06




 意識が次第と明瞭になっていく。目を覚ますと、恵は高価な寝台の上に寝せられていた。
 カーテンから差し込むあたたかな陽光に目を細める。目を擦り、重い瞼をなんとか開いて起き上がる。指に手触りの良いベッドシーツが触れた。随分と肌になじむ品質のそれに再び頬ずりしたい気持ちにさせられたが、二度寝している場合ではないことくらい目覚めたばかりの頭でも理解できていた。名残惜しさを振り払いながらベッドから足を下ろす。すぐ先にスリッパが置かれていた。
 誘拐された。だが拘束はされていない。恵は冷静に置かれた状況を分析する。寝起きでぼんやりとしているが、じわじわと恵の脳に広がっていく危機感が次第と意識を明瞭にさせた。
 昨夜は酔っていたが、降谷の目を盗んで化粧室を抜け出し、まざまざと犯人に誘拐されるような行動は取っていない。化粧室内、一人しかいないはずの空間で、恵は音もなく現れた男に薬を打たれた。意識を奪うことはなく、せいぜい脱力させ運搬を容易にさせる程度の麻酔だったが、酒に酔っていた恵は四肢が動かせなくなることで睡眠導入と同様の状況になり、易々と眠ってしまった。
 麻酔は医療にも用いられる薬剤で身体への害はなかったが、その事実を知りようのない恵は謎の液体を注入されたことに全身の身の毛がよだつ。忘れたい記憶を振り払うように強く頭を揺らした。
 今は自分の状況を把握することが先決だと言い聞かせて、膨れ上がる恐怖を必死に抑えつける。恵は室内の観察を続けることにする。
 ベッドサイドのテーブルにガラスの水差しが置いてある。喉が渇けば飲んでもかまわないと言いたげに空のグラスも伏せてあるが、何が混入されているかわからないと恵は手を出さなかった。
 部屋を見渡す。恵が横になっていたベッドは天蓋つきで、テーブルと大きなソファ、本棚にクローゼット、額に入れられた絵画まで飾られた室内は、まるでドラマのセットのようだった。調度品はどれも磨き上げてあり傷一つない。
 恵はベッドを下りて室内を歩き回る。部屋の奥に続く浴室は、足つきのバスタブが置かれている。棚を開けば高そうな衣服が並べられている。建物が豪華絢爛な内装をしていることから、誘拐に金がかけられていることは間違いなかった。
 恐ろしいことに、恵の着ている服は昨夜着ていたものとは異なっていた。化粧まで落とされている。
 一体だれが。不穏な思考が過ぎって恵は無意識に自らの体を抱き締める。心を強く保とうとして腕を握り締めると、指に異物が触れる感覚がした。恵はゆったりとした服の袖を捲る。新一に渡された追跡チップが貼られたままになっている。恵を着替えさせた人物はどう見ても止血用の絆創膏にしか見えないそれを不審には思わなかったのだろう。
 はっとした恵は窓へ駆け寄った。この追跡チップがいかに高性能であるか、新一が降谷に話していたことを思い出したのだ。恵が眠り続けている間も、恵を救出すべく降谷達が奔走していたかもしれない。もうすぐそこにまで来ているのかもしれない。そんな期待が恵の心を急き立てる。
 建物の周囲は木々に囲まれていて静かなものだった。どうやら建物は森の中にあるらしい。助けが来ていないことは明らかだが、この追跡チップを外さなければ、いずれ降谷達が恵を助けにくるはずだ。希望が見えたことで恵の気分は幾分か晴れる。
 落ち着きを取り戻した恵は身の振り方を考える。
 建物は手入れも行き届いており、人が住んでいる気配がある。十中八九誘拐犯の根城だろう。だが誘拐犯と連続猟奇殺人事件の犯人が同一人物とは限らない。
 恵を縛らず無造作に寝かせていたということはすぐ危害を加えるつもりはない。そうであれば、抵抗するよりも恭順を示した方が身の安全を保証できるはずだ。ひとまずは、だれかの来訪があるまで部屋で大人しくしていた方がいい。
 深く溜息を吐いて、恵はクローゼットへ向かう。寝間着のままだれかの来訪を待ち続けるわけにはいかない。
 動きやすそうな服を見繕って着替えたところでドアがノックされた。
「おや着替えたのか。似合っているよ、恵さん」
