02




 バーボンという男に出会ったことで身の危険を感じはしたものの、恵がポアロへ通う頻度は以前とそう変わらないまま現在に至る。買い出しに出ていた梓と安室に会い、強引にポアロへ連行されてから、どうして来ないのかと質問攻めにされたのだ。毎度こんなことが起こっては疲れると、恵はこれからも定期的にポアロへ通うことにした。ポアロで会う安室は少なくとも恵にとって危険には感じられない。
 変わったことといえば、梓とプライベートで共に出かけるほど親密になったことと、ポアロをよく利用する江戸川コナンと名乗る少年と知人になったこと、そして安室が以前にも増して話しかけてくるようになったことだった。
 アクアリウム展の写真を梓に見せられたのはいつのことだったか。ネオンの明かりに照らされるなか水泳する魚たちは、室内が暗いため宙を舞っているようで幻想的である。夜に出歩くことを好まない恵にとっては、暗いのに明るいちぐはぐな空間は気持ちが悪いものでしかなかった。
 梓に伝えても理解が得られないことはわかりきっていたので口を噤んでいたが、綺麗ですよね、とうっとりする梓に気のない返事をしているのを見ていれば、恵がアクアリウムに関心がないのは明らかだった。恵の様子に気づかないまま梓が盛り上がっていたのは、ひとえに梓の人が良すぎるからだ。安室は苦笑しながら様子を見守っていたはずだった。
「実は、水族館の下見をしなければいけないんですが、一人だと気後れしてしまって……。恵さん、よければ付き合っていただけませんか?」
「……私ですか?」
 安室が提案してきたのは、恵が注文を口にした直後だった。ランチ終了間際のこの時間は、女性よりも男性が多く来店する。
「無理にとは言いませんが……知人に女性が少ないので、誘える人がいなくて」
「おっと聞き捨てならんな! 安室くんモテるくせに、誘える人がいないって?」
「はっきりデートのお誘いだって言っちゃいな!」
「ちょっと皆さん、黙っていてくださいよ!」
 すかさず野次を飛ばす人々によって、店内が変な熱気に包まれる。ただの店員であれば客が無遠慮に野次を飛ばすこともなかったのだろうが、安室はポアロで老若男女を問わず人気があるのだろう。可愛がられているのが見て取れる様子で、冷やかす男性客が照れる安室に絡んでいる。
「もちろん、日取りは恵さんの希望に合わせます。……だめですか?」
 安室がさり気なく恵の手を握った。それにより店内に歓声が満ちる。期待の眼差しが恵に集中していた。
 断りづらい状況だった。
 安室の最後の一押しに負けた恵が、無言のまま頷いたことで水族館デートが決まった。カウンターから顔を半分だけ覗かせ、瞳を輝かせながら成り行きを見守っていた梓の盛り上がりようといえば、よくやったと言わんばかりに、野次を飛ばした男性客にコーヒーを一杯ずつサービスするほどであった。

「水族館なんて久しぶりに来ました」
「僕もです。ここのライトアップはとても綺麗で人気らしいですよ」
 他愛もない会話をしながら入場を済ませる。何故こんなことになったのかを改めて考えれば、まだ入館しただけにもかかわらず疲労が押し寄せるようだった。
 いくら周囲から圧をかけられようと、自分がしたくないことを断れないほど恵は押しに弱い人間ではない。言ってしまえば、ポアロでの野次は安室を暴きたいという欲の後押しだったのだ。安室は多重人格なのではないか、という疑念が恵の頭から消え去ってしまうには日が浅すぎた。稀に見る人間を前に、さしもの恵も関心を見せずにはいられなかったのだ。結果的に断れなかったことに変わりはないが。
「どこから見たいとか、希望はありますか?」
 パンフレットを広げて安室が尋ねる。恵は安室の手元を覗き込んだ。入場ゲートのすぐ先、通路を抜けた場所から先は三方向に分かれている。左右に伸びる通路と、ペンギンと触れ合える二階へ伸びる階段だ。
