろしい人だ、全てとは……。一般人の貴方がどうしてあの一人を知るに至ったのか、そもそもどうして彼のことに勘付いたのか……。いや、自分が彼に聞かされなかったのは知る必要のないことだからでしょう、聞かないでおきます。ですが貴方の安全のため、今後は定期的に様子を確認させていただくことにします。ご了承ください」
「それは……ありがたいです」
「では……」
 風見の質問は止まない。だが、恵はどれ一つとして肯定はしなかった。否定もしなかった。風見の問いに沈黙を返し、時折反応を見せるだけだ。
 風見にとってはそれで十分な答えとなった。恵の反応から、降谷がしばらく表出していない可能性を察する。本庁へも、ポアロへも、裏社会へも顔を出しているのはバーボンということだ。風見は危機感から表情を険しくさせた。
 張り詰めた空気を醸す風見と違い、恵はただ居心地が悪そうに風見の言葉に相槌を打っている。何も知らない一般人だ、危機感がなくても仕方ない。恵は唯一風見と同じ存在だが、立場が違うせいで逼迫した現状を共有できない。風見にとっては歯痒い現実だ。
「最後に……貴方の所感をうかがいたい。彼を危険だと思いますか」
「はあ……危険、ですか……」
 間の抜けた反応に、風見は頭を抱えたくなった。危機管理能力が非常に高いという情報が嘘のような返答だ。
「彼の実情を知りながら、彼の身近にいた貴方の判断が重要です、しっかり考えてください。回答によっては貴方まで危険に晒されて──」
「彼はいつだって優しいですよ。私には」
 風見の言葉を遮って恵は口にする。そういうことじゃない、と言いかけた風見は、真正面から初めて恵を見てはっとした。恵は泣きそうな顔をして質問に答えていたのだ。
「何に対して危険かを判断すればいいのか私は知りません。言えないでしょう風見さん、貴方の指す危険が一体何なのか」
 聞き分けのいい女性だと思っていた。違うのかと、ここで風見は自身の認識を改める。
 降谷に口止めされていることを差し引いても、恵は反応することで風見に判断を委ね、回答自体は行っていた。一貫して私見を交えた意見だけは口にしなかったが、それは言えなかったからなのだ。
 恵は降谷の立場についておおよその予測が立っているからこそ、降谷の意志を考慮して明確な言葉にするのを控えていた。自分が不用心に発言することで降谷の身に危険が及ぶのを危惧していた。
 危機管理能力が高く人嫌いのきらいがある女性が、他人の危険まで考えて動くのはどれほど気が重いことか。さらにはそれを易々と風見に暴かれてどれほど空しかったことか。
「優しくなかったのは、貴方の良く知る彼だけ」
 バーボンとも安室とも比較的良好な関係を築いていた恵が降谷だけを悪しざまに言う。恵が降谷を好いているのだと気づいて風見は口許を手で覆った。
「この際ですからはっきり言います。私は人と関わるのが苦手です。私は彼にとって特別な存在ではありませんから、彼について詳しく知りません。彼は私に何も話さないし、私だって彼に話すことを望んでいない。……私たちはどこまでも他人です。彼らは私に優しいけれど、決してこちらへ手を伸ばしてきたことはない。きっとこれから先もありはしない。一人は私にもう二度と関わるなとまで言いました。彼の事情を知る私に周囲をうろつかれては不都合なんでしょう。はっきりと聞かなくたってある程度は予想できます……。だから私はそれに従っていますし、それでいいんです」
 恵は人嫌いを自覚しているだけあり、相手に突き放されてしまうと適切な距離を保って接する術がわからなくなった。だれかに好意を抱いても、人嫌いが治るわけではない。胸の内に生じる矛盾が恵を苦しめていた。
 同時に、気を許したいと思った相手ができても当の本人から許されない状態で、降谷を唯一知る風見が、降谷を知らない恵の傷を抉る。
 投げやりになった恵の言葉が叫びたがっているようで、風見はとても顔を合わせてはいられなかった。だれにも相談できず、一人で抱えて過ごしていたのだろうものを暴いてしまった自責の念が風見を襲う。