 部屋を訪ねたのは熟年の男だった。小奇麗な身なりをしているが、若くても四十代後半だろうと言える皺が目元に浮かんでいる。だが年不相応に引き締まった体躯をしていた。
 当然のように名前を呼ばれたため、男が誘拐犯なのだと恵は理解した。入室した男から距離を取るように壁際へ後ずさると、恵は両手を握って男の動向を見守った。
 恵の行動を咎めることはなく男はソファへ腰かける。足を組み、膝の上に組まれた手を一瞬だけ解いて向かいのソファを指し示した。恵に座るよう促していた。恵が硬い表情で首を横に振ってみると、気分を害した風もなく眉を上げたのみで、かまわないと言いたげに肩を竦める。男の纏う空気は驚くほどに穏やかだ。
「……何故、私を誘拐したんですか」
 先に切り出したのは恵だった。
「聡い君なら理由は知っているだろう、バーボンだよ。私と彼は知人でね。悲しいことに彼は忘れてしまったようだが」
「私に似た女性を殺したのは、貴方なんですか?」
 今更、恵のことを知り尽くしていると言わんばかりの言動に恵は動揺しない。ただ声は震えていた。自らになんらかの激情を抱いているかもしれない殺人鬼が目の前にいるのだ、怯えずにはいられない。
 やっとの思いで口にした言葉に、穏やかな顔をしていた男は目を細めた。
「私が怖いかな」
 男は肯定も否定もしなかった。だが男の返答は肯定と同義だ。鋭くぎらつく視線が、まるで捕食者のように映る。
 恵は、目の前にいる男が人の命を何とも思っていないことくらい聞かずともわかっていた。事件を起こそうとする犯罪者、恵が意図して回避し続けてきた人間のもつ暗い瞳と、男の瞳は似ている。恵は怯えでさらに後退するが、背中はすぐ壁に当たった。
「これは彼に対する当てつけ? ……私も殺すつもりですか」
「まさか!」
 涙声になりながら続けて問えば、男は心底面白そうに笑い出した。高らかな声が部屋中に響く。恵は男の奇行に緊張を高める。
「当てつけ、というのは否定しない。彼は私との約束をなかったことにし、あまつさえ私が身命を賭したものを奪った。彼を気に入っていたぶん、殊更それが歯痒くてね。だから彼の大事なものを奪うことにしたんだよ」
「それで誘拐を……──私に似た人を探して、殺人を……?」
 信じられないものを見る目を向ければ、男は途端に口を閉ざし、瞳を弓形に歪めた。
「人の感情はままならないものだからだよ」
 男は歌うように言葉を紡ぐ。
「あれが永遠に失われたと思えば……君を殺せば幾分か気分が空くのかもしれない。君が血に沈む様を彼の眼前に差し出し、悲痛に歪む顔を見れば心が晴れるのかもしれない……。だがそうするつもりはない。君のことを調べるうちに、私は君を気に入ってしまったんだよ。美しいじゃないか、どれほど悪に怯えようと、己の無力さを知ろうと、君はバーボンをひたむきに愛せる。君はいたって普通の感性を持ちながら、彼の美しさを理解しているんだ。そして、その彼に選ばれている……。我々は同志なんだよ、だから殺してしまうのが惜しい。……だが私は君に一歩及ばない。私も君と同じ場所へ行きたいんだ」
「い……一体何を言っているの……」
 支離滅裂な言葉を吐き出す男に恵は眩暈がした。冷静かつ温厚に見えるが、男は狂気に囚われている。降谷に聞かされていたよりもずっと男はバーボンに執着していた。
「なに、とにかく君を殺すつもりはないから安心したまえ。君が見当違いなことに怯えるものだから可笑しくてね。怖がらせてしまったのならば謝ろう」
 熱弁をふるっていた男が、突如として冷水を浴びたように正気に戻ると、紳士然とした態度で謝罪した。
 男は言いたいことだけ口にすると「お腹が空いているだろうね。食事を用意させようか」と言って退室した。衣食住は保証されるのか、という感想しか放心した恵の頭には浮かばなかった。



 控えめに部屋のドアがノックされる。恵はドアを睨みつけた。また男が来たのかもしれない。恵は警戒を露わにする。だが、ドアは一向に開く気配がなかった。まさか返事を待っているのだろうかと思い至ったところで、食事を用意させると話していたことを思い出す。男のインパクトが強すぎて失念していた。