 安室がパンフレットを広げるので水族館の間取りを確認してみたが、誘われただけの恵にはとくに希望も何もない。ゆるく首を横に振った。
「安室さんの都合で構いませんよ。下見なんですよね」
「まあ。ですが、館内の間取りを把握するだけですから……」
「下見って探偵業の依頼ですか?」
「すみません、詳しいことはお話しできなくて。個人情報に関わりますし」
「ああ、そうですよね。こちらこそすみません」
 丁寧に断る安室に、恵はあっさりと会話を打ち切る。
「じゃあ左から順に回りましょうか。この進路で回れば満遍なく……」
 恵はパンフレットを指差して安室に提案した。都心からは離れた場所にある規模の大きな水族館だが、安室が車を出したため時間には余裕がある。細かく見て回っても十分すぎるほどだ。
 つつ、とパンフレットの上を滑る恵の手を安室が焦ったように止める。
「あのっ……、下見と言いましたが気にしないでください。せっかく来たんですから……今日は、貴方に楽しんでもらいたくて」
「そう、ですか」
 安室に手を掴まれ、恵は顔を見上げたことを後悔した。恵に注がれた視線には、否定できない熱が込められていた。
 館内は人気があるのも頷ける美しさだった。梓が見せてきたアクアリウムと違い、澄み渡った青一色ではあったが、とにかく演出が素晴らしい。表情があると思わせられるほど多彩な青が広がっていた。
 これほど美しい水族館であれば、家族連れよりカップルの比率が高いのも納得がいく。雰囲気のいい水族館だった。かくいう安室と恵も、傍から見ればカップルと思われているのだろうが。暗闇の中、水槽からの光を受けて青く照らされた安室を横目に恵は考える。
 アクアリウムに行きたがっていたのは梓だ。梓を誘った方が喜ばれただろうに。
 安室と同じ景色を眺めながら恵は考えたが、口には出さなかった。ポアロでも、梓を理由に断ろうと思いながらできなかった。下手に問いを投げれば、安室はすかさず恵を誘った理由を明らかにするだろう。そうなれば、恵はもう安室から逃げられなくなる。
 安室は、恵に好意を寄せていた。
「綺麗ですね」
 振り返って恵を見た安室は、目にしたことがないほどの喜色を滲ませていた。
 ただ魚を見ているだけで幸せになれる感覚が恵にはわからない。いや、好きな人間と一緒にいれば心が浮き立つのだろうことは、恋や愛を知らない恵でさえ知っている理屈だ。
 だが、恋をすれば世界が色付くと言うそれが、安室に対しても同じように言えるのだろうか。安室が多重人格であれば、安室の精神性を一般論に適用して解釈してはならないのかもしれない。
 目に映る景色を額面通り受け止めていいのかわからず恵は押し黙る。水の青を吸収して深みを増す安室の瞳が、やけにきらめいているように見えた。
 恵の反応を待っている安室が、言葉を探す恵の視線を占有していることに気づき、さらに喜びを露わにする。どろりと溶け出てきそうな熱を帯びている瞳に、恵は思考が掻き回されるような感覚がした。眩暈がする。
 綺麗、かも、しれない。覗き込めば泳いだ魚が見えそうなほど深い青に同意すると、安室は高揚した勢いのままに恵の手を取った。

「お料理、とても美味しいです。飲みすぎちゃう」
 恵はそう言ってぐっとワインを呷った。
 水族館を出て、食事に誘われた恵は返答に窮した。暗くなる前に帰りたい。抜けきらない日頃の習慣が、こと安室の前では強く表に出た。帰りは車で送るから大丈夫だと提案する安室にしばらく考える。握られたままの手のひらが熱かった。
 連れて来られたのは大きめの洋館だった。洋館を買い取り、一階を丸々レストランに改築しているらしいそこは、少しラフな格好でも楽しめるフランス料理店だ。
 穴場なんです、と唇に指を当てて微笑む安室に眩暈が増した気がした。
「すみません、私ばかり」
