26
 目的地までの道のり、ブチャラティは様々なことを話した。
 たとえチームメイトであろうと、誰にもユウリのことを打ち明けるつもりはなかったが、アバッキオはもう立派な共犯者だ。
 自分が愛した女のこと、これから取り戻しに行く女のことを、ブチャラティは静かに語っていった。
 ブチャラティは絶え間なく喋りつづけた。黙っていると、悪い妄想で頭が掻き乱されそうになる。

「…まさか組織が、そんな女を飼っていたとはな」

 ブチャラティの話に、アバッキオは驚いていたようだった。ギャングなんてのは、大抵、非人道的なことを正当化して、街にのさばっているようなろくでもない集団組織だが、それでも、何の罪もない一般人を巻き込み、その人生をも狂わせようとしていた、その事実には、さすがのアバッキオも嫌悪感を抱く。

「アイツは苦しんでいた。俺にその背を切り裂いて欲しいと願うほど。…けれど俺は何も出来なかった」

 饒舌なブチャラティに反し、アバッキオは、時折、相槌を打つくらいで、あまり口をひらこうとはしなかった。
 それは、ブチャラティがまるで、縋るように彼女のことを語るので、自分が何か口を挟む必要がないように思えたからだ。ブチャラティは、まるで、神聖なものに手をのばすかのように、ユウリのことを語っていた。
 今のブチャラティには、話を聞いてくれる相手が、隣に居るだけで良い。やはり彼を一人で行かせなくて良かった。アバッキオは心からそう思った。


 車を走らせて、もうどれくらい経っただろう。周辺は平地ばかりのなだらかな土地だった。ゆえに周囲の景色がよく見える。
 目的地に近づけば近づくほど、ブチャラティはその顔を蒼褪めさせていく。林立し、朽ちた木々の向こうから、もくもくと立ち上る黒い煙が見えたからだ。

 発火していたのは、廃墟というにはまだ早い、けれど古びた小さな倉庫だった。
「何かの間違いであってくれ…」ブチャラティがそう零したのを、アバッキオは聞き漏らさなかった。
 地面に焦げ付いたタイヤの跡が残るほどの急ブレーキをかけ、車から降りる。ムーディ・ブルースを発現させると、数時間前の光景を再生《リプレイ》する。

「―――ッ!!」

 ムーディ・ブルースが、マンションで見たあの男に変化した。その瞬間、ブチャラティは倉庫のシャッターへ駆け出した。

「アバッキオ!お前はここで待っていてくれッ!」
「何言ってやがる!!ブチャラティ、おい、待てッ!!」

 追いかけようとするアバッキオを、ふり返ることもせず、ブチャラティは、

「スティッキィ・フィンガーズ!」

 凄まじいスピードで、倉庫のシャッターにジッパーを取り付け、そこから建物の中へと駆け込んで行った。
 アバッキオは後を追おうとするが、寸前でジッパーは閉じられた。ジッ、と音を立てて閉じ、消えていくジッパーのすき間から、どす黒い煙が漏れていた。

「死ぬ気か!?ブチャラティ!!おいッ―――」

 そのアバッキオの切なる叫びも、もはやブチャラティには届かない。

「っんの、バカ野郎が…!!」

 やり場の失われた握り拳。アバッキオは、坊主頭の男の姿をして、ゆっくりとこちらにやって来るムーディ・ブルースを、やるせない思いで見つめるだけだ。







「―――ッ」

 屋内は壮絶な光景だった。一歩踏み込んだ瞬間、ブチャラティは動けなくなった。
 目の前では炎が無数の手となってあちこちに伸び、むせ返るような火の海に、呼吸さえ忘れて立ちすくむ。

「ユウリ…!!」

 巨大な木材がパチパチと渇いた音を立て、火の粉をまき散らす。それらをかいくぐり、ブチャラティは血眼でユウリを探した。
 倉庫といっても、5m四方の小さな建物だ。ユウリはすぐに見つかった。彼女は木材から少し離れた場所にうつ伏せで倒れていた。
 熱風が頬をかすめる。ブチャラティの身体はもはや発汗さえせず、よろめくようにしてユウリを抱きしめた。

「ユウリ!!」

 煙を吸い込み過ぎたのだろう、ユウリは意識こそ失っていたが、その体はまだ熱く脈打っていた。拘束された両手を解放してやると、縛られた痕の残った手首はだらんと床に垂れ下がった。
 しかし、安心したのも束の間。抱き起してみて、異常な方向へ折れ曲がった彼女の右脚に気づく。
 ブチャラティの双眸が、動揺と憐憫にふるえ出し、やがて激昂した。ポルポに対する怒りよりも、自分自身に対するそれの方が遥かに大きかった。

 なぜ彼女を一人にした。
 なぜ俺は、彼女の傍から離れたりしたのだろう。

 握りしめた小さな肩が、ぴく、と反応する。はっとして彼女を見やると、熱に炙られた赤い唇がかすかに動いていた。勘違いでもいい、それが自分の名を紡いでいるような気がして、ブチャラティは目頭が熱くなる。
 彼女は生きている。こうして、自分の腕の中で、確かに息をしているのだ。
 ブチャラティは彼女の唇に、自分のそれをそっと重ねた。彼女が目を覚ましたら、きっと、オトギバナシみたいねと笑うだろう。けれどこれは悲劇でも喜劇でも、オトギバナシでもないただひとつのリアル。現実でしかないのだ。