 控えめな声で「どうぞ」と入室を促せば、ようやくドアノブが回った。躊躇いがちに開かれたドアの向こうから現れたのは年若い青年だった。
 青年はドアを開いた状態で固定すると一旦廊下へ戻る。そして青年は食事が載せられたワゴンを押して入室した。並べられた食事の量を見て恵は唖然とする。
「昨日から何も食べていないと聞いたんだけど、何を食べられるのかがわからなくて……。とりあえず和洋中思いつくものを作ってみた、余計な気遣いだったかな」
「いえ……」
 感謝を口にするのは癪だった。だがこれほどの食事を用意されたことへの感謝はしなければならない気がして、どう反応すればいいのかわからない恵の声が萎んでいく。恵のそっけない態度に、青年は困ったように笑うだけだった。
 殺すつもりはない、と口にした男を信じられるわけがなかった。男の指示で食事を用意した青年も少なからず誘拐幇助で共犯だ、つまり恵の敵である。
「食事はできそうかな?」
「……」
 毒物が混入されていないか疑いながらも、恵は結局食べることに決めた。非常に気は進まなかったが、いつ助けがくるかわからない状況で食べなければ餓死するだけだ。
 恵に食事の意志はあることを理解してか、青年はテーブルへ皿を並べていった。恵は窓脇から離れ、ソファに腰かける。
 青年は、降谷や赤井とまではいかないが長身で、服越しにもしなやかな筋肉を感じさせる均整の取れた体格をしていた。切れ長の目元に形のいい唇は、外国の気配を漂わせる降谷とは違い、日本人男性としての顔立ちの良さを感じさせる。切り揃えられた黒髪は清潔感に溢れ、見た目だけは誠実さが表れているようにも思えた。
「僕も一緒にいいかな。今朝はまだ食べていないんだ」
「……どうぞ」
「……やっぱり気分は良くないか。何せ、誘拐犯の息子だ」
 恵が渋々と申し出を了承すれば、居心地が悪そうに青年が自嘲する。恵は驚きから顔を上げた。
「貴方……あの人の息子さんなんですか?」
 青年は無理に笑みを作ったような顔で無言の肯定を返した。青年に対して警戒を強めた恵は身を固くさせる。食事を運んできたのも、しおらしい態度も、恵を懐柔するための行動かもしれない。恵が口を引き結ぶと青年は気まずい顔をしたままパンに手を伸ばした。青年が食事に手を付けたのを見て恵も食器を手に取る。
「とても……怖い思いをしているよね。……父さんは少し頭がおかしいんだ。母さんを亡くしてから人が変わったようになって、僕もずっとここに閉じ込められてる……昔から折り合いは悪かったんだけど。しまいにはあんな……あんなことまで……」
 青年は自身のことをぽつりぽつりと話し始めた。その声は悲痛に満ちている。恵は食事の手を止めた青年に疑わしい気持ちのまま確認した。
「貴方も閉じ込められている?」
「もう五年かな。父さんの反対を押し切って美術学校に通っていたんだけど、卒業前に呼び出されて。何かと思って来てみれば……それ以来、帰してもらえない」
「……抵抗はしないんですか」
「もちろんしたさ。でも……わかるだろう、ああなるんだと思えば恐ろしくて」
 ああなる、と話す青年が指しているのは、連続猟奇殺人の被害者だった。恵は直接遺体を目にしたわけではなかったが、実の息子でさえ抵抗すれば同じ状態になるに違いないと怯える様子を見て未知の恐怖が伝染する。ぞっとして震える息を吐き出した。
 聞きたいことは山ほどある。だが何から尋ねればいいのか、目の前にいる青年が本当に恵の敵ではないのか、恵には正常な判断ができていなかった。青年の言葉にただ耳を傾けていた。
「君には申し訳ないと思っているんだ……これ以上の苦痛はいらない」
 青年の声が床に落ちる。申し訳ない、と口にされた言葉は、しかして感情の色味を感じさせなかった。
 それから、青年は主立ってこの建物で過ごす際の注意点を述べた。中は自由に歩いてもいいこと、客人が来たときは部屋で大人しくしていること、庭を歩きたければ青年に声をかけること。恵が予想していたよりも遥かに自由な行動を許されて恵は目を剥いた。
