01




「やきとり食べたい……」
 夜は大分更けていた。普段ならば絶対に出歩かない時間帯だ。だが、どうしてもやきとりが食べたくて仕方がない。悩んだ末に、恵はサンダルを引っ掛けて外へ出た。
 恵は非常に警戒心が高い。遅い時間に帰宅することがないように、止むを得ない場合を除き、仕事は定時で上がるよう心掛けている。知らない道や、人通りの少ない道は通らず、常に片手でスマートフォンを握りしめているが、歩きながら操作はしない。
 飲み会に参加するときなど、帰宅時間が遅れる場合はとくに細心の注意を払う。席を外すときは酒に強い友人に声をかけておき、帰宅には必ずタクシーを使った。両親への連絡も欠かさない。
 人が良く愛嬌があり友人も多い、周囲からはそう思われている。だれとでも分け隔てなく接し、良好な人間関係を構築するため、早い時間に帰宅するため必然的に酒の付き合いが悪くなる以外は好印象を持たれる人間だ。
 だが、実のところ恵は極度の人嫌いだった。神経質が高じて、他者を容易に受け入れることができない。手を煩わされることや、プライベートに踏み込んで来られることを厭うが故に、角が立たないようあえて適度な人付き合いを許容している。
 そんな恵が珍しく夜中に出かけたのは、何かしらが起こる前兆だったに違いない。
 視界に飛び込んでくる光景を見て、なんて間が悪い、と恵は考えた。暗い路地の向こう、街頭に薄暗く灯された男が、男の死体を片付けていた。
「……!」
 片付けている男と一瞬だけ視線が交わる。男の顔には覚えがあった。よく通う喫茶店で働いている安室透だ。
 ひとまず、恵はゆっくりとその場を離れることにした。逃げたところで無意味にも思えたが、安室と目が合ったのは死体が消えた後だ。死体を見たかと問われても、平静を装えば誤魔化せるのではないかと思ったのだ。
 いや、安室は賢い男だ。不可能かもしれない。
 恵はポアロで博学多才な安室の姿を何度も目にしている。名探偵、毛利小五郎の弟子を務めるほどの人物であるとも聞いた。そんな男に駆け引きを持ち込んで勝てるわけがない。恵は見てはならないものを見てしまった己の不徳を悔やんだ。
 だが、幸運なことに安室が追いかけて来ることはなかった。恵は安堵から息を吐く。目が合ったにもかかわらず、逃げるように場を去った恵に不審感を抱かなかったというのは少々疑問が残ったが。もしかすると、喫茶店──ポアロへ来店したときにでも問い質すつもりかもしれない。
「ああ……気が重い……」
 一度だけ、事件を推理する安室の姿を見たことがある。些細な点も見逃さず犯人を追い詰める様に当時は心強さを感じたものだが、今では恵の恐怖を煽るばかりだ。
 安室を避ければ死体を見ましたと語るようなものだ。ポアロでいつも通り接した方が何も見ていないことへの説得力がある。ポアロへ数度は通った方がいい。
 しかし、いずれは行かなくなるだろう。安室が危険人物だと判明した以上、恵は通い合い続ける気にはなれなかった。メニューはどれも絶品で、刑事も贔屓にする安全性の面から、あまり外で食事を取りたがらない恵も気に入った喫茶店だった。惜しい気持ちは強いが、手に負えないことに巻き込まれるつもりは毛頭ない。
 すっかり気落ちした恵は、力なくコンビニの袋を掲げる。これを食べて今日はもう寝よう。せめてポアロを訪れる日までは、先程のことを忘れることにした。

 死体の男に関しては、どうでも良かった。
 安室が、虫も殺せないような顔をして人を殺していたことに関しても同様に。



 カランカラン、と軽快な鈴の音が響く。呼応するように「いらっしゃいませ」と声をかけられた恵はいつものようにカウンター席へ座った。
 ポアロへ来たのは二週間ぶりだろうか。安室を見た日からは五日ほど経っていた。