「………ん、…」

 長いまつ毛にふち取られた両のまぶたが、うっすらとひらかれる。
 頬をなぜる熱い手のひら。何度も首筋を往復する渇いた唇。
「…ブチャラティ…?」燃えさかる炎を背景に、ブチャラティがユウリを抱きしめている。

「なんで、どうして…」

 虚ろな瞳が涙をたたえる。それがあふれてしまう前に、ブチャラティは指の腹で押さえてやる。

「助けに来たってのに、その言い草はないだろう」
「うそ…っ」

 こらえきれず、ユウリの涙がブチャラティの指を濡らした。それを愛おしげに見つめ、ブチャラティは、「すまなかった」と彼女の両頬を手のひらで包みこんだ。

「あのとき、俺が出て行かなければ…こんなことにはならなかった」

 ユウリは首を横に振る。

「違、…違う、ブチャラティのせいじゃあない」

 ユウリは、何者かにこの場所に拉致されたこと、目が覚めたときすでに脚を折られていたこと、そしてこの建物に火を放ったこと、それらすべてを話した。
 彼女の言葉の浮沈に合わせるかのように、炎がゆらめき、勢いをつけて、周囲の資材を飲み込んでいく。

「アナタに入れ墨を見せたとき、アナタと一緒なら、地獄に落ちてもいいと思った。身勝手な女でしょう?…でも、この場所で目を覚まして、…何もかもに絶望した。私が生きていたら、ブチャラティは不幸になる。私のせいで、ブチャラティが苦しむのなら、こんな組織に運命を決められるくらいなら、…いっそこのまま、自分の意志で死んでやろうと、思ったの」

 だからこの建物に火を放った。
 轟音を立てて舞い上がる、巨大な炎にかき消され、ユウリの声は途切れ途切れにしか届かない。
 しかし充分だった。ブチャラティは、ユウリの肩を抱きしめなおし、一言、「帰ろう」と、つぶやいた。

「俺は何があってもお前を取り戻すと決めた。そのために此処に来たんだ」
「でも、私…」

 ブチャラティの邪魔になりたくない。そう頼りなく訴えるユウリの唇を、キスで塞ぐ。

「俺はお前のことが好きだ。お前を生かしたいと思うのに、それ以上の理由が必要か?」

 真剣なまなざしで見つめてくる、均整のとれた大きな碧眼。そこにはゆらめく炎とともに、情けない顔をしたユウリが映し出されている。
 瞳の中のユウリはポロポロと涙を零し、ブチャラティに縋りつく。

「…ありがとう、ブチャラティ…」

―――愛してる。紡ごうとした言葉は声にならなかった。
「あ…」息が詰まった。ユウリは声を発することも、唾を飲み込むことも、まばたきさえ忘れた。
 全ての映像がスローモーションのように映っていた。何もかもがゆっくりと目に映るのに、それでも、何が起こっているのか、理解するのに時間がかかった。
 バキバキと激しい音を立てて崩れ落ちる巨大な木材。その一部、何本も束ねられた長い木柱が、自分たちの頭上に降りかかろうとしていた。驚くほどゆるやかなスピードだった。
 それを、ユウリの頭はただの景色としてしか判別しない。考える前に、身体が動いていたのだった。

「ユウリ…!?」

 ブチャラティの声が、木材の落下音に掻き消える。

「ユウリ!!」

 今度は、ちゃんと聞こえた。
 ユウリは、咄嗟にブチャラティに覆いかぶさり、落下する木骨から彼を守った。
 燃え盛る木の柱を、背中で受け止め、ユウリはぐったりと床に転がった。服は焼け消え、小刻みにふるえる痩背があらわになっている。
 病的に生白く、和彫りの施された美しい肌に、熟した果実のような生々しい火傷の痕が、まるで入れ墨を上書きするかのように横断していた。

 鼻孔を突く、肉の焦げるにおい。「ユウリ!!」傷口にふれないよう、ブチャラティは、ユウリの体を抱き起した。

「あ…っ、うぁ…」
「ユウリ!くそっ、ユウリ!」

 焼けるような背中の痛みはもはや全身に飛び火し、そのあまりの熱にユウリは喘ぐ。

「なんて無茶をッ!俺を庇って、こんなッ…!!」

 髪を振り乱し、ユウリを掻き抱くブチャラティ。内側からも外側からも熱にあてられ、すっかり火照った、けれど真冬の雪山で遭難したように蒼白の彼の頬。それを緩慢な動作で撫で下ろしながら、ユウリは、「いいの」と短く息を吐いた。

「これで…良いの。これで…。ブチャラティ、これで…。か、過去を清算できた気がする。…アナタが無事で、良かった」

 荒れ狂う炎の中、この場に不釣り合いな、安らかな表情を浮かべ、ユウリは目を閉じた。そのまま、彼女は、眠るように意識を失った。

 力が抜け、床に崩れ落ちそうになるユウリの手を握りしめ、ブチャラティはぎゅっと唇を噛んだ。強く噛みしめすぎて、下唇が切れて血が滴った。

 悔しかった。無力な自分が許せなかった。やはり自分はユウリを守ることができないのか?彼女がこのまま冷たくなって死んでゆくのを、黙って見ていることしかできないのか?