 殺す気はないと言ったが、男は誘拐した恵を存外本気で歓待しているのかもしれない。もちろん、そうであれば恵の眩暈は増すばかりだが。
「今日はこれから友人が訪ねてくるんだ。嫉妬深い人でね、君を見ると何を言われるかわからないから、部屋にいてくれるかな」
「わかりました」
「夕飯は七時頃に持ってくるよ。それじゃあ」
「あっ、待ってください」
 必要なことは伝えたという素振りで、青年は来たとき同様ワゴンを押して出て行こうとする。性急にも見える行動を恵は引き止めた。不思議そうに恵を振り返った青年が「何かな」と質問する。
「貴方の名前を伺っても構いませんか。不便で」
「……君は強かだね!」
 恵の質問に驚いた青年は、面白いと言いたげに今日一番の笑顔を見せる。
「綴喜だよ。綴喜誠司だ」
 纏っていた気配を塗り替えるような、堂々たる佇まいで青年は言い放った。
 青年が退室すると、たちまち部屋に静寂が満ちた。恵はソファに座ったまま四肢を投げ出す。起きてすぐは誘拐犯の来訪、昼時には青年と食事、立て続けに初対面の人間に長時間拘束されてすっかり疲れきっていた。
 以前と比べれば恵の人嫌いは改善されていたが、知らない人間に囲まれて過ごすのはやはり落ち着かない。それが連続猟奇殺人事件の犯人とその息子とくればなおのことだ。これほど神経をすり減らしたのはいつ振りかと回らない頭で考える。
 恵の緊張を解すように、青年がゆったりとした口調で話すよう気遣っていたからか、恵は比較的冷静に青年の話に耳を傾けることができた。そして、やはり恵を誘拐した男だけでなく青年にも信頼は置けないと感じていた。
 青年が父親との関係性について話しているとき、嘘を口にしているような気配はなかったが、男に軟禁されている件はどこか用意された文章を読み上げるような浮いた印象を受けたのだ。恵を心配するような口ぶりに、感情が伴っていないのも気になった。青年の体躯であれば男に抵抗するのも容易に思える。恵は、青年に対して強烈な違和感を覚えていることを自覚していた。
 神経をすり減らし、回らない思考を無理に回し続けたせいで恵は疲れきっていた。ほんの数時間前まで眠っていたにもかかわらず、ゆるりと瞼が下りてくる。
 疲労と現実から逃れるようにまどろみのなかへ身を委ねた恵は、時折ひどい金切り声に魘されるような心地になりながら夕飯までの時間を潰した。

◆ ◆ ◆

 降谷の革靴が容赦なく床に打ちつけられる。あまりの激しい音に風見は竦み上がっていた。これほどまでに上司の怒りが膨れ上がっているのを見ることはそうない。電話口で指示を出して以降、降谷は口を噤んだままだった。
 風見は降谷の顔色を窺い、軽率に言葉をかけるべきではないと判断している。だが、一歩進むたびに疑問が顔を覗かせるばかりだった。降谷は何故こうまで気が立っているのだろうか、と。風見は恵が誘拐されたことをまだ知らなかった。
 掃討作戦の折に、組織と繋がりのあった有力者もその証拠を調べ上げて芋づる式に逮捕した。社会的に地位を築いた人間の後始末にはかなりの苦労を強いられたものだ。その人物の一人を、人目に付かない場所へ隔離し、接触させろと降谷は風見に言った。
 降谷が「監視カメラは」と問いを飛ばす。風見が「外しています」と返せば「そうか」とだけ言った。そのやりとりだけで降谷が最悪何をするつもりか風見はわかってしまった。
 知る者は限られているが、尋問を得意とする降谷の拷問はぞっとする光景と化す。尋問だけで情報を手に入れられるからこそ、尋問が無駄だと判断した降谷の拷問は容赦というものを知らなかった。立てつけの悪いドアが開かれる。
 薄暗い室内に拘束された男が座っている。男の背後に待機していた職員へ降谷が視線を投げると、職員は頷いて退室する。
 男は降谷を見上げて笑った。
「久しぶりに散歩ができた、感謝しよう。それで私に何の用かな」
