07




「現場に到着する頃には日も傾き始めているだろう。厳しい状況となるが、事件は一刻を争っている。これ以上の犠牲を出すことは許されない、全員心してかかってくれ」
 移動中の車内、無線を通して響く降谷の張り詰めた声に、刑事は皆緊張を走らせた。降谷と同乗している赤井は装備の最終確認を行っている。迷いのない手元に、降谷はわずかながら安心を得た。
 降谷を運ぶ車内には最新の通信システムが搭載されている。外部での衛生中継ポイント代わりとして、また簡易的な管制室としても機能させることができる特殊車両だった。警察関係者ではないが、赤井のすすめもあって志保が車内で役割を担うことになっている。もちろん、新一も同乗している。
「あちらの目的がわからないなら突撃は得策じゃないって話じゃなかったかしら。全員で突入するつもり? 彼女危ないわよ」
「ああ。だから僕が先行して乗り込む予定だ。信号があるところ……恵さんの近くに容疑者はいる。部隊は周囲を警戒することに尽力させる。新一くんは赤井捜査官の後ろからついてくるように」
「わかりました。宮野、これ頼んだぜ」
「はいはい。無理しないのよ、貴方は一応民間人なんだからね」
「今更だろ、俺らは」
 悪友に笑いかけるような表情を作った新一へ志保が呆れを返す。
 赤井は新一に絶大な信頼を寄せており、コナンだったときから積極的に関わることを看過する傾向にある。だが他者を巻き込むことを良しとしない降谷が、新一や志保の関与を許可したのは、もはや予断を許さない事態に新一を頼らざるを得なかったからだ。
 綴喜から聞き出した情報によると、息子の綴喜誠司は歪な審美眼で人道外れた行為を行っていた。他ならぬ綴喜も道を踏み外した犯罪者ではあるが、息子は人の死体を飾り立てるサイコパスだと言う。息子を嫌悪した綴喜は綴喜家との縁を切らせた。恵を誘拐した真意はともかく、殺人事件は息子の仕業だろうと語る。
 だから、未成年である新一を頼るくらいには降谷は気が気でなかったのだ。コナンは数々の難事件を解決してきた。降谷にとって、コナンもとい新一は事件解決の礎とも呼べる心強い存在なのである。
 必ず救い出してみせる。その心意気を強めて、降谷は自らの銃を睨んだ。



 連続猟奇殺人事件の犯人は用意周到であり、監視を掻い潜り続けていることからも極めて知能の高い人物と思われる。
 そう聞かされていたため、恵は無闇に抵抗して男を刺激することは避けた。誘拐の手口が鮮やかだったことも、恵を慎重にさせた一端だ。降谷に一杯食わせるほどの人物に太刀打ちできるわけがないことはわかりきっていた。
 それでも誘拐されて丸二日も正気を保っていられたのは、降谷は必ず恵の窮地に駆けつけると信じていたからだ。追跡チップがどれほど高機能かは理解できていなかったが、安心の一助となっていたことも確かだった。
 それが未だ森は静かなままである。恵は絶望に近い感情を抱いていた。加えて、一体何を言い争っているのか、女の金切り声が鳴り響く洋館で恵の神経は急速に擦り切れていった。部屋の隅で身を縮めるのは、誘拐されて初めてのことだった。
 金切り声が止んでも恵の心は穏やかにならなかった。女の車は敷地内に残ったままである。自分の膝を抱え込んでどれほどの時間が経ったのか、足音が近づいてくることに気づいた恵は喉を鳴らした。
「恵さん、起きているかな。昼からずっと外へ出ていないようだけど、大丈夫かい」
 青年は部屋のドアをノックするが返事がないためドアノブを捻る。ただそれも内鍵がかけられたままで叶わず、部屋の外から恵に声をかけた。
