05




 話を聞かされた恵は膝の上に乗せた拳に力を込めた。
 危険だとわかりきっている場所へ降谷を行かせるわけにはいかない。無茶はしてほしくないのが恵の正直な気持ちだ。降谷が他者のために自らを犠牲にできると知っている恵は降谷を心配した。
 降谷はバーボンという立場を清算したはずだった。第一線を退いたにもかかわらず、再び闇に身を投じる危険性は恵の想像を絶するものだ。
 世界最大の犯罪組織へ潜入していたとき、降谷の周囲に味方はいないも同然であった。常に命の駆け引きが行われるなかで、降谷の神経は極限まで研ぎ澄まされていたが、尋常ならざるそれが一日やそこらで戻ってくるはずがない。
 そんな深刻な事情を、バーボンについて詳細を知らないままの恵が想像できたわけではない。だれよりも警察であることに誇りを感じ、正義を執行している降谷が悪に手を染める苦痛を思ったからこそ心配していた。
 恵は、降谷が潜入捜査で精神的に追い込まれた様子を最も間近で見ていたのだ。以前のように人格が解離する可能性は捨てきれなかった。
 バーボン≠竍安室≠知る恵は、人格が解離することを悪いことだとは決して思わない。もし、再びいずれかの人物に会える日がくるのであれば、恵は数奇な運命を喜んで受け入れるだろう。それだけの思い入れがある。だが降谷の苦しみの上に成り立つ現象である以上、積極的にその未来が訪れることを望みはしない。
 恵はぐっと唇を噛む。どれほど恵が降谷を心配する言葉を投げかけても、降谷の職務に恵が口を挟めることなどない。降谷のなかで、バーボンとして犯人との接触を図ることは決定事項だ。恵を守りたいという気持ちが根底にあることも理解していたため、行かないで欲しいとはとても口にできなかった。
 新一が気を利かせたため。部屋には降谷と恵だけだった。降谷は恵を覗き込むようにして見つめる。
「僕のせいで君が狙われた。僕が奴と接触すれば君に被害が及ぶこともない。けりをつけてくるよ」
 自分に非があるから思いつめるなと言い聞かせるような声に恵は何かが引っかかった。
「……本当に?」
「……どうしたんだ」
 恵は思わずそう零した。訝しむ声音に降谷は身を硬くする。安全を保証する降谷に疑念を抱いたわけでも、降谷の能力に疑念を抱いたわけでもない。だが降谷を疑うようなことを言ってしまったのだとハッとした恵はすぐさま口を噤む。
 躊躇いがちに視線を彷徨わせる恵の様子を降谷は静かに見守った。降谷が沈黙を守っているせいで、言葉の先を促されている感覚になった恵はおずおずと口を開く。
「犯人の目的は確かに零さんかもしれないけど……私に似た人を殺していたのは、貴方を挑発していただけかもしれない、けれど……。零さんに手を出せないから私を狙ったのなら、自分の提示した場所におびき出そうとしたはず……挑発するのに私を利用したかったのだとしたら、もっと早くに零さんへのメッセージを出したはず……」
「……」
「やっぱり、犯人の目的は私にもあるように思えて……そう、そうじゃなきゃ、あれだけ多くの人を犠牲にする必要があったのかって思うの。……本当は、零さんのせいじゃないんじゃない?」
 事実を確かめるように順序立てて口に出していくうちに、恵の思考は研ぎ澄まされていった。同時に、恵は爪が食い込むほど手を強く握り締めた。
 恵は、自分が恐ろしい発言をしていることはわかっていた。犯人の目的は降谷だけではない、これから犯人と接触しようとする降谷にそう言うのは、同行を申し出たようなものなのだ。降谷だけでなく恵も共にいた方が、犯人と接触できる可能性や、交渉を有利に進めることができるのではないかと言外に提案した。