 降谷に向かって発せられた言葉は、まるで歌うような機嫌の良さが感じられた。対する降谷は、ドアを開けた瞬間それまでの怒りを払い去ったかのように静まりかえっていた。
 内心は怒りがとぐろを巻いているのだろうがおくびにも出さない。男がその事実に気づいているかはさておき、余裕の感じられる男の態度は余裕を取り繕う降谷を挑発したのも同然だった。
「綴喜、お前にはまだ清算しなければならない過去があるようだ」
 降谷の冷たい声が響く。綴喜と呼ばれた男は頬をぴくりと動かして降谷の言葉の意味を探る。
 何事を成すにも資金は不可欠だ。組織は資金調達に余念がなかった。ときに恐喝して、ときに弱みを握り、ときに甘い蜜を分け与えることで資金源を増やしていた。目の前の男も、組織の財源となっていた存在だ。その罪が明るみに出たときは日本だけでなく他国のメディアにすら取り上げられたほどの財界の大物──かつてバーボンとして降谷が接触した、富豪である。
『前祝いと思っても?』
 綴喜の愉悦に満ちた声が、ここへ到着するまでずっと降谷の脳を揺さぶっていた。
 綴喜は組織に多大な献金を行ってきた。それのみならず、長く組織を支援してきたため組織に属する個々人とも深い繋がりを持っており、裏社会にいささかならず顔が利いた。これまで犯した罪は数知れず、これまで踏みにじってきた命の数も知れない。
 自らの欲のために他者を食い物にする。根本から悪に染まる綴喜は、自らを裏切った降谷に何の感慨も抱いていないように見えた。
「ふむ、また裁判が開かれるのかな。もはやどれほどの余罪が出ようと、私は今の生活を脱することはできまい。どこから圧力がかかっているのか、私は外部との接触がないよう殊更強い制限を受けている。課せられた懲役刑すらまともに受けさせてもらえない。裁判を開いたところで、せいぜい刑期が伸びるか死刑を求刑されるかの違いだろう……。君は弁護士には見えないが、私の弁護をするためにここへ来たのかな?」
「よく回る口だ、立場をわかっていないようだな」
「かまわない、舌は軽い方が僕も助かる」
 眉根を寄せ、嫌悪感を前に出す風見が綴喜を責めた。極限のところで怒りや焦燥を抑えつけている降谷を焚きつけられてはかなわないと矢面に立ったのだ。だが風見を制して降谷は話を進める。綴喜はやはり笑っている。
「息子がいるな。親子仲は破門同然にするほど悪いと聞いていたし、調べではもう長く海外で過ごしていると……遺産の相続人からも外しているから当時は組織への関与もないと判断していた。だが違うようだ。お前は負の遺産を息子へ相続していた……言え、息子に何を託した? 何を企んでいる?」
「何の話かわからないな。息子がどうした? 君の言っていたとおりだよ、ここ十余年は何をしているのか、どこで過ごしているのか、生きているのかさえ知らない」
「お前の息子は、国が没収したはずの綴喜の不動産を利用して犯罪を繰り返している」
「面白いことを言う。私の息子は、どんな罪を犯したのかな」
「質問しているのはこちらだ……リストがあるだろう。逮捕前に息子へ譲り渡した、綴喜家所有の財産リストが。その情報をこちらに開示しろ」
 強硬な降谷の姿勢に、話を逸らすことは不可能だと悟った綴喜は短く息を吐く。
「……悪いが、本件に私は無関係だよ。息子が罪を犯せるはずがない。どんな事件が起こったのか知らないが、綴喜の責務を果たさず、芸術を仕事にしたいなどと馬鹿なことを言う愚かしく軟弱な生き物でね。大層なことをできる器ではないんだ。だからこそ私は──」
「彼は連続猟奇殺人事件の容疑者だ」
 降谷の言葉に綴喜は閉口した。訝しむような視線を降谷に向ける。そのなかに確かめるような気配があることを降谷は見逃さなかった。綴喜には思い当たる節があるのだ。
「これほど鮮やかな手口には裏社会への伝手と財が必要で、それを満たす組織の関係者は綴喜、お前しかいない。ただ当のお前に犯行は不可能、だとすればかつての地位や権力をそのまま利用できる立場の人間を疑うのが妥当だ」
 綴喜の口を割らせようとして捲し立てる降谷に連絡が入る。ヘッドセットに触れて通話に出ると志保からであった。