 梓がテーブル席の客に品を出し終えると、カウンター横のスイングドアを押しながら恵に話しかけた。
「こんにちは。ランチにいらっしゃったんですか?」
「はい。取引先と打ち合わせがあるんですけど、それまで時間があって。手持ち無沙汰になったので、ここでお昼ご飯でも食べておこうかと」
「そうなんですか! のんびりできるなら、ライブの話聞いてくださいよ!」
 ぱっと表情を明るくした梓は、恵との距離を詰めた。親しみを感じる態度に、恵も微笑みを返す。
 いつだったか恵はもう忘れてしまったが、入手困難で有名なグループがツアーライブを開催した。恵にもファンの友人がいたが、折角当たったチケットを持て余していると困り果てていたのだ。偶然ポアロでその話題を出すと梓がとてつもない勢いで食いつくので、友人に連絡を取ってチケットを譲ってもらい、梓へ渡した。
 ちなみに、人混みの中で数時間耐えられない恵は最初から人数に織り込まれていない。
 興奮を露わにする梓の声を聞いてか、安室がカウンター奥のスタッフルームから顔を覗かせた。恵を見てゆるりと微笑む。
「あれ、恵さん。いらっしゃいませ」
「どうも」
 にこやかに挨拶した安室は、そのままカウンターに出て梓の隣へ並んだ。
「安室さんだめですよ、今日は私が恵さんを独り占めするんです」
 ガルルと警戒する犬のように睨みを利かせた梓に、安室は「えっ」と戸惑うような声を上げる。そして困った顔をすると伝票を手に取った。
「でも、注文を聞かないと。ね?」
「あ、それもそうね」
 恵の注文も取らずに会話を続けるつもりだったのか。勤務中だということを忘れないでほしい、と恵は梓に向かって遠い目をする。
「メニューはどうされますか? いくつか入れ替えをしたんですが」
 ポアロへ何度も来ている恵は、一通りの品を注文したことがある。メニューを見ないまま食べたいものを注文することはままあった。それを考慮して尋ねる安室に、恵は少しだけ思案する。
「いただいてもいいですか? 新作が気になるので」
「わかりました。どうぞ」
 安室の手元にあるメニューが手渡された。表紙を捲った次のページに新メニューが三点、真新しい印刷で記載されている。鮮やかな写真に、愛らしいフォントで品名が書かれたそれは、見ているだけでも恵の空腹を誘う。
「へえー、クリームホットパイ。いいですね」
「寒さが増してきましたから、温かいものを……と思いまして。カップに入っているので手頃なサイズになっていますよ」
「じゃあこれとベーコンエッグを」
「サラダもお付けできますけど、どうしますか?」
「お願いします」
 安室が注文をさらさらと書き込んでいく。会話の切れ目を見計らったように、梓が水をテーブルへ置いた。カウンターへそそくさと戻っていくと、待ってましたとばかりに口を開く。どうしてもライブの話をしたいらしい。
 顔を輝かせている梓に付き合って感想を聞いていると、安室が注文を用意するまでの時間があっという間に感じた。
「クリームホットパイにベーコンエッグ、付け合わせのサラダになります」
 プレートに並べられたランチは華やかな仕上がりとなっていた。盛り付けもさることながら、思わず舌なめずりをしてしまうような、たまらない香りまで放っている。
「わあ、かわいい」
「見た目にもこだわってみました。ポアロは女性客が多いですから……イソスタ映えを意識してみたんです。結構好評で、僕も嬉しいですね」
「安室さんが考えたんですか? このパイ」
「はい。こういうのを考えるのが好きで」
 感心しながら恵はスマートフォンを取り出す。食事を写真に収める、という行為をあまりしない恵を見て、意外だったのか安室は目を瞬かせた。
「中の具材は何ですか?」
