glitter
 私が彼女の病室に辿りついたとき、すでに何もかもが終わっていた。私の愛した尊い人は傷を負い、彼らの愛した巨悪の帝王は星の光の前に敗れた。
 そして私は生きのびている。
 こんな私を、彼女は、マライアは嫌悪するだろうか。私はそれがおそろしい。マライアに必要とされないのなら、生きている意味などない。

 マライアは窓の外を眺めていた。近くの木から、鳥が飛び去ってゆくのが見えた。白い鳥だった。

「終わったのね。何もかも」

 視線は窓の外に向けたまま、全てを悟ったような声で言う。
 私は、彼女に何と言ったらよいのかわからず、ただ、うん、と頷くことしかできなかった。

「DIOは死んだ。ヴァニラも、きっと、テレンスも、無事じゃあないと思う」
「そう…」

 いつも余裕たっぷりに白煙を吐き出していたピンク色の唇は、今はただ掠れた吐息をもらすだけ。
 マライアはふり返った。涙を流すこともせず、マライアの瞳は私を射る。そうして私の唇を、いとおしそうに見つめるのだ。

 ずるい、と思った。DIOはずるい。死んでしまったら、マライアは、一生、DIOを忘れることができないじゃあないか。
 DIOという名の、重たく、大きな鎖。死してなおマライアを縛り続けるそれを、私は断ち切ることができない。

「う…ッ」

 そう思うと、胸になにかいやなものがこみ上げてきて、私はその場に崩れた。眩暈がするほどの、強烈な吐き気。どろりとした重油のようなものが胸にせり上がってくる。

「ッ、ゲホッ…」
「ユウリ、あなた…」

 マライアは驚いたような顔をして、しかしすぐに、全てを察したのか、ベッドから降りて私の背中をさすってくれた。

「バカな子…。こんなことになって…」

 静かに紡ぎ出される彼女の言葉。私の目からは生理的な涙がポロポロと零れだしていた。
 バカでもいい。私はマライアと同じ男を共有したかった。後悔はない。幸せな時間だった。マライアを抱いたDIOの肉体に、私は溺れた。マライアの愛したあの男を、あのときだけは、きっと私も愛していたのだ。その果てに彼の子種を身に宿し、こうして私は一人、生きのびている。

「ケホッ、…っう…」

 そばにあったゴミ箱に、胃の内容物をすべて吐き出しきると、気分は少し良くなった。「ほら」それからマライアに渡されたミネラルウォーターで口をゆすぐ。

「誰の子なの」

 その問いは、どこか確信めいた響きをもっていた。私が興味を持つ男など一人しかいないからである。

「………」
「どうしてDIO様と寝たの」

 黙っていると、ふたたびマライアが言った。それは私を咎めるような口調ではなかった。そもそもマライアはDIOが不特定多数の女と関係を持っていることにほとんど抵抗を感じていなかった。むしろ聞きたいのは、どうして『私』が、あれほど嫌っていたDIOに抱かれたのかということなのだろう。

「…マライアと同じ男を共有したかった。それだけよ」
 私は素直に言った。
「…アナタって…」

 それ以上、マライアは何も言わなかった。呆れているのか、怒っているのか、わからないけれど、彼女はどこか優しい目をしていた。

「嫌いに、なった?」

 マライアは、傷だらけだった。素っ気ない病院着からのびた四肢は包帯で覆われ、右脚に至ってはまだギプスが取れていない。
 しかし、これでもまだだいぶ回復した方なのだろう。数ヶ月前、ジョースターとの戦いで、彼女は全身の骨を砕かれたのだという。
 私は、すぐにでも彼女の元に駆けつけたかったが、ジョースターたちとの戦闘に備えて館に残った。スタンド能力もなく、ほとんど無力である私にとって、それは自殺に近かった。けれど、マライアのために何かしたかった。人身売買の果てに行きついた商人の家で、奴隷以下の扱いを受けていた私を、彼女が救ってくれたあの日から、マライアは私の全てになった。

「…DIO様は素晴らしい方よ。あの人はこの世の頂点だった」

 マライアは、ベッドに腰かけ、サイドテーブルに置いてあったガムの包みを開けた。それを口に放り込む彼女を見て、そういえば病院内は禁煙だったなと思い出す。
 マライアはまだDIOの幻想に囚われている。そう思うと悲しかった。私は力なく首をふった。

「…私には、わからない」

 マライアが微笑む。「でも」

「DIO様はアナタを逃がして、生かしてくれたでしょう」

 それだけで十分だと思わない?
 マライアはガムを膨らませた。タバコの煙を吐き出すように。

「あの方は巨悪と恐怖そのものだったけど、とても慈悲深い方なの」そう言って頬杖をつく。「アナタとそのお腹の子がいる限り、生きる希望があるのよ。私にも」

「…マライアにも?」
「そうよ」

 色素の濃いマライアの瞳が私を捉える。DIOが、私の知らない誰かに似ていると言った青瞳を補う美しい、琥珀の色。この瞳がようやく私を見てくれたような気がして、止まっていた涙がふたたび溢れた。
 DIOは私に誰かを重ね、マライアは私にDIOを重ね、そして私はDIOにマライアを重ねた。こんな偽物だらけの、虚像が虚像を愛するような歪んだ世界でも、生まれてくるこの子にとって、私は母という無二の存在で、