「バーボンさんが、名前も知らない彼を乗っ取って何かしようとしている、それを危険かと聞いているなら、私にはわからないとしか言えません。バーボンさんも安室さんも私には優しかったんですから……私にとってはいい人なんです」
 ついにはっきりとバーボンの名を出して、恵は風見が危惧することを当ててみせた。言葉を探す風見に、当たり散らしてしまったことに気が付いた恵は小さく謝罪する。場に沈黙が流れた。
「貴方の心を不躾に踏み荒らしてしまってすみませんでした」
 バーボンが危険か、それは風見が判断すべきことだ。恵に判断を委ねていいことではなかった。自身が思慮を欠いた結果、好いた男について何も知らない無力感と、好いた男を否定される苦しみを、思い悩む女性に与えてしまった。
 風見はこれ以上恵の痛々しい姿を見ていられなかった。
「名前は教えられませんが、彼は正義感の強い男です。……失礼」
 せめてもの救いになればと、風見は明かしてはいけない男の話をして静かに席を立つ。茫然としながら恵は去っていく風見のうしろ姿を見守った。



 表に出ている。
 知覚できた瞬間、まず降谷はポケットに入っているスマートフォンを取り出して日付の確認を行った。
「二か月……くそっ!」
 焦燥から拳を強く打ちつける。降谷はバーボンから強制的な睡眠状態にされていた。何故バーボンが主人格である降谷を抑えつけていたのか、ありとあらゆる可能性が浮上して考えてもきりがない。はっきりしているのは、思惑がわからないまま単独行動を続けるバーボンが危険だということだ。
 眠っている間にバーボンが何をしていたのかを探らなければならない。バーボンの企みがわからない以上、警察側と迂闊に連絡を取り合うのは憚られる。風見には降谷の症状を教えていないため説明のしようもない。
 ひとまず組織側へ連絡を取って最近の事柄をそれとなく聞き出すか。降谷はもう片方の選択肢について考えたが、曖昧な記憶のまま行動するのは下策だとやはり頭を振った。
 最後に意識があったとき、組織は大きく動き出す前兆を見せていた。今は潜入開始のときとは状況が違い、幹部という立場を得ているからこそ行動が制限される場も出てくる。抜かりなく行動しなければ降谷の身が危険に晒される。
 降谷は必死に頭を動かすが、二か月間の記憶がない以上どうすることもできなかった。そもそも、何故バーボンの拘束を抜けて表出できたのかもわからない。またいつバーボンに裏≠ヨ引き戻されるか、自分に与えられた猶予がどれほど残っているか、それすらわからない状態で、降谷に何ができるのか答えは出なかった。
「そもそも、ここはどこなんだ……」
 目を覚ましたのは愛車の運転席である。辺りは暗く、真夜中であることが窺える。ナビには知らない地名が映っていた。ナビに触れてマップをずらすと、すぐ見慣れた地名が目に入ってくる。都心からはそう離れていない、まず自宅へ戻ってパソコンのデータを探してみるのが賢明だろう。降谷は久しぶりに愛車のエンジンをかけた。
 閑静な住宅街を走る。まともな人間であれば眠っている時間帯だが、注意力が散漫になっている状態での運転技能を過信してはいけない。念のために速度を落として走行した。
 マップにしたがって進む。角を曲がると女性が歩いているのが見えた。どこか既視感のある背格好に降谷は思わず車を停める。車の施錠など二の次にして走り出す降谷に気づいた女性は、尋常でない男の様子に警戒を露わにした。
「やだ、離して、嫌……! だれか!」
「恵さん、落ち着いて、僕です!」
「えっ……あ、安室さん……!」
 抵抗する恵の正面に回り、根気よく声をかければ、恵はじっくり数秒降谷の顔を観察したあとにようやく知人だと認識した。わずかに肩の力を抜き、降谷を睨みつける。
「驚かさないでください、何してるんですかこんなところで」
「貴方こそこんな遅くにこんな場所で何をしているんですか……!」
