23 マンションに帰って来た日から、ブチャラティはユウリのそばを離れなかった。今まで、つらく当たった分を補うように、惜しみなく、ユウリとの時間を大切にしていた。 二人でパスタをひいたり、ブチャラティの作ったカルパッチョを食べたりと、幸せな時間だった。ブチャラティは、彼女のそばに居てあげなくてはならないような気がしていた。 「魚を捌くのが上手いのね」 素人離れした手際で、魚をスライスしていくブチャラティに、見とれるように言う。 「漁村で育ったんだ。俺の父は漁師だった」 「へえ、そうなの?」 ユウリは興味深そうに聞き返す。彼は、あまり自分の身の上話をしようとしない。それはユウリも同じだが、かと言って気にならないわけではない。 「漁師ねぇ…。ブチャラティの故郷の海は綺麗だった?」 狭く、濁った日本の海を比較対象に思い浮かべながら、ユウリは言う。 そんなユウリに、ブチャラティは、ああ、と笑顔を見せる。 「とても美しい海だ。いつかお前にも見せてやりたい」 「素敵。約束よ?」 「ああ」 ブチャラティにしては珍しく饒舌だ。 エプロンをつけ、二人、キッチンに立っている。そんなありきたりなシチュエーションに、彼も少しは浮かれているのだろうか。 「俺は日本にも一度行ってみたい。イタリアと同じ、四季のある美しい国だと聞いている」 「そうね、いつか二人で行きましょう。案内するわ」 パン生地をこね、両手の塞がっているユウリに、ブチャラティはそっとキスを落とす。 今日の昼食は、チーズとハムのブリトー。それに炙りサーモンのサラダ。朝方、二人で市場まで買い出しに行ったのだ。 恥ずかしがって、外では手を繋ごうとしないブチャラティだが、二人きりのときはこんなに優しく、とびきり甘やかしてくれる。 強請るように顎を引くと、ブチャラティはもう一度、ユウリの唇に自身のそれを重ねた。 「…ねェ、仕事は大丈夫?」 手作りのドレッシングで味付けされたサラダを食べながら、ユウリが言う。 仕事熱心だったブチャラティが、自分のそばを離れようとしないことを心配しているのだろう。 一緒に居てくれるのは嬉しいが、かと言って、仕事の邪魔はしたくない。 ブチャラティは静かにサーモンを嚥下すると、ああ、と事も無げに答えた。 「それなら、仲間に任せてあるから問題ない。緊急の用事があれば、呼ばれるだろうがな」 「そうなの」 と、そんなことを言った矢先。ブチャラティのポケットで、携帯電話が震えだした。 「…プロント」 電話はアバッキオからだった。一言二言、電話口の彼と言葉を交わし、電話を切ると、ブチャラティは困ったような顔をした。きゅっと結ばれた口元には、先ほどまでの微笑みは残っていない。 「…緊急みたいね?」 ユウリは残念そうに、けれどどこか可笑しそうにクスッと笑った。 「すまない。他のチームとモメているらしくてな…俺が話をつけてくる」 「ふふ、気にしなくていいのよ。子どもじゃああるまいし、留守番くらい一人でできるわ」 ユウリのその言葉に、ブチャラティは意地悪そうに目を細め、 「へえ。行かないで、って泣きついてきたのは、どこの誰だったかな」 「…ちょっと、誰のせいだと思ってるのよ!」 「はは。まあ、なるべく早く戻る」 「もう…期待しないで待ってるわ」 そんなやり取りののち、ブチャラティは、ユウリの部屋を後にした。 「………」 室内に静寂が戻る。 一人は慣れたつもりだったのに、なぜか、胸騒ぎがした。 それから、一時間も経たないころだった。 ―――ピンポーン… ユウリの部屋のインターホンが鳴った。 (ブチャラティ…?ずいぶん早いわね) 小走りで玄関に駆けつけるが、ふと、ユウリの胸に疑心が生まれる。 (…待って) インターホンは一度しか鳴っていない。それに、合図としている咳払いの音もない。ユウリは咄嗟に身構えた。 (…誰…?) 胸の前で手を握り、ユウリは一歩、後ずさる。頭の中で警報音が鳴っていた。 ―――違う。 ―――ブチャラティじゃあない。 ドアの向こうにいるのは、ブチャラティではない。 では一体、ドアを隔てた場所にいるのは誰なのか? 疑心暗鬼になり、ざわめくユウリの胸中。そんなことなどまるで気にも留めず、ドアは静かにひらかれた。 「ッ!?」 あり得ない事態に、ユウリは半ばパニックとなる。現れたのは、キャップを目深にかぶった、背の高い男だった。 「なッ…」ユウリは目を見開いた。見覚えのない男。それがどうして、この部屋の鍵を持っているのだろう。動揺、困惑、そして恐怖に体がふるえる。 「あ…、あなた、誰―――」 瞬間、ユウリの腹にスタンガンが押し当てられ、「きゃあああッ!!」語尾はすぐに、悲鳴に変わる。 力なく床に崩れ落ちるユウリ。四肢も指先も、力が入らない。目が霞み、思うように声が出せなかった。 「悪く思うんじゃあねえぜ」 薄れていく意識の中、彼女が最後に聞いたのは、そんな男の声だった。 続 2012.06.16 |