27(最終話)
 これは『補完』の物語。


 夢を見ていた。ブチャラティがまだ幼いころ、母とともに暮らしていたころの夢だ。それは、過去に一度見たことのある夢だった。

 夢の中で、ブチャラティは病床に臥せっていた。風邪をひいていた。
 体じゅうが焼けるような痛みを伴い、ギシギシと軋み上げる。夢だというのに、その痛みはずいぶんとリアルなものだった。

「大丈夫?」

 ベッドサイドでは、母親が心配そうにこちらを見つめてくる。大丈夫だよ、と母の方を向いたとき、ブチャラティは目を見開いた。
 誰よりも愛した女。母ではなく、ユウリがそこに座っていた。

「ブチャラティ」

 母のように、ブローノ、とは言わない。彼女は優しく微笑みながら、熱に浮かされたブチャラティの手を握った。

「苦しいのね。待っていて。今、枕を取り替えてあげるから」

 そう言って彼女は立ち上がった。氷枕を取りに行くつもりなのだろう。
 ふと、この部屋までもが、ユウリと過ごしたあのマンションのものに変わっていることに気づく。先ほどまでは、子どものころ、両親とともに暮らしていた海辺の家に居たはずだった。

 ふらりと背を向けるユウリ。ブチャラティの目線はそちらに釘付けになる。
 背中の大きく開いたワンピース。思えば、ユウリがこんなふうに、背中を露出するような服を着ていたことは一度もなかった。理由は簡単だ。彼女は、兄の遺作をその身に背負っていたからだ。

「!」

 思わず、声が出そうになる。
 彼女の背に描かれた、小さな蝶が、肌のカンバスから抜け出し、ひらひらとこちらにやって来る。
 目の錯覚かと、一瞬、思った。しかし、次の瞬間には、鈍色の羽をひろげた大鷲が、バサバサと音を立てて、彼女の背から飛び立ってゆくのが見えた。

 それは、まるでユウリの背に翼が生えているかのようで、神々しくもあった。ブチャラティは、一連の沙汰が目の錯覚でないことを知る。
 夢の中の出来事であるのに、錯覚も何もないのだが、そんなことを思わせないほどの生々しさで、鷲はブチャラティの横を通過していった。
 鷲は狭い部屋の中をぐるりと旋回し、やがて窓の外へと消えて行った。
 つい先ほどまで、鷲が羽を広げていたはずの、彼女の背には、まぶしいほどの白い肌が光るだけ。

 熱に侵され、ぼやけた視界が次に捉えたのは、彼女の背中から紙吹雪のように散りゆく牡丹の花びらだった。
 なぜだか、ぞっとした。弁を散らす彼女の背はひどく美しかったが、同時に、無へと還ってゆく彼女の肌を目の当たりにすることがおそろしかった。彼女が彼女でなくなってしまうような気がした。

 しかし、ユウリはといえば、そんな重大な『落し物』に気づくふうもなく、部屋を出て行こうと足を一歩踏み出す。
 ブチャラティは咄嗟に、ベッドから身を乗り出し、ユウリの背へと手をのばした。
 指先はユウリの背をかすめ、日の光を浴びて透き通る手にふれた。そのまま、抱き寄せるように、その華奢な手首を強く引く。

 華奢なようで、骨っぽく、男らしい、ごつごつした手だった。おかしいな、と思っていると、「うわあああ〜!!」眠りをかき消すような悲鳴が聞こえた。

「目が覚めたのかよ、ブチャラティ〜〜ッ!!」
「………な」

 視界いっぱいに広がる、ナランチャのドアップ。
 ブチャラティは、夢から覚めたのだなとぼんやり思った。夢うつつに握りしめたのは、ユウリのそれではなくナランチャの手首だったのだ。
 焼けるような痛みだけが、夢から覚めても消えることなく、ブチャラティの身体を苛んでいた。

「心配したんだぜ、ブチャラティ〜!!」
「うっ!」

 手を握る力を緩めると、ナランチャが泣きそうな顔で飛びついてくる。子どものような体躯の彼にされるがまま、起こそうとした上半身ごと、ブチャラティはベッドに深く沈んでいく。
 ナランチャに飛びつかれるくらい、普段ならどうってことないのだが、今ばかりは事情が違う。ユウリの傷を引き受けたブチャラティの身体は、些細な衝撃でも悲鳴を上げる。

「な…ナランチャ…ッ」

 尋常ではない痛みに小さく呻くと、部屋の壁にもたれ掛かり、腕を組んでいたアバッキオが、「おい、やめろ」と口を挟んだ。

 アバッキオの声で、ブチャラティが大怪我を負っていることを思い出したのか、ナランチャはパッと手を離した。そわそわと落ち着かない様子で、ベッドサイドにあった椅子にちょこんと腰かける。

 呼吸を整えながら、辺りを見まわしてみる。ここはブチャラティも何度か訪れたことのある、組織と提携を結んでいる病院の一室である。ブチャラティは安堵した。組織の息の掛かったこの病院で、こうして真っ当な処置を受けているということは、つまり組織はブチャラティを粛清対象として見なしていないということだ。

(俺たちは、助かった…のか?)