 恵は返事をするか悩んだ。青年にさえ今に危害を加えられる気がしてならなかった。元より信頼を寄せていたわけではなかったが、恵にとっての敵は誘拐犯である青年の父親であったのだ。そうであるにもかかわらず、恵の誘拐を幇助した女が青年の友人であったと知れば、青年までをも警戒するのは仕方のないことと言えた。
「起きているんだろう? 返事をしてくれないか?」
「……起きてます……」
「鍵を開けてくれるね?」
「……」
 語気が強まった気がして、恵は恐るおそる立ち上がり、ドアへ近寄った。内鍵を順に外していくとドアがゆっくり開かれる。心が浮き立つような表情を隠しもしない青年が外に立っていた。
「予定より随分と早いが、時間だ。これに着替えておいてくれ」
 青年が恵にドレスを渡す。突然の要求に疑問を覚えたものの、青年は用件だけ伝えるとすぐさま部屋を離れて行った。押し付けられたドレスを見ながら恵は放心した。
 大人しく従っておくに越したことはない。擦り切れた精神でかろうじて考えた恵はドレスを抱えたまま再び内鍵をかけた。
 黒い総レースのドレスは肩を大きく露出させたデザインで、体の線に沿うタイトなものだった。足元まで絞られているため、エスコートされて歩くのがやっとだろう。裾は上品に波打ち、広がっているが、とても走れそうにない。ところどころに小さな宝石が散らされ、品がありながらも華やかな印象を与えるデザインだった。
 着ていた服を脱ぎ、手触りの良いそれを身に着ける。ドレスが体にフィットしていたせいで恵は背筋を凍らせた。恵の知らないところでサイズを測り、調整されたのかと思うと気味が悪い。おぞましい想像を振り払うように、既製品が偶然恵の体型に合っていただけだと言い聞かせる。それよりも背中のファスナーをどうやって上げるかを考えるべきだ。青年には頼めない。
 なんとかドレスを着終えて化粧をする。ドレッサーに箱が二つ置かれていたことに気づいた恵は蓋を持ち上げた。アクセサリーケースにネックレスとピアスが収まっている。ドレスに合わせて設えられたようなデザインだったため、恵はそれらも身に着けた。ヒールに履き替えたところで青年が戻って来た。
「とても綺麗だ。僕が見立てたとおりにね」
 青年は得体の知れない笑みを薄く広げた。
 青年に連れられて向かった部屋には先客がいた。シフォンのスカートをひらめかせて振り返った女は、バーで降谷を引き止めていた共犯だった。
「こんにちは」
 女が挨拶をした。恵は喉が閉まるのを感じた。
 恵が着替える際も女の車は敷地内に残ったままだったため、女が帰っていないことは把握していた。部屋を出るときに、青年は恵と女と引き合わせるつもりなのではないかと考えたが、恵の予想は当たったわけだ。
 挨拶を返さない恵を不快に思ったのか、女は頬の肉を醜く歪めた。
「本当は会わせるつもりはなかったんだが、彼女がどうしても挨拶がしたいと言って聞かなくてね。紹介しなくても知っているかもしれないが──」
「その女を寄越して?」
 青年の言葉を遮るように女が言葉を放った。冷たい響きに恵は体を硬直させる。女を見ると、先程よりも険しい表情で恵を睨んでいた。恵が心底憎いと言いたげだった。
 バーにいたときもそうだった。女が恵に向ける視線はとても攻撃的だ。女の視線に刃があれば、恵を突き刺していたことだろう。自らを守るように恵が腕を抱くと、恵の様子を横目に見ていた青年が重い溜息を吐く。
「それはしないという約束だ。だから君のところに連れて来たんだよ。恵さんがいなければ僕の目的も果たされない」
「その女がいたって何も解決しないわ。彼はね、そいつのせいであんたを裏切ったのよ」
「違うと言っているじゃないか」
