03




 至極真っ当に生きていれば、余程悪い星の下に生まれない限り、大事件や大事故に見舞われることはない。そういう当たり前のことが、ここ米花町では適用されない。
 米花町で過ごして長い人間は下手すれば生涯を終えるまで気づかない事実だが、この町では事あるごとに事件が起きる。殺人事件はもちろんのこと、傷害、放火、窃盗、テロ、軟禁等々、挙げればきりがない。
 米花町勤務、という文字は一部の社会人を絶望させる効果的な単語だった。かくいう恵も、米花町に支社を持たない企業を選んで入社したにもかかわらず、入社後ほどなくして新設された米花支社に転属を余儀なくされた一人である。
 いっそ腹を抱えて笑いたくなるほどの短いスパンで、事件事故に巻き込まれて出社が遅れるという連絡が会社に舞い込むのが日常茶飯事になっていた。遅れて出社する社員の業務を補填する作業にも慣れたものである。米花町でやっていければ、他の企業に転職したときも怖くない。そんなふざけた言葉が社員の口から本気で飛び出してくるほど、支社勤務の社員は臨機応変な処置を誇っている。
 日本のヨハネスブルグと揶揄される町で、恵が事件に巻き込まれた回数は存外に少なかった。
 怪しい人間には近づかない、人通りの少ない場所へは行かない、無計画に行動しない、ニュースは毎日チェックする。そういった簡単なことの繰り返しが、米花町で事件に巻き込まれるか否かの分かれ目であった。同僚から「海外旅行してるんじゃないのよ」と呆れられたこともあるが、気を付けるだけで事件との遭遇率は著しく下がっているのだから馬鹿にできたものではない。
 事件に巻き込まれることは避けられても、事件に遭遇することはままある。神妙な顔をして地面を睨んでいる子供の後姿を見つけて、知人だと気づいた恵は声をかけた。
「こんにちはコナンくん」
「わっ、恵さん。こんにちは」
「何してるの?」
「アリバイの穴を探してるんだ」
「へ、へーえ」
 集中していたのか、声をかけられたことに驚き目を丸くした江戸川コナンは、恵に挨拶をすると調子を戻して質問に答えた。年の割に大人びた受け答えをすることは知っていたが、おおよそ子供から出てくるとは思えない返事に恵は口許を引きつらせた。
 コナンは、あの名探偵毛利小五郎の家に居候している少年だ。聞くところによると、高校生探偵として名高い工藤新一の親戚にあたり、両親が海外にいるため毛利家に身を寄せているらしい。工藤家に引き取ってもらえば良かったのではないかと考えたが、小説家の工藤優作も、元女優の工藤有紀子も海外で生活しているのだとか。血筋を見た、という感想を抱いた。
 周囲の環境を考えれば、大人びて育ったのも豊富な知識を持ち推理事に興味を持つのも理解できる。恵が理解を示せないのは、危険に首を突っ込んでいくコナンの行動だ。
「もしかしてもう目星をつけてる?」
「ああ、状況を考えれば犯人はあの人しかいない……トリックも大方わかった。なのにそれを証明することができない、アリバイが完璧すぎるんだ。早くしないと証拠がなくなっちまう」
 急に子供らしからぬ声音で話し出すコナンに恵は気づかない振りをした。恵がコナンを子供扱いしないせいか、コナンはしばしばわざとらしい子供の振りを止める。無意識なのだろうが、恵が一度も指摘しないのでコナンが気づいたことは一度もなかった。こうして事件に遭遇したコナンを恵が見かけるのは初めてではないのだ。
「コナンくーん!」
 仮にも事件現場だ、コナンに犯人の魔の手が迫ってはいけない。そんな親切心が顔を覗かせなかったわけではないが、犯人が既にわかっているのであればコナンも警戒するだろう。恵が現場に留まっていたところで無意味だ。
 そう考えてコナンと別れようとすれば、スーツの男がコナンを呼びながら走って来た。