「具材は日替わりです。ですから、食べてからのお楽しみ。アレルギーがある方は注文をうかがうときにお断りを入れますが……恵さんはアレルギーありませんよね」
「ありませんよ。話しましたっけ?」
「いえ。ですが、ポアロでお食事をされるときは、その時々で注文されるものが違いますし、あまりアレルギー項目を気にされている様子はありません。新作も欠かさず食べてくださいますから……アレルギーがある可能性は低い、と考えました。違いますか?」
 恵はまた感心する。安室の推理を肯定した。
「さすが探偵」
「はは、これくらいはどうってことないですよ」
 それではごゆっくり、と言うと安室はカウンターへ戻った。安室が恵と話している間、梓はライブの話を中断していたが、ちょうど来店した他の客の対応を行っていた。恵との話に花を咲かせるのはまだ先になりそうだ。ランチ時は、どこの喫茶店も忙しい。
 先日恵が見たただならぬ空気を安室からは一切感じなかった。いつも通り、どこを見てもさわやかな好青年である。殺人現場を見られたことへの焦りや、恵の反応を探るような後ろ暗い気配は感じられない。
 安室は鋭く、その鋭さを十二分に生かすことのできる賢しい男だ。推理をしている様子や、客に細やかな気配りをする様子を見れば、安室が愚鈍でないことは明らかだ。恵に見られたと気づけば、必ず探りを入れてくるはずだった。だからこそ、見ていないことの裏付けとしてわざわざポアロまで足を運んだというのに、安室はまるでそんな素振りを見せない。
 恵が勘付かないよう、慎重に観察しているのか。頭を過ぎった可能性を恵は否定する。恵は、自分の警戒心が高いことへの自負がある。他者の不審な行動には敏感である。探るような視線であれば、まず気づくと断言できる。
 神経質になりすぎて目が合った気がしただけかもしれない……他に理由がなかった恵はそう思うことにした。恵の心配は杞憂に終わったわけだ。
 ポアロへ来る前とは違って穏やかな気持ちでランチを済ませる。梓と会話を楽しみ、頃合いを見計らってポアロをあとにした。恵の足取りは軽かった。最後の食事も楽しめことだから、と恵は今後ポアロへ行かないことを躊躇なく決める。実に平和的に殺人犯との縁を切ることができた、と自分の身を守り切ったことに達成感を得ていた。



 残業はしない。これが恵の生活信条だが、やむを得ない場面は稀にある。
 例えば、どうしても時間外に行わなければならない照会や、前倒しに進めておかなければ損失を生むかもしれない案件の進行を任されたとき。残業ではないが、接待で参加する食事会等々。今日は、取引先との食事会だった。
 知らない人間に囲まれて摂る食事は殊更に苦手だ。楽しくもない話題を前にして、どうして満足のいく食事ができるだろうか。
 神経質な恵は、食事と企画の打診両方を効果的に進めなければならないプレッシャーでますます食欲を減退させていた。箸が進まない恵に、取引先の人間が気遣うような素振りを見せる。
「企画を任されたときはいつも不安から食が細くなるんです」
 まさか他人と食事をとるのが苦手だと言うわけにもいかず、こうやって無難に返すのが恵の常套手段だった。「だけど精一杯努めます」と加えればなおよい。不信感を抱かせないだけでなく、好印象を持たせる。
 タクシーを呼び、だいぶ酔いの回った取引先の人間を車内へ押し込む。聞こえのいい言葉をかければ多少乱雑に扱っても文句をぶつけられることはない。解放感に満たされて恵はぐっと背筋を伸ばす。
 気が抜けると、次は不満が鎌首をもたげた。人当たりがいいため、恵はよくこのような席を任される。経費を使えるのだから、酒が好きな人間に任せておけばいいものを。酒に強いことがせめてもの救いか、と飲酒量に見合わず色を変えていない表情で愚痴を零す。