「じ、実家がすぐそこで……コンビニに、ちょっと。この時間帯は人がいないってわかってるので……」
 責めるような口調に恵は肩を揺らした。恵にとって現在の降谷は、突然現れて不審な行動を見せた挙句に路傍で怒りだす他人同然の男、という認識だ。状況も飲み込めないまま理不尽な怒りを浴びせられたことにわずかな苛立ちを覚えた。
 反論しようと口を開きかけたが、やけに取り乱した降谷の様子を見て、尋常ではない気配を察知した恵は言葉を飲み込む。暗がりの中、危機に瀕しているような表情をして恵を見下ろす降谷に、これは三人目の人格かと独り言つ。
 相談があると口早に告げた降谷は、恵の手を引き車の助手席に押し込んだ。知人であれども、早急に事に及ばれては警戒せざるを得ない。恵は運転席に乗り込んだ降谷を再び睨み付け、いい加減にしろとまくし立てた。
「ちょっと! 安室さん、勝手が過ぎます。関わるなと言ったのは貴方の方で──」
「記憶がないんです」
 降谷は片手で顔を覆っていた。鍛えられた体は力なくドアに預けられている。じっとりと滲んだ汗でシャツが貼り付いていた。腕が震えていることに降谷は気づいていない。
 恵は見たことのない男の逼迫した様子に目を剥く。
「今日までずっとバーボンに乗っ取られていた。あれ以降、僕に会いましたか」
 指の合間から恵を覗く瞳は手負いの獣のように鈍くぎらついていた。背筋をなぞるように下から這い上がる怖気に、恵は自分の体を守るように抱き締める。降谷の気配に圧倒されて、恵は小刻みに首を縦に振ることしかできなかった。
 降谷の瞳は弓型に反り、苦痛を露わにした。困り果てたように「そんな……」と放心する降谷に、恵は理解が追い付かない頭を無理矢理動かす。やはりこの人格が男にとっての主人格だったのだ。そうでなければ他の人格に乗っ取られると言って怯えるはずがない。
 恵に口止めしたとき、降谷は始終冷静だった。降谷がバーボンや安室という側面を受け入れているのだと恵は思っていたが、違うのだろうか。
「助けてください、僕は、貴方しか頼れない」
 追い詰められた表情で降谷は恵に縋った。安室にも、バーボンにも向けられたことのない視線を投げられ、恵は混乱を極めた。
 身を乗り出して、恵は降谷に手を伸ばす。触れた瞬間、体を震わせる降谷が小さな子供のように映った。だが降谷も覆っていた手を外して姿勢を変えると、差し出された恵の手首を握り、そのまま寄りかかるようにして恵の肩に顔を埋めた。
「バーボンさんは、危険な人なんですか」
「危険な男です……。見たんでしょう、あの夜のこと……」
「貴方を乗っ取ろうとしている?」
「僕は二か月も意識がなかったんですよ」
 ただでさえか細い声が、肩口に向けて吐き出されるせいで聞き取りづらい。恵は一言一句逃さないよう降谷に意識を向けた。
「本当に……?」
 恵の確かめるような声音を、降谷は否定せず黙って聞いていた。
 バーボンが降谷を乗っ取ろうとしている。しっくりこない、どこか違和感があった。バーボンが降谷を乗っ取るつもりであれば、もっと大胆な行動に出たのではないか。バーボンと降谷の賢さに大きな差はあるまい。長期間バーボンが降谷に危機感を覚えさせずにいたのであれば、既に降谷を出し抜いていたことになる。降谷より優位に立っていた状態でバーボンがまざまざと降谷に主導権を戻すのは妙だ。
『貴方はいずれ僕の役に立つ』
 以前バーボンから言われた言葉を思い出す。恵は幾度目になるかわからない人格について頭を捻らせた。
 風見は目の前の人物を正義感の強い男だと言った。安室やバーボンが降谷から生まれたのであれば、彼らもまた根幹に正義を抱えているかもしれない。副人格は、主人格が必要として生まれるものだ。つまりバーボンは、降谷が必要として生まれた存在のはずだ。
 バーボンの食えない笑みが恵の脳裏を掠める。降谷は症状を深刻に捉えていなかった、問題を看過しすぎたために、突如起こった変化に混乱している。