「構いませんよ、連れてきたのは僕ですから……ここの料理は、ワインと一緒に楽しむのが一番美味しいんです」
「……やっぱり安室さんも飲みませんか? タクシーで帰りましょう。それか代行」
「あはは、気にしないで。送ると言った責任はきちんと取ります」
 自分ばかりワインを飲んでいる状況がただでさえ気まずいのに、安室の言葉を聞くとなお申し訳なく感じた。笑みを深めて恵を見ている安室にいたたまれなくなり、気を紛らわそうとまたワインを口に含む。
 恵はコース料理の経験が少なかった。初めは安室にマナーを聞きながら料理を食べ進めていたものの、アルコールが入れば些細なことも気にならなくなっていく。
 酒には強くとも、夜出かけることを好まない恵は酒の付き合いがあまりない。言ってしまえば飲酒の経験が浅い。食事と、会話と、飲酒をそれなりのペースで嗜んでいけばすっかり酔いが回っていた。
 料理も終盤となり、恵はワインのボトルを見た。大分空けたが、一人で飲み切るのはやはり難しい。残すのはマナーが悪いのだろうかと考える恵に「持ち帰りましょうか。批難はされませんよ」と安室が口にした。
 普段であれば表情から思考を読まれたことに不満を覚えたかもしれないが、恵は上質な食事と芳醇なワインで気分が良くなっていた。納得してデザートに手をつける。
「ん……ソースの風味が華やかですね。前に来たときはなかったな」
 デザートを一口含んだ安室が味わいながら言う。
「あまい」
「お好みじゃありませんでしたか?」
「好きです、美味しい」
「……、」
 恵はポアロでケーキの類を頼んだことはなかった。午後の仕事を残しているのに、口内がべたついた感覚になるのは、歯を磨いても不快感が残るから好きではなかった。
 ポアロで恵がデザートを注文したのを見たことがない安室は、てっきり甘いものが苦手なのだと思い込んでいた。恵があえて甘さに言及するので、デザートが食事を台無しにしてしまったのではないかと弱って尋ねたのだ。
 だからこそ、安室は返答に不意を突かれた。好みじゃないかと尋ねはしたが、好きだと返されるのを予想しなかった。まるで告白されたように錯覚してしまった。
「安室さん……?」
 黙り込む安室が何を考えているのか、このときばかりは恵もすぐ理解できなかった。ほんのりと目元を赤くさせる安室を見てはっとする。アルコールが回っているせいで注意力が散漫になっている。恵はそれから安室と目を合わせることができなかったが、安室はずっとそんな恵を見つめていた。
 食事を終えて恵の自宅まで走る車内の中、安室は何度か恵に会話を切り出しては止めることを繰り返す。そのたびに恵は身構えなければならなかった。車内で幾度目かの痛い沈黙が流れた頃、恵の自宅前に到着する。車を降りた恵は、礼を言うために助手席のドアを開けたまま腰を曲げる。車内から恵を見上げる安室は寂し気な表情をしていた。
「送ってくださってありがとうございます、気を付けて帰ってくださいね」
「ええ。また、ポアロで」
 それが安室の答えだった。
 安室を見てまた恵も答えを出した。安室透は、バーボンという人格も抱える二重人格者なのだと。
 バーボンまでもが恵に好意を抱いているかはわからない。ただ、これからも安室との付き合いを続けるのであれば覚悟を決めなければならない。あらゆる人間の中でも厄介な危険人物と関わり、それを後悔する未来への覚悟を決めなければ。
 少し前の恵であれば間違いなく安室を切り捨てる道を選んだ。だが安室が二重人格であれば、バーボンを理由に安室を切り捨てるのはあまりに憐れだと思ってしまった。見定めるだけのつもりが、たった一日で切り捨てられないほど安室に同情してしまったのだ。



 安室が恵と出掛けたようだ。
