08
 露伴は苛立っていた。
 美しい女――本人ですら気づいていないが、モデルはユウリである――のデッサンで、スケッチブックを何冊も使いきり、けれど未だ、自身で納得できるものが一枚も描けていない、この現状。自身をかき立てる欲望はとどまるところを知らず、欲求不満のような状態だった。
 描きたいものを描けない、自分の描いたものに納得がいかない、いわゆる、スランプ。こんなことは生まれて初めてだった。

(クソッ…それもこれも全部…)
―――アイツのせいだ。

 女の横顔の描かれた、スケッチブックの一ページ。
 それを乱暴に引きちぎり、クシャクシャとゴミのようにまるめて、露伴は床に放り投げた。
 床には、同じようにして投げ捨てられた絵が何枚も転がっている。その、部屋の散乱具合にも、自身に初めて訪れたスランプにも、露伴は苛立ちを募らせる。

 原因は、わかっている。自分がこんなに必死に頼み込んでいるというのに、頑なに素顔を晒すことを拒むユウリのせいだ。さらには、近ごろ、仗助の来訪数が増えたことも、原因のひとつであると思われた。

 露伴はイライラしながら、飲み物を取りにキッチンへと向かった。
 キッチンと繋がったリビングの窓からは、庭の風景がよく見える。庭ではユウリが草むしりに精を出していた。
 丸まった小さな背が、ちまちまと動く。露伴は、冷蔵庫から出したペットボトルを握りつぶしそうになる。なぜだか、彼女の一挙一動が、腹立たしいのだ。しゃがんだ後姿をどついて転ばしてやりたくなる。

 そもそもなぜ彼女は、こんな理不尽な目に遭って、反抗もせずに大人しく従っているのだろうか。家事全般に庭の手入れや車のメンテナンスなど、露伴がユウリに押し付けていることはほとんど、明らかに、彼女の担当業務の外である。それなのに、彼女はただただ従順で、露伴の言いなりになっている。まるで自分の意志を持たないような彼女が憎たらしい。
 思えば、ユウリが担当についてから、こんなふうに苛立つことが多くなった。

 露伴に背を向ける形で、雑草をむしっていたユウリが、ぱっと顔を上げたので、露伴もそちらに視線を向けた。
 そこには、薄っぺらな学生鞄をぶら下げた偉丈夫が立っており、露伴はつい、舌打ちした。

(また来やがった、仗助のヤツ…)

 露伴を苛む胸の錘が、また増した。









 名前も知らない、手元の雑草に影が落ち、ユウリはふと顔を上げた。

「な〜にやってンスかァ」
「仗助くん」

 しゃがんだ姿勢から、仗助の大きな体を見上げるのは少々苦しい。それに気づいてか、仗助はユウリと同じように、よいしょ、と屈みこんだ。

「露伴のヤツ、ユウリさんにこんなコトまでやらせてんスか?」

 ひどいヤツっスね〜、と冗談めかして言う仗助に、ユウリは、「そんなこと…」と、首をふる。断ることができない自分も悪いのだと、ユウリはわかっているのだ。

「仗助くん、上がってく? お茶でも出そうか」
「いや、今日はバイク借りに来ただけなんで」
「そっか」

 仗助は、露伴のバイクをよく――もちろん無断で――借りている。そのことに対して、露伴はしょっちゅう文句を言っているが、何を言っても無駄だとわかっているのか、結局仗助のいいようにされている。こんなふうに、露伴と対等の立場で話せる仗助が、ユウリは羨ましかった。

 初夏とはいえ正午間近の日差しはしたたかで、日焼け予防に厚着した体に堪える。つう、と眉間から、鼻筋の方に汗が落ち、ユウリは眼鏡をずらして、ハンドタオルでふいた。
 仗助が、あっ、と声を上げる。

「ユウリさん、やっぱ眼鏡取ると、イイっスね」
「えっ!?」

 露伴のおかげで、眼鏡、というワードに、近ごろ敏感になりすぎているユウリは、ドキッとして、咄嗟に眼鏡をかけ直した。
 目を逸らそうとするユウリに、仗助は詰め寄った。

「絶対、眼鏡取った方がイイっスよ! せっかくそんなに綺麗なのに、勿体ないっつーか…」
「き、綺麗!? 私が!?」
「そうッスよ! 今まで、言われたことないんスか?」

 ない。あるわけがない。それどころかバカにされた記憶しかユウリにはない。それを伝えると、仗助は、

「え〜、おっかしいなァ。周りの奴ら、見る目ないっスね」

 そう言って頭をかいた。綺麗だとか美人だとか、言われ慣れていないので、ユウリは仗助の言葉が嬉しくもあり、また、くすぐったくもあった。

「なァ、ユウリさん、コンタクト持ってねーの? 今度さ、眼鏡外してきてくださいよ。マジ、露伴もイチコロっスよ」
「ろ、露伴先生が!? そんな、絶対、ありえな…」
「ありえますって!! ね、一回くらい、いいっしょ?」
「う…」

