その爪で引き裂いて
 彼が其処にいる理由は、事のほか単純だった。冷房の効いたフローリングは快適であり、面倒な縄張り争いも此処にはない。そして何より、好物である、コーヒー味のチューインガムをくれる人間がいる。彼にとっては、それだけで充分だった。

「もうダメ」
「ガウッ」

 しかし人間は横暴だった。ガムをほんの一、二枚与え、すぐに彼の手が届かない場所へ隠してしまう。それからは、もう、彼女の気がすむまで全身を撫でられる。彼…イギーは、何の得にもならない、ケチなこの時間が大嫌いだった。

「野良なのに、いい毛並みよね」

 うっとりと手をすべらせる彼女に目もくれず、イギーは、味のなくなりかけたそれを噛み続ける。クチャクチャと口の端から涎が落ち、彼女の膝を汚していった。

「あっ…もう。垂らさないでって…」

 女の名は、ユウリという。街を歩けば誰もが振り向く、というほどの美人ではないが、端整な顔立ちや彼女の持つ穏やかな雰囲気は、人間の女性として充分な魅力があった。
 そんな彼女の名を、イギーはまだ知らない。知る必要もないのだろう。もとより、二人には言葉を交わすすべがない。


 二人が出会ったのは、今から一ヶ月ほど前のことである。野良犬たちとの縄張り争いで、たまたま負傷し、この家の庭先でフラフラしていたところを、ユウリが見つけて介抱したのだ。
 ユウリの家庭は、イギーの前の飼い主ほど裕福ではなかったが、見ず知らずの野良犬を獣医に見せるくらいの余裕はあった。
 傷が癒えるまでの数日間、絶対安静と言われていたのだが、イギーはあっさりとユウリの家を抜け出した。以降は、ユウリを完全に下僕と見なしたのか、まるで喫茶店のような感覚で、彼女の家を訪れるようになっていったのだ。

「あっ。行っちゃうの?」

 ユウリの膝から飛びのくと、イギーはトコトコとクローゼットに向かう。彼の全長の数倍もあるそれを、険しい表情で、じり、と見据えたかと思うと、何の躊躇いもなく、彼はその扉に爪を立てた。

「…きゃあ!!」
「アウゥ」
「きゃぁぁ、やめて、やめて!!」

 途端にユウリが青ざめ、叫ぶ。その間にも、木造のクローゼットはバリバリと引っ掻かれ、見るも無残な姿になっていく。

「わかった、わかったから!!全部あげるから、やめてっ!」

 半泣きでイギーを小脇に抱え、ユウリは、クローゼットの中からガムの箱を取り出した。イギーは、はじめっからそうすりゃいいんだよ、とでも言いたげに目を細め、鼻を鳴らす。彼は、何もかも知っていたのだ。ユウリが此処にガムを隠したことも、どうすれば彼女が嫌がり、どうすれば、ガムが全て手に入るのかということも。

「もぉ…イギーのせいでボロボロだよ…」

 それなりに値の張ったクローゼットだが、彼のお陰で、派手な爪あとが残ってしまった。

「ガゥ」

 しかしそんなことはお構いなしに、ガムの箱を口に咥えると、イギーは颯爽と窓から走り去って行く。
 誰もいなくなった部屋に、溜め息がひとつ混じる。しょんぼりと眉を下げ、ユウリは、彼の出て行った方向を見つめた。穏やかだった彼女の表情に翳りが差す。
 時刻は、もうすぐ六時を迎える。間もなく帰ってくるであろう夫のことを思い出し、ユウリは先ほどよりも深く、溜め息を吐き出した。









 それから数日後の昼下がり。ユウリは庭先で苺を摘んでいた。ガーデニングと家庭菜園は彼女の数少ない趣味の一つであり、主婦業の合間に、一年を通してちまちまと、花から小さな果物まで幅広く育てているのだった。

 穏やかな日差しの下に、彼女はいる。花壇にしゃがみ込み、忙しなく、手先だけを動かしている。
 青い実を避け、赤く熟れた果実だけを、鋏で丁寧に切り取っていく。ふと小さな足音に気づき、ふり返ると、気怠げな表情で佇むイギーがいた。名を呼べば、欠伸で答える。どうやら昼寝の時間らしい。

