06
 妙な視線を感じて、ふり返る。

「………」
「………」
「…あの、露伴先生?」

 おそるおそる、見つめ返すが、露伴は視線を逸らさない。
 ちなみに今は昼食の準備中。今日の昼は、和食がいいと露伴が言ったので、茶そばにした。
 しばらくのあいだ、露伴と見つめ合っていたが、そばのゆで具合が気になり、ユウリは鍋に視線を戻した。
 やがて背後で溜め息の吐き出される音がして、露伴の気配が遠ざかっていく。
 ユウリはホッと胸をなで下ろした。

(あー、緊張した…)

 露伴がこういった行動に出ることは、なにも今回が初めてではない。むしろ近ごろではよくあることだ。仗助が現れるようになってからは特に顕著だ。
 露伴は、事ある毎に――というよりヒマさえあれば――ユウリの顔を覗き込み、そのままジィッと観察し続ける。
 ユウリが気づいても気づかなくても、さらには目を逸らしても、かまわずに、それを続ける。
 数十秒、あるいは数分、それこそ穴があくほど、ひたすらユウリを見つめ続け、露伴はやがて溜息とともに視線を外す。
 それがどういった意味の溜息なのか、ユウリにはわからない。
 はじめて彼と会った日、「期待外れだ」と言われたときとは少し違う。
 このブス女、と馬鹿にしているような顏でもない。しいて言うなら、まるで、なにか探し物を見つけようとしているような――そう、好奇心とは違う純粋な、なにか。きっと、露伴自身にもよくわかっていないのではないかと思う。

(でも、ほんと、心臓に悪すぎる…)

 露伴に見つめられている。そう思っただけで、信じられないくらい顔が、いや体中が熱くなり、とても冷静でいられなくなる。今すぐ逃げ出したい。そんな衝動に駆られる。
 露伴が何を思って、こんなコトをしてくるのか、さっぱりわからないが、どうせまた漫画に必要なリアリティだとか、味も見ておこうだとかそんな感じだろう。ユウリにしてみれば不可解すぎる上にいい迷惑だった。

 地味でダサくて、大して可愛くもない自分。それに比べて露伴は顔立ちも整っていて、やることなすこと派手で華がある。
 そんな露伴に、値踏みされるようにじっと観察されるなんて、もともと自分の中にある劣等感に追い打ちをかけられるようだ。
 性格も正反対で、まるで合わせ鏡のような自分たち。
 仗助だけは、自分を美人だと言ってくれるが、ユウリは生まれてこのかた、自分を美人だと思ったことなど一度もない。平凡な顔をした自分なんかより、仗助や露伴の方が遥かに美しい。
 この二人に囲まれているうちに、ユウリの中の、もともと無に等しかった女としての自信が、まるで風に吹かれたチリのようにはらはらと消え去っていく。

「あ」

 鍋が噴きこぼれそうになっていたので、あわてて火をとめた。
 硬さもちょうどよかったので、そのままそばをザルにあける。
 露伴に文句を言われない程度、小奇麗に盛り付けて、薬味とめんつゆと一緒にテーブルへ運ぶ。

 見計らったようにのろのろと露伴が現れ、席についた。麦茶を出し、ユウリは露伴の正面に座った。
 仗助と三人で夕食を囲んで以来、ユウリは、露伴と食事をともにすることが多くなった。今までは、「どうしてキミと一緒にメシなんか食わなきゃあいけないんだ」などと言って、ユウリを拒んでいた露伴だが、最近ではおとなしく食卓についている。
「オイ、このネギ、切れてないぞ」相変わらずお小言は健在だが。

 しかし、ユウリは、そんな些細な変化が嬉しかった。ほんの少しだけだが、露伴に近づけたような気がした。

「午後はデパートまで買い出しに行ってくれ。トーンが足りない。あとで番号を言う」
「え、あ、はい」

 切れていないネギをつゆに入れ、そばと一緒に口へ運ぶ。

「あとは家の窓ふきと、屋根裏の掃除と…あ、そうだ、僕の仕事部屋の電球が切れかかってる」
「え、それくらい、自分で…」

 露伴は大袈裟に肩をすくめてみせる。「キミ、それでも僕の担当か?」

「もし僕が脚立から落ちて手をケガでもしたら、どうするつもりだよ」
「………」
「そんなこともわかっていないようじゃ、編集者としてまだまだだな」

 どんな理屈だ、とも思ったが、目の前にいるのは岸辺露伴だ。彼にはどんな常識も通用しない。ユウリはそれ以上の反論はあきらめた。

 二人でそばを平らげ、露伴は仕事部屋に、ユウリは洗い物を片付けにキッチンに立った。

(部屋の窓ふきと、屋根裏の掃除は明日でもいいかな。買い物は早めに済ませないと…。あ、でもその前に、電球か)

 今はまだ明るいからいいが、夜になり、電気がチカチカと点滅していたら気が散るだろう。日が落ちるまでまだ時間はあるが、どうせ替えるなら早めのほうがいい。

 洗い物を終え、ユウリはエプロンをはずすと、足早に仕事部屋へと向かった。



「相変わらず、キレーにしてますね」

 露伴の仕事部屋を見まわしながら、言う。
 彼の仕事部屋は、漫画家のそれとは思えないほど常に片付いている。もちろんユウリが片付けているわけではない。
 露伴は、家事という家事をユウリに押し付けても、この部屋の掃除だけはさせなかった。
「ヘタにいじくられて、仕事部屋を荒らされたらたまらないねッ」とのことだ。ユウリだってそんな部屋の掃除なんて願い下げだ。
 しかし、そのわりに電球の交換はさせるんだな…とは思ったが、まあ、彼の理不尽さには慣れている。