「いいえそうよ! そいつが彼を唆してる、前からずっとそうなの! 彼のこと何も知らないくせに、当たり前のように傍をうろついて。裏の仕事をしているときにも邪魔をしていたのよ。私が彼のために仕事してる間に……降谷さんを……誑かして……」
 女は皺ができるほどスカートを握りしめた。
「君は彼の何を見ているんだ。彼について調べたんじゃないのか?」
「調べたわよ! 個人情報から過去まで、降谷さんのことは何だって調べたわ! だからわかるの、彼はこんな普通の女を傍には置かない! 彼の傍にいられるのは特別な人だけ、だから私はずっと努力してきたのよ、こんなどこにでもいるような女が、傍にいられる理由って何なの? 彼を騙している以外に理由はないでしょう、じゃなきゃ彼が私を見てくれないわけがない、彼のために動いている私をもっと省みてくれるはずなの」
 女は金切り声を上げる。自室にいろと青年に言われていたとき、響いてきた高い声の正体が、恵を恨んでのものだとは思わなかった。女の勢いに気圧された恵はひどい動悸に襲われる。それを見て女が恵をせせら笑う。女の瞳は憎悪に満ちている。
「他の女じゃ満足できない。ずっとそいつを殺したかったのよ」
 いとも容易く口にされた事実に恵は悲鳴を上げた。目の前の女が、連続猟奇殺人事件の犯人だったのだ。
 女が降谷に好意を寄せているのは明らかだった。一連の殺人は、恋人の恵を邪魔に思っての凶行だったのだ。仮にも降谷の前で、よく恵への殺意を隠し通したものだと、降谷や赤井がこの場にいれば考えたものだろう。
 恵を狙った犯行だとわかっていても、事実を知るだけと実際に殺意を向けられるのとはわけが違う。明確な殺意を向けられ、恵は全身の震えが止まらなかった。
 もはや大人しそうな女の姿はない。女は「私だって降谷さんのことを好きなのに、彼のためだったら何だってできるのに」と呟き続けている。
「わ、私は……」
「恵さん、君を傷つけさせはしないから安心しなさい。代わりの死体は用意してあるんだ」
「代わりの、死体?」
 やさしく話しかける青年が何を言ったのか、恵は理解するのを反射的に拒絶した。
「君への殺意を抑えるために、どうしても代わりが必要だった。代演事件とは、はは、言い得て妙なものだね」
 代演事件という呼称を知らない恵はやはり青年の言葉を理解できなかったが、青年が死体を準備していたらしいことだけは察した。女を諫めるのではなく、女を一時的に満たすために行動したことを、その選択が取れる異常性を察したのは、恵の本能だった。
 ひどい眩暈がした。恵はとうに事実関係の処理が追い付いていなかった。ふらふらと傾ぐ体が、すぐ傍にあった壁にぶつかって止まる。青年が、弱々しい恵の姿を見て微笑ましい顔をする。
「会ってさえくれないのは変よ……!」
 発狂した女が、すぐ傍にあったテーブルの燭台を乱雑に掴んだ。殴殺するつもりであることはすぐに理解したが、恵は逃げ出すことができなかった。身体が硬直して微動だにしない。
 青年が向かってくる女の腕を掴み、体を止めたが、女の勢いは衰えない。暴れる女を力だけで捻じ伏せる青年が軽々と女を放り投げる。
「邪魔をしないで綴喜!」
 懲りずに立ち上がった女が、ついに懐から刃物を取り出した。犯行に使われた刃物は、多くの被害者の血を吸って赤黒く光っている気さえした。恵は身じろぎするものの満足に動けない。縫い付けられたように動かない足に焦れた声を漏らす。
 女が間近に迫っていた。女は恵を刺し殺すべく刃物を振り上げる。
「やめろ。僕は君のことも気に入っているんだ、恋に身を焦がし恍惚と人を殺す可憐な君をね。僕の手を煩わせないでくれ」
 青年が軽く押すだけで恵の体は動いた。青年を軸に回転しながら背後へ隠された恵は、次の瞬間に何が起こったのかわからなかった。