 高木と呼ばれた刑事は、一人で犯行現場をうろつくのは危険だとコナンを案じる言葉をかける。事件現場に居合わせているのだろう毛利の連れとなれば、面倒を見る責任があるのだろう。高木がコナンの慧眼に信頼を寄せることを知らない恵は内心で憶測を立てた。
「ところで、この女性は? 現場にはいなかった人だけど……まさか重要参考人かい?」
「違うよ、恵さんは偶然ここを通りかかっただけ!」
 高木が探るような視線を恵に向けるため、コナンは慌てて否定する。頭を掻きながら勘違いしたことを謝罪した高木に、恵は気にしないで欲しいと告げて軽く自己紹介をした。
 刑事とも顔見知りであるコナンの顔の広さに感心しつつ、現場を後にした。
 事件現場は公園前の通りだ。予定では少しばかり早くここを通ろうとしていた恵は、下手すると事件に巻き込まれていたかもしれないことに気づいて背筋を凍らせる。殺人事件か否かは知らないが、死んでいたのが恵である可能性もあった。
 事件に遭遇すると帰宅したいという気が逸る。残りの予定は後日に回して今日はもう帰ろう。歩を早めた恵は、翌日の朝刊で毛利小五郎の功績がまた一つ増えたことを知った。



「安室さんと水族館へ行ったんだから、私とは美術館ね!」
 謎理論を提示されても許せるのは梓だからだろう。恵は苦笑した。
 日が落ちない時間帯の帰宅、そして危険を見つけたらすぐ現場離脱。他者と出かける以上、そのような身勝手な行動が好まれないことは理解している。だからこそ、誰かと外出することはほとんどない恵だったが、教養ある人間が集うことになるだろう美術館であれば来場者もまともな人間に限られるはずだと二つ返事で了承した。
 水族館の対になるのは遊園地じゃないだろうか。疑問が恵の脳内を過ぎるが、早くも美術館へ思い馳せる梓に水を差すつもりはない。
 館内は平日にも関わらず人が多かった。有名な絵画が数点展示されているらしく、うち一点が日本初上陸どころか門外不出の絵だったということが拍車をかけているようだ。まだ公開して数日しか経たず人の入りが多いのだと来場者が話しているのが耳に入った。失敗した、恵は率直にそう思ったが、梓の目的も例の絵画だったので避けられない運命だったのかもしれない。
 来場者が多ければ滅多なことは起きないだろうが、恵の心はやけにざわついていた。バーボンと出会ったことを除けば目立ったこともなく、事件に遭遇しない日々が続いている。だからか不安に駆られているのかもしれない。
 目的の絵画を満足そうに眺める梓を横目で見ながら、退館を提案するか悩んだ。絵画を目当てにする人間が多いため時間をかけて見ることができず、人の波に流されていく梓は少々不満そうだ。
「見たいものは見られた?」
「まあ、そうね。もっとよく見てみたかった気はするけど……私にはやっぱりわかんないわ。親に勧められたから見に来たけど、芸術って難しいのね」
 肩を竦める梓に恵は安堵の溜息を吐いた。大方見終えたなら、外へ出ようと言っても可笑しくない。梓の顔を窺いながら提案する。
「外に美味しそうなクレープが売ってたじゃない、食べに行かない?」
「それいい! ……あ、でも待って。おトイレ行ってもいい?」
「うん、突き当りを曲がったところにあるみたいだよ。そこの角で待ってるから」
 恵が指した方向に梓が駆けて行く。移動スペースだからか通路には人がまばらだ。壁に背を預けて立っていると、カツカツと慌ただしい足音が響いてきた。
「現状報告を」
「はい。幸い発表前でしたので、情報は外部に出ていません。鑑識は数分で到着します」
「そうか。密輸入とはやってくれたな、木箱に細工して底に銃を隠しておくとは」
「提供元は何も知らないと回答しています。船内で細工をされた可能性が高そうです」
 距離は相当離れていたが、会話を拾えたのは声の主が見知った人間だったからだ。やけにクリアに鼓膜を揺らすのは、安室の声だった。しかしポアロでのやわらかい声音や、バーボンの痺れさせるような声とは違う。硬質で、凛と響くような澄んだ声は、安室から発せられたとは思えないものだった。