 自宅まではそう遠くない。いつもなら自分が使うタクシーも手配するが、気分転換と酔いを覚ます目的で歩いて帰ることにした。もちろん、明るい通りを歩くことは忘れない。
 静かだが、薄らと夜の熱に浮かされた飲み屋街の気配が通りの向こうに感じられる。ビルが並ぶ反対側の通りと、少し歩いたその通りは、わずかな距離しか離れていないにもかかわらず全く違う様相を見せる。不思議な場所だった。
 ぼんやりと景色を眺めながら歩いているように見えても、その実、恵は背後の足音を気にしていた。慌てて景色から目を逸らしたりはせず、少しだけ歩みを速める。……誰かが、後ろから迫っている。
 足音を限りなく抑えている様子が窺えて恵は警戒心を高めた。角を曲がった瞬間に走ろう、と考えたとき声がかかる。
「逃げないで──さん、」
 確かに名前を呼ばれて恵はどうするか迷った。聞き覚えのある声だ。安室透である。
 ポアロでは追求されなかったのだ、あの夜のことを問い質すつもりかはわからない。だが、夜と安室の組み合わせがいやに気になった。
 このまま逃げてしまっても問題はない。もし次会うことがあれば、わからなかった、怖かったから逃げ出した、と言えば安室は許すだろう。そこまで考えて走り出す準備を整えたとき、近くで銃声が響いた。
 それを銃声だと気づいてしまったのがいけなかった。
「ああ、わかるんですね、貴方は」
 銃声に注意を向けた一瞬の間に安室が恵との距離を詰めた。近くで安室の声がする、と思った次の瞬間には身体が後方へ傾ぐ。手首を握られ、安室の方へ引き寄せられている。咄嗟に暴れようとした恵を容易く抑え込むと、安室は耳に唇を寄せて囁いた。
「大人しくして……死にたくないでしょう? 僕も貴方を殺したくはない。……ついて来てください」
 ゆっくり、しかし簡潔に、言い聞かせるような安室の声には否定を許さない冷たさがある。恵はその声に従った。逆らう方が危険だということが痛いほどに伝わってきた。

 銃声がした場所とは逆方向にある建物の裏口へ回り込む。扉は施錠されていたが、安室はピッキングしていとも容易く開錠した。ピッキングの間、安室は片腕で恵の腰を引き寄せて逃げないようにしていたが、口は抑えられていなかった。恵が叫び声を上げて逃げようとするなどとは微塵も考えていないのだ。
 建物内の一室に入る。イスやテーブルしか見当たらないがバーを思わせる内装だ。廃業してそのまま、という状態だろう。
「座ってください」
 安室の指示に従い、置かれていたソファに腰かけた。浅いとも深いとも言えない位置に座った恵は、カウンター席へ座る安室を黙って見上げる。
「手荒な真似をしてしまいましたが……どこか捻ってはいませんか」
「……別にどこも」
「それは良かった。どうしてあそこを歩いていたんですか? お酒も飲んでいるみたいですね」
 酒に強く、飲酒しても周囲からは全くそう見られたことのなかった恵は、安室の言葉に強く眉根を寄せた。酒臭いと言いたいのか、それとも普段の仕草と比較して些細な違いを見つけたのか。そうであれば本当に賢しい男だ。恵は警戒をさらに強める。
「少し飲みましたから。業務の一環で……取引先を帰して、私も帰宅していたところです」
「おや……そうでしたか。しかし驚きました、こうして二度も会うとは」
 二度。安室の言葉に、恵は立ち上がって安室を睨む。安室は愉快そうに口許を歪めただけで、突然の行動を咎めはしなかった。
 やはり、あの夜に恵がいたことに安室は気づかれていたのだ。すぐさま追求せずに恵を安心させ、だれにも助けを求められない状況で追い詰めようとしている。恵を見事に謀った安室に、焦りと恐怖、激しい苛立ちを覚えた。
 ポアロでも巧妙に探りを入れていたのか、安室は自身の警戒心を上回る観察眼の持ち主なのか──いくら頭を働かせたところで遅い。安室は笑って会話を続けた。
