07
 それからの露伴は凄かった。
 何日も何日も、寝る間も惜しんで、デッサンに没頭した。メラメラと、内に湧き上がる炎はとどまるところを知らず、露伴はひたすらペンを動かし続けた。

 ユウリには、不用意に仕事部屋に近づくなと言ってある。彼女が露伴の仕事を邪魔しに来ることはない。

 ほんのわずかな睡眠と、栄養補給程度の食事と、トイレと、シャワー。それ以外はほとんど仕事机に齧りきりだった。もちろんそれは、ユウリの素顔を垣間見たあの日を境にして、だ。
 それほどに衝撃的な光景だった。地味でダサくて、華やかさのカケラもなかったユウリが、一瞬にして、あんなにも艶めかしい女性へと変わってしまった。それは露伴の心に新たな風を巻き起こした。
 彼女を描きたくて描きたくて、仕方がない。
 あの日の鮮烈な記憶を頼りに、露伴はただひたすらに、絵を描き続けた。

 ちなみに、漫画を描くこと以外に、彼が何をしているのかというと、

「や…やめてくださいッ!」
「待てよッ!どうして逃げるんだ!?オイ!!」
「きゃあああッ、や、やめてください〜〜っ!」

―――露伴はあの日から、ユウリの眼鏡を外そうと躍起になっていた。
 昼夜問わず、場所も顧みず、露伴は、隙あらばユウリの眼鏡を狙って、彼女に奇襲を掛けていた。
 今はキッチンで、お好み焼きの生地をかき回していたユウリをうしろから羽交い絞めにするような形で、眼鏡に手を掛けている。
 言い方を変えれば、うしろから抱きしめている、というふうにも言えなくはないが、露伴的にもユウリ的にも、これはやはり、どう考えても、羽交い絞め、の方が正しいだろう。

「ろッ、露伴先生、離してッ!」
「どうしてだよ!?眼鏡を外すくらい別に良いだろう!?」

 露伴はユウリの手首をがっちりと掴んで離さない。ユウリは今にも泣きだしそうな顔で、必死に身をよじっている。

(もう、やだぁ…!)

 どうにかなってしまいそうだった。
 露伴の息が、露伴の指が、露伴の声が。
 抵抗すればするほど、露伴の存在を近くに感じる。
 ユウリにしてみれば、先日の、あの、脚立から落下した一件の熱もまだ冷めやらぬというのに、そんな状態で、こうも密着されては頭がおかしくなりそうだった。
 なぜかあの一件があって以来、露伴はしきりに眼鏡を外すよう強要してくるが、絶対に嫌だった。ただでさえコンプレックスを持っている自分の素顔――それを露伴の前に晒すだなんて言語道断だ。やっと、舐めまわすように自分の顔を観察してくることがなくなったというのに、それがさらにエスカレートしてしまっては意味がない。

「なァ、いい加減諦めたらどうだ!?」華奢な両手首を掴みながら、露伴は言う。「この僕がこれだけ頼んでいるっていうのに、キミはそれが聞けないッて言うのか!!」
「ええそうです!!どうせ眼鏡外したって、私のことブスだとか言って笑うクセにッ!」

 半ばヤケ気味にユウリが手を振り上げると、「うッ」露伴はバランスを崩してよろめいた。そのすきにユウリは露伴の腕から抜け出し、タタタッとスリッパの音を引きずって駆けていく。

「おい、待てッ!」

 待てと言われて待つ編集者はいない。ユウリは真っ赤になった顔を両手で覆い、一直線に廊下へ走っていった。

「ったく…」

 眼鏡のひとつやふたつで、なんであんなに嫌がるンだか。
 それに、“ブスだとか言って笑うクセに”って何のコトだ?

(とにかく、作戦を考えなきゃァな―――)

 かき混ぜ途中で放置されたお好み焼きの生地を、冷蔵庫にしまい、露伴は溜息まじりに、仕事部屋へと向かうのだった。









「はぁ、はぁ…」

 室内でまさか全力疾走をする羽目になるなんて。
 岸辺邸は一般家庭にしては広く、また、運動らしい運動など滅多にしないインドア女子にとっては、キッチンから走ってきただけでかなり体力を消耗する。

 しかし、何も考えずに逃げ出してきたが、このまま家事を放棄するというのはマズイ。この世はしょせん縦社会。ユウリはすごすごと来た廊下を引き返した。

 と、その途中で、露伴の仕事部屋のドアが少し、あいていることに気づく。べつに見るつもりはなかったのだが、通りがかった折に、そのすき間から、床が見えなくなるほど散らかった部屋の様子が見えた。

(えっ…)

 あの綺麗だった仕事部屋が、どうして。
 それに散らかっているのはスケッチブックの切れ端のようだった。
 そこまで見て、ふと、露伴にペン先の予備を買っておくよう頼まれていたことを思い出し、

(ペンの種類だけ、確認しておこう…)

 と、仕事部屋のドアを押した。部屋の散らかり具合が気にならなかった、と言えばウソになる。
 部屋に足を一歩踏み入れてみて、改めて思うが、室内の景色は圧巻だった。
 繊細なタッチの露伴の絵があちこちに散らばっていて、そこはまるで簡単な美術館のよう。絵は全て、同じ女性が描かれている。
 ユウリは床に落ちているうちの一枚を拾いあげ、まじまじと眺めた。
 誰だろう?露伴の画力もさることながら、端正な顔立ちをした、美しい女性だ。不思議と、岸辺露伴ともあろう人が、完全にデフォルメしきれていないようにも感じる。きっと人間のモデルがいるのだろうな、とユウリは何となく思った。

「………」

 ユウリは、自身の中に根を張る感情を、こらえきれずに、胸元をぎゅっとおさえた。手を当てた部分が、しくしく痛んで、脚の震えに変わる。

 岸辺露伴が、自分ではない他の女性をモデルに、こんなにも美しい絵を描いている―――。
 そう考えただけで、ユウリは、全身が総毛立つ。悲しいような、切ないような、泣きたくなるような…そういった感情に心ごと支配されてしまう。
 こんなことは初めてだった。露伴の顔を思い浮かべただけで、恥ずかしいような、くすぐったいような熱い感情がわき上がってきて、いてもたってもいられなくなる。

(露伴先生…っ)

 ユウリは気づく。
 私、露伴先生のこと、好きなんだ。
 絵の中の女の人に嫉妬してしまうくらい、露伴先生のことが好きなんだ―――。

 どうしようもなかった。ただじっと佇んでいることさえ困難だった。ユウリは、紙の中で静かに微笑む女性を抱きしめて、少し泣いた。




2012.07.22
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