「ちょっと待ってね。これ摘んだら、私も中入るから」
「ワウッ」
「きゃ!」

 突如飛び掛ってきたイギーに、されるがままユウリは転ぶ。小型犬とはいえ、膝を折っているときに突然飛び掛られれば尻餅もつく。そのすきに、イギーは彼女の腕からバスケットを奪い、収穫したばかりの苺を貪り始めた。
 熟した新鮮な苺は彼の口にも合ったようで、呆然と地に伏すユウリになど触れもせずに食べ続ける。

「ひ、ひどい!ジャムにしようと思ったのに…」

 お仕置き、とばかりに、彼の小さな額をぺちぺちと叩く。しかし当然のように反撃に遭い、顔面に軽々と飛び蹴りを食らわされ、ユウリは目に涙を浮かべた。

(オレを躾けようなんざ十年早いぜッ)

 プッとヘタを吐き出し、家主を置き去りにイギーは家の中へと入っていく。それを覚束無い足取りで追いかけるユウリ。揺るぎなく、二人の主従関係が逆転していることに、ユウリはまだ気づいていない。


 勝手知ったる他人の家とはよく言ったもの。リビングのソファに寝そべり、イギーはまた欠伸をする。先日、ユウリが彼に与えたクッションもどうやら気に入ったらしく、満足げに体の下に敷いていた。

「ちょっと!イギー、泥だらけじゃあないの。お昼寝よりお風呂が先!」
「ギャウウッ」

 眠りを妨げられただけでなく、嫌いな風呂に入れられるとあって、イギーはユウリの腕の中で暴れるが、首根を掴まれては抵抗のしようがない。不機嫌そうにぶすくれながら、せめてもの嫌がらせに涎を垂らしてやると、ユウリは間抜けな声を上げて彼を手放した。突然空中放り出されても、イギーは動じることなくクルクルと回転しながら受身を取る。

「いやぁぁ、イギーのバカっ」
(テメー。いきなり何しやがる、ぶっ飛ばすぞッ)

 改めて定位置に戻り、イギーは、プリプリとカーペットを拭くユウリを見下ろした。眠気は覚めてしまった。拭き終わったらコーヒー味のガムを強請ってやるか、などと考えていると、ふと、彼女の腕に所どころくっきりと残った痣に気づく。袖口から覗く、白い腕に滲むそれはよく目立つ。

(ふん、マヌケ女。どうせどっかで転んだんだろ)

 口寂しくなり、クッションに齧りつく。そうしているうちに、掃除を終えたユウリがソファに寄り、イギーを抱いて寝転んだ。柔らかい彼女の髪が額に掛かり、イギーは鬱陶しげに目を閉じる。

「もう、かわいくない奴っ」

 頭を撫でてやっても、顎を掻いてやってもそっぽを向くイギーに、ユウリが言う。人間をこれ以上なく見下しているのだから、彼の態度も改めようがない。
 イギーを閉じ込める腕はか細く、頼りない。よく見れば、まだ新しく、青々しい痣から治りかけのものまで、その透き通るような肌は点々と汚されていた。

「かわいくない。けど…」
「ワゥッ」
「イギーがうちの子になったらいいのに」

 何気なく呟かれたそれは、微かに震えていた。バカ女に飼われてたまるか、と心の中で悪態を吐きながら、イギーは、テーブルに飾られた写真立てへと視線を移す。写真の中では、ユウリと見知らぬ男が、狭苦しい空間で笑っていた。









 いつの間にか、眠っていたらしい。イギーが目を覚ましたとき、そこにユウリの温もりはなかった。かわりに聞こえてきたのは、男女の言い争う声だ。

「どうしてそんなに怒るの!?別に、アナタに迷惑掛けてないでしょ!?」
「黙れ!お前のせいで家中臭くなってるなってるんだよ!」

 必要以上に、威圧的に怒鳴り散らしている男は、写真で見た男と同じ顔をしていた。ユウリの男か、と、イギーは頬を掻く。危機感は、特に感じない。ただ、ふだん温厚なユウリが金切り声で獅子吼する姿は、何故だか鬼気迫るものがあり、イギーは思わず目を逸らした。
 二人の口論の原因がイギーであることは、怒声を聞いていれば容易に想像がつく。面倒くせぇ、と数回、目を瞬かせ、イギーはソファーから降り、窓へと向かう。

(夫婦喧嘩なら、もっと静かにやりやがれ)