「貴方は警戒心が高い……なのに、あのとき僕を見つけてしまったのは悲劇と言えるでしょうね」
 大仰に手を振って見せる安室に、いよいよ恵は動揺を露わにした。
 恵の警戒心が高いのは、いざ危険に晒されても何もできない自分自身をよく理解しているからだ。特別体を鍛えているわけでもなければ、技を磨いているわけでもない。頭の回転が速いわけでもない恵は、取り返しのつかないことが起こり得る前に逃げるほかない。
 こうなってしまえば、もうどこへも逃げようがないことはわかりきっていた。
 殺されてしまう。恵は冷静に自身へ降りかかる理不尽を受け入れた。最後に、安室に懇願するべく口を開く。恵は人嫌いだが他者を貶めたい気持ちがあるわけではない。自分が安室に目をつけられたせいで、無関係の人間まで被害に遭うのは理に適っていない。
「安室さん、どうか……家族には手を出さないでください」
「自己紹介がまだでしたね。僕はバーボンと言います」
 恵を無視して行われた調子はずれな自己紹介が、恵に間抜けな顔をさせた。
 今から殺す人間相手に自己紹介も何もないだろう、と悪趣味な安室に向かって恵は思い切り顔を顰めた。表情から恵の言いたいことを察したのか「僕は貴方を殺したくはないと言ったはずですが」と言う。説得力がまるでない。恵は内心でツッコミを入れた。
「本気ですよ。どうして僕が貴方を殺さなければいけないんですか。理由がない」
「だって……死にたくなければ、って言いました」
「状況が許さなければそうせざるを得ませんが、そうならないようにここへ連れて来たんでしょう」
「……」
「殺しはしません。貴方の警戒心は素晴らしい……何が危険で、どうすればその危険を回避できるかきちんと理解している。だから僕がわざわざ口止めをしなくても、あの夜見たものを、今夜聞いた銃声を、貴方はだれにも話さない。僕は信頼しているんですよ……自分の判断を、ね」
 歌うように安室は言葉を紡ぐ。恵の緊張が解けるわけではなかった。
「あそこを離れたのは、銃声を放った人間が貴方を見つけるわけにはいかなかったから。僕は見逃しても、彼はそうしない……。確実に貴方を殺したでしょう。疑わしきは殺す人ですからね……」
「見逃すだけでなく、守ったとでも言いたいんですか」
「ああそうか、まあ、そうなります」
「どうして?」
 至極当然の問いだった。殺人現場を見られて、目撃者を見逃すという選択肢が安室にあること自体が信じられない思いだ。だが確かに一度はポアロで見逃されている。そして、安室の言うことが真実だとすれば二度も見逃されようとしていた。銃声の発生源から守るという形で。見逃す理由が恵の沈黙であるなら、守る理由は何か気になるのは当然だ。
 考え込む安室を恵は黙って眺めた。指を頬に沿わせ、すらりと伸びた長い脚を組み、視線を横に流す安室は様になっている。見ている者の思考を溶かすような美しさは毒花のようだ。
「これは可能性の話ですが……貴方はいずれ僕の役に立つ、そんな気がしているんです」
 要領を得ない回答に、恵は頭が痛くなった。そんな曖昧な理由で守られたのだとしても納得できるわけがない。だが安室も評す通り恵は警戒心が高かった。深く追求すればするだけ、自分の身に迫る危険が膨らんでいくのはわかっている。
 好奇心は猫をも殺すと言う。安室に感謝でも伝えて、今夜のことは忘れて過ごすべきだ。たとえ忘れられる事柄ではなくても、忘れたように過ごすのが一番だった。
「質問するのはやめます。助けてくださってありがとうございました」
「どういたしまして。勘違いしないでくださいね、僕は買っているんですよ、貴方のこと」
「そうですか」