 露伴先生が、私に…?
 まさかそんなこと、あり得ない。 そうは思ってみても、仗助の言葉が嘘だとは、とても思えなかった。
 仗助の言葉には、よくわからないが迫力というか、説得力がある。今まで自分にたいして自信など一切持てなかったが、仗助がそう言うのなら、本当に、眼鏡を外してしまってもいいような気がする。想い人である露伴に素顔を見られるのは死ぬほど恥ずかしいけれど、露伴があれほど眼鏡を外せと詰め寄ってきたのも、万に一つでも自分に興味をもってもらえたのかもしれないと思うと、なんだか胸が華やいだ。

「仗助くん、本当に…? 私、もう少し、自信持ってもいい…?」
「マジっス! 信じてくださいよ!」
「………」

 ユウリは気づけば頷いていた。「よっしゃ!」仗助が嬉しそうにユウリの手を握り、ぶんぶんと振る。
 その後方、ぶ厚い窓ガラスを一枚隔てた向こう側で、

(あの二人、なに話してるンだッ!?)

 露伴が額に青筋を浮かべていることも知らずに。









 翌日のことだった。朝方、ユウリは買ったばかりのコンタクトレンズを装着して、緊張した面持ちで露伴の家に向かっていた。

(露伴先生、びっくりするかな…)

 喜ぶことはないにしろ、露伴の、何らかのリアクションを想像して、ユウリは口元を綻ばせた。
 昨日、一緒にコンタクトを買いに行った際、仗助は、眼鏡を外したユウリに、間違いないッス、と親指を立てた。心なしか仗助は顔を赤くしていたが、裸眼で視力の低下していたユウリはそれに気づかなかった。


 露伴の家に到着する。家の鍵はあいていた。不用心だなと思いつつ、ユウリは玄関で靴を脱ぎ、真っ先にキッチンへと向かった。
 まずは露伴の為に朝食を。キッチンへ通じる、リビングのドアをあけると、露伴がソファで新聞を読んでいた。新聞に隠れて、顏は見えなかった。
 緊張しながら、あの、と声を掛ける。

「ろ、露伴先生、おはようございます…」

「ああ、」露伴は新聞から顔を上げた。「…ユウリ?」
 露伴は一瞬、きょとん、として、けれど次の瞬間には、眉間に深く皺を刻んで、崩れそうになる口元で咳払いをひとつ。

(―――どういう風の吹き回しだッ!?)

 気づかれてはいけない。露伴は、動揺していた。
 いつもと同じ朝だった。いつもと同じ時間に起きて、いつもと同じように新聞を読みながら、ユウリを待っていた。それなのに、ユウリが素顔のまま現れたくらいで、その日常は覆されようとしている。

 あれほど望んだユウリの素顔。幾日かぶりに見た彼女は、やはり、飾らないけれど、均整のとれた美しい顔立ちをしていた。うっすらと涙の膜の張った大きな瞳が、露伴の反応を窺うようにじっと見つめてくる。
 それが妙にじれったく、露伴は、フン、となるべくつまらなそうに鼻をならした。ドクドクと早鐘を打つ心臓があまりにうるさくて、露伴は、ユウリだけでなく自分自身にも苛立った。

「あ、あの、露伴先生…」

 どうですか?とでも言いたげにはにかむ唇。
 露伴がぷいっと顔をそむけると、ユウリはおろおろしながら、「あ、あの…」と続けた。

「仗助くんが、眼鏡外した方が良いって言うから、コンタクトにしてみたんですけど、…へ、ヘン、ですかね?」

(―――あ?)
 仗助?

 露伴は、その名前を聞き逃さなかった。先ほどまでの熱く煩い心悸が嘘のように、露伴のアタマは急激に冷えていく。

「仗助が、何だって?」意図せず声が低くなる。
「え、あの、仗助くんが、眼鏡がない方が良いって、言ったから…その」

 露伴の冷血な無表情に怖気づいたのか、ユウリは口ごもる。しかしそれがかえって露伴の不満を煽った。

(僕があれだけ言ってもダメだったのに、仗助に言われたからってアッサリ外すのかよッ!?)

 露伴の中で、刺々しい何かが膨れ上がっていく。仗助にも、ユウリにも腹が立つ。面白くない。まるで面白くない。その一言に尽きる。

「あ、あの…、やっぱり、ヘン、ですか…?」

 不安そうなユウリの声。それは自分に対する自信のなさのあらわれだ。
 露伴は、粘着質な流し目でユウリを見やり、吐き捨てるように言った。

「興味ないね」

 視界のすみで、ユウリの肩がふるえているのが見えた。




2012.07.25
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