 やっぱり人間に関わるとロクなことがねえ。イギーは躊躇なく、窓から飛び出した。ちらりとふり返ってみるが、ユウリがこちらに気づいている様子はない。安心したような、少し胸が痛むような、不思議な感覚が、イギーの小さな体を満たしていく。

(バカかオレはッ)

 ユウリにしてみれば、野良犬が勝手に家に上がり、そして勝手に帰っていった。つまり、それだけのことだ。何ら不自然ではないし、野良犬である自分が彼女に義理立てする必要などどこにもない。それなのに胸はちくりと小さく痛み、疼くその痛みを誤魔化すようにイギーは走った。

「きゃああっ!!」

 遠くで、ユウリの声が聞こえた気がした。咄嗟に、あの痣だらけの腕を思い出してしまった自分を、イギーは少しだけ恨む。犬の本能か、それとも、僅かでもユウリに絆されたのか。イギーは舌打ちののちに踵を返した。



 夫がはじめて、自分に暴力を振るった日のことを、ユウリは鮮明に覚えている。切欠は、何気ない口喧嘩だった。酒気を帯びていた夫は、なじるように喚き散らすユウリを、驚くほど簡単に平手で打った。唇が切れ、血が滲む。熱を持った頬に手を当てると、そこには涙が伝っていた。

「ひどい…痛いよ…」

 あのときと同じ言葉を、床にへたり込んだままユウリが呟く。よくある話だ。一度、暴力で女を制することを覚えた男は、過ちをくり返す。
 喧嘩をしたとき。酒が入ったとき。虫の居所が悪いとき。夫は、何でもないそんな場面で、ユウリを殴った。

「ふざけんなッ!お前が勝手なことばかりしてんのが…悪いんだろ!!」

 胴部に鈍い痛みが走る。蹴り上げられたのだ。げほげほと咽返りながら、ユウリはイギーのことを考えていた。彼はもう、住処に着いただろうか。自分たちの怒声で、怖がらせてしまっただろうか。またいつか、此処へ会いに来てくれるだろうか。

「ひっく…。ぅ…」

 零れた涙が膝に落ち、衣服を濡らす。
 彼のことは、確かに、愛していた。今でもきっと、愛しているのだろう。しかし、優しかった夫との思い出がもう、遠い記憶のようで、彼女の涙声にはもはや嗚咽が混じる。その姿にすら、彼は舌を打ち、拳を振りかぶった。

 しかし、刹那、室内に響いたのは夫の声だった。苦しそうな呻き声に、ユウリは、弾かれたように顔を上げる。

(とことん面倒くせぇ女だぜっ)

 軽い身のこなしで、男の身体から飛びのき、イギーはユウリの元に駆け寄った。イギー、と弱々しい涙声が、その名を紡ぐ。
 夫は、顔を押さえて蹲っている。イギーが渾身の力を込め、彼の顔面に噛み付いたのだ。その首筋にまで、血は伝っており、数分と経たず、彼は失神した。

「ぅ…っ。イギー…、うっく…」

 ぽろぽろと止めどなく溢れる涙を、イギーは、背伸びをして舐め取っていく。彼女の頬も涙も、震える身体も、そのすべてが温かい。イギーは思う。こういうとき、人間はどうやって傷を舐めあうのだろう。

「うぅ……イギー…」

 答えは、彼女が出した。嗚咽を漏らしながら、ユウリは、イギーの小さな体を力なく、抱きしめる。温かい。鬱陶しいと感じていたそれが、生まれてはじめて、心地良いと思えた。

(さっさと泣き止めよ。バカ女)

 ぎゅう、と腕に力がこもる。互いの額をくっ付け、ユウリはまた涙を零す。イギーは何か言いたげに、口を開くが、ワンワン、と言葉にならないそれだけがユウリの鼓膜を震わせるのだった。

「イギー、優しいね…」
「アウゥ」

 強く打たれ、赤く腫れた彼女の頬を見て、思う。人間はやはり大間抜けだ。一度は愛した女をなぜ苦しめるのか。傷つけられてもなお、愛した男になぜ縋るのか。イギーには双方、到底、理解できそうもない。けれど泣いている彼女を見ていると、胸が締め付けられそうになる。今晩くらいは、番犬になってやってもいいぜ。それを伝えるすべがないことが、今のイギーにとってはたまらなく切なかった。犬として、男として。彼が此処にいる理由は、事のほか単純だった。




2011.09.05
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