 立ち上がる安室に恵は身を強張らせる。安室は小さく笑うと恵の方へ手を伸ばした。白い手袋を着用した手が差し出されて、恵はその手を取るか迷う。恵から触れるまでは微動だにしない安室を見て、おずおずと指先に触れた。安室に逆らわない間は、少なくとも脅かされることはない。
「ポアロ、二度と来ないつもりでしょう。来てくださいね、寂しがっているので」
 部屋のドアを開けながら安室が呟いた。安室を見上げると、ぞっとするような冷たさが変わらず双眸に宿っている。そんな安室の口から温度の違う言葉が発せられたことが違和感を覚えさせた。寂しがっているとは、梓のことを指して言っているのだろうか。
 建物の外へ恵を連れ出すと、安室は帰り道を指差しで説明する。必ずこのルートで帰れと念を押す様子は、恵が危険に鉢合わせしないことを知った上での言葉のようだった。
 安室の説明したルートを反芻すれば、満足したように安室は笑う。笑みには、心のやわらかい部分をまさぐるような色気が含まれている。間近で浴びて、人嫌いの恵でさえ圧倒されそうになった。
 ポアロで向けられてきた笑みとは異なる表情のつくり方だ。ポアロでの安室は、優しくあたたかな、春の陽だまりを感じさせる雰囲気を纏っている。夜の安室は艶のある笑い方をした。
 まるで別人のようだ。
 そんな馬鹿々々しいことを考えた。見たことのない安室を見て、恵はまだ動揺しているらしい。危うさに魅力を感じるほど恵は愚かにはなれない。
「恵さん」
 離れていく指先に視線を落していれば、安室が再び恵の名前を呼んだ。まだ何かあるのか。視線を上げようとした恵は、安室の声がひどく低かったことに気づいて全身が固まった。離れかけていた指先が再び安室の指に触れ、気まぐれに絡められている。
「僕はバーボン、間違えないで」
 やけに落ちた声が、家に着くまでの間中、恵の鼓膜を揺らした。



 もう幾日経ったかしれない。夜に出歩くと碌なことがないとほとほと身に染みた恵は、強迫観念から意地になっても仕事を切り上げて明るいうちに帰宅する日々を送っていた。もちろん、そのために仕事帰りにどこかへ立ち寄ることもしていない。避けられない買い物は昼休憩の内に済ませるかネットで注文していた。
 それどころか日中すら必要以上に歩かない日が続いた。二度に渡る危険との邂逅はそれほど恵の精神にこたえていたのだ。
 必然的にポアロへの足も遠のいたが、ふと「来てくださいね、寂しがっているので」というあの夜の言葉が頭の中をこだまして、恵はどうしてもポアロへ行かなければならない気持ちに駆られていた。悩みに悩んだ末、週末の昼を狙って訪れることにした。
「いらっしゃいませ!」
 久しぶりに来店した恵を安室は心待ちにしていたと言いたげな様子で迎え入れた。
「お久しぶりです、ずっといらっしゃらないので、心配しました」
「はは……梓さんは?」
「今日はシフトが入っていませんから、おやすみですよ」
「そうですか……」
 梓がいないのであれば来た意味がない。拍子抜けした恵はいつものようにカウンター席へ座った。休日の昼間だというのに人がいない。店内には安室と恵だけだ。
「さっきまで何人かいらっしゃったんですが……どうにも、ここから数ブロック先で大きなイベントが行われているみたいで、今日はお客様を取られちゃってるんです」
 困った顔をする安室からは爽やかさを感じた。
 安室が注文を取るので、恵はコーヒー一杯を頼んだ。食事はいいのかと尋ねられ、つい歯切れの悪い返事をしてしまう。梓がいないのであれば、コーヒーを飲んでさっさと帰ってしまおう。そう思っていたのを見抜かれた気がした。
 恵がコーヒーを飲む間、安室は他愛ない話をした。安室は饒舌な男だ。梓が恵に懐いているため安室と話す頻度は低いが、ポアロによく来る少年と延々と話し続けるのはよく見かけた。そうでなくとも、客と積極的に会話する安室を見ていればわかる。梓がいなければこうなることも予想がついていた。