 胸に手を当て、深呼吸を繰り返すブチャラティに、アバッキオが、笑みを張り付けた顔を向ける。

「よォ、気分はどうだ」
「………ああ、悪くねえ」

 アバッキオは静かにベッドサイドに歩み寄り、す、と右手を差し出した。

「命の恩人に、礼は」

 ニッ、と悪戯っぽく笑うアバッキオ。

「…ずいぶんと人相の悪い、命の恩人だな」

 同じように笑い返し、ブチャラティは、自分の命を救った大きな手のひらに、勢いよく、自身のそれを重ねた。握手ではなく、パンッ、と乾いた音を立てて、互いの胸の位置でハイタッチをする。
 今この場で、ありがとう、とは言わない。アバッキオは、人前でそういうことを言われるのが苦手だからだ。

「ユウリはどうしてる」

 病室内にユウリの姿はない。ナランチャが、誰だそりゃ、という顔をする。どうやらアバッキオは、ブチャラティがこんな姿になった直接の原因を彼に教えていないらしい。

「アンタに比べりゃ軽傷だ」

 アバッキオは茶化すように笑った。

「ユウリはもう目を覚ましてる。ったく、大したお姫様だよ。あの女、俺を見るなり、顏真っ青にして逃げ出そうとしやがった」
「そりゃ、ユウリの反応が正しいな」

 笑いを堪え、ブチャラティは唇をクッとゆがめる。

「なァ、会いに行ってこいよ。ずっとアンタのコトを心配してたぜ」

 そう言いながら、くい、と親指をドアの方に向ける。
 ブチャラティは、彼女が気を失う瞬間の、あの安らかな表情を思い浮かべた。







 さすがにギャング組織御用達の闇病院とあって、建物はひと気のない裏路地にひっそりと建っていた。常に日の当たらない陰気な場所だが、五階建てということもあり、屋上はかなり見晴らしが良くなっている。

 ずきずきと痛む体に鞭打って、階段を上り、錆びついたドアを押す。
 空は快晴だった。手をのばせば届くのではないのかと思うほど、蒼穹に浮かんだ雲が近くに見える。

 給水タンクの振動音にまじって、バタバタとはためく白いシーツ。その間に隠れるようにして、ユウリは空を眺めていた。
 患者用の白い肌着に、そこからのぞく白い肌。その頭上に浮かぶ白い雲。白いシーツ。ユウリは風景と同化していた。

 脚の怪我が思いのほか酷かったのだろう、ユウリは車椅子に乗っていた。彼女の座る車椅子の無機質さだけがその場で浮いていた。

「…具合はどうだ」

 声を掛けると、ユウリはハッとした表情でこちらをふり返った。ブチャラティがすぐそばにせまっていることにも気づかず、無心で空を眺めていたようだ。

「…ブチャラティ。目が覚めたのね」

 心から安心しきったような―――そう、燃えさかる炎の中、「過去を清算できた気がする」と言った、あのときと同じ表情で、ユウリは言った。

「ああ。夢の中でお前をつかまえようとして、目が覚めた」
「なによそれ?」

 クスクスと囁くような笑い声が辺りに溶け込んでいく。つられてブチャラティも笑いそうになるが、背中の痛みによって、笑顔は苦悶の表情に変わる。ユウリにもそれは伝わったようだった。

「ブチャラティ、背中…」

 言葉の途中で、ブチャラティが遮った。「これは、お前のせいじゃあない」

「遅かれ早かれ、俺はきっと、こうしていた。お前が命懸けで俺を守ってくれたように、俺もお前を守りたかった」

「後悔はない」そう言い切ると、ユウリは俯き、「ありがとう」と小声でつぶやいた。
 車椅子の高さで俯かれると、立ったままのブチャラティからは表情が全く窺えない。けれど、項垂れたユウリの肩が小刻みにふるえていたので、ブチャラティは彼女の前に跪き、その肩に手をのばした。

「…ありがとう…ブチャラティ」

 彼の手を取り、頬ずりをする。ふれた頬は涙でぬれていた。
「泣くな」もう片方の手で、涙を拭ってやる。

「俺は、少しで良いから、分けて欲しかったんだ。お前の背負った痛みや、孤独を。…だから今は、満足している。背中の傷は一生残るだろうが、俺は、お前の傷なら愛していける」