 見えたのは一瞬だったが、通路を横切り部屋の奥へ消えて行った安室はグレーのスーツを身に纏っていた。探偵業では必要に応じて状況に適した格好をすると話を聞いた気もするが、普段目にしないスーツ姿に意外性を感じる。
 いや、と恵は頭を振った。あれは探偵業ではないだろう。聞き間違いでなければ、密輸入だとか銃だとか聞いた。闇の世界に身を置くバーボンであれば剣呑な単語を口にしても何らおかしいことはないが、まるでそれらを嫌悪するかのような空気を醸していたのは疑問だ。バーボンの言葉としては、おかしいだろう。
 探偵業でもないが、バーボンの仕事でもない。だとすれば、安室はどんな理由で美術館に足を運んだのか。
 考えても埒が明かないと恵は早々に頭を悩ませるのを止めた。少なくとも美術館にそぐわない、ただならぬ空気だったことに違いはない。関係者以外立ち入り禁止、と書かれた立て看板の向こうにあるドアを睨んで恵は目を伏せた。早々に場を離れた方が良さそうだ。
 ちょうど帰ってきた梓を半ば強引に引っ張り美術館の外に出た。



 現場の緊張は高まっていた。銃乱射だって。周囲の人々は恐怖を滲ませながらもどこか他人事のように呟く。恵が見つめる駅の入り口には立ち入りを規制するためのテープが張られ始めていた。
「現場を封鎖します、貴方も外へ出て」
「あ、いえ……私は……」
 テープを持った警察関係者が強張った声で恵に話しかける。規制線の内側にいる一般人は恵のみだ。駅構内にいた一般人は蜘蛛の子を散らすように現場を離れ、少し離れた場所から様子を窺う見物客へと変貌している。
 恵もできればそうしたかった。こんな凄惨な現場に誰がこれ以上留まりたいと願うだろうか。ビニールに包まれて見えずとも、人の死体が転がっているとわかっていて間近で様子を見たいと思えるほど無神経ではない。むしろ脳内ではけたたましく警鐘が鳴っていた。
 恵の顔色が悪いのか、警察関係者はテープを手にしたまま体調を案じる声を出す。鉄の匂いが充満しているせいで気分が悪くなっていると気づいたのは、男が背中に手を添えてからだった。労わるように上下する手の動きが、まるで恵の吐き気を誘うようにすら感じられる。う、と息が詰まりかけたとき、背後から二人へ声がかかった。
「彼女は生き残った被害者の付き添いだ。こちらへ」
 テープを手にした男は、スーツの男に頷いてまた作業に取り掛かる。恵を駅構内に残したまま、最後の規制線が張られた。
「気分は大丈夫ですか」
「……あまり」
「……でしょうね、申し訳ない」
「村木は大丈夫ですか?」
「かなり参っているようです。車両が停まるまで死体の下にいたらしく……そのおかげで犯人に気づかれずに済んだわけですが」
「私は何をすればいいんでしょうか」
「まずは落ち着かせてください。彼女が話せる状態になるよう、協力してもらいたい。彼女が見たかもしれないものを聞き出さなければいけません」
 男の言葉に、恵は顔を険しくさせて頷いた。風見、と名乗る男は、警察手帳を見せた後に事件の概要を説明した。
 銃乱射事件は、地下鉄を走る電車の中で起こった。利用者の少ない時間帯だったため、甚大な被害を出すには至らなかったが、それでも三十余名が犠牲となった。犯人は半狂乱で、電車が停止すると駅へ飛び出し、発砲しようとしたところを警察官に押さえこまれたと言う。
 走行中に車内を転がるおびただしい数の死体を見た乗務員が、指令室と連携して停車駅を通過しつづけたことで、警察は駅構内で速やかに犯人を制圧することができた。厳しい状況での難しい判断は最善を尽くした結果だが世間の評価は割れるだろう。車内の人を見殺しにしたと批難する者もいれば、被害を最小限に留めたと称賛する者もいるからである。
 ただ、制圧した犯人もまた、まともに会話ができる精神状態ではなかったと風見は話す。薬物に侵されているわけではないが、ひどく呂律が回らず意味不明な単語を延々と繰り返している。生き残った被害者──村木に事情聴取を試みたが、こちらも震えて泣くばかりで手が付けられずにいた。