 安室は本当によく話した。いつもの倍は話しているのではなかろうかと、恵は少しだけ安室に気圧される。まるで、ずっと恵に話したいことがあったのだと言わんばかりに、安室の会話は尽きなかった。
 相槌を打つ傍らでコーヒーを飲む。ようやくカップが空いたと思えば、すかさず次を注がれ、しまいには茶請け代わりのクッキーまで出された。逃げないようにされている。薄々勘付いたのはいいものの、恵には逃げ出すための口実も隙もない。八方塞がりだった。
「あの……」
「何ですか?」
「どちらで呼べばいいんですか? 安室さんのこと。二人のときはバーボン?」
 一歩間違えば危険だという思いから、安室をどう呼べばいいのか恵は考えあぐねていた。会話の切れ目を探してようやく疑問を口にする。
 バーボン、という名が法を犯すときに使うものであることくらいは想像がつく。真っ昼間に出していい名前ではないのだろうが、人がいないので構わないはずだと判断した。それでも緊張から冷や汗が背筋を伝う。気持ち悪さを堪えながら、安室の答えを待った。
 安室は目を丸くして驚きを露わにする。そして困ったような、戸惑ったような顔をした後に力ない笑顔を向けた。
「お酒がどうかしましたか?」
「え? お酒?」
「バーボンってウイスキーのひとつでしたよね。僕、恵さんとお酒の話をしたことありましたっけ……」
 恵は顔を顰めた。話を濁すということは、人がいなくともバーボンという名を伏せたいと受け取ればいいのだろう。だが、そんな恵の予想と安室の表情が噛み合わない。安室はひどく困った顔をしていた。バーボンという単語を出されたことが悲しいように、やわらかな髪から覗く眉が下げられている。
 まるで別人の──。
「もう、そろそろ日が落ちますよ。お帰りになるでしょう? 清算しましょうか。あ、二杯目からはおごります、引き留めてしまったのは僕なので」
 頭を過ぎった可能性に恵の頭は真っ白になる。信じられない気持ちでレジへ向かう安室を見ていれば、不思議そうに「恵さん?」と声をかけられて慌てて立ち上がった。小走りでレジの前にやって来た恵を安室は微笑ましそうに見た。
 千円札を渡した恵の手のひらにレシートとおつりが乗せられる。安室はそのまま恵の手を両手で包み込んだ。
 もうやめてほしい、そう願う恵の心境など知らず、安室は瞳を伏せて口にする。
「次は、間違えないでくださいね」



 安室とバーボンが同一人物に思えない。二度目の夜に、まるで別人のようだなどと考えてしまったがために、恵は脅かされていないときですらそんなことを考えてしまった。
 呼び分けろと言うのであれば、二度にわたり出会った怪しい気配の男をバーボン、ポアロでの優しい雰囲気の男を安室だと思って、割り切ってしまえばいいだけの話だ。同じ人間を違う人間のように扱うこと自体が馬鹿々々しく思えてくるし、そんな馬鹿々々しいことを行わなければ身の安全が危ぶまれる状況にあること自体頭が痛いが。
 そもそも、どうしてこうも頭を抱え続けているのか、恵自身もわからずにいた。安室は、夜はバーボンと呼べと言い、昼はバーボンを知らないと言う。ただそれだけを守っていればいい話にもかかわらず、胸の内に引っかかるこの靄は何なのか。
 バーボンが人を殺している姿を見た。バーボンはそれに気づきながらも恵を見逃した。だが安室は恵とそんなやりとりをした覚えがないような反応をする。
 安室がただ白を切っているのだと思いたかった。恵の脳裏を掠めた予想がにわかに信じがたいものだったからだ。だが、疑念を抱いてしまえばもう振り払うことなどできはしない。どうにか確かめたい衝動に駆られた。だがどうやって、と冷静な自分が問いかける。もし真実でも本人に問い質すわけにはいかない。口に出すことさえ躊躇われる。