「そしてそれは決してゆらぐことのない真実なのよ。ユウリ」

 そう言って、マライアは私を抱き寄せた。それから口づけを落とし、わずかにふくらんだ私の下腹に手を這わせた。













 ぼくには大好きなお母さんが二人居ます。
 見た目も性格も正反対の二人です。ぼくには父親がいませんが、生まれたときから、親と呼べる存在はすでに二人そろっていたので、ぼくはずっと、当たり前のように、両親とはそういうものなのだと思っていました。
 だから、ぼくは、父親がいないことを、寂しく思ったことはありません。
 それに、マライアは、そこらの男の人よりずっとずっとかっこよくて、喧嘩だってすごく強いです。むかし、ぼくとユウリが街なかで男の人に絡まれていたとき、マライアは容赦なく彼を蹴り飛ばしました。そのときのマライアはとてもかっこよくて、そのときからずっと、マライアはぼくのヒーローです。

 ブルネットに青い瞳、白い肌をしたユウリと、綺麗な褐色肌のマライア。ユウリは厳しかったけれど、マライアは、まるでユウリの分を補うかのように優しかった。ぼくの好きなものは何だって買ってくれたし、どんなわがままだって聞いてくれました。マライアの溺愛ぶりといったらもう、小さいころ、マライアがぼくの生みの親だと思っていたほどです。

 ぼくの初恋はマライアです。四歳の春でした。
 ある日、ぼくがマライアに抱いていた淡い感情を告白すると、彼女はユウリに縋るように、大粒の涙を零しました。
 それからぼくを抱きしめ、髪をなで、キスをしてくれました。
「マ…マライア?」
 マライアを泣かせてしまった、と、ぼくはショックを受けたのですが、その夜、ユウリがこっそり教えてくれました。

「マライアはね、嬉しかったのよ。アナタの父親を、マライアは愛していた。命を懸けてね。けれどアナタの父親は誰のものでもなかった。私に埋めるコトのできなかったマライアの心のスキマを…アナタが埋めたのよ。それはdioの名を持つアナタにしかできないコトなの」
「………?」
「まだ難しかったかしらね」

 ユウリはクスッと微笑んで、「マライアは、アナタをとても愛しているということよ。dio」と、ぼくの頭をかき撫ぜました。ユウリの瞳はとても穏やかでした。
 ぼくは小さいころ、ユウリを母さん、マライアをマンマと呼んでいましたが、ぼくが大きくなるにつれ、二人はそれを拒みました。
 ユウリは「そのカオで母さんなんて呼ばれると鳥肌が立つ」と言い、マライアは「DIO様にママと呼ばれているようで恐れ多いわ」と言って、名前で呼ぶことを強要したのでした。
 それほどに、ぼくは父と似ていたのです。二人は父親の生き写しだとまで言っていました。唯一、父と違うところといえば、ユウリから受け継いだ青い瞳だけでした。

 ぼくは父のことをあまり知りません。ユウリの前で、父のことを尋ねると、彼女が悲しそうな顔をするので、これは訊いてはいけないことなのだと思いました。きっと「埋めるコトのできなかった心のスキマ」に関係しているのだと思います。ユウリはいつだって、マライアのことを愛していました。それはきっと、ぼく以上に。

 マライアへの想いが、叶わぬ恋だと知ったのは、マライアに想いを伝えてから一週間ほど経ったある日のことです。
 ぼくは、マライアとユウリがキスをしているのを見ました。普通の恋人たちがするような、情熱的で、扇情的な口づけでした。
 二人のキスは何度か見たことがありますが、いつもは親子がするような、ふれるだけのキスでした。それ以上、見てはいけないような気がしました。
 そして、ぼくは、あんなに満たされた表情のマライアを、はじめて見ました。「埋めるコトのできなかったマライアの心のスキマ」とユウリは言いました。けれど、実際、二人の間に、ぼくが入りこめるスキマなんてはじめからなかったのです。それほどに二人は深く求め合っていて、二人のうちどちらか片方が失われてもダメなように思われました。
 そしてぼくは、そんな未完成な二人を愛しく思います。欠けたなにかを互いに探し合い、確かめ合い、深く、愛し合っている。

 ぼくは、彼女たちほど、人間的で、そして神聖な恋人たちを知りません。愛の尊さというものを、ぼくは四歳にして知ったのでした。
 …ああ、そろそろ、学校へ行く時間です。二人とも、昨日は夜遅くまで出かけていたので、まだぐっすりと眠っています。
 ひとつになるように、抱きしめ合って眠る二人。ぼくは、そんな彼女たちの額にキスをして、重たいかばんを持って、寝室を出ました。二人を起こしてしまわないように、そっと。




2012.08.30
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