 髪をなでてやると、ユウリは心地よさそうに目を瞑った。その拍子にまたこぼれる涙のひとしずく。

「…だけど、こんな無茶はもう、止してよね。私のせいで、こんなボロボロになって…、病室でアナタを見たとき、心臓が止まるかと思ったわよ」

 炎にまかれた倉庫で、倒れているユウリを見つけたとき、それから、崩れ落ちる木材から自分を守り、倒れ込むユウリを見たとき、『心臓が止まるかと思った』のはこっちの方だ。
 そうは思ったが、なんとなく、この場では伝えないでおく。

「…すまない」そう言って穏便に済ませる。
「もういいわよ。ブチャラティの代わりに、あのアバッキオって人が色々よくしてくれたから」

「有能な仕事仲間がいてよかったわね」先ほどまでの涙はどこへやら、少しばかり拗ねたような口ぶりだった。自分が眠っている間――といっても一日半ほどだが――アバッキオがユウリの面倒を見ていてくれたらしい。車椅子のユウリを、屋上へ連れてきてくれたのもアバッキオだった。ブチャラティは改めてアバッキオに礼をしなくてはと思った。

「それから」ユウリがきゅっと眉をひそめ、無表情に戻る。「…ポルポに、会ったわ」

「目が覚めてすぐ、独房に呼ばれて、アバッキオに連れて行ってもらったの」

 痛めた体に緊張が奔る。ブチャラティは息をのんで、話を聞いていた。

「ポルポは失望していたわ。絵の消えた、ツギハギだらけの私の背を醜いと言った。私に対する興味を、完全に失った目でね」
「………」

 ユウリは、目の前に屈んだブチャラティの、病院着の合わせ目からのぞく真っ白な包帯へと視線をスライドさせる。
 ユウリの聞いた、ポルポの話によれば、ユウリはあの日、本来であれば、夜明けとともに、運び人によってイタリアを離れる手はずになっていたらしい。予想外に早く目が覚めたユウリの、想定外の行動により、それは免れたのだった。彼女は命を懸けて、自身の運命に打ち勝ったのだ。

 また、ポルポは、任務を失敗したブチャラティを咎める様子はなかったという。ブチャラティの有能さを誰よりも認めているポルポは、勝手に自殺を図り、組織の財産となるべき絵を焼き払った女こそが諸悪の根源と決めつけているようだった。

 兄の絵を全て奪われ、唯一残った最後の作さえ焼き消えてしまったのだが、しかし、ユウリは不思議と晴れ晴れとした心地だった。

 ユウリは顔を上げた。

「私は、これで良いと思ってる」ユウリはブチャラティの手をとった。「後悔なんて、無いわ」

「アナタを巻き込んでしまったことへの罪悪感と、兄さんの絵への、未練はあるけど…。…それでも、私は、あの入れ墨と引き換えにアナタを手に入れたこと、少しも後悔してないわ」
「ユウリ…」

 きっと、兄さんの遺作…『花鳥風月』が、私とアナタを引き合わせてくれたのよ。
 青い色の風を受けて、そう微笑むユウリがあまりにも眩しくて、ブチャラティは膝立ちになり、少し痩せた彼女を抱きしめた。
「ブチャラティ」背中にまわそうとした手が、一瞬戸惑って、ブチャラティの首根へとやって来る。

 焼けた自分の肌が息衝く、ブチャラティの背中。
 自分の背中に生きている、美しいブチャラティの肌。
 彼と自分自身を構成する何もかもが、愛しかった。

 これは『補完』の物語だ。ブチャラティと、肌を分け合い、痛みを共有し、不完全な部分を補う。大人になりきれない自分たちは、まだこうやって、傷をなめ合うことしかできないけれど。いつか彼を、大きな、いや、無償の愛で包んであげられたら良いと、そう思う。

「ユウリ」

 ブチャラティは不意に、クスっと笑って、ユウリの頬にふれた。親指をユウリのくちびるにすべりこませ、ぐい、と笑みの形に持ち上げる。

「俺だって、あんな目に遭ってまでお前を手に入れたんだ」

 不敵に笑うブチャラティの真意を、ユウリは汲み取れない。

「…もう二度と離さないからな」

「覚悟はいいか?」そこでようやく、彼の言いたいことに気づいたのか、ユウリはうっすらと顔を赤らめた。

「俺はできてる」
「…私もできてる」

 そう言って、赤くなった顔を隠すように、ユウリはブチャラティの首元に顔をうずめた。
 距離のなくなった二人のもとに、風の吹き抜ける余地はない。
 さら、と流れる髪の向こう側―――ユウリの背中には、夢と同じ、無彩色の翼が生えているように見えた。



花鳥風月≪the beauties of nature≫
2012.07.01 fin.
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