21 「…晩年、兄は精神を病んでいたわ。会社の経営がうまくいかないこともあったけど…一番の原因はやっぱり、芸術家として。彼は、自分の描く絵よりも、人間の見せる一瞬の美しさに心を奪われ、何も描けなくなってしまった。永遠に残存する無機物を媒体にして、美を追求できなくなったのよ。けれどまだ、自分の中にくすぶるビジョンを表現し足りない。彼はいつしか麻薬にも手を出すようになっていた。そうして、苦悩と葛藤、強烈なフラストレーションに侵された兄が、…最終的に見出した、真っ白なカンバス。それが…」 「実の妹の、美しい肌だった…」 ずっと黙し、ユウリの話を聞いていたブチャラティが、口をひらく。ユウリは、ええ、と頷いた。 「永遠でも刹那でもない私の、…人間の肌を、兄はとても気に入っていたわ。一年以上もかけて、夢中で施術をして…。あのころの兄は、本当に生き生きとして、楽しそうだった。実の妹の背に、一生消えない傷を負わせることへの罪悪感も、何も感じないくらいね」 ベッドの中で身じろぎする、ユウリの裸体を、ブチャラティはそっと抱きしめる。素肌と素肌がふれ合う感触。ユウリは、ブチャラティの腕の中で、ぽつりともらした。 「私、それでもいいと思ったの。兄には、今まで育ててもらった恩があるし、…何より、私は、優しい兄が好きだった」 彼のためなら、どんな痛みにも耐えられる。自暴自棄になったわけじゃあない。私は私のために、この道を選んだの。 「けど、兄は、この絵を完成させて間もなく、麻薬中毒で死んでしまった。施術、いえ、この絵を描いているときは、あんなに元気だったのに…。まるで、この絵の完成とともに、命の火が燃え尽きたみたいだった」 「………」 麻薬、というワードに、ブチャラティの眉間がぴくりと動く。 ブチャラティの身体を抱きしめ返す、ほっそりとした白い腕。ユウリの、しっとりとした冷たい手のひらが背筋を這う。それから少し間をおいて、皮肉めいた笑い。 「入墨を彫っているときも、兄が死んだときも、まさかこんなことになるなんて、思ってもいなかったわ。もちろん後悔なんて、しちゃいないけど」 媚薬に侵されていたのが嘘のように、ユウリは、今ではすっかり落ち着きを取り戻していた。つい数時間ほど前、回数さえ覚えていないほど、そう、文字通り、枯れるまで搾り取られたブチャラティは、「タフだな、お前は」と、色々な意味を込めて言った。 ユウリはブチャラティを上目で見やる。 「まあね。でもさすがに、ブチャラティに冷たくされたときは落ち込んだわ」 「……すまなかった」 途端、決まり悪そうに口を噤むブチャラティ。そんな彼の唇をつまんで、 「でも結局、愛してるって言ってくれたから、許す」 軽く音を立てて口づける。悪戯っぽい表情で微笑むユウリに、散々搾り取られたはずの、ブチャラティの肉欲がふつふつとわき上がってくる。 ユウリを抱きしめたまま、上に覆いかぶさると、ユウリは「…するの?」と小首を傾げた。抑揚のないその声に、ブチャラティは、先ほどまでの彼女の痴態を少し恋しく思う。 「ダメか?」 「うん」 「………」 無表情のまま、鎖骨のあたりに頭を寄せてくるブチャラティに、ユウリは、冗談だよ、と腕をまわした。 ・ ・ ・ 「…素晴らしい」 つやつやと光る、宝石のような苺を眺めながら、ポルポは感嘆の溜息をこぼした。天井の照明に苺をかざし、360度、しげしげと眺めたのち、無造作に口へと放り込む。 口の中いっぱいに広がる甘みと、わずかな酸味。その脳裏に、ユウリの顔を思い浮かべ、熟れた果肉とともに咀嚼する。 「ふふ…」 笑いをこらえることができず、歪んだ唇の端から、透き通った赤い果汁がつう、と伝う。 「フフ…。クク、…ハハハ…!!」 手にしたワイングラスに波紋が広がる。独房内に響く、狂気を孕んだ笑い声。 獲物を手中に収めたときの、圧倒的な充実感に満たされる。 ―――素晴らしい!! 名のある画家が、この世に最期に遺した日本画。それが、まさか生身の人間に刻まれた、「滅びゆくモノ」だったとは。 キャンバスに描かれ、ヒトの手により永遠を約束されたものとは違う。ヒトはいつしか朽ちていく。けれどそれは決して、一瞬の輝きとも違う。 永遠でも刹那でもない曖昧さ。その不完全さこそが美しい。 ―――皮を剥いでしまうのも、剥製にしてしまうのも惜しい。あの女の器量なら、愛玩動物のように、生かして飼い慣らしたがる者はこの世にゴマンといるだろう。 絵画にユウリ本体の値打ちを加算して考える。ポルポは頭の中でソロバンをはじきながら、歓喜に震えた。 (…問題はブチャラティだな) ブチャラティはユウリに惚れている。彼がユウリをそうやすやすと差し出すとは思えないが、ブチャラティは所詮、組織の犬。彼が組織を裏切るというのもまた、想像に難いことだった。 「本当に…君には心から同情するよ。ユウリ」 言葉とは裏腹に、愉快そうにポルポは笑った。 続 2012.06.11 |