 そこで恵に白羽の矢が当たった。村木は恵の勤める会社と取引をする企業のひとつだ。今日は業務に関する打ち合わせが予定されていて、恵は駅近くのカフェで村木の到着を待っていた。村木と落ち合う予定だったカフェと停車駅はさほど離れていなかったため、警察に呼び出された恵は付き添いとしての要請を受けて駆け付けたというわけだった。
「ただの銃乱射事件じゃない、ってことですか?」
 事情聴取にしては穏やかじゃない。神経が張り詰めたような風見の受け答えに恵はそう感じた。まるで、この事件の裏に何か陰謀があるような話し振りだ。
「……詳細は話せません。ご理解ください」
 恵は頭を抱えた。努力の甲斐があってそうそう事件に遭遇することはないというのに、直接的でなくとも間接的に大きな事件に関わることを余儀なくされている。バーボンに会ってからだ、と思ってしまうのは筋違いだろうか。だが少しでも不穏な男のせいにしなければ気が済まなかった。
 貴方はいずれ僕の役に立つ、そんなバーボンの言葉が不意に思い出される。恵は風見を見てはっとした。
「風見さん、先日美術館にいませんでしたか?」
「は? 美術館ですか……いえ、ここ暫くそういった場所へは行っていません」
「そうですか」
 嘘だ、恵は前を向いたままの風見を見て思った。梓と美術館へ行ったとき、安室と話していた男の背格好が、風見に似ていたように思うのだ。視線の合わない風見の横顔が、安室の隣でぼけていた筈の記憶にぴたりと合致していく。
 何より、あのときの安室の雰囲気が、目の前の男とよく似ていた。
「根気がいるかとは思いますが、諦めず、ゆっくりと声をかけ続けてください。貴方に頼るしかないのは警察として不甲斐ないですが、よろしくお願いします」
 首を縦に振り、プラスチックのドア越しに見える村木を確認した。恵よりもひどい顔色をしている村木は、普段の柔和な笑みが欠片も見られない。やつれた様子を鑑みるに、相当摩耗しているらしい。風見の説明から想像力を働かせる恵は、あまりの恐ろしさに他人事の気がしなかった。
 ドアを開けて村木の傍へ行く。声をかければ、村木は堰を切るように泣き出した。
 いくら村木を平静に戻すためとは言え、部外者を易々と犯行現場を案内するわけがない。恵をここへ呼びつけたのは安室ではないのか。恵はそう予感していた。バーボンの言葉がずっと脳内をこだましていた。



「見られていたことには気づいていたんですか」
『当然だ』
「では、どうして彼女に釘を刺さなかったんですか? 放置していたから、遠回しに風見へ探りを入れたんですよ」
『口封じをするには彼女は知りすぎている』
「知りすぎている?」
『僕についてだ』
 おかしなことを言う、バーボンは喉の奥でくつくつと笑った。
 先日美術館に赴いた際、人通りの少ない通路をわざわざ案内させたにも関わらず、偶然居合わせた恵に姿を見られていた。よりによって降谷零としての姿を見るとは、つくづく恵は運が悪い。いや、運が悪いのは降谷零か。バーボンは眉根を寄せる。
 オリジナルと会話をするバーボンは、手帳に書かれた文字にそっと指を這わせた。知りすぎているから口封じができない、などと奇妙なこと極まりない言葉を、オリジナルは一体どういう気持ちで書いたのだろうか。
 知りすぎたからこそ口封じをする。手段は色々ある……舌を切るか、喉を焼くか、いずれかの方法で言葉を発せない状態にする。もしくは、精神的なショックを与えることで言語に支障をきたすようにするか、薬を仕込むなりすることで一定期間の記憶を奪う。
 裏社会であらゆるものを見てきたバーボンの考えは尽きない。だが、オリジナルは恵が降谷零について知りすぎているから手が出せないと言った。果たしてどういう意味なのか。
 まさか、安室の感情がオリジナルにまで影響しているとでも?