 バーボンは裏≠ナ安室の心の変化を吟味していた。安室の感情は、こうして気を休ませている間に嗜むものとしてはバーボンを楽しませる。安室が感情を口にできず言葉を飲み込むたびに、言葉がそのまま飴となってぽろぽろとバーボンに降り注いでいた。ファンタジーのような心象風景は、夜の殺伐とした空気に身を浸してばかりのバーボンからすれば愉快に感じる。
 どうして安室が気持ちを伝えなかったのか、いっそ不思議になるほど舌の上を転がる飴は甘い。もちろん、オリジナルの立場を考慮しての行動ではある。安室だけでなく、バーボンもオリジナルも、自らの欲を第一にできる立場ではない。バーボンの活動が激しいこの時期はとくにそうだ。潜入捜査官である降谷零は、悠長に恋人を作っている暇などないのだから。
 二度もバーボンと会ったせいで警戒心をむき出しにしていた恵も、安室の苦心が実ってかすっかり元の対応に戻ってきた。それどころか、一日安室と過ごして今まで以上に心を許しているような印象さえ受ける。それでも、あれこれと制限のある安室と恵の距離がこれ以上縮まることはないだろう。
 今日の記憶をオリジナルへどう引き継ぐかバーボンは考えた。
 言葉による意思疎通、体験した出来事の共有は文字にして互いに読み合うしか方法がない、とオリジナルや安室は思っているが、バーボンだけが、オリジナルと安室の無意識に潜り込み、記憶に干渉することができた。他の二人が知り得ない事実である。
 単に表出している間の出来事を他の人格へ伝えるためであれば、文字に書き起こせばいい話である。それでもバーボンがどうするか考えているのは、降谷零の精神状態が抱える複雑な事情にあった。
 オリジナルは、バーボンという人格が自分の中にあることをきちんと把握している。元々、降谷零はオリジナルただ一人のものだった。人格がオリジナルとバーボンに分かれたとき、自分の記憶に整合性が取れなくなると、オリジナルはすぐに事実確認を行った。オリジナルはバーボンと同じく聡明な男である。バーボンはすぐ自らの存在を明かした。
 対して安室透は、バーボンが演じたキャラクターが分かれただけの不安定な人格だ。オリジナルが許せなかった行為を行うためのバーボン、そのバーボンから光の下で活動するために作られた存在という曖昧な過程で生じている。オリジナルが必要に駆られて生み出した人格ではない。
 つまり、オリジナルは安室という人格が存在することを把握していない。
「さて、さて。どうしましょうか……」
 何も各々の記憶を余さず共有する必要はない。必要に応じてバーボンが人格の切り替えを行えば、現場に適した記憶でやっていけるだけの要領の良さが降谷零の肉体には備わっている。だがオリジナルが安室を認識していない以上、記憶に不備があれば不都合だろう。バーボンは今回も安室の記憶を全てオリジナルに同期することを決めた。
「ただ……透の感情は透のものですからね、零。可哀想に……」
 安室の記憶を同期するということは、安室が恵に好意を寄せるかのような行動を取っていることをオリジナルが知るということだ。すると恵に好意を抱いていないオリジナルは当然疑問に思う。どうしてわざわざ恵と水族館へ行ったのか、と。感情までは同期できないせいでオリジナルは安室の好意を理解することができず、いつも曲折した解釈をした。
 だれかに恋をしている素振りをすれば、安室透というキャラクターに親近感を持たせることができる。ただの演技が、真実味を帯びてくる、と。
 だれに向けてかわからない憐みを、バーボンは楽しげに吐き出した。



 安室と水族館へ行った日から数日後、ポアロへ初めて行ったときに安室はいなかった。
 安室は本業でしばらく休みなのだと梓に聞かされて納得がいった。水族館には下見のために行ったのだ、そのあとに探偵の仕事が立て込むのは当然と言える。
 梓はやけに安室と過ごした日の話を聞きたがった。特別なことは何もなかったと言っても、二人の間に何か起こったはずだと勘繰って引かない。なんでも、やけに安室の機嫌が良かったらしい。