 女が手に持っていた刃物は恵に届くことなく、女の首深くに沈んでいた。「あ……?」と女は声にならない声を上げる。恵だけでなく、女もまた何が起こったのかわかっていなかった。
 ぷつり、と液体が皮膜を突き破って姿を現した。その瞬間まるで血に濡れるのを厭うように青年が手早く沈めた凶器を引く。女は左右へよろめいた。
「やめろと言って、……いや、もう聞こえていないか」
 堰き止められていたかのようにぱっと一瞬だけ軽やかに噴出したそれは、すぐに伝って流れるだけの穏やかなものになった。重い音を立てて崩れる女の顔は狂気に染まったまま時を止め、正面から床に伏す。そして微塵も動くことはなかった。
「あ……ああ……」
「人が死ぬのを見たのは初めてかな? すまないね、こんなものを見せてしまって。でもあのままだと君が危なかった」
 頚動脈をすっぱりと切られたせいで横たわる死体はすぐさま血溜まりの中へ消えていく。辺りに充満していく鉄の匂いに恵の肌が粟立った。わなわなと体を震わせ、立っているのもやっとの状態だった。
 結果だけ見れば恵は青年に守られたことになる。だが、以前バーボンに守られたときとは明らかに違うものがある。恵の脳内で警鐘が鳴り響いている。青年は羽虫を払うかのような動作で女を殺してみせたのだ。
 恵が青年に向ける眼差しには恐怖が溢れていた。青年も残念そうに恵を見た。
「これじゃあ君に嫌われてしまったかな。君に嫌われてしまうのは堪えるが……」
 ポケットから綺麗なハンカチを取り出し、青年はナイフに付着した血を拭う。青年は心底残念そうである。食い違う言動がまた恵の恐怖を煽った。
 とうとう恵の体から力が抜けていく。壁に背を預けただけでは体勢を保てず、横に傾ごうとする恵の体を青年が慌てて支えた。
「君を殺すつもりはないよ。彼女だって殺すつもりはなかった……気に入っていたのは本当だ。なのに君を傷つけようとするから仕方なく……うん、やはり説得力がない。どう言えばいいものか」
 恵を起こした青年は、自力で立てそうにない恵の様子を見て腰に手を回す。「まるで恋人だ」と浮かれたようなことを口にする青年に恵は頭が痛んだ。いっそ気を失ってしまい気持ちに駆られていた。
 室内にあったイスに恵を座らせると、青年は今一度女の死体を眺めた。
「ところで彼女のことは知っていたのかな。話を遮られてわからず仕舞いだったが」
 平然と会話を続ける青年の神経を疑うなど、恵も馬鹿々々しいことはしなかった。目の前の男も狂っている。事実を織り交ぜて話す青年の功名な嘘に恵が騙されていただけなのだ。あの親にしてこの子ありといったところだろう。
 人が死ぬ瞬間を目にしてショックを受けた恵が、まともな受け答えをできるわけもない。それでも恵の返事を待つ青年に、恵はゆるく首を振って反応を示した。
「まあ君は一般人だからね。彼女は公安警察の協力者で、彼の右腕──風見くんといったかな、公安刑事から指示を受けて捜査のための材料を集める、いわば警察の手足のような存在だよ。彼の所属は警察庁だろう? とりわけゼロ≠ニきたものだ、この子がどうやって彼を知ったのかわからないが、まあ、ひどく執心していてね……。君を殺そうとしていたから捕らえて話を聞いてみれば、彼についてひどく詳しくて驚いたものだ。確かに、君よりは彼について詳しいかもしれないな。学生時代の写真なんかも持っていた。……それからは色々あって友人になったんだ。僕はこの子の殺意をどうにかしてあげることができたからね、いい関係を築けていたよ。ああ、名前も教えておこう、ただ君を殺そうとした女としか思われないのは可哀想だ。この子の名は、染沢舞子と言う」
