25 「…参ったな」 思っていたよりも、仕事が片付くのが遅くなった。 街でモメていたのはナランチャたちだった。彼らによる被害は思いのほか大きく、その後始末と、彼らの制裁に追われ、気づけば黄昏を越え、辺りはもうすっかり夜の装いだった。 足早にユウリの部屋へと向かう。一人で寂しがってやいないだろうか。もしかしたら、気を利かせて夕食の準備をしているかもしれない。 早くユウリに会って、あの柔らかな体を抱きしめたい。早く、彼女の香りに溺れたい。 浮ついた気持ちを胸に、ユウリの部屋のインターホンを鳴らし、合図を送る。 「………」 いつもならすぐに開くはずのドアは、沈黙を守ったまま。 もう一度ノックしてみるが、室内からは、物音ひとつ聞こえてこない。待ちつかれて、眠っているのだろうか。 「…ユウリ?」 吐き出した息は、無意識に彼女の名前を紡いでいた。わずかな不安に、ブチャラティの表情に翳りがさす。 (俺を驚かそうとしているのか?) それにしてはタチの悪い冗談だ。 「………」 おそるおそる、ドアノブに手をかける。祈るような気持ちでドアを押す。 ドアは鍵がかかっておらず、ブチャラティの意志のままにひらかれた。 「な…」 嘘だろう。 後頭部を殴られたような、強い衝撃。嫌な汗が体じゅうから噴き出してくる。 あり得ない事態だった。この部屋は基本的に、ブチャラティとユウリが出入りする時を除いて閉鎖されている。 鍵穴をよく見てみれば、穴のまわりに、ピッキングされたような跡がある。素人目ではまずわからない、ごく小さな傷跡だ。 「ユウリ!!」 声を振り絞り、部屋の中へ踏み込んでいく。 人の気配のしない部屋。ユウリの姿はどこにも見当たらない。 渇ききった唇を舌で潤し、ブチャラティは、あらゆる場所を探しまわった。 寝室、シャワールーム、トイレ、果てはクローゼットの中まで開けて調べた。 しかし、その何処にもユウリは居なかった。室内は完全たる無人だった。 「ユウリ…」 ついに組織が動いた。ユウリは組織にふたたび拉致されたのだ。こうなることを予感しておいて、なぜ自分はユウリを一人にしたのだろう。 やり場のない憤りを壁にぶつける。叩きつけた拳がじんじんと痺れ、それがブチャラティに冷静さを取り戻させた。 こうしてはいられない。大袈裟でなく、ユウリの命が危ない。 守ると決めた。彼女の背負った過去も、痛みも、孤独も。喜びさえも分けて欲しかった。彼女はそれを拒んだけれど、ブチャラティには、彼女を突き離そうとした、あのときから既に、命をかけて彼女を守る覚悟があった。ユウリとなら、ともに地獄に落ちてもいい。ユウリを愛していた。 ブチャラティは、携帯を取り出すと、着信履歴の一番先頭の番号にボタンを合わせた。 発信音が何度か響き、「プロント」電話口から気だるげな声が聞こえてくる。 「アバッキオ。…頼みがある」 ブチャラティは、マンションの近くにアバッキオを呼びつけた。アバッキオは、同い年の上司の只ならぬ空気を察し、終始真面目な顔をして、彼の話を聞いていた。 「数時間前の、この部屋で起こったコトを再生《リプレイ》して欲しい」 ユウリの部屋へと案内し、ブチャラティはそう言って頭を下げた。 「一体、どうしたってんだ。前に言ってた女が関係してンのか?」 切り口鮮やかなその問いに、ブチャラティは口を噤むかと思われた。 しかし、彼はあっさりと頷いてみせた。「そうだ」 「頼む。…時間がないんだ」 緊迫した雰囲気のブチャラティに、アバッキオはそれ以上、なにも追及しなかった。 無言で頷き、『ムーディ・ブルース』を発現させる。ムーディ・ブルースはすぐに時間を巻き戻し、再生《リプレイ》を開始した。 ムーディ・ブルースのつるんとした表面が、見る見るうちに歪んでゆき、やがて一人の男の姿に変化した。 見覚えのない男だ。深くかぶったキャップの襟足部分から、オレンジ色の坊主頭がのぞいている。 「悪く思うんじゃあねえぜ」 彼はユウリの身体にスタンガンを押し当てたあと、吐き捨てるようにそう言った。 ブチャラティは、たまらない気持ちで、一部始終を見つめていた。 自分がユウリのそばを離れなかったら、きっと、こうはなっていなかっただろう。これは、防ぐことのできた事態なのだ。 今日起こった、チーム同士の抗争も、組織によって仕組まれたものなのかもしれないし、また、今日を免れたとしても、いつかはこうなっていたかもしれない。しかし、それでもやはり、守りたかった。彼女のそばに居たかった。 握り拳の中で、爪が皮膚に食い込んで、ブチャラティの手は白くなっていた。 ユウリをさらった人物は、どうやら二人組らしかった。ピッキングをした人物と、今、ムーディ・ブルースが再生《リプレイ》している坊主頭の男である。 やがて、坊主頭の大男が、もう一人の人物に、目的地を告げ、そこでブチャラティは再生《リプレイ》を終了するよう、アバッキオに言った。 ムーディ・ブルースが消え、静寂の戻ったマンションの、そう長くもない螺旋階段を、ブチャラティとアバッキオは急ぎ足で下りていく。 「アバッキオ、助かった」 「いいぜ?別に。…空港の方ッつってたな。そう遠くもねェ」 車に乗り込もうとするブチャラティに、アバッキオは「俺が運転する」とキーを奪った。ブチャラティは眉をひそめ、 「…アバッキオ。これは俺の個人的な問題だ。これ以上、お前を巻き込めない。巻き込みたくない」 「ここまでさせといて、今さら何言ってやがる。言ったろ。何でも一人で背負い込むなって。少しは俺らを頼れ」 そう言って運転席に乗り込んでいくアバッキオに、ブチャラティは何も言えなくなった。 アバッキオも、俺と同じだ。大切な人だからこそ、痛みを、苦しみを、分けてほしいのに、相手にそれを拒まれる。少しくらい、弱さを曝け出して欲しい。頼って欲しい。その感情に男も女も関係ないのだ。 「…有難う、アバッキオ」 助手席に乗り込むと、ブチャラティはいつになく鋭い眼光をフロントガラスに叩きつけた。 「飛ばしてくれ。大切な女の命がかかってる」 「了解」 アバッキオは思い切りアクセルを踏み込んだ。 続 2012.06.25 |