「本当に何もなかったの。安室さんにも同じ質問したんでしょう?」
「それは……そうだけど。でもでも、何かあったと思いたいのよ!」
「ただの野次馬根性じゃない……」
 敬語も取るほど打ち解けた梓は遠慮がない。
「だって安室さん、恵さんと話すときはいつもよりやわらかい顔をするんだもの。絶対恵さんのこと好きだわ」
 口を尖らせ、梓は情報を開示しない恵に対する不満を露わにする。話すまで帰してもらえなさそうだと判断した恵は、安室と過ごした日の内容を説明することにした。
 流氷の天使をはじめとした水族館でしか見られない珍しい魚、色鮮やかな小魚の大群に大水槽をゆうゆうと泳ぐ大きなクジラやエイの写真を見せる。スマートフォンの中に広がる青い世界に梓は「きれーい!」と声を上げた。
 次々と写真をスライドしていると、子供のようにはしゃぐ安室の写真が表示される。見せれば、梓はたまらず噴き出していた。
「安室さん可愛い! でもどうして安室さんこんなに無邪気な顔してるの?」
「散歩してるペンギンが近くで見れたんだけど、これが思ってたよりも近くって」
「ペ、ペンギン……? 口を開けば推理とうんちくばかりの安室さんが、ペンギンでこんな顔したって言うの……?」
「映り方の問題で、別にペンギンに喜んでたわけじゃないよ」
「じゃあ何にはしゃいでたの?」
「それは……」
 ペンギンが一番好きだからこんなに近くで見られるなんて思わなかった。
 感動する恵を見て、ペンギンが好きなんですか、と尋ねた安室に恵が返した言葉だ。嬉しさから破顔する恵を見て、喜びを露わにした安室が恵の手を引いてもっと近くで見ようだのほら寄ってきましたよだの言ったときの顔が映っているのだ。
 こんなことを正直に言えば、梓は余計に安室との関係に進展があったのではないかと勘繰るに決まっている。しかも、構えていた勢いのままその表情をつい写真に収めてしまった、などと言えば掻き立てられた梓の好奇心が恵の心境の変化へまでも矛先を向ける。
 向かいに子供がいて、と適当に言えば梓はすんなり騙された。
 食事をして、車で送ってもらって、と話を進めるたびに梓はそこでは何がここでは何がと合いの手を入れるかのように質問攻めにしたが、恵は頑として安室とは何もなかった、の一点張りを通し続けた。
 事実、何もなかったのだ。安室の表情がどれだけ恵への好意を訴えていようが、言葉では何も渡されなかった。期待するようなことはなかったと話して、ようやく渋々といった様子で梓は引き下がる。
「つまんないわ、絶対告白すると思ってたのに」
「あのねえ……そうやって変に空気を入れないで。もし安室さんが私のこと好きじゃなかったらどうするの?」
「そうかしら?」
 まるで恵は安室からの好意を感じないかのように振舞った。この調子であれば、梓は安室にも相当発破をかけたに違いない。安室に会ってもいない内から顔を合わせづらい状況になってしまった。そろそろ勘弁してくれないかと視線で乞えば梓はまた口を尖らせる。
 梓こそいつも炎上を気にしていて、安室との仲を疑われることがどういうことか理解しているのではないか。恵が真っ当な疑問をぶつければ、梓は気まずい顔をした。ころころと表情を変える梓を見ているのは面白い。毒気のない梓がいるという理由でも、結局ポアロへ来るのは止められないのだろう。
 この平穏が続けばいい。恵はささやかな願いをコーヒーと共に嚥下した。



「そうか……ではこの件は君に任せる。頼んだぞ、風見」
「わかりました。必ず期待に応えます」
 人通りの少ない公衆電話は、降谷がよく利用するポイントの一つだ。
 降谷は電話ボックスの中でひと息つく。降谷をずっと悩ませていた件にようやく片がつき、風見に一通り指示したところだった。余程のことがなければ降谷なしでも現場を回せるはずだ。