 恵を差し置いて饒舌に話す青年は、染沢を可哀想だと言いながらも、転がった染沢の死体を見て「元々好みの顔ではなかったが、見るに堪えない死に顔になってしまった。私の作品には加えられそうにない」と冷淡な感想を述べていた。
 青年と、染沢の死体とを見ていた恵はふと疑問を覚える。殺人事件の犯人が染沢だったのであれば、青年の父親である男は一体何を考えて恵を誘拐したのかと。まるで自らが誘拐犯だと言うような言動を取った理由が恵にはわからなかった。
 しげしげと死体を眺める青年は、染沢の手に収まっていた刃物を指先でなぞる。青年が黙ったことで、恵は表の騒がしさに気づいた。かすかにだが、幾人もの緊張した声が聞こえてくる。青年も同様に気づいたようだった。
「片付ける時間はなかったか。彼の前で醜態を晒すことになっては可哀想だが、仕方がないか」
 青年がぼやくと立ち上がって窓際へ近づく。恵は逃走を図ったが、力の抜けた四肢とドレスの形状も相俟って思うように動かせなかった。
 もう外は日が傾き始めている。夕方のわずかに赤みの差す景色の中で、一際明るい色をした髪を見つけて青年の顔が喜色に染まる。
「恵さん、君がどうしてここにいるのかを話していなかったね。僕はバーボンに話を聞いてもらいたいんだ、彼と仲直りがしたい。おそらく彼は話を聞いてくれないだろうから、君に同席してほしかった。君からも話してはくれないかな、私と君は友人になれたと」
 青年は恵の背後に回り、これから家族写真でも取るかのように肩へ手を添える。そうして伺いを立てられ、恵はなんと答えればいいのか頭を悩ませた。
 青年が何を企んでいるのか一向にわからないが、味方するわけにはいかない。ただ、恵の肩に添えられた手は、恵の命を握っているようにも感じられて、否定の言葉を口にすることはできなかった。
 恵がいやな汗をかいているうちに扉が勢い良く開かれた。扉の先には銃を構えた降谷が立っていた。
「待っていたよバーボン、再び会えるこの日を」
「綴喜誠司……!」
 優雅に挨拶をする青年と違い、余裕がなさそうに噛み付いた降谷は銃口を一ミリも青年から逸らさない。降谷から数歩下がった位置には赤井が、さらに赤井の後ろに控えるようにして新一が続いている。三人は、恵が人質に取られているのを見て動きを止めた。じりじりと、青年の動きを警戒して少しずつ入室する。室内に入った新一が、はっとして声を上げた。
「赤井さん、女性が倒れてる!」
「新たな被害者か……!」
 降谷は青年から視線を逸らさなかった。恵のことが気掛かりではあったが、恵に気を割けば、バーボンを待ち望んでいた青年が蚊帳の外にされたことで機嫌を損ねかねないと考えたのだ。
「……何を勘違いしているのか知らないが、これまで女性を殺してきたのはそこに転がっている彼女だよ。バーボン、できれば見ないでやってくれるか。好いた男に死に顔を見られるのは堪えるだろうから」
「戯言を。信じると思うのか?」
「恵さんが僕の潔白を証明してくれる」
 同意を求められた恵はゆっくりと顎を引いた。
「随分と嘆いていたよ。会うことすら望まれないと、恵さんがいなければきっと自分を省みてくれたはずだと。今にも彼女を殺さんばかりの染沢を止めるのは骨が折れた。代わりに多くの犠牲を出してしまった……」
「……染沢?」
「染沢舞子だ、美しくなっているからわからないか? いや、今はまた生前と違った顔になってはいるが。恵さんより秀でるためにと整形やら何やら頑張っていたようだ。どうだろうか、バーで彼女を魅力的だと思ったのだとすれば彼女も浮かばれる」
「染沢舞子だと……!?」
