sister
 冷たい石段の上で、四肢を投げ出し、倒れている女がひとり。その首すじには赤々とした吸血の痕がある。目を見開き、恍惚の表情を浮かべて、彼女は死んでいた。それを髪の長い男が無表情に見下ろしている。
 ガオン、と獣の唸り声のような音が聞こえて、女は消えた。私はそれをただぼんやりと見つめていた。
 この男―――ヴァニラ・アイスの能力を見るのは、はじめてではない。別段驚くこともなく、その一連の顛末を、ほとんどただの景色として、私の脳は認識した。
 スタンド使いではない私には、それはただ、女が一瞬のうちに消えたようにしか見えないが、実際には獣のような姿をした彼のスタンド、その大きな口に呑み込まれて、亜空間へと葬り去られているらしい。

「そろそろ夜が明ける」

 私の方を見ずに、ヴァニラが言った。そこには、さっさと部屋へ戻ったらどうだ、という意味合いが含まれている。
 ヴァニラは私のことが嫌いだ。しかしそれも、無理もないことだ。彼が狂信的に崇拝している主人のことを、私が嫌っているからだ。そして私はこの男のことを嫌いでも好きでもなかった。

「まだ、此処にいてもいい?」

 溜息が吐き出される。れっきとした拒絶。私は両手を握りしめた。

「お願い。此処に、いさせて。マライアが…帰って来るまで」
「…もう、夜明けだ。じきに終わるだろう」

 そう言ってヴァニラは少し離れた場所に転がっていた女の死体――ホル・ホース曰くの『DIOの吸いカス』――をまた消した。ヒト一人の存在を根本から抹消しているというのに、ヴァニラの行っているそれはもはや、ただの作業でしかなかった。

 この館の地下にのびている、DIOの餌場。
 此処は常に薄暗く、じめじめしていて、人の愛と欲が相まってとても悩ましい。私はこの場所が好きだった。悲劇に憑りつかれたような鬱々しいかんじが実に心地よい。

 DIOは毎夜、違う女を抱いている。餌となる女と交わることもあれば、マライアやミドラーを抱くときもある。
 一晩限りの女《エサ》と違って、スタンド使いであり、DIOに絶対の忠誠を誓った彼女たちが殺されることはない。今日はマライアの番だった。

 邪悪のカリスマ、その残虐性のままに振る舞っているDIOだが、ときに人道的というか、ふとしたときに見せる人間臭さがある。
 その証拠として、DIOは私を殺さない。私が愛しているのはDIOではなくマライアで、そして私は紛れもなくマライアの所有物だ。DIOの物ではない。だからDIOは私に手を出さない。
 自分に溺れきっている有能な部下を、盲目的に慕う女。それを黙ってそばに置いてやるくらいの慈悲は持ち合わせているらしい。寛大、と言い換えてもいい。
 そんなDIOに、このヴァニラ・アイスをはじめ、マライアもまたすっかり陶酔しきっているようだった。


 石畳の上で膝を抱き、私はヴァニラを見上げた。ヴァニラは手についた女の血をふき取っていた。

「…部屋には戻りたくない」マライアがいないから。
 ヴァニラがこちらを見る。
「いつものように、DIO様の部屋の前で待っていたらどうだ」
「………もう、やめたの」

 今まで、マライアがDIOの夜伽に興じているとき、私はいつも決まって、DIOの部屋の前で、行為が終わるのをじっと待っていた。そのうちマライアが、終わったわよ、と、私を迎えに来て、一緒に部屋まで帰るのだ。
 私の元に、マライアが帰って来てくれるのなら、私はいつまでも、たとえ夜が明けても、待っていられた。彼女のことを信じていられた。

 だけどいつしかマライアはDIOの部屋から帰って来なくなった。
 何日も何日も、マライアはDIOの部屋に入り浸り、セックスに明け暮れるようになってしまった。稀に、ミドラーを交えて遊んでいるときもある。
 私はそれが悲しかった。マライアは私を一人きりにすることなど少しも苦ではないのだ。DIOのそばにいられるのなら、私のことなどどうだっていいのだ。わかってはいたが、身を貫く現実に気が狂いそうになる。
 私はこんなに苦しんでいるのに。私はこんなに寂しいのに。いっそのこと、マライアの盲信するDIOを、私も同じように愛せたらいいと思ったけれど、無理だった。私にはマライアしかいないのだ。

 数日、もしくは一週間ほど経ったころに、マライアはふらりと帰って来る。私はそれを大人しく待つしかない。けれど一人は嫌だ。マライアがDIOと愛し合っている姿ばかりを想像してしまうから。

「もう少しだけ、ここにいさせて。まだ、“仕事”、残っているでしょう」

 あちこちに散らばっている、世にも美しい“吸いカス”を、ちら、と目で追えば、ヴァニラはもう、それ以上、なにも言わなかった。
 しかし、それから程なくして、ヴァニラの纏う空気がぴんと鋭いものに変わる。隊列を組む兵士のように、姿勢を正し、かと思えば、バッと髪をなびかせて跪く。