 志保は、追跡チップから送信される信号が停止して数時間が経過したと話す。おそらくここからさらに移動することはないと言って場所の解析を行っていた。山間深くにある古い洋館、綴喜家当主の伯母にあたる女性が所有している建造物が恵の居所だ。
 今も建物内で信号が移動しており、生活しているような動きを見せているため恵は生きている。そう語った志保に降谷は心から安堵した。
 女性は一年前から介護施設に入居しており洋館は別人の手で管理されていた。無人のはずだが、半年前から電気が使用された形跡があると電話口で志保が口にする。過去に綴喜から伯母の手に渡ったことから、掃討作戦時は国の没収を免れたのだった。住所を聞くと降谷は通話を切る。
「僕には時間がない、簡潔に済ませよう。お前が伯母に譲った洋館についての情報を話せ。いいか、よく考えろ。お前が本当に無関係だとしたらどうすべきかをな」
 綴喜は初めて顔を歪めた。

◆ ◆ ◆

 恵は暇を持て余していた。誘拐されたとは思えないほどの自由を与えられていたが、出歩く気にもなれず部屋で大人しくしていたのだ。好奇心は猫を殺すというが、恵はそれをもっともだと肯定する人間だ。逃げ出すための策を弄するなどできるはずもない。
 仕方なく本棚に並べられていた本を順繰りに読んでいたが、起きて寝るまで本の虫になっているのも性に合わなかった。活字を読むのが苦手なわけではなかったが、読む気がそそられないものを読まなければならない苦痛は想像以上に大きい。新一の集中力と本好きを尊敬した瞬間である。
 そうして誘拐から三日目になるその日は、一筋の希望に縋って、窓の外を眺めるようになっていた。鳥のさえずりが穏やかにこだましていた。
 窓際にイスを寄せ、ぼんやりと外を眺めているのもまたつまらないことこの上ないが、不安を抑圧して物語の世界へ逃げるよりも確実な現実逃避の手段だった。何も考えないということは、不安すら感じないことだ。窓から差し込む日差しにそのまま昼寝をしてしまうこともある。
 そうして窓の外を眺めていると、控えめなノックが響いた。青年の来訪だ。
「おはよう。恵さん、ちょっといいかな」
「ええ、どうぞ。何か?」
 自分で食事を済ませてもかまわない、と青年が話したため、恵は信頼できない人間の料理よりは自分で調理をした方が心も休まると思い、初日の夕飯から早速勝手に厨房を使っていた。今朝もとうに済ませていたため青年は朝食を誘いに来たわけではない。
 青年は迷いなく恵に近づいてくる。笑顔を浮かべてはいるが、一切遠慮のない距離の詰め方に、恵は思わず後ずさった。青年が乾いた笑みを浮かべている。
「少しいいかな、ああ、何もしないよ。左腕だったかな、テープを貼っていただろう、見せてもらおうと思ってね」
「そ、それは……」
「その反応は何かあるね。やはりあれかな」
 恵の抵抗も空しく、青年は恵の腕を掴むと袖をたくし上げた。止血用の絆創膏を躊躇なく剥ぐと、皮膚に注射痕やそれに類似する傷が恵の肌にないのを確認して、次はしげしげと絆創膏を眺めた。慎重にガーゼを剥離すると、中に隠された回路が現れる。
 青年が目を細めるので恵は肩を震わせた。恵に追跡チップが仕掛けられていたことも、それを知っていて恵が今日まで存在を隠蔽してきたことにも、青年は気づいている。機嫌を損ねて安全が危ぶまれるのではないかと怯えたのだ。
「ああいや、責めてはいないよ。なに、こちらの居所が随分と早く割れるものだから驚いてね。何かあるなと思ったんだが……実に素晴らしい。こんな精緻な物を作る職人が表にいるとは。ぜひお会いしたいものだ、これはもう芸術の域だ……」
 顔を強張らせている恵を見て、取ってつけたように恵を安心させる言葉をかけると、青年は一人でぶつぶつと追跡チップについて述べた。褒めそやす青年を恵が眉を顰めて眺めていれば、恵の視線に気づいた青年が恥ずかしそうに笑う。
「こういったものが好きなんだ。工学は一見、芸術とは対極に存在していると思うかもしれないが、美しさとはなにも芸術のみで語られるべきものではない……と僕は考えていてね。君が持っていたこれはだれでも簡単に成し得る物ではない、貴重なものだ。だからつい舞い上がってしまった」