 銃口を固定したまま横目で死体を確認する。もはや血に濡れて顔もわからないそれは降谷を納得させるには至らなかった。協力者として報告が上がった書類に載せられた写真とは顔が違いすぎている。何度見ても降谷の記憶と眼前の死体は一致しない。
 武器を持たない青年が不審な動きをしないのを十分観察して、新一が染沢に近づいた。絶命していることを確認すると戸惑ったように降谷に視線を投げる。降谷は音が聞こえてくるほど歯を食いしばった。
 膠着状態のなか、感謝こそされていいはずだと言って青年は肩を竦めた。余裕を見せる青年に降谷が噛みつく。
「目的は何だ」
「君と和解したい」
「……順を追って説明しろ」
 話を聞く姿勢を見せた降谷に満足した青年はにこやかに口を開いた。
 青年はバーボンと接点があった。だが組織が壊滅し、バーボンと仲違いした状態となる。降谷と接触するのは困難を極める、それでも何とか話ができないものか思案した青年は、恵を通して会話できないかと考えていた。
 そのとき、恵の周囲で不審な行動をしている染沢を見つけた。染沢は、自身が協力している刑事と接触中の降谷を見て、ひと目で恋に落ちていた。監視システムの管理会社に勤めるだけでなく、公安刑事の協力者として行動するだけあり情報収集能力が高かった染沢は、降谷についての情報を調べ尽くした。安室透という偽名でポアロという喫茶店に勤めていたこと、本名が降谷零であること。学生時代のことや、細かな経歴、もちろん現自宅の住所まで。
 恋人の存在に行きついた染沢は、もちろん恵についても調べた。目ぼしい点が何も見受けられない恵に、染沢は納得できなかったのだ。自分でも降谷の隣に並び立つ資格はあると、外見さえ磨けば、むしろ能力の高い自分こそが選ばれるはずであると。
 ただ降谷は協力者との接触を良しとしなかった。それが染沢にとっては拒絶されたように思えて、ただでさえ敵対心が殺意へと転じていたのが破裂したのだと言う。
 組織の情報まではさすがに最重要機密事項であるせいか調べられなかったようだが、恵の殺害を先延ばしにする代わりに青年が新たな情報を与えた。バーボンについてだ。降谷の別側面を知った染沢が一時的に満たされて他の被害者で満足した場面もあったと話す。
 事件が難航したのは、他でもない犯人の染沢が隠蔽工作をしていたからだった。警察は事件を探る手足となるはずの協力者に転がされていたのだ。隠蔽に関しては、青年は足りない部分を補っただけであった。
「そうだ……とても大切な物を届けたのに君からの感謝もなかったと聞いたな。君が礼を欠くとは思えない、もしかすると染沢は自分の名を出さなかったんじゃないだろうか」
「……まさか、あの茶封筒は……」
「中身は見せてもらえなかったが、タイムカプセルだと言っていた」
「余計なことを!」
 染沢は親切のつもりかもしれなかったが、降谷からすれば過去の思い出を赤の他人に踏み荒らされた気分にしかなれなかった。景光の物を、遺品代わりに降谷へ渡そうと思ったのであれば間違いである。あれは遺族へ届けられるべきものだ。親友を大切に思うからこそ、残された遺族の心が穏やかであることを親友は一番に望むはずだと降谷は考えていた。染沢は、景光のことも降谷のことも侮辱していた。
 もう息はない染沢を睨む降谷を青年はうっとりと見つめる。恵は頭上から降ってきた溜息に感嘆が混じっているとわかって信じられない思いがした。
「会ったことはないが、スコッチと君は幼馴染だったそうだね。非常に残念だった。私が知っていれば彼を……そういえば、そこの男はライか? 初めまして、君のことは組織のパーティーで一度見たことがあるよ」
「光栄だな」
 会話を見守っていた赤井は淡白に返した。