 安室透は多重人格なのか……などとは、決して。



 安室透は、バーボンが表で活動するために用意したキャラクターだ。
 バーボンとして潜入する際にまさか本名を使用するわけにはいかない。そのため安室透という人間が犯罪組織に所属している、ということになっている。性格、好み、立ち居振る舞いといった明確なキャラクターを与えたのは、バーボンが表で活動するとき必要に駆られて以降の話だ。
 私立探偵であり、喫茶店でアルバイトも行う安室透は、最初はバーボンが演じる劇だった。ただの性格でしかなかったはずのものが、次第と自分の手元から離れていく感覚に襲われる。バーボンは、それがいずれ一人歩きをすることをある程度予測できていた。
『どうして恵さんに名乗ったんですか』
 バーボンが見下ろす手帳に、見慣れた字が書いてあった。
「組織の仕事をしているところを見られました」
『聞いてません』
「言っていませんからねえ……彼女が殺されるかもしれなかったこと、彼女が安室透≠ノ怯えていたことを、知りたかったんですか?」
『避けられる理由もわからずに過ごすのだってつらいんですよ』
「薄々気づいていたなら言わなくても同じことでしょう」
 不満を露わにしてバーボンを責める自身の字を一笑した。
 恵の生活圏で任務を遂行するのは控えろ、ざっくりと言えばそんな内容が書いてあった。こうしている間も、安室は裏≠ナバーボンに対する不満を漏らしているのだろう。安室は、恵に忌避されることが恐ろしくてならないのだ。
 安室が抱く淡い感情をバーボンは知っていた。叶わないと思うからこそ、ささやかな幸せくらいは守ってやろうと、バーボンはあの夜をなかったことにしたのだ。
 次の夜だってそうだった。あの日ジンは気が立っていた。外部組織に一杯食わされ、ジンの歯止めになるウォッカは不在、共に任務へあたっていたのは信用しないバーボン──マイナスばかりが折り重なって手に負えない状況だった。
 ジンが落ち着くまで避難しようと外へ出たバーボンは歩いている恵を見つけた。直後に発砲音が響き、溜息を吐いた。発砲音からだれを始末したかなど想像に難くない、ジンは腹を立てているし、一人殺したくらいで気が収まるとも思えなかった。このまま恵が見つかれば、どうなるかなど言うまでもない。だから仕方なく、そう、仕方なく。
 事情をいくら説明しても安室が納得することはないだろう。安室は、恵の弱みを握って傍にいようとする男ではない。真綿に包むように、やさしく、恵を手に入れたかったのだ。
 バーボンは安室との会話を止める。黒革の手帳を胸ポケットへ仕舞った。
 互いの人格を認識していても、都合よく脳内で会話ができるわけではない。安室が不満そうにしていることや、オリジナルが懸念材料を抱えて悩んでいると察することはできるが、言葉による意思疎通は人格が表出しているときに文字におこすしか方法がない。
「……と思わせているだけですがね」
 バーボンから分かれた不完全な安室透と、人格への認識が曖昧なオリジナルは疑う気配もない。バーボンはイスから立ち上がった。
 今夜もベルモットから呼び出しを受けていた。バーボンは鏡の前でループタイを締め直す。深い青色のガラスカボションが、バーボンの瞳のように冷たくきらめいている。
 解離性同一性障害。バーボンは自らを第二人格だと正確に把握している。もっとも、概ねの主導権はバーボンにあった。人格の交代や記憶の整理、共有、忘却、そのほかあらゆる言動を握っているのはバーボンだ。

 降谷(オリジナル)は、未だその事実に気がついてはいない。



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