 露伴はユウリが入って来ても気にせず漫画を描き続けている。
 ユウリは「先生。電気、つけますね」と一声かけて、ドアのすぐそばにあるスイッチを押した。天井のライトがぱあ、と色めく。いっせいに点灯したライトの中で、一ヵ所、暗いままの部分がある。あそこか。

 ユウリは物置から拝借した、二段の小さな脚立をライトの下に置き、その一番上までのぼった。

 ライトはテッポウユリの花を下に向けたような形をしており、ユウリはその中に手を突っ込んだ。
 電球の交換など、今までの人生で何度も経験している。初めて目にするライトでも、そう手間取ることはない。

 花びらの中で、役目を終えた電球をくるくるとまわし、取り去る。
 新品の電球も、同じようにしてはめる。そんな単純な作業の最中、ふいに、また、あの視線を感じた。

(う…)

 ペンを止め、露伴がこちらを見上げている。
 ユウリの中に、何かを見出そうとしているような、険しい視線。まばたきもせずに、露伴はユウリを凝視している。

(や…やだ、もう…)

 恥ずかしくて、手がじっとりと汗ばんだ。早く終わらせなければ。そう思えば思うほど、手元は焦燥にもてあそばれ、うまくいかない。
 手の中で、小さな電球がつるんとすべった。それをユウリの手が追いかける。しかし、それがいけなかった。平均台のような不安定な足場。その瞬間、ユウリの体は大きくバランスをくずし、

「きゃ…」

 空中で掴めるものなどなにもなく、ユウリは前のめりに落下した。「ッ―――」露伴はとっさに駆け出していた。
 ドサッ、と渇いた音がして、露伴の背中に衝撃が走る。
 胸元には、ユウリの頭。露伴は、ユウリに押し倒されるような形で、なんとかユウリの体を受け止めたのだった。

「ったく、ドジなヤツだな」おかげで背中が痛い。
「せッ、先生、すみませ…」

 あわててユウリは顔を上げる。
「早くどけよ」と言おうとして、露伴は言葉を失った。

(―――これは―――)

 目の前にあったのは、露伴の知る、野暮ったい女の顏ではなかった。
 いつもユウリの顔をぼかしていた黒ぶちの眼鏡は、よろめいた際にはずれてしまったのだろう。それを欠いたユウリは、化粧もさほど施されていないというのに、この上もなく、美しい顔をしていた。

 大きな瞳、切れ長の二重、眉も整えられていて、鼻筋もすっと通っている。脚立から落下した際に乱れた、色の濃い髪のたばが、頬や唇に重なっているのがなんとも色っぽい。

 これが本来のユウリ―――仗助がユウリをしきりに美人だと言っていた理由、それを裏付けるために今まで観察してきた――そのすべてのピースが埋まった気がした。同時に自身の胸に弾丸をズンと撃ち込まれたかのような、衝撃。

「ろ、露伴先生、ゴメンなさい、眼鏡がなくって、今、何も見えないんです…」

「一緒に探してもらえませんか?」申し訳なさそうに露伴に跨ったまま、ユウリは手を床にサッサッとすべらせて眼鏡を探している。
 見つけてしまわなければいいのに。意地悪でもなんでもなく、露伴の本能がそう叫ぶ。

 よほど、もとの視力が悪いのだろう。鼻先がくっつくほど、露伴が顔を近づけても、ユウリはこちらを見ようともせず、眼鏡を探している。もしかしたら、露伴自身に跨っていることすら、気づいていないのかもしれない。これがいつもの彼女なら、きっと大声を上げて走り去っていったことだろう。

「あ!あった」

 露伴の背後に手をのばし、ユウリはうれしそうに言った。それから急いで眼鏡をかける。もう、いつもの彼女に戻っていた。

 眼鏡をかけ、クリアになったユウリの視界が、ほとんどゼロ距離にある露伴の顔を捉える。

「〜〜〜ッ!?」

 声にならない声を上げ、驚いた猫のような動きで、ユウリは露伴から飛びのいた。

「ろッ、ろろ露伴先生ッ!?ずっと下にいたんですかッ!?」
「そうだ」
「うッ、うそッ、あああ、ご、ごめんなさい!!ごめんなさい!!」

 どうりで痛くないと思った!!ごめんなさいッ!!
 顔を真っ赤にして、ユウリは頭を下げ続ける。若干、呂律がまわっていなかった。

―――露伴先生を下敷きにして、おまけに至近距離で素顔を見られた。

 死にたい。どうせあとで重かっただとかもっと痩せろだとかブスだとか文句を言われるのだ。でもそれ以上に彼に対する申し訳なさが先立って、間抜けで要領の悪い自分に嫌気がさした。

「わッ私、買い物、行ってきますッ!ご、ごめんなさいっ」

 耐えきれずにユウリは逃げ出した。露伴が何か言いたげに手をのばしたが、ユウリには届かなかった。

 露伴はといえば、
(なんだ、アイツ―――)
 今さら加速しはじめた鼓動を抑えるすべがわからず、胸にそっと手を当てた。ドクドクと信じられない速さで心臓が脈動していた。目蓋の奥には、ユウリの素顔が焼きついたままだった。




2012.07.21
[ top ]

×
人気急上昇中のBL小説
BL小説 BLove
- ナノ -