 勇気を出して囮を買って出たわけではない。こうしている今でさえ恵の代わりにだれかが犠牲になり続けている重圧、そして自分がいつ狙われるかわからないことへの不安に、もはや恵は耐えられなくなっていた。
 俯く恵の手に降谷の手が重ねられる。恵が顔を上げると、悲しい瞳をした降谷がいた。
「できれば、気づいて欲しくはなかったな……」
 相変わらず自分へ向けられる悪意に対して敏感な恵に、降谷は複雑そうに微笑んだ。
 自分の身に危険が迫っていても、恵にはどうすることもできない。対処できないのに、恵は鋭かった。無力なだけの恵が悪意に気づいてしまうことは、言い換えれば恵が必要以上に怯えるしかできないことでもある。
 恵がただの民間人であれば良かったと降谷が何度願ったことか。愚鈍で、恐怖に怯えていても降谷を頼ればすぐに安心できる、そのような人間であれば降谷にとってはそれがこの上ない幸せと言えた。降谷は恵にこそ日本の平和を捧げたかった。
 降谷は恵をそっと抱き寄せる。降谷が恵にだけ特別隠し事を苦手とするのか、降谷の嘘を特別恵が見抜いているのか、降谷には判断が付かない。
 恵は気づいていないが、降谷と恋人になって外出を楽しむようになったものの、以前より感性が鋭くなっている。薄々と考えていた事実が現実味を帯びてきて、恵を抱き締めたまま降谷は溜息を吐いた。
 犯人は降谷だけでなく恵とも接触を望んでいる。恵も共にいれば犯人は必ず降谷に接触するだろう。少なくともその間に被害が拡大することはない。
 恵が気づかなければ降谷だけで作戦を進めるつもりだったが、指摘されては連れて行くしかなかった。恵を納得させるだけの猶予はないのだ。
「金曜の夕方、迎えに行く。黒い服を着て待っていてくれ」

◆ ◆ ◆

 最後まで赤井は恵の同行に反対した。新一も同様に恵の身を心配し、服を着替え、化粧をする恵について回ってまで必死に説得しようとした。蘭に護身術を教わり、傍に降谷がいたとしても、恵は非力な民間人だ。現場で何か起こっても対処できない場面が多い。
 このピアスどうかな、と強がってみせる恵に新一は心配を通り越して呆れた。それほど恐ろしいのであれば無理をしなければいいと新一は思わずにいられない。もちろん、恵が正義感だけで現場に赴くわけではないことをわかっていたため、声が震えていることは指摘しないでおいた。せめてもの配慮だ。
 新一までもが同行すると言い始めた頃、工藤邸の前に白の国産車が停まった。
 車を降りた降谷は、いつかのバーボンのような細身のスーツに身を包んでいた。ストライプのシャツ、ダブルのベストに黒革のグローブ、金のカフスボタンが袖で輝いている。どれも降谷のスタイルのよさを際立たせていた。
 恵はバーボン≠ニ共に過ごしたことはあるがバーボン≠ニ仕事をしたことがあるわけではない。闇の中でバーボン≠ヘどんな立ち居振る舞いをしていたのだろうか。想像すると、これまで避け続けてきた危険の最中に飛び込もうとしていることを実感して緊張が走る。
 迂闊に注意を引くだけでも危険な人間がいる──そんなバーボン≠フ言葉が脳裏を過ぎった。バーボン≠フ注意を今夜こそ役立てるべきだろう。恵は神経を張り詰める。
 険しい面持ちをしている恵を一瞥すると、赤井が降谷に食い下がって確認した。
「本当にいいのか降谷君、絶対に後悔するぞ」
「決心を鈍らせるようなこと言わないでください。彼女に手を出させはしない」
「……恵君、再度言うが君が作戦に参加する必要はない。君は民間人だ」
「心配してくださってありがとうございます」
 恵はやめたいとは言わなかった。
 赤井は長い溜息を吐いて身を翻す。良いのかよ赤井さん、と抗議する新一に何度言っても同じだと返した赤井は荒々しく自分の車へ乗り込んだ。
「……降谷さん、俺も」
「君はだめ。……少人数であることに意味がある。これが最大限だ」
