19 帰りの車中。 ―――ヒトを愛し、傷つけ合い…そして互いを不幸にする、不完全な存在。…お前たちは、結ばれるべきではないのだよ――― ポルポの言葉が、気味悪く、ユウリの胸に溶け込んでいく。同時に湧き上がってくる嫌悪感。 (…ヒトを好きになって、何がいけないの?私を勝手に拉致しておいて、―――すべてを任せられると思った―――たった一人の男を愛することさえ…、私には許されないっていうの…?) 怒り、悲しみ…、理不尽な現状に、負の感情が胸を焼く。胸が、頭が、体中が熱くなる。 (落ち着くのよ…。あんな奴の言葉に、惑わされたら駄目…) しかし、ユウリは冷静さを欠いていた。いつまで経っても体は熱いままで―――、鼓動さえ、いつもより速く、感じられた。 (なんだか…、頭がクラクラする…) 異変に気付いたのは、そのときだった。 「…っ、………ふ…」 寒い。体じゅうが火照って、敏感になっている。露出した四肢に、空気がふれることでさえ、身体にゾクゾクと悪寒が奔る。 (…何、コレ……っ?) 小刻みにふるえだす自身を抱きしめる。眩暈?風邪?どちらも違っている気がした。 (まさか―――…) 一瞬、浮かんだ考えに、ユウリはシン、と凍りつく。 (あのときの、ワイン―――…) 栓をあけたばかりだと油断していた。この症状―――、何か、薬を盛られたのは確実だった。 (卑怯なマネを…ッ) 自覚した途端、膝がふるえ出す。さすがに彼女の異変に気付いたブチャラティが、おい、と遠慮がちに口をひらいた。 「…寒いのか?」 そう言って、エアコンのスイッチを切り替える。しかし、今のユウリには逆効果だった。むしろ、彼の声を聞いただけで、下腹が疼いてくる。 「平気……、気にしなくて、良いから………」 ブチャラティとの、久しぶりの会話だというのに、余裕の欠片もない。 下唇を噛みしめながら、ガタガタとふるえ、俯くユウリ。平気、と言ってはいるが、今の彼女は、誰がどう見ても普通ではない。 (…ユウリ?) リアシートで小さくなるユウリに、ブチャラティは手をのばす。けれど、その手はすぐに引っ込めた。「やっ…」のばした手に、ユウリが異常なまでに怯えたからだ。 「いや…、ブチャラティ…ッ」 ドアに背を押し付け、この狭い車内で、ブチャラティとの距離を開けようとするユウリ。ブチャラティの一挙一動に、ビクビクと怯え、身体を強張らせるユウリと、彼女と接触した最後の日、涙目でブチャラティ自身にしがみ付こうとする彼女の、華奢な肢体を重ねあわせ、ブチャラティは、胸が押しつぶされそうになる。 ―――嫌ってくれて良い。酷い男だと思ってくれて良い。俺は、お前を不幸にしたくない――― (ただ、守りたかったんだ。傷つけてでも、泣かせてでも、お前がこの世界のどこかで笑ってくれたら良いと、そう思っていたんだ―――) そう、思っていたのに…。 「ユウリ…」 ―――こんな状態のユウリを、放っておくわけにはいかない。ブチャラティは、路傍に車をとめ、ユウリの顔を覗き込んだ。 「…ユウリ」 「ヒ…ッ」 ゆるゆると首をふり、逃れようとするユウリ。いや、いやと弱々しく叫ぶ、ユウリの小さな手を掴もうとした。 「ブチャラティ、……お願い、……何でも、ない、…から…っ」 ブチャラティは思わず、息をのむ。 涙の滲んだ、大きな瞳。上気した朱色の頬。しっとりと汗ばんだ、艶やかな肌。 「ユウリ、お前、まさか………」 ユウリは答えない。けれど、はっ、はっ、と荒く息を吐き、 「ブチャラティ―――…ッ」 ついには泣き出すユウリを見て、ブチャラティは確信する。 ―――ポルポ―――!! 「ひ…っ、…ブチャラティ、…ッごめ、…なさ…っ」 ―――迷惑ばかり掛けて、我が儘ばかり言って…、挙句、敵の罠にあっさりと掛かるような、馬鹿な女。嫌いになって当然だ。自分の、あまりの情けなさに、涙があふれてくる。止めるすべなど、無い。 「ユウリ…」 名前を呼ばれると、狂いそうになる。もう、色欲だけが頭の中を占めていて、感情的なことが何も考えられない。下半身と頬だけが潤っていって、けれど発情しきった身体をブチャラティに見られたくは無く、自身の肩を抱きしめながら、もじもじと内ももをこすり合せるだけだ。 「ユウリ」 ふたたびのばされた、ブチャラティの手を、ユウリは自分に残った最後の理性で、叩き落とした。 「やめて…ッ」 ―――今、ブチャラティにふれられたら、どうなるかわからない。狂った姿を見せる前に、彼の前から消え去りたかった。 「優しく、しないで…。…っお願い、…私…、もう…」 限界だった。これ以上、優しくされたら、彼の声を聞いたら、きっと理性の糸が切れてしまう。愛しい男。ブチャラティに、これ以上、みっともない姿を見られたくなかった。 「お願い…っ、一人に、して………。も…、限界、なの…」 ところどころもれる、甘ったるい喘ぎを、ブチャラティは、堪らない思いで聞いていた。 ―――限界なのは、こちらも同じだ。 愛した女が、渦巻く快楽のうねりに耐えている、おそろしく扇情的なこのさまを、黙って見ていろというのは、若いブチャラティにとって酷な話だ。 (俺は…間違っていたというのか?) ガンガンと頭に鈍い痛みが奔る。自分がとんでもないことをしてしまったような気がして、喉がカラカラに渇いてしまう。 (俺がどう足掻こうと…、結局、ユウリを不幸にしてしまう運命だったのか?俺はユウリを救えないのか?…結局のところ、俺たちは―――) ―――出会わない方が、良かったのか? 「ブチャラティ…」 自分にふれようとも、車を発進させようともしないブチャラティに、ユウリはしびれを切らし、ボロボロと涙を零しながら、声をふるわせた。 肉欲の虜となった自身を鎮められるのは、同じくして欲を纏った愚かな男しかいない―――。 突き上げる劣情の渦。成熟したユウリの身体は、この強烈な欲を受け止めきれず、ただ男を誘うようにふるえるだけだ。 (もう、耐えられない…!!!) 「ブチャラティ――」 泣きはらした目で、けれどユウリはブチャラティを強く見据えた。情欲を孕んだその瞳は、輪郭すらおぼろげで、今にもとろけてしまいそうなほど潤んでいる。ブチャラティは思わず、生唾を飲み込んだ。 ユウリは、ひとつひとつの言葉を、咀嚼するように吐き出していく。朱く熟れたくちびるで。 「…ブチャラティ…。私を…まだ少しでも、好きだと思う気持ちが、あるなら…。…お願い、」 ―――抱いて―――。 まばたきをした拍子に、涙がまた一すじ、頬を伝う。 ブチャラティは、もう、迷わなかった。赤子のように柔らかな頬を、そっと両手でおし包むと、まるで高貴なものにふれるように、ゆっくりと、口付けを落とした。 続 2012.05.30 |