(冗談じゃあねえッ!!)

 汗で張り付いた前髪から、強い眼光がのぞく。いつの日か、ユウリが自身の兄のそれと重ねた、揺るぎない意志の宿る目だ。

「スティッキィ・フィンガーズ」

 いつになく静かな声で、自分の半身の名を呼んだ。
 顔の半分まで、深く、仮面を被った筋肉質な男が、ブチャラティの身体からするりと抜け出し、ブチャラティより高い場所からユウリを見下ろす。
 これから自分が何をするのか、スティッキィ・フィンガーズはわかっているようだった。当然だ。ブチャラティとスティッキィ・フィンガーズは互いの精神を共有しているのだから。

 ブチャラティはユウリをうつ伏せにし、寝かせると、自身のスーツの上着を素早く脱ぎ去った。それからユウリの背に右手をかざすと、スティッキィ・フィンガーズの方をふり返らないまま、ゆっくりと口をひらいた。

「やれ。…ユウリを救うんだ」

 背後からのびた手が、ゴッ、と勢いよく、ブチャラティの頬をかすめ、ユウリの背にジッパーを取り付けた。
 背中の入れ墨を蹂躙し焼き尽くした、大きな火傷の痕をぐるりと取り囲むようにジッパーを取り付け、彼女の体から引きはがす。

 一度は彼女が拒んだ方法だった。けれど、これ以外に彼女を救うすべが、今のブチャラティには思いつかなかった。
 折れた右脚に加え、重傷を負った背中。ユウリは衰弱しきっている。このまま彼女を放っておけば、間違いなく彼女は死んでしまうだろう。だから。

 ブチャラティの背の皮膚と、彼女の傷ついた皮膚とを取り替える。

 この能力を手に入れてから、人体の切開など何度もやった。そう難しいことではない。ただ今度ばかりは対象が特別な女というだけだ。

 ユウリの背中を引き剥がしたら、今度は自分の番だ。ブチャラティは自身のスタンドに身をゆだねた。

 ジッパーで切開されること自体に痛みはない。これは何度も経験して分かっていることだ。
 問題は、彼女の負った火傷の痛みに、自分が耐えられるかどうかである。
 絶対に耐えてみせる。ユウリの背負った痛みも、孤独も、何もかもを分けて欲しいと願ったのは自分自身だ。ブチャラティの傷なら愛していける。いつだったか、彼女はそう語っていた。それと同じように、ブチャラティもまた、ユウリの傷なら愛していけると思うのだ。

 ユウリの背、その、焼けずに残った牡丹の花びらを見つめていたブチャラティの背に、突如として強烈な痛みが奔る。同時に、ジッパーの閉じるくぐもった音が聞こえた。ユウリの皮膚が、自分の背にやって来たのだと理解する。

「あ、…ッ…」

 こらえきれずに、ブチャラティはその場に蹲った。神に許しを乞うような姿勢。

 これは、ユウリの痛みだ。ユウリが命をかけて自分を守ったという証。

 ユウリの背に、かつて自分の一部だった皮膚がジッパーで閉じられていくのを、霞んだ視界が捉える。これで良い。これでユウリは救われる。そう思った。ひどく安心した。

「…もう、ひと踏ん張りだ。スティッキィ…、フィンガーズ」

 痛みに耐える、というのは、それだけで著しく体力を消耗する。ブチャラティはぜいぜいと荒く息を吐き、同じく動きの鈍ったスティッキィ・フィンガーズをしまった。
 スーツの上着をユウリに掛けてやる。ユウリを抱きかかえ、この場所からそう遠くもないシャッターを目指す。あそこまでたどり着けば、きっとアバッキオが何とかしてくれる。それだけを考えながら、炎の追っ手から逃れようとする、覚束ない足元。

 異常な熱をもった背中が痛む。視界まで霞んできて、おまけに息が苦しい。煙を吸い過ぎたのだろうか。

 シャッターはすぐそこだった。ふたたびスティッキィ・フィンガーズを発現させる。彼自身もスタンドもすでに限界のようで、四肢がふるえ出していた。

(もう少し。…もう少しだ)

 もう少し。錆び付いたシャッター一枚を隔てた向こう側は外の世界だ。この火の海から彼女を救える。ブチャラティは不思議な昂揚感に酔いしれた。
 けれど、彼の身体はすでに限界を超えていた。
 充分に熱されたシャッターにジッパーを取り付け、それを引き下ろしながら、ブチャラティは意識を失った。それほどに背中の傷は深かった。
 炎をかき消すほどの闇が外には広がっている。
 外側から、誰かが手を引いてくれたような気がした。




2012.06.27
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