「くそっ、絶対無理すんなよな! 恵さんは二の腕にこれ貼っといて!」
 悔しさのあまり悪態をついた新一は、乱暴に恵の手に何かを握らせた。
「これ何? 注射したときに貼るテープみたい」
 止血用の絆創膏を模したそれを恵はひと撫でした。中央の部分、ガーゼの位置する部分が硬いことに気がつく。
「追跡チップが仕込まれているんだろう?」
「そう、恵さんを連れて行くとか言い出すから、もしかしたらと思って博士に頼んでおいた。ぎりぎり間に合って良かったぜ」
「博士って?」
「隣家に住む阿笠博士だよ。各国の軍事技術にも劣らない発明をする凄腕のエンジニアで頻繁にこんな物を作っているらしい。コナンくんには何度もいたずらされたな」
 どこから見ても絆創膏にしか見えない追跡チップは、金属探知機に反応しない素材の使用や電子制御を行っているらしく、同時に高精度かつ強い電波を発する優れものなのだと新一は話す。降谷は感心しながら説明を聞いた。
 どこに行っても見失うことはないが、そもそもそういう状況にならないよう気をつけて欲しいと口を酸っぱくして言う新一に恵は感謝を返した。
 降谷の車に乗り込むといよいよ空気が張り詰める。シフトレバーに左手を置いていた降谷が、不意に恵の手の甲を撫でた。びくりと肩を震わせる恵に降谷は笑いかける。
「絶対に守るから、僕の傍を離れないで」
 力強い声に、恵はしっかりと頷いた。
「じゃあ恵さん、ここから先は僕をバーボン≠セと思って話してくれるかな」
「バーボン≠ウんだと思って? ……じゃあ、私からも一つ」
「ん? どうした?」
「彼はもっと私を適当にあしらってました」
「……そうだな」
 降谷が恵の緊張を解いてみせたように、降谷の緊張も解こうとした恵に降谷が苦笑いを零す。恵がにこりと笑って見せると、降谷は一本取られたと言いたげに車を発進させた。



 バーボンが現れると噂を流し始めて数日が経過している。裏社会ではまことしやかにこんな話が囁かれていた。──バーボンが、組織の意志を継ごうとしている。再建を願う仲間を集めている──流した噂に見事な尾ひれがついていた。
 黒を掲げる組織が壊滅したとき、裏社会はあらゆる意味で均衡を失った。これまで組織の恩恵を受けていた者は衰退し、これまで組織を疎ましく思っていた者は幅を利かせ始めた。その多くが、バーボンが現れるという噂を知って、裏社会が再び大きく動くかもしれないと噂のバーへ足を運ぶようになっていたのだ。伝聞により噂が捻じ曲げられるのも仕方のないことと言える。それだけ壊滅した組織は強大な存在だった。
 バーには公安警察の息がかかっている。降谷の通話相手はバーのオーナーだった。従業員は何も知らされていない。降谷と恵が入店しても、店員はいたって普通に対応した。
 反応を示したのは店内にいた犯罪者達だ。今や降谷は警察官ではなく、組織のバーボンである。場を掌握するような威圧感、一分の隙もない身のこなし、全身黒を纏っているにもかかわらず鮮烈な色彩を放つかのような存在感を纏う降谷に全員が視線を奪われる。そして全員が確信した。この男こそが、かのバーボンであると。
 周囲はバーボンと傍にいる女を観察していた。降谷もまた恵と歓談する素振りを見せながら店内の状況を常に把握し続けた。二人がバーへ来て既に一時間半が経過していた。
 恵は新一に言われたとおり、服の下、二の腕の辺りに追跡チップを貼っていた。服を捲って見たとしても止血しているようにしか思えないそれは、信号を発する電子部品が埋め込まれているなど信じがたい軽さで貼っている心地すらない。
 店内に赤井の姿はない。降谷が店内と表を警戒し、赤井が裏の勝手口と建物周辺を警戒するように打ち合わせをしていた。赤井とは常に連絡が取れるようにしている。外で異変があればすぐさま連絡が入る。