「そう、ですか……たしかに、私も最初に見たときは、驚きましたけど……これが発信器なのかって……」
「そうだろう、そうだろう!」
 戸惑いながらも同意する恵に、青年は心底嬉しそうな表情を見せた。
「やはりいいものだね、美を解してくれる人がいるというものは。父とは理解しあえなかったんだ、実利主義の父は、僕のことを理解しようともしなかった……昔作った作品をごみのように扱って壊されたこともあってね……今でも腹立たしい思いだよ」
 爽やかな表情で父親の毒を吐く青年は、これまで父親に怯えていた臆病な人間が嘘のように別人に映った。青年が纏う空気は、どこか恵を誘拐した男に似ていた。
「ところでこれは音声も拾っているのかな? それとも発信するだけ?」
「ええと……」
「戸惑っているということはわからないのか。いいんだ、君は無知であるべきだ。ふむ、連絡をしている様子はなかったから少なくとも使えないな、話せないか。残念だ」
 恵を責めることもなく、始終にこやかに話し続けていた青年は、やがて満足したのか追跡チップを懐に入れた。服の上から確認するように数度叩くと、晴れやかな顔をして恵を見る。ただ、その口から紡がれた言葉は不穏だった。
「ああ、このあとはまた友人が来るから、決して部屋を出ないように。いいね、鍵をかけておきなさい。生きていたいのなら」

 脅すつもりが青年にあったのか判断がつかなかった。恵は何を言われたのかはっきりと理解できないまま、青年が退室したのを確認すると部屋に備え付けられた内鍵をかける。青年の言動が食い違っている異常性に恵の手はぐっしょりと汗で濡れていた。
 厳重に設置された三重もの内鍵は、恵の逃走よりも恵を害する者を警戒して備え付けられているようだ。恵がそう感じたのは青年の言葉のせいだろうか。
 ざわざわと騒ぎ立つ気を落ち着かせるために、恵は青年が来る前と同様に窓の外を眺めていた。すると一台の車が敷地内へ入って来る。恵が目を覚ました初日にも停まっていたのを覚えている。そのときはタイミングが悪く、車に乗った人間を見ることは叶わなかったが、今日は違うようだった。
 恵を誘拐した男か、青年の友人とやらか。そう考えて肌が粟立つ感覚に襲われながら、恵はカーテンに身を隠した。恵の部屋は、建物の高い位置にある。覗き見をするにはちょうどいい角部屋だったが、それでも相手に見られるかもしれない不安から無意識に保身へ走った行動だった。
 恵の行動は正しかった。出てきたのは髪を巻き上げた若い女だ。女は恵がどこにいるか知っているかのように視線を斜め上へ向ける。あと少しで女がこちらを向く、というタイミングで恵は身を隠していたカーテンから壁の向こうへと姿を消すことに成功した。
「……うそ、でしょう」
 信じられない気持ちが恵の口から零れていった。憎々しげに建物を睨む女の顔には覚えがあった。犯人と接触するべく待機していたバーで降谷に声をかけた女だ。
 誘拐された恵は、降谷と女がその後どうしたのか知らないままで、それどころか女の存在すら頭から抜けていた。恵にとって当該の女は瑣末な存在でしかなかったが、ここに来ているとなれば話は別だった。
 女は共犯だったのだ。恵を誘拐するために降谷の注意を引いていた。女の挙動はどこまで真実だったのかと回らない頭で考える。
 息を吐き出すのも困難になるほど恵は混乱していた。はくはくと口は戦慄き、目元に涙が浮かぶ。数日前に触れた降谷の体温が恋しかった。それさえも、記憶の彼方に飛んで思い出せないものになりつつある。降谷に想いを馳せるたびに虚しくなっていく事実にそっと蓋をしていたのが、もう限界だと言わんばかりに溢れ出した。
「零、さん……たすけて……!」
 一体いつ助けに来てくれるのか。恵は胸の内で理不尽に恋人を責めた。


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