「連続猟奇殺人事件を起こしたのが彼女なら、全身から血を抜いただけの死体を作ったのはお前か?」
「ああ、それは私だ。君達は私をアルファと呼んでくれたね」
「やけに詳しいな。どうやって知ったんだ」
「私には染沢とは違う手段がある、とだけ言っておこう」
「全身の血を抜いて、一体何をしていた?」
「……ライ、悪いが、君と話すためにこの場を設けたわけじゃない」
 赤井が降谷に次いで話をしていたが、青年は赤井に対してまともに受け答えをする気がなかった。ぞんざいな言い方をする青年に、大人しく赤井は閉口する。
「実験をしていたんだろう」
 心底軽蔑するような声音で降谷が言うが、青年はまるで降谷の嫌悪に気づいていないように顔を明るくさせて喜んだ。
「まったく、なんて男だ! バーボン、君の賢さは本当に好ましい。そうだ、僕は実験をしていた。惜しいじゃないか、組織であれほど素晴らしい研究が行われていたというのに全てが失われたなんて……僕は受け入れ難かった。君も同意見だろう?」
 降谷は青年を鼻で笑う。気にも留めない様子で青年は言葉を続ける。
「恵さん、永遠の若さを手に入れたくはないかな? 君は怖がりだったね、死を凌駕することに魅力は?」
「彼女は君のように愚かではない」
「ああ、ライ、君のような男にはわかるまい。バーボンの美しさを理解する者にしか、この気持ちはわかるまい……。私はバーボンの美しさを失いたくはないし、叶うなら私もその隣に在りたいんだ。バーボン、僕達が志すものは同じだったはずだ……もう一度この手を取ってほしい、仲直りをしよう」
 青年は降谷に向かって手を伸ばす。降谷が険しい表情で黙り込んでいると「まずはこちらから信頼を示さなければならなかったな」と笑って恵から手を離した。
 青年の手が離れたことで緊張が和らいだ恵はふと違和感を覚えた。青年は、彼の父親に騙されて家に軟禁状態だったはずだと。信じていたわけではなかったが、青年の言葉はまるでバーボンについて知り尽くしているかのような、父親の事情を全て知っているかのような口ぶりだ。
 恵の違和感は明瞭な形を取らない。恵が微妙な表情をしていることに降谷は目敏く気づいていたが、何にせよ青年が恵から離れたことに息を吐く。
 降谷の方へ二、三歩歩み寄った青年は再び手を差し出した。降谷もようやく銃を下ろし、警戒は解かないまま青年へ近づく。新一が降谷を呼び止めるが降谷の足に迷いはない。
 青年の手を握った降谷は、そのまま青年を背負い投げようとした。
「降谷君!」
 赤井が声を上げる。投げの姿勢に入った降谷から力づくで離れた青年は、どこから取り出したのかわからない刃物を持って降谷から離れた。素早く恵の背後に立つと、いささか機嫌を損ねたように低い声を出す。
「……どういうつもりかな。また僕との約束を反故にするか」
「また? さっきから何を言っているのかさっぱりだ、僕はお前を知らない」
「これを見てもわからないのか」
 人の顔を剥いだような、生々しい皮膚が眼前に晒し出され、恵は悲鳴を上げた。皮だけの顔は、恵を誘拐したと思っていた男のものだった。そのマスクが造り物だとは知らない恵は、人の生皮を剥いだようにしか見えない完成度のそれに血の気が引いた。心臓が早鐘を打つせいで、気を失うこともままならないが。
 怯える恵を見て降谷は舌打ちするとともに、みるみるうちに目を丸くする。
「そのマスク……さっきの言葉、まさかあの日会った綴喜は父親でなくお前か……!」
 男は実在しない。正しく言えば、マスクの顔の持ち主は警察によって身柄を拘束されていた。降谷が事情聴取した男だ。つまり、恵と対話していた男、父親は青年の演技だったのだ。誘拐犯の父親≠ヘ青年が恵の恐怖を他へ向けるための虚像であった。