「それで……工藤新一くんは一体どんな推理を?」
「……聞いてどうするんですか」
「興味があるんです。彼、高校生探偵としてとても有名だったでしょう? それに……」
 女を酒に酔わせ、情報を抜き出そうとしている、周囲にはそんな光景が映っていた。探り屋として名を馳せたバーボンの行動に不信感を抱く者はいない。するり、と恵の腰を抱く様子に場の空気が熱を孕む。
 恵は緊張していた。降谷の演技があまりに完璧だったのだ。本質的に他者になりきることが不可能だとしても、降谷は解離性同一性障害によって内に別人を生み、共に過ごしてきた稀有な経験がある。隙を見せれば頭から丸呑みにでもされそうな悪人然とした演技に恵は舌を巻いた。
「彼と推理の話はしませんよ」
「へえ……では普段は何を話しているんですか? あれほどの知を持つ少年と、どんな話を? 気になるんです、どうか教えてくれませんか……」
 耳に口を寄せて囁く降谷から逃れようと恵は体を捩った。犯人の接触がなく暇を持て余しはじめたのか、降谷の演技はどこか悪戯めいた色を帯び始めている。恵は耐えきれずに語調を強めた。
「どんなって……! お、お料理の話とか、テレビ番組の話とか……ホームズの売り込みもされるし……蘭ちゃんが新一くんの失敗談とかを話してくれたりも……」
「二人は仲が良いんですね? 羨ましいです、僕はどうも彼に警戒されているようで」
 す、と降谷の目が細められた。その仕草がかつてのバーボンそのもので恵は思わず黙り込む。降谷が目を細めたのは恵が新一と打ち解けているからではない。多忙でなかなか会えない恋人が、異性と親密になっているからだった。だが恵が気づく由もなかった。
 バーで何も注文しないわけにはいかないので降谷も恵もグラスを持っている。どちらも酒には強かったが、降谷はアルコールに見せかけて何も飲んではいなかった。
 恵も水を頼もうとしたが、酒の入った演技ができるかと言われて日本酒を呷っている。いつ犯人から接触があるかわからない状況で飲酒するのは躊躇われたが、降谷が少しでも恵の不安を和らげようとしていたため、降谷の言葉を断れなかった。
「……二時間ですね」
 話題を切り替えようとして恵が呟いた。とろりと潤む瞳は、ちょうどいい塩梅に酔いが回っているよう見受けられた。外では決して酔うほど飲まない恵だが、降谷が傍にいると気が緩む。予想以上に飲み進めていた恵に降谷は仕方ないと言いたげな顔をした。
 恵の言うとおり、二時間経っても犯人からの接触はない。
 犯人が二人との接触を望んでいるのであれば、降谷から接触の意思表示が出されるのを見逃さぬよう注意を払っているはずだ。そこに、一斉逮捕されたはずの組織の幹部が出歩いている、という噂を広めれば必ず反応するはずだった。
 さすがに噂を流して行動に移すまでの日が浅かったらしい。降谷は気が急きすぎたかと溜息を吐いた。翌週に持ち越せばそれだけ恵の神経も擦り減らすことになる。だがいくら待っても今日はもう来ないだろう。降谷は引き上げることにする。
 二人の背後に人の気配が現れたのはそのときだった。
「お隣、よろしいですか?」
 豊かな髪をゆるやかに巻き、シャンパンゴールドのドレスに身を包んだ女が降谷に尋ねた。バーボンが好みそうな品のあるバーだ、女の恰好は大して浮いてはいない。だが女の纏う空気にどこか違和感を覚えた降谷は、期待と熱に満ちた視線を向ける女に懐疑を潜ませながら申し出を了承した。
「……もちろん。どうぞ」
 降谷の返答に喜色を滲ませた女は、弾むように降谷の隣へ腰かける。
「私、すぐそこで飲んでて……素敵な男性だと思って、貴方のことを見ていたんです」