 降谷は二つの人格に一度きちんと向き合う必要がある。本当にバーボンが危険かどうか、降谷はその後に判断すべきだ。恵はかける言葉を決める。
「病院には……行っていませんよね?」
「……事情があります。滅多にかかれない」
「だったら、病気についてもっと調べてみましょう、付き合いますから。貴方は……実は彼について詳しくないかもしれない。バーボンさんの行動の意味を落ち着いて考えてみましょう」
 言い聞かせるような声音に、降谷は大人しく頷いた。
「あと……風見さんも事情をご存知です」
「……風見が?」
「私は話してません。でもすごく心配してましたよ……だから、私に話せないことは風見さんに相談できます。貴方は一人じゃありません」
「そうか……」
 安堵した降谷は、恵の肩に腕を回すと優しく抱擁した。降谷の突然の行動に恵は全身を硬直させる。男女の抱擁ではなく、感謝を伝えるような意味が含まれているのかと気づいた恵もぎこちない動きで応えた。
 不意に降谷が恵の方へさらに距離を縮め、抱き締める力を強める。気恥ずかしさから動揺する恵は、背後で音がしていることには気づいていたが、そちらへ意識を向けることはできなかった。
 それがグローブボックスを開ける音だと気づけなかったのは、恵が普段車に乗りつけないからだ。降谷の手には拳銃が収まっていて、それを米神に当てられていると気づいたのも、互いの体が離れてからだった。
「バーボン、さん」
「はは、恵さんって間が悪いですよね。よりにもよって逃げられない場所で……それより教えてしまったんですか? まあ、構いませんが。混乱したまま余計なことをされるより風見と遊んでくれていた方が僕としても安心できます」
「あの、これ……」
 拳銃を頭に添えられている事実に恵は戦慄く。バーボンを信頼しきっていたぶん、感情の整理がつかない。堪えきれず頬を流れた涙を、バーボンは指の腹でそっと掬った。
「ああ、泣かないでください……言ったでしょう、気を付けて、と。それに僕も含まれているとどうして考えなかったんですか? 僕は貴方を殺すつもりはありませんでしたが、貴方だって死にたくないのなら僕に関わるのをやめるべきだったのでは?」
 バーボンの冷たい声が恵の耳朶を揺らす。バーボンから声をかけてきたときが大半ではないか、今だって声をかけられて車内に連れ込まれただけだ。理不尽な物言いに恵は抗議したい気持ちでいっぱいだったが、バーボンの声はどこか苛立ちを含んでいたため言葉にすることはできなかった。
 口内に溜まった唾液をぐっと飲みこむ。笑顔を全て振り落として恵を見下ろすバーボンに、もうどうにもならないと恵は悟った。
 実家はすぐそこにある。恵を今日まで育んできた安全の象徴を目先に捉えたまま恵は死ぬのだ。目を瞑ると闇に包まれ、途端に後悔が恵を満たしていく。
 沈黙が恵の喉をゆっくりと締めるようであった。バーボンの呼吸だけが車内に響く。
「……外出は控えて。通勤以外で、外へ出ないようにしてください」
 バーボンは銃口を離して言った。
「寄るとしてもポアロだけ。透に会うのは許します……さっきの男には、会わないで。僕にも声をかけないでください。守れますか」
「……はい」
「いいこ……」
 優しく恵の髪を梳くと、バーボンは恵の目前で拳銃をグローブボックスへ仕舞った。
 心変わりしたと捉えるべきなのか、危機感が薄れた恵に強引な手段で危機感を植え付けたと捉えるべきなのか、判断が難しい。戸惑う恵に「家に帰ってください、ここで見ていますから」と言ってバーボンは運転席のシートに体を沈めた。
 躊躇ってはいけない。恵はバーボンに問いかけるような愚かな真似はせず大人しくドアに手をかける。
「……おやすみ、恵さん」
 ドアを閉める直前、とびきり優しい声を口にするバーボンに、恵もおやすみなさいと返事をした。


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