 最近、組織の仕事が増えた。実際の立ち回りはバーボンが担うとしても、他との都合をつけるのは降谷だ。バーボンが急に呼び出しを受けても対応できるよう、公安の仕事は風見ら実働班だけで処理に当たらなければならない。
 拭えない疲労で体が重い。肩を回せば痛々しい音が鳴り響いた。以前は身体にまで影響を及ぼしかねなかった精神的疲労は、降谷が自らとバーボンという人格に分かれたことでいささか和らいでいる。
 降谷は、自分が解離性同一性障害であることをきちんと理解していた。
 本来は病気を治そうとして通院するのだろうが、降谷はあえてその選択肢を切り捨てた。精神疾患を負った事実が受け入れ難かったのではない。バーボンという存在を保身のために有効活用すべきだと考えたのだ。少なくとも、現段階では。
 そもそも心身のいずれか、もしくは双方が極限まで追い詰められなければこんな状況は生まれない。降谷は人並み以上にタフだという自負がある。これは過信ではなく、冷静な判断によるものだ。そんな降谷が人格を分けなければならなかったほどストレスを感じていたのであれば、正常に戻したところでまた分裂する可能性があった。潜入捜査を中断するわけにはいかない。発生した人格がバーボンだからいいものの、たとえば幼児退行した人格が生まれては潜入捜査に支障をきたしかねない。それならばこのままバーボンを利用する方がリスクは少ないからだ。
 バーボンに肉体を明け渡している間は拘束されているような感覚こそあるが、意志に強く制限をかけられているような、支配されているような気配はない。バーボンを認識して以来は記憶の齟齬も見られず、バーボンより降谷の活動時間が圧倒的に多い現状を考えれば、主導権は降谷が握っていると言えた。慌てずとも、バーボンに肉体を乗っ取られるようなことは起こり得ない。
 むしろ現状維持することによる利点が大きいとも降谷は考えていた。バーボンと会話することで思考が捗っているのだ。聡い降谷がもう一人いれば、思考速度は倍になると言っても過言ではない。
 それだけでなく、バーボンが裏社会で培った経験は、降谷が動いている間の感覚を過敏にさせることもあった。降谷が直接経験していても活きたのだろうが、感覚的には背中にも目が付いているようなものだ、降谷の意識の外にまで注意を払えるのは重宝した。
 降谷は、自分の身に起こっている異常事態をたいして異常だとは捉えていなかった。
 ただ一つ、安室としての自分の言動には少しばかりの疑問が残る。恵という名の女性をやたら気に入っているような、そんな素振りが果たして必要だったのか。ここ数日降谷はそればかりを考えた。
 公安の仕事の一環で、件の水族館を直接下見する必要があった。降谷が下見する必要性はなかったが、警視庁の人間よりも潜入捜査をしている降谷の方が時間の都合がつけやすかった。個人的に抱いた懸念を解消するのに風見を使うのも気が引けた。
 カップル連れが多いことは事前の調べでわかっていたため、カモフラージュのために恵を選んだが、別に梓でも不足はなかったのだ。それでも恵を必死になって誘い、その後は食事まで共にした。あのときの心境がわがことながらよくわからないままでいる。
「まあ安室透はそういう男か」
 気遣いを忘れない設定だ。下見という目的を明らかにしていたといえども、休日に女性と二人きりで出かけて、用事が済んだ途端用済みと言うように解散するわけにいかない。周囲にデートとまで言われれば、謝礼代わりに食事くらいは共にするものだ。
 そういった意味で口にした言葉が、まるで第三の人格を受け入れたように聞こえるものだと裏≠ナ笑い飛ばされていることには気づかないまま、降谷は電話ボックスのドアを開いた。


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