「DIO様」
「珍しい組み合わせだな」

 ぬう、と暗闇の羽衣を纏って、眩むような黄金が現れる。闇によく映える金の髪。私と同じ色をしている紅い唇。
 私は質問に答えず、彼が侍らしていたはずの褐色の女を探した。彼女の姿はどこにもなかった。

「…マライアはどうしたの」
「疲れが溜まっていたようでな。私の部屋で眠っている」

 柔らかな金髪をかき上げながら、DIOが一歩一歩、近づいてくる。
 この館に来たばかりのころは、この、DIOという男に見つめられただけで、恐怖に脚がすくみ、吐き気すら覚えたものだが、今ではもうすっかり心は麻痺していて、彼のことを、ただ、憎い、としか思えなかった。

「マライアを残して、あんた、此処に何しに来たのよ」

 ありったけの憎悪を込めて、DIOを睨みつけると、「キサマッ」当の本人ではなくヴァニラの方が激昂した。

「キサマ、DIO様に向かってなんという無礼な態度ッ」
「かまわん。ヴァニラ」

 握り拳をつくるヴァニラを、DIOが手をかざして制止する。
「ふん…」その、まるで、子どもが地団太を踏むのを面白がっているような、余裕のある態度が気に入らない。

「ユウリよ。主人が自分の館を無意味にウロついていてはいけないか?」
「………」
「ああ、無意味、というのはウソだな」DIOの右手が、私の両頬を鷲掴みにする。「美味そうな血の匂いがしたのでな」
「………ッ」

 長い爪が食い込んで痛い。鼻先が、ふれ合う。DIOが舌なめずりをする。逃げ出したいのに、動けない。
 痛みに顔をしかめていると、DIOは急に、ふ、と微笑んで、手を離した。

「冗談だ」

 そのままぺろりと唇を舐められる。
「サイッテーの、冗談ね」湿った唇を手の甲で拭いながら、けれどこれもマライアにふれた部位だと思うと、途端に不快なものでなくなってしまう。
 マライアはこの唇に、この瞳に、何を思い、何を重ねたのだろう。何を夢見たのだろう。
 マライアはそういえば、DIOの子を孕みたいと言っていた。私はそれを否定も賛成もしなかったが、マライアとDIOの遺伝子を継ぐ子はさぞ美しいのだろうと妄想を廻らせたのだった。


「お前の殺気は心地いいな」

 DIOはまたからかうように、首筋に牙を突き立てる。微々たる刺激だ。痛くはない。痛くはないが、けれどこの牙が、この唇が、この瞳が、つい先ほどまでマライアを蹂躙していたのだと思うと、ひどく、身体が疼いた。それは恍惚にも似ている。
 DIOは、私の首筋、ちょうど静脈のあたりを牙でなぞり、目を細めた。

「見れば見るほど、似ているな」
 その黒い髪も、青い瞳も。唇は少し赤すぎるか。
「お前を見ていると、懐かしい男を思い出す」

 DIOは唐突に、そんなことを言った。
 何のことだろう。私は首を傾げた。

「誰のこと?」
「さあな。憎くて愛しい、私だけの男だ」

 DIOが誰かの名前を呟くが、私は、ほとんど吐息のようなそれを聞き取ることはできなかった。
 ただ、マライアが私の唇にDIOを重ね、私がDIOにマライアを重ね、そしてDIOが私に、誰か違う男を重ねているのだと思うと、この、私たちの関係に、どこか狂気めいたものを感じる。
 真実は、どこにあるのだろう。レプリカの海。百年間眠りつづけていたこの男は何を思うのだろう。

(ジョナサンに良く似た、…脆弱で、精神の狂いかけた女…か)

「…フフ。面白い」

 DIOに、ゆっくりと、壁際に追い詰められる。うすい布越し、背中に、ひた、と感じる、冷たい石壁。
 閉じた脚のあいだに、DIOの膝が割り入ってくる。両腕は、壁に押し付けられるように拘束されたが、抵抗せず大人しくしていると、すぐに解放された。

 DIOが、私の体じゅうを撫でまわす。自分で言うのも何だが、私の体は、マライアのような凹凸もなく、薄っぺらでまったく美しくなく、愛でてもちっとも楽しくないと思う。
 DIOが後ろ手で何か合図をすると、私たちの行為の始まりを呆然と見つめていたヴァニラが、すっと立ち上がって、去っていった。
 去り際、彼は恨めしげに私を睨みつけたが、彼に背を向けていたDIOは気づかなかった。

 DIOは、私の胸の谷間に鼻先をうずめ、舌を這わせた。

「拒まないのだな」

 DIOの指が顎を伝って、胸元に辿りつく。

「拒む理由がないわ」

 宝石のような、赤い、目。この瞳がマライアを狂わせ、マライアを犯し、私からマライアを奪ったのだ。

「あんたのことは、嫌いよ。私はマライアと同じ男を共有したいだけ」

 そう言って、黄金の髪をかき撫ぜると、DIOは一瞬、ぽかんとしていたが、直後、くぐもった笑い声をもらした。

「狂っているな」
「なんとでも」

 だから、早く。マライアを抱いたその腕で、私を溶かして。



2012.07.30
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