「ありがとうございます」
 期待に応えるように艶やかに微笑んで見せれば、女はそれだけで舞い上がったように頬を紅潮させる。細い肩を見せつけるように揺らす女は、小首を傾げて降谷の顔を覗き込んだ。手入れされた指先が一瞬躊躇してグラスを握る降谷の手へ伸ばされる。
「……貴方も、私のこと見てましたよね……?」
「ええ……」
 特別な意図があって女を見ていたわけではない。降谷は店内にいる人間を全員等しく観察していた。目が合ったと感じても間違いではないが、女の望む答えを降谷が持っていたわけではない。
 すっかり降谷の纏う空気に当てられた女は、あえて正確に語らなかった降谷の言葉を額面通り受け取ることしかしなかった。熱い息を零し、とうとう降谷の手に触れる。まるで運命の出会いでもしたように、女の視界いっぱいに降谷が広がっていく。
 酔いが回って意識が浮ついていた恵が、そこで第三者の存在に気づいた。降谷を挟んで向かい側に見知らぬ女がいることを知り、目を瞬いている。女も、呆けた様子の恵を視界に入れる。
「……お隣はご友人ですか?」
「とても親しくしている人です。ほら……挨拶して?」
「……こんばんは」
 女の瞳が孕む熱に恵が気づかないはずがなかった。女もまた、恵が責めるような視線を自らへ向けていることを理解した。
 女はあからさまに恵を牽制した。降谷に身を寄せて「ご一緒して……いいですよね?」と挑発的な笑みを浮かべる。降谷はバーボンとして振舞っている以上下手な行動に出られない。抵抗がないのをいいことに、女は見せつけるように降谷へ触れる。
 感情の起伏がなだらかな恵が、その様子に激しい怒りを覚えた。いつ犯人から接触があるかわからないのに、だとか、降谷が恵と二人きりで過ごしていた意味がわからないはずがないだろうに、だとかもはや何に対する不満かわからない感情が次々と恵を襲う。酔っているからか、感情の制御が利かない。
 だが、女にどう対処すればいいのか恵にはわからなかった。他者との交流が浅い恵は、自分の感情をなりふり構わず相手にぶつけるのが苦手だ。
「……お手洗い、行ってきます」
 逃げるように口にした恵は、飲酒した量の割にしっかりとした足取りで立ち上がる。クラッチバッグを手に取る動作にも危うさはなかった。それでも降谷は恵を引き留める。
「だめだ、……僕も行きましょう」
「一人で行けます」
 恵を一人きりにするわけにはいかない。その焦りから思わずバーボンの演技を忘れた降谷は、咄嗟に言葉を取り繕ったあと沈黙した。バーボンとしての立ち居振る舞いを継続するのであれば、恵を引き留めようと食い下がるのはいい案とは言えない。
 腕を握られた恵は降谷に不満気な顔を見せた。口を尖らせている様子は、明らかに感情を持て余していた。端的に言えば拗ねている。
「私、連れて行きましょうか? 足がふらふらしてるみたい」
「……いえ、一人で大丈夫でしょう。ここで待ってるから行っておいで」
「ん……」
 女が、先程とは打って変わって恵に心を砕くような態度を取ったため、警戒した降谷は恵を解放した。目下のところ、降谷にとって最も警戒すべき存在は接触してきた女だ。幸い化粧室の出入口はカウンターから視認でき、他に通路はない。バーの構造を把握している降谷は化粧室の入口と横の女を監視していれば最悪の事態は起こり得ないと踏んだ。
 恵が化粧室へ入ったことを確認していると、女が焦れたように降谷の袖を引っ張る。
「恋人なんですか?」
「……いいえ、違いますよ」
「でも、とても大事にしてるんですね」
 女は馬鹿の振りはしなかった。だが一歩も引く気はなさそうに、降谷と恵の間柄に探りを入れ、自分が介入する余地を見出そうとする。降谷は女の言葉を適当に避け続ける。
 やがて、失意にくれた様子で女は店を出て行った。降谷をどっと疲労が襲う。女が降谷を離さないせいで、意識を向けてはいたものの、なかなか出てこない恵の安否を確認することすらできなかった。
 赤井から連絡が入らなかったため、外に出ていないのはわかっている。化粧室には恵の他にだれも入らず、怪しい物音もなかった。まさか中で寝ているか、不貞腐れているのか。女性店員に中を確認するよう頼んで、降谷はカウンターで恵を待った。
 たった一つしかない出口から恵が戻ってくることはなかった。

◆ ◆ ◆

 早朝、バーは警察によって封鎖された。新一は赤井の呼び出しを受けてバーを訪れる。新一が名乗れば一般人が現場に立ち入らないよう警備していた警察の人間が道を譲った。事前に話は通してあるらしい。新一は黄色いテープを潜って店内へ入る。ちょうど鑑識が化粧室へと消えて行くのが見えた。
 新一の到着を知った赤井が手を掲げる。傍へ向かうと赤井は深い溜息を吐いた。事情は既に電話越しに聞いていた。赤井に連れられてバックヤードへ向かうと、スタッフルームから騒ぎ声が響いているのがわかる。
「本当にあのドア以外に出入口はないのか!」
 降谷が男に向かって吠えている。男はバーのマスターだった。
「出入口は僕が監視していた、外にも監視の目はあった! なのにどうして彼女が消えたんだ……?! 隠し通路があるか、そうでなければ君が手を貸した以外に方法はない!」
「私は本当に何も知らないんです……! それに手を貸したりなんて…!」
 激昂する降谷の耳にマスターの言葉は入っていなかった。歯痒さに降谷は思い切り拳をテーブルへ叩きつける。降谷の剣幕に新一までもが肩を震わせた。赤井が降谷を諌める。
 恵を同行させたのは降谷だ、などと間違えても責める言葉は口にしなかった。恵が誘拐されたことで一番降谷を責めているのは降谷自身なのだ。
「降谷君、新一君が到着した。彼にも現場を見てもらおう。新一君なら何かに気がつくかもしれない」
 赤井が落ち着かせるように降谷の肩を擦る。降谷はようやく新一に気づいたと言わんばかりに空ろな目を向けた。新一は降谷を正面から見て瞠目する。降谷は憔悴し、たった一晩で見たことないほどやつれていた。
「……ここに来る前、博士にチップの信号を追跡するよう頼んでおきました。チップは感知されないよう一定間隔で自動的に電源のオンオフが切り替わるように設定されていて、その周期は十分に一度、オンになる時間は八秒程度だそうです。今はちょうどオフになっているみたいですがログが残るよう宮野が調整してくれていて、最後に信号を観測した地点をメールで送ってもらいました。それがここです」
「信号が一定時間に一度しか送られてこない以上、無闇に追跡するのは避けた方がいいかもしれない。移動中に犯人を刺激すれば何が起こるかわからない……ひとまず周囲のカメラや衛星画像から監視する指示だけ出しておいた。いいな?」
「ええ……ありがとうございます。新一君も、ありがとう……」
「志保が君と電話するのは可能かと聞いてきた。直接連絡を取りたいそうだ、この番号にかけてくれ」
「ええ……」
「じゃあ俺は現場見てきます。手袋借りますね」
 新一がゴム手袋を手に化粧室へと向かう。降谷は赤井に渡された番号へ電話をかける。降谷の沈んだ声を聞いて電話口から励ますような志保の声が響いていた。
 鑑識があちこちと調べる化粧室で新一は周囲をぐるりと見渡した。
「何か不審なものはありましたか?」
「いいや、何も。入口が閉じられたままで人が消えるなんて信じたくないけどね、今のところは密室状態だったとしか言わざるを得ない状況だ」
「そうですか……少し見て回っても?」
「かまわないよ。毛髪や指紋も採取し終えたことだし、工藤くんなら現場の保存に理解があるからね」
 鑑識の信頼に笑みを返して新一は化粧室の中を歩き回る。鑑識は、よく捜査に協力する新一とは見知った仲だった。新一が説明を求めれば嫌な顔ひとつせずに説明を行う。
「争った形跡はないようだ。個室のドアには凹みも、化粧板には傷ひとつもなかった。争うような物音がすればだれか気づいただろうしね……。被害者の座っていたイスから採取した服の繊維はこの個室から検出されている。洗面台に指紋があったことから、ここを使用したあとに身だしなみを整えていたはず」
 新一は鑑識の説明を聞きながら、該当する個室のドアを閉めた。二つ目のドアを開け、中をひととおり見たあとまたドアを閉める。三つ目のドアに手をかけた。中は清掃用具が収納されている。
 清掃用具入れを同じように見渡して新一はドアを閉めようとした。視線を足元に落として考え込む、いつもの癖が出たところで、新一は自分の靴を見てあることに気がつく。つま先の先にモップがある。モップは、毛の先が踏まれたようにひしゃげていた。
 随分と使用感のあるモップだ、ぼろになっていてもなんら不思議はない、とひと目見たときは漠然と認識したが自身の靴を見て間違いだと気づいた。モップの先は、男物の靴ほどの形に潰れていたのだ。だれかがここへ入り、踏んだ跡だった。
 新一は清掃用具を動かさないよう注意を払いながら用具入れの内側を探る。ドアの取っ手部分、立て付け、手洗い器の裏にまで視線を這わせた。鑑識も内部を調べる新一の言葉で顔色を変えていた。
 新一は配管の継ぎ目を注視した。わずかに隙間ができており、最近外されたような形跡がある。新一は現場の責任者に中の用具を全て外へ出す許可を取る。大人が数人がかりで手洗い器を外した。清掃用具入れが壁のみになる。
 降谷と赤井もまた駆けつけた。その頃には新一は推理を終えていた。
「この壁、タイルだからわかりづらいけどこの部分で切断されている……接着も新しい、ここから進入したんだ。店の構造、工具の準備、事前の練習もしくはプロの手が必要だな」
 誘拐が計画的に行われていたことを示唆すれば、すぐさま現場の責任者である刑事が指示を出した。降谷は参考人として現場にいる。連続猟奇殺人事件の可能性があるとして公的に出向いているのは赤井だけだ。そしてどちらにも現場の指揮権はなかった。
「マスター。この壁に面した隣はどんな店が入っているのか教えてもらえますかな」
「ありません。どちらも空き室で……この不動産は全て同じ所有者だったと思いますが」
「いますぐ所有者に連絡を、令状も申請しておけ、事態は深刻だ。捜査に協力的でなければ多少強引にでも情報を聞き出せ!」
 荒い言葉が飛び交うなか、降谷は恐ろしいほどに静かだった。少し離れた場所で降谷がヘッドセットへ話しかけている。再び鑑識が用具入れの中を調べるため新一は場を退く。
「僕だ。至急手配してくれるか……────だ。四十分で到着する」
 降谷の傍へ歩いて行った新一が尋ねる。
「何か気づいたんですか?」
「……誘拐のために入念な準備をしていたくらいだ、空き室の部屋を購入している可能性は低いよ。足がつくし、鍵なんてその場でどうとでもできるから手間が増えるだけだ。所有者を調べてもおそらく何も出ない」
「でもさっきの電話って風見さんですよね? それじゃあ一体何を……」
「この建物は掃討作戦で国が差し押さえたものなんだ。一部を国が買い取り、一部は再び売却された。もし一度も売却されていないのであれば、おそらく、僕の見知った人物の名が最後の所有者として出てくる」
 そいつに会いに行く。降谷はぎらついた目で答えた。


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