バニティー01
 ユウリが院長を務める病院は、病院というより診療所のような規模である。
 人通りの少ない細い裏路地。ビルとビルのあいだに挟まれた、爪の生え際のささくれのような、五階建ての小さなビル。一見すればただの廃墟にしか見えないようなそれが、ユウリの城だった。
 ナランチャはその外観を目にするたび、もともとは両脇のビルと同じ大きさだったものが、「もっと強く!」とでも言うように、じわじわ圧迫されていったのではないかと想像する。

 古びた煉瓦造りの外装に、植物の蔦が何重にも巻きついている。入り口のドアは、枯れ葉や朽ちた枝、かと思えば青々しい若葉に隠れてあまり目立たない。
 現代にもしも魔女がいるとしたら、おそらくこういう場所を住処にしているだろう。

 ナランチャは、草木に隠れたドアノブをまわし、中へと入った。
 この病院に受付や待合室などというものは存在しない。この場所が混み合う事態などそうそうないし、また、患者とその病状にもよるが、ユウリのスタンド能力にかかれば、ほとんどの場合、待つ必要がないからだ。

 建物に入ってすぐのところに、診察室がある。普段、ユウリはここで物書きをしたり患者と話をしたりする。
 部屋の方から、何やら物音が聞こえてきたので、中をのぞいてみると、書類やぶ厚い医学書の本の並んだ大きな棚の前で、踏み台にのって背伸びをするユウリの後姿が見えた。

「なァ」
「えっ、きゃ…―――」

 声を掛けられ、驚いた拍子に、ユウリはバランスを崩してよろめいた。

「危なッ――」

 倒れる!
 ナランチャは咄嗟に駆け出し、ユウリの体を支えた。
 が、不安定な足場で勢いづいたユウリは足を踏み外し、そのままナランチャを下敷きにする形で二人、倒れ込む。

「わッ…!!」

 ナランチャは尻もちをつき、それでもユウリの体を庇って衝撃に耐えた。

「い、いったぁ…」

 突然のことに、何が何だかわからず、顔を顰めながら、ユウリは打ち所が悪くズキズキと痛む腰をさすった。

「おい、大丈夫かよォ」
「お尻が痛いわ。でも、助けてくれたのね、ナランチャ」

 自身の体を抱きとめているナランチャに、「ありがと」と、ちゅっと軽くキスをする。ナランチャは見る見るうちに頬を赤く染めていく。

「ばッ、バカッ!重てェんだから早くどけよッ」
「まぁ、ひどい。そっちこそ何か用があって来たんじゃあないの?」

 その言葉に、ナランチャは今日わざわざユウリの職場を訪れた理由を思い出し、ポケットからおもむろに一通の手紙を取り出した。

「これッ!」

 びっ、とユウリの眼前に突きつけるも、ユウリは「なにコレ?ナランチャからのラブレター?」と素知らぬ顔である。

「アホかッ!ポルポからオマエに仕事の依頼だよっ。そんくらいわかれよなーッ」

「ふふ、ゴメン、ゴメン」からかうように笑いながら、ユウリは手紙の封を切る。
 相変わらずマイペースで、ナランチャの上から退こうともしないユウリに、ナランチャは「ったく、なんで俺がこんなこと…」と、ぶちぶちと文句をたれている。

 ユウリは基本的に、組織の関係者や彼女を目的とした各界の要人たちを客としているが、稀に組織の幹部たちからの依頼で、患者を紹介される場合もある。
 ほとんどの場合、それは組織と権力者たちとを繋ぐパイプ役――つまり枕営業を強いられることとなるのだが、ユウリは拒絶することなく、それどころかむしろ甘んじて受けているような感があった。

「ポルポの紹介してくれるヒトって、金回り良いのよね」

 呑気にそんなことを言いながら、手紙を広げる。ナランチャは、「いーから早くどけよ」と、ぶすっと顔を顰めたまま、髪をがしがしと掻いている。

「あらっ」

 ユウリの表情が変わる。「?」ナランチャは首を傾げた。
 B5サイズの紙を握りしめ、ユウリは目線だけを紙面にすべらせる。

「もう、そんな季節なのね」
「はあ?何言ってんだよ。いいからどけって…」

 そんなことを言っているうちに、ナランチャの全身に掛かっていた重みが消える。立ち上がったユウリの白衣がはためき、ナランチャの鼻先をくすぐった。

「なー、どうしたんだよ」

 顎に手を当て、何か思惑をめぐらせているユウリに、ナランチャは問う。
 ユウリは手紙とナランチャとを交互に見やり、ふと思いついたかのように、

「ナランチャ。二週間後の今日。空けておいてくれる?」

 と、そばにあった事務椅子に腰かけた。ほどよく肉づいた長い脚が、艶めかしく交差する。

「二週間後?何があるンだよ」
「パーティよ。ポルポが贔屓にしている社長さんの、誕生パーティ」

 ポルポを通して、医者として紹介された際、その人物にいたく気に入られたらしい。

「はあ?そんなモンに、なんで俺が…」

「ナランチャ、これは依頼よ」ユウリの唇が弧を描く。「ボディガードとして付き添って欲しいの」

「報酬ははずむわよ?ブチャラティには私から言っておくから」
「でっ、でもォ…」
「そうと決まったらさっそく準備しないとね。ナランチャ、あなたスーツは持ってる?」

 口を挟むひまも与えず、ユウリは楽しそうに白衣を脱ぎ捨てた。清潔そうな水色のブラウスから谷間がのぞく。

「す、スーツなんて、持ってな…」
「そう!じゃあ買いに行かないとね。私が見立ててあげるわ!」

「さっ。行きましょ」相変わらずの行動力で、ユウリは車のキーを片手に、ナランチャの腕をぐいと引く。

「今日は午後から休診よ」

 ナランチャはもう、何も言えなかった。


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