 浮上した可能性に、バーボンは腹が捩れそうなほどの笑い声を上げた。オリジナルは国を第一に考える人間だ。もちろん、国を守る延長線上に国民の命もありはするが、決断を迫られれば少数を切り捨てなければならないことも理解している男である。
 オリジナルほどの堅物が、無意識の情ひとつで選択を誤るなど愉快でならない。ふ、と息を整えてバーボンは手帳に文字を綴る。
「逆に利用してやろうと……そういう魂胆ですね」
『協力者にまではしないが、彼女が有用であることは安室として接するうちに十分判断できた。彼女の、危険に対する第六感は鋭い。これまで事件に巻き込まれたこともほぼないからな。それに彼女が余計なことを口外しないのはお前が保証したはずだ』
「そうでしたね。保護すべきだと言う君を止めたのは僕でした」
 恵に二度接触した、二度目の夜のあとにそれを報告したバーボンを、オリジナルは口うるさく責めた。引き返せないところまで一般人を巻き込んでしまったと判断したオリジナルは、恵を組織の手が及ばない地方へ飛ばし、公安の監視下に置くことを提案したのだ。降谷の素性を露見させないためでもあり、恵の安全のためでもある。
 ただ、恵はだれにも話さないとバーボンが説得し、オリジナルは渋々公安を動かすことを止めた。人間が一人消えたところで組織が勘繰ることはないが、安室透の周りにいる人間となればそうともいかない、という一言を添えたのが効いた。
 恵にとってバーボンの口添えが良かったかと聞かれれば、そうではないだろう。きっと強引にでも安息を手に入れる方が恵は幸せだったはずだ。本人に事情をすべて話して選ばせれば、間違いなく米花町から去ることを選んだに違いない。
 バーボンが口添えしたばかりに、オリジナルに重用される可能性が出てしまった。申し訳ないとバーボンが思うはずもないが。
「あの様子だと、現場に呼び出したのは君だと気づいているでしょうね……」
『……賢い女性だよ、本当に。彼女は気づいていると思うか? 僕たちのこと』
「僕たちのこと? 降谷零という一人の人間が、二つの人格に分かれていること?」
『ああ』
 バーボンは淀みないオリジナルの字に再び可笑しくなり、たまらず天井を仰ぎ見た。
「どうでしょうね……」
 とんでもない、恵は気づいているに決まってる。それどころか、安室しか知らない恵にバーボンの存在をわざわざ刷り込ませたのだ。安室だって、バーボンと自分は異なる人間なのだと主張したがっていた。
 言葉に出せる内容じゃないため質問されたことこそないが、あの反応は確実に真実へと迫っている。恵は、もはやオリジナルの存在にすら気づきつつある。
 記憶を共有していない部分だ、オリジナルが知らなくても仕方ない。バーボンは、オリジナルの驚愕に染まる声をいつ聞けるのか楽しみになった。
「僕には判断しかねます。何せ二度しかあっていませんから」
『そうか。言われてみれば、ずっと話しているのは安室≠セったな。裏の顔くらいにしか思われていないだろう』
「話は変わりますが例の銃乱射事件……目をつけていたカルトで間違いありませんか」
『ああ。犯人が変な模様が描かれた布を燃やしていたのを見た、と生存者が言っていた。宗教団体の名簿にも犯人の名があったようだ……組織の伝手で侵入できるかもしれない、頼まれてくれるか』
「頼まれました」
 安室が自分の演技であると思い込んでいるオリジナルは、バーボンの返答に疑念を抱くことすらしなかった。
 公安で入手した資料を全て出すよう頼んでバーボンが表出すると、目下に資料の束が置かれていた。オリジナルが一度目を通していれば記憶を覗けば済む話だが、それをしないのはオリジナルに記憶に干渉できることを悟られないためだった。



