04




 新一の焦燥が伝わってくる。恵さんが、という叫びを聞いた降谷は飛び込んで来た景色に目を疑った。恵が滅多刺しにされている。手のひらで握る脳が冷たい。雨が降りしきるなかバーボンの匂いが鼻に付いた。

 ひどい汗だった。シーツが濡れて、転がっているのも不快に思えるほどだ。降谷は体を起こして額に手を当てる。長いながい息を吐いて、前髪をぐしゃりと握り潰した。なんて夢だ、降谷の呟きは狭い室内に溶けて消える。
 ベッドから降りるとハロが足に擦り寄るようにしてついてきた。キュンキュンと切なげな声を上げている様子は、どうにも降谷を心配しているようだった。
 顔を洗い、水の冷たさで覚醒するまで降谷はひたすら鏡越しの自分を見つめる。ハロは始終降谷の踝にやわらかな白い毛を押し付けていた。

◆ ◆ ◆

 一時的に止まっていた犯行が再発した。二桁を超える件数になった猟奇殺人事件は、恵を狙ったものだと捜査班全体へ改めて告知がなされたことで『代演事件』の名称を与えられる。『代演事件』の犯人は犯行速度が異常であるものの単調な殺人を繰り返す直情型だ。
 同時発生しているもう一つの殺人事件は『血抜き事件』と呼ばれた。犯人に明確な目的がある可能性や、理性的に犯行を繰り返していることから『代演事件』より危険性は高いと考えられている。
 米国海軍とも縁のあるプロファイラーの一人がフォネティックコードを用いて『血抜き事件』の犯人をアルファ、『代演事件』の犯人をブラボーと呼んでいたことから、正式にそう呼称されることとなった。
 双方の事件で死体が遺棄された場所には類似点があるが、どちらも監視映像での追跡が難しく、殺人犯同士で手を組んでいるかの確証はない。警察が有力視しているのは「複数の殺人犯が共通の運び屋を用いている」という説だ。
 アルファがブラボーに影響を与えているのではないかと考えるプロファイラーもいたが現状では判断材料が不足している。プロの間でも意見が割れているのだ。
 ここ数か月の猟奇殺人事件が複数犯によるものだと位置づけられたことで、事件の資料を再作成する必要性が出じている。
 必要なことだけを明確にまとめながら降谷は溜息を吐く。イスを後ろに下げ、ぐっと背伸びをした。事件の規模に相反して捜査は遅々として進まず、こうしている間にも被害者は増え続ける一方である。だが、周囲が焦るほど自分だけは冷静さを欠いてはならない。降谷は逸る気持ちをそうやって強く自制する。
 タイミングを図ったかのように執務室のドアがノックされた。風見が顔を覗かせる。
「降谷さん、表に降谷さんを訪ねて来た人が……」
「茶封筒を持ってきた人間か?!」
 降谷は背凭れに預けていた体を勢いよく起こした。
 風見に任せていた茶封筒の人間に関しては何も進展がなかった。降谷が警視庁にいるときを見計らっての来訪、ということでもしやと降谷は考えたのだ。だが風見は焦ったように否定する。
「いえ、そちらは未だ……申し訳ありません。来たのは宮野と名乗る女性です。たしか、数年前に掃討作戦で回収した薬物の調査に協力した方だったかと。貴方のことを知っているのは不審でしたが、工藤君の名前を出されたので共通の知人かと思いまして……」
「……志保さんか? ああ、知人だよ。だけど彼女が僕を訪ねるなんて……わかった、防音設備のある部屋へ通してくれるか」
「応接室や会議室ではなく?」
「彼女は秘密主義でね。それに僕も人のいない場所の方が話を円滑に進められる」
 風見は合点がいった様子で退室した。降谷も来客用のコーヒーを準備して向かうことにした。