 同時に、父親のマスクは青年にとって裏で綴喜の人脈を使うための手段でもあった。青年がバーボンに会ったとき、実のところ青年に目的はなかった。父親の権力を強奪してやろうと偶然出向いただけに過ぎなかったが、降谷にとっては運悪くも、あの日を機に青年はバーボンに執着したというわけだ。
「君との関係を修復したかった、僕はそれだけなんだ。言っただろう、君のような華やかな男は好きだと。本心だよ、僕は君を好ましく思っている。だからこそ君が愛する恵さんを傷つけさせたくはなかったし、丁重に扱ったつもりだ」
「だったらどうして恵さんを危険に晒した、染沢に手を貸したんだ」
「染沢のことも気に入っていたんだよ。君は燃え盛る炎だ、触れれば身を焦がすとわかっていても触れずにはいられない。警察の協力者になるほど善良な染沢が、しまいにはだれかを傷つけなければ正気でいられないほどの恋をした。美しい君に出会って彼女が美しい蝶になるのを見るのはたまらなかった! 染沢もまた私の同志だったんだ。それでも最終的には選ばなければならなかった、恵さんか、彼女かをね。バーボン、君は自分がいかに魅力的な男かを知ったほうがいい……」
 酩酊した様子で青年は演説する。恵に向かって「君は初めから美しかったから彼の炎に焼け死んでしまわないのだろうか?」と尋ねた。青年の表現をまるで理解できない恵が、青年の望む答えを与えられるわけもない。
 酔いしれた青年は、恵に意識を向け、一瞬だけ完全に気が緩んでいた。その一瞬を見逃さず行動したのは、降谷でも赤井でもなく新一だった。赤井の背後という、青年にとって死角になりやすい位置で麻酔銃に手を伸ばしていた新一は、その一瞬で青年の首元を狙う。
「ぐっ……」
「よくやった新一君!」
 青年の足がふらつく。降谷が青年を制圧し赤井が恵を確保しようと足を踏み出したが、青年はよろめいたまま恵の首に手をかけた。
「これは麻酔かな……? 相当強いね……その腕時計で撃ったのかな……恐ろしい物を持っている……」
 青年が恵の喉をそっと撫でている。降谷達は再び静止するしかなかった。新一は固唾を飲んで麻酔が効くのを待った。青年の動きが緩慢になっていくのを見て新一の顔に安堵の表情が広がっていく。
「会話、するのも……やっとだな……このままでは、逃げおおせるのも難しい……」
 足下が覚束ない様子で、支えを求めた青年は座っている恵にしな垂れかかった。困ったように言いながらも、青年はどこか愉快そうにしている。
 恵の頭を撫でると、青年は後ろからやさしい手つきで頭を胸元に抱き寄せた。つつ、と恵の鎖骨に指を這わせると、くすくすと、楽しそうに青年は恵へ何かを囁いた。
 まるで恋人同士かのような触れ方に、降谷の頭に血がのぼった。
「じゃあこうしよう」
 その汚い手を放せ、激情に駆られるまま降谷がそう叫ぼうとしたときには既に、青年が手に握っていたナイフが恵の腹部に突き立てられていた。
「あ……え?」
 こぷ、と恵が鮮血を吐き出す。何が起こっているのかわからない、そんな顔をした恵はゆっくりと瞬いた。ぱくぱくと力なく動く唇は何かを話そうと試みているが、最初の二字を口にして以降、恵の口からは水音が響くのみだ。
 悲鳴にならない降谷の悲鳴が響いている。もはや言葉を忘れた獣のようなそれを、残念そうな目で青年は見下ろしていた。
「ああライ、君はもっと下がるべきだ。……バーボン、僕は君の理解者だということを、どうか覚えていてほしい」
 赤井を牽制し、届かない声を降谷に投げかけて青年は恵を突き離した。


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