 お外出たくない。連日何かと事件に遭遇し、安室絡みで気を揉んでいる恵にとうとう切ない願望が芽吹いてしまった。とは言え、いくら願おうと社会人に長期休暇などない。繁忙期に差し掛かっていることもあり、恵は出勤を余儀なくされている。今日も社員が一人遅れて出社するという連絡が入って遠い目をした。米花町の治安が改善される日は来るのだろうか。
 繁忙期は業務こそ大変だが、恵の心は逆に軽くなった。仕事量の多さ故に社内へ缶詰状態にされるからだ。外へ出なければ、会社に爆弾が設置されたり、凶器を持った人間が侵入したりしない限り平和なものである。急遽来られなくなった社員の仕事を受け持つ恵の負担を減らすべく、他の社員が外回りを引き受ける機会も増える。有難いことだ。
 デスクで遅めの昼食をとる。忙殺されているからか、やたらポアロでのゆっくりした昼食が恋しくなった。のんびりしていては帰宅が遅くなると恵は食事もそこそこにして業務を再開した。いくらブラックと呼ばれる企業でなくとも、時折こうして昼休憩をつぶしてでも仕事をしなければならない気分にさせられるのは、日本人の悲しい性だろう。

 なんだかんだと言って、帰宅できたのは日が傾き始めた時間帯だった。まだ暗くはないが、帰宅している間に日が沈み切る時間ではある。手早く荷物をまとめてタイムカードを切った。
 通勤には電車を利用しているが、車両通勤にすれば良かっただろうかと考えることもある。維持費はかかるが、車内の安全は確保されているようなものだ。駅に向かう道すがらそんなことを考えた。どれほど策を尽くそうと絶対に安全と言えるわけではないのはわかっているが、考えずにはいられない。
 速足で歩いていると、傍に見たことのある車が停止した。
「こんばんは恵さん」
「……こんばんは」
 車内から顔を覗かせる安室は恵に向かってにこやかに笑う。
「今お帰りですか? もう日が傾いているのに、珍しい」
「繁忙期ですから……」
「良ければ送りましょうか」
 逡巡する恵の返事は聞かずに、安室は前方を指差して「あそこに車を寄せますから」と言ってブレーキペダルに置いた足を離す。
 一度送ってもらったのであれば二度も大差ない。安室の厚意に甘えようと、恵はガードレールの切れ目に寄せられた助手席のドアを開いた。
 横で運転する安室からは、バーボンが纏う底が知れないあやしさは感じられない。かと言って、散々安室に向けられてきた溶けそうな熱視線も感じられなかった。強いて言えば、美術館で話をしていた安室に似た気配だ。美術館での姿は、バーボンの一側面なのか、安室の一側面なのか、恵は未だ結論を出せずにいる。
「今の貴方はどちらで呼べばいいんでしょうか」
「おかしなことを言いますね。どちら、とは?」
「……やっぱり何でもありません、気にしないでください」
「いえ気になります。どちら、とは? まるで僕に別の呼称があるような言い方ですが」
 安室の顔を覗き見ると、安室もまた恵を横目で見ていた。
 バーボンも安室も、己を識別するよう恵に求めてきた。あの夜のように、あの昼のように、隣にいる男がどちらかわかりやすければこんな馬鹿な質問はしない。ただ、今の安室が一体何者かわからないから問うただけだ。何故安室の視線はこんなにも鋭いのか。まるで咎めるような色に、恵は疑問を引っ込めたが、それすら許されなかった。
 安室にバーボンの名を出したときとは明らかに対応が違う。安室は恵の問いをなかったことにした。だが目の前の男は、恵の問いの意味を訊ねている。男はバーボンの一側面なのか、安室の一側面なのか……はたまた三つ目の選択肢に該当する存在なのか。恵は深く息を吐いて、心を決めた。
「詮索する気はありませんでした。だけど貴方に口で勝てる気がしないので、はっきり聞きます。安室さん……貴方、解離性同一性障害に罹っていますね?」
