悪魔失格
 殺せなかった。

『ディアボロ…』

 彼女がその名を口にしたとき、ディアボロの中で何かが弾けた。
 ドッピオとの行為のさなか、朦朧とした瞳で、けれどはっきりと、ユウリはその名を呼んだ。彼女は、ドッピオの意識の底に陰伏するディアボロを見つけ出したのだ。殺すしかないと思った。けれどあの瞬間、例えようのない殺意とともに、確かに、黒く染まった底なし沼から、光が差し込み、すくい上げられたような気がした。

 自分がドッピオで、ドッピオが自分であることを気づかれた以上、彼女を生かしておくことはできない。何者であっても、パッショーネに君臨する帝王、その正体を知ることは許されない。

 ディアボロはユウリの首に手を掛けた。

「ディアボロ、…」

 苦しげに、途切れ途切れ、息を吐く。もうじきそれもできなくなる。この手にあとすこし力をこめれば、すべてが終わる。自分は今まで通り、孤高を守り抜くことができる。こんな、どこにでもいるような、精神異常者ギリギリの女に、帝王の座を脅かされてはならない。

 指先に力をこめる。ま新しい鬱血の痕や、自身のものである手形の紫をなぞり、そして上書きするように。

「ディアボロ、…あ、…ッ」

 ユウリの喉が、ひゅう、と掠れた音を立てる。
 妙だった。渾身の力をこめて首を絞めているはずなのに、ユウリは死ぬどころか、顔色さえほとんど変わっていない。
 手の中がじっとりと汗ばむ。おかしい、と思って視線を落とすと、細い首にあてがった両手はわずかにふるえていた。

 大人しく組み敷かれ、ディアボロを見上げてくるユウリの目には、こんな状況であるにも関わらず、悲しみだとか、ディアボロに対する憎しみは滲んでいない。諦めともまた違う。
―――それは愛だった。彼女は優しい目をしていた。子供のわがままを許すような、「アナタが望むのなら、それでもいい」とでも言うような―――倒錯した、けれど一途な、愛情。

 思えば、ディアボロを見つめるユウリの目はいつも温かだだった。出会った当初こそ怯えていたが、一度抱いてしまえば、あとはもう従順なものだった。
 いつだったか、彼女は行為のあと、ディアボロを抱きしめながら、言った。

「寂しいのね。可愛い人。一人になりたいのに、誰かを求めずにはいられない、可哀想で、とても、不器用な人」

 絞り出すような、切ない声色。

「私がそばにいてあげる。私がアナタとドッピオを守るから」

 その言葉は、ディアボロの心の中の、弱い部分に囁きかけるようだった。今までに感じたことのない、柔らかで温かい響きだった。
 けれどディアボロはそれを胸の奥にしまい込んだ。閉じ込めておくべきだと思った。
 そして、同時に、この女にならドッピオを預けられると思った。心身ともに幼いドッピオには、母親や恋人の、無償の愛が必要だったのだ。決して自分自身にではなく。ディアボロは、自分にそう言い聞かせてきた。
 自分にとって、この女はただの性欲処理の道具でしかない。そこに愛だのなんだの、甘っちょろい感情は必要ないのだ。

 けれど疑問は残る。なぜ自分はこの女を殺せないのかと。

「…ディア、ボロ」
「その名を呼ぶなッ」
「きゃ…」

 ユウリの頬を平手で打つ。みるみるうちに赤く腫れあがっていく肌と、痛みに涙をたたえる瞳。
 その姿に甚く興奮を覚えるが、そのときばかりは、なぜだか、体の中心のあたりがひどく傷んだ。深く、胸を抉られるようだった。

(―――まさか)

 体を貫く、ある思考。

(私は、この女のことを―――)

 さあ、と血の気がひき、ディアボロは首元から手をはなした。
 自分がこの女のことを愛しているかもしれないという、予期せぬ事実に眩暈を覚える。ほとんどコンピュータのバグに近い、けれどどこかで決定していたような、絡み合う、二人の可能性。

 首元の圧迫感が消え、何度も深呼吸するユウリ。その痛々しく腫れあがった頬に、ディアボロはそっと手をすべらせた。

「ディアボロ…?」

 いつになく優しいその手つきに、ユウリは困惑したような視線を向ける。じんじんと熱っぽい肌をなぜる、冷たい手のひらが気持ちいい。

「…お前は」

 動揺するユウリの頭に、低く、祈るような声が響く。

「お前は、…私を愛していると言ったな」はら、とこぼれる紅い髪。「………それは、私が、ドッピオだからか」

 今のディアボロは、ユウリの目には、ひどく弱々しく映っていた。まるで救いを求めるような、美しい瞳。「…私は…」ユウリは素直に、思っていることを口にした。

「私はアナタもドッピオも、…同じように、愛しているわ。たとえ違う出会い方をしていたとしても、私はきっとあなたを好きになったと思う」

 ディアボロは動けなかった。彼女の言葉が、まるで心地よい音楽のように、体じゅうに流れ込んできて、脳髄までもを痺れさせる。

「ユウリ…、私は…」

 歯切れの悪いディアボロの言葉を、ユウリはじっと待っていた。
 あの優しいドッピオが、異常なまでの加虐性をもつディアボロと同一人物であった――それはユウリの心にいささかの波紋を生んだが、今まで、二人に対して感じていた愛おしさを裏付ける形となり、ユウリは同時に納得もしていた。

 ディアボロは強く、美しいが、同時に果てのない孤独を抱えている。ユウリは、ドッピオの所属する組織のボスはディアボロなのだと確信する。頂点とは常に孤独で絶対的なものだ。
 自分を殴ることで、なじることで、ディアボロがその寂しさを紛らわせられるのなら、それでよかった。彼のそういう弱い部分が、ユウリはたまらなく愛しかった。ただ、ひとつだけわがままを言えるのなら、少しでいいから、優しくしてほしい。

「ユウリ」

 ディアボロの手のひらが、ユウリの頬を包み込む。

「私はお前を幸せにはできない」長い睫毛が数回、瞬く。「お前を傷つけることはできても、私は、お前の喜ぶことなど、ひとつもできない。…わからないのだ」

 ユウリは、少しふるえた大きな手のひらに、自身のそれを重ねた。
 温かい、と、ディアボロは思った。彼女がこんなにも温かく、しっとりと良い香りで、壊れそうなほど柔らかいことを、ディアボロはこのとき、はじめて知った。おそらくドッピオは、もうずいぶんと昔から、知っていたのだろう。
 自分は、何一つ知らなかった。ユウリの脇の下にほくろがあることも、たどたどしい笑顔が可愛いことも。

「ディアボロがそうしたいなら、いいの…」子どもをあやすように、笑う。それから、少し考えて、でも、とユウリは言う。

「欲張ってもいいなら、少しだけ、ギュッとして」

 そうしてくれるだけで、私は幸せになれる。
 言い終わる前に、ディアボロはその腕でユウリを掻き抱いた。ほとんど衝動的な行動だった。
 腕の中でユウリが身じろぐ。ディアボロの、鮮やかな色の髪が肌をそめ、くすぐったそうに、ユウリは吐息を漏らした。

「幸せか?」
「…ええ、とても」涙が出るくらい。
「私もだ」

 このまま壊してしまいたいくらい、切ない。それが愛であることを、ディアボロは初めて知った。




2012.07.23
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