 志保の待つ部屋へ向かった降谷は、扉を開けるとできる限り明るい笑みを浮かべた。
「こんにちは志保さん。久しぶりだね、君が僕を訪ねるなんて珍しいなあ」
「ひどい顔ね」
 志保に疲労を悟らせないよう精一杯明るく振舞ったつもりが、遠慮なく切り込まれた降谷は顔を引きつらせる。
「眠れていないの? それじゃあ仕事もままならないんじゃないかしら」
「……志保さん、相手が望むなら見て見ぬ振りをするのが大人というものだよ」
「あら、私は別に大人になったつもりはないわよ。その前に女の子で、次に科学者だもの。常識だけでデータは見ていられないわ。それに貴方の恋人が何も言わないのは見て見ぬ振りをしているんじゃなくて貴方を尊重してるだけ……女の子って結構鋭いのよ」
「そうだね」
 相変わらず歯に衣着せぬ物言いに降谷は降参した。恵に関しては、直接の面識があるわけではないだろうによく理解しているものだと感心する。
 周囲から聞いた話だけで恵の人となりを把握しているらしい志保の言うとおり、恵は降谷が無理をしていても心配しないで欲しいと思う降谷の気持ちを尊重して何も言わずにいることが多かった。何も言わないだけで心配は隠さないのだ。
 まさか降谷に棘を刺すためにわざわざ警視庁まで出向いたわけではないだろう。降谷は志保の言葉を待つ。志保が喉を潤すようにコーヒーを啜ると、短く息を吐いてから口を開いた。
「今起こっている……血抜き事件の方ね。被害者のデータを見せて頂戴」
「……耳が早いね、新一君に聞いたのかい? 悪いが、そう簡単に外部へ持ち出せるものじゃないんだ。被害者や遺族のプライバシーがあるし、何より本件は公表されていない。いくら君でも──」
「似ているのよ、組織のやり方と」
 言葉を遮った志保に降谷は動きを止める。
「単独犯か複数犯か知らないけれど、犯人は実験してる。下垂体が切り取られていたんですって? 薬の目的に最も即した機能をもっているんだもの、組織だって使用を考えなかったわけじゃない。ただ保存や調達に手間や時間がかかりすぎるの。組織は人殺しなんて躊躇わないけど、人目に付きすぎるのは嫌がってた。誘拐は事故では片付けきれないからね。だから他の手段を取ったの。……こんな話、私だってしたくはないけれど……」
「……つまり、今回の件とどう関係性があるんだい。下垂体が若さを保つための実験に使われているかもしれないことは、検視の結果を受けたとき僕でも想像できたさ」
「そうでしょうね。血液が抜かれていなければ私もここへ来ることはなかったわ」
 降谷は緊張で顔を強張らせる。志保の言い方はまるで確信を得ているかのようだった。
 若くして才を発揮していた志保は、シェリーというコードネームを与えられ、組織で研究と開発を行っていた。科学分野において他の追随を許さなかった志保は、組織に所属する科学者の中でも統括的な立場にいたため、薬品開発のことを粗方把握している。
 組織の研究が外部に持ち出されていたことを暗示しているのか。降谷が神妙な顔で考えていると志保は視線を部屋の隅に送る。
「どうしても厳しいのなら、別に資料を見せてもらわなくたってかまわないの。組織の人間がどう動くかは大体わかるし、私達科学者には実験の手順や傾向、使用する薬剤に癖がある。見れば何かしらの役に立つと思っただけ」
 志保の事情を知る降谷は、志保がようやく掴んだ平穏を大事にしていることも知っていた。情報を開示すれば志保までも危険に晒すかもしれない。その可能性が降谷を悩ませているのだ。志保が口にする妥協も、悩みの種を増やすことにしかならないが。
 沈黙する降谷を見かねて志保は聞き方を変える。
「血はほとんど抜かれていたらしいわね。なら確認するのは一つよ、下垂体を切除したのは被害者を殺す前か、後か」
「……手術を施されていたのは被害者が死ぬ前だ」
「決まりね」
 組織で出た草案と一緒だわ。志保は顔を歪めて説明した。
 まず被害者に麻酔を投与する。下垂体の摘出時に被害者を死亡させなければいいため、自己血貯血輸血を採用する。脳を開いて下垂体を取り出せば、臓器培養装置へ接続し下垂体の保存を行う。手術が終われば頚動脈に針を刺し被害者の血を抜く。
『代演事件』と違い、被害者は安らかな死を迎える。遺体の発見に時間を要すのは手術の時間がかかるためだろう、と志保は自らの見解を話した。
 降谷は眉間の皺を深める。培養装置は調達の問題さえ解決しておけばいい。だが、摘出手術には腕の立つ医師と麻酔医が必要になる。高度な技能を習得した人材と最低限の術中の人手が要るため、その線から捜査ができるかもしれないと考えた。
「組織で採用された案じゃないから、いい加減な情報管理をしていたせいで外部に漏れた可能性はあるわ。ただ持ち出せる人間も、持ち出された時期も限定されるはずよ。協力が必要ならする」
「そうだね……僕は組織では違う役割を担っていたから、この方面にはさっぱりだ。頼んでも良いかな。資料を持って来させる……場所はここがいいかい?」
「そうね。じろじろと人に見られれば気が散るから」
 パソコンも持ってくるよう言われた降谷はすぐ志保の前に資料を揃えることにした。

◆ ◆ ◆

 ついに頭部まで砕かれた、見るも無残な遺体が発見されるようになり、捜査に携わる人間は悉く悲鳴を上げていた。内臓も引き裂かれたような遺体は身元の判別も苦労を強いられ、とても遺族に会わせることができる状態ではない。
 熟練の刑事ですら凄惨な現場に耐え切れず、胃内容物を吐き戻すようになっていた。現場に向かう人間は食事を控えるよう指令が出るほどだ。
 これ以上情報を秘匿すれば被害は広がる一方だとして、警察はメディアを通して女性の一人歩きは控える旨を報道すると決定する。
 降谷もまた、遺体を見て言葉を失っていた。降谷が目的ではないのか。まるで恵を恨んでいるかのようにエスカレートしていく犯行に身を震わせる。
 八件目以降、被害者が遺棄された現場には全てバーボンが撒かれていた。新しく発見された遺体の傍には、焦れたようにバーボンの瓶まで転がっていた。犯人の意図が読めず、降谷の苛立ちが増していく。
「意図が何であれ、犯人が君と話したがっているのは確かだな」
 赤井は煙草に火をつけて空気を吸う。舌の上で煙を転がし、味わうと息ごと吐き出す。
「ここまで明確なメッセージを残すなら既に接触されていてもおかしくないはずだが……もっと多角的な見方をすべきか? ブラボーは犯行が悪化しても監視を逃れ続けている。バーボンの瓶はブラボーからのメッセージだ、との見方は捨てるべきかもしれんな。冷静さを失ったままでそんな行動はできない……。となると運び屋からのメッセージか?」
「……」
「アルファがブラボーを制御下に置いているのであれば、君に何か警告をしようとしているのかもしれん……恵君の危険をちらつかせて、君に何かをさせようとしている」
「もしもし、僕だ」
 煙草をふかしながら考えを述べる赤井の横で、降谷は電話をかけ始めた。
「バーボンという男の目撃情報を流してくれないか。ああそうだ、かつての仲間を探しているとでも言っておいてくれ」
「降谷くん!」
「毎週金曜に現れることにしよう……頼んだ。では週末、君の店で」
 目を見開き、責めるような荒い声で呼びかける赤井を、降谷はスマートフォンを持たない側の手で制した。用件を言い終えた降谷が通話を切ると、赤井は不満を露わにして語気を強める。
「君、犯人と接触するつもりだな」
「彼ないしは彼女もそれを望んでいます。このままでは事態は何も進みません」
「だからって相談もなしに物事を決めるんじゃない、せめて上に報告して……」
 赤井の言葉に降谷はゆるく首を振る。
「上が知れば邪魔が入る。掃討作戦のときとは違うんです、チームの介入は邪魔だ」
「いくら君が優秀だろうと、君はもう潜入捜査官じゃない……単身で乗り込む人間があるか! わざわざ警察を介して君にコンタクトを取ろうとする相手だぞ、君の所属は知られている、君の能力が如何ほどかも! 何を企んでいるかわからない、そんな相手に……」
「大勢で待ち伏せすれば奴は警戒して近寄らない、これほど犯行を重ねても尻尾を掴めないなら相当の手練です。少人数で動くにしても生半な人間には任せられません。……最悪の事態を見据えて行動すればいいだけの話ですよ、組織に潜っていたときと同じだ」
 赤井の意見を聞く気もない。頑なに自分の意志を曲げようとしない降谷に赤井は言葉を探した。だが言葉巧みな降谷を説得するのは困難を極める。結局、赤井はしようのない言葉を吐き出すことしかできなかった。
「あまりにも危険だ……!」
 眉間に思い切り皺を作る赤井を見て、降谷はふっと小さく笑う。
「ええ……ですから協力してもらえますか」
「……何だって?」
「少人数での行動は避けられないが信頼できる人間はそういない……でも僕と同じく潜入捜査をしていた貴方なら、任せられる。何より僕は貴方の力量をよく知っている。それは貴方も同じだ。……協力してください、赤井捜査官」
 協力を頼むような言い方をしながら、差し出された手は断られることなど有り得ないと言いたげに堂々としている。
 赤井は目を点にする。悪巧みをしようとしている少年のような笑みを浮かべた降谷を見て「まったく君は……」と口にすると、煙草を携帯灰皿に押し潰した。恵を任されたときも降谷の信頼を感じていたが、事ここに及んで言葉と態度で表されては、赤井は全霊をもって期待に応えるほかにない。
 赤井が差し出された手を力強く握り返せば降谷は笑みを深めた。


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