 安室──降谷は小さく喉を鳴らした。それを恵には悟られないよう瞬時に音を殺し、恵の言葉の先を待つ。
「バーボンと名乗る貴方は、安室さんから分かれてしまった裏の顔だと思っていました。だけど美術館で見てしまったんです。バーボンでも、安室でもない貴方の姿を。どちらかの人格の別側面かとも思いましたが、いま質問を取り下げた私に貴方は食い下がってきた。安室さんに同じ質問をしたときは、全く違う反応だったのに……安室さんのときの記憶がないんだと判断しました。だから、貴方は三人目の人格。違いますか?」
 降谷は聞きながら眉を顰めた。恵の言葉には否定しなければならないことがいくつも含まれている。
 まず安室は人格の一つではない。安室の記憶は余さず降谷のものである、恵に同じ質問をされたことはない。三人目の人格ではなく降谷が主人格であり、第一人格だ。
 もちろん全て恵に話すことができないものだ。降谷零の情報は機密中の機密だ。とてつもない速度で頭を駆け巡る思考の、一切を外へ出すことが許されない歯痒い状況に、ハンドルを握る手に力が入る。
 すっかり暗くなった夜の街を走る車は、ゆっくりと速度を落としていった。恵はゆるやかになっていく外の景色を眺め、ぐっと喉を鳴らす。車内にはこれ以上ない緊張が漂っていた。降谷は自身を落ち着かせるように長いながい息を吐く。恵の肩がわずかに揺れる。
「恵さん」
「……なんでしょうか」
「だれか、人に話しましたか。僕の名を出していなくとも、そういった人物がいると、ぼかして話したことは」
「いいえ、だれにも話していません」
 バーボンとは文字で記憶を共有してきた。どこで何が起こったか、そのときどう感じたか、できる限り子細を報告し合った。記憶を直接共有できない以上は仕方ないと、これまで問題なくやってこられたのだから問題ないと、甘く見ていたことがいけなかった。バーボンとして何を見聞きしたかを直接知らない以上、恵がバーボンと安室に別人格の可能性を見ていたかどうかを正確に判断することはできない。
 恵のような一般人がバーボンを知っているだけでも危険だというのに、個人的な問題にまで関与させてしまってはいけない。恵は異常なほど安全な日常に執着しており、降谷が精神的に不安定だからといって積極的に関わってこようなどとはしないだろうことが救いだ。降谷と接触する機会が増えれば恵の危険は増す。恵は降谷にとって、守るべき国民の一人だ。
「貴方の言う通り、僕は解離性同一性障害と呼ばれる病を発症しています。これについて、貴方には謝罪をしなければならない。もう一人の僕が貴方を怖がらせてしまった……すみません」
「いいえ……バーボンさんは、結果的には私を守ってくれた……ようですし」
「そしてお願いがあります。どうかこのことは他言せず、僕の前でも二度と口にしないで欲しい。いずれ治る病で、貴方に心配されてどうこうなるものではありません。……ひどい言い方を、してしまいますが」
「気にしないでください、デリケートな話ですから。私が無神経でした」
 動揺しているだけだ、何せ、多重人格を患っている人間に出会うのは初めてだから。そんな心無い言葉は飲み込んだ。理由はなんであれ、症状から察するに三つもの人格に分かれたのであれば相当な心的外傷があったに違いない。追い込まれた人間に冷たくするほど道徳心がない人間ではない。
 要求に頷いた恵を確認して、降谷はまた速度を上げた。恵の家はすぐそこに迫っている。もう恵がポアロへ来ることはないだろう。降谷はサイドレバーを握る手に力を込めた。


-3-


prev
next


「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -