18
「ハァ…」

 ユウリは、憂鬱な思いで、ポルポの独房へと続く通路を歩いていた。コツコツと響くヒールの音が嫌に不気味だ。

(一体、何の用よ…)

 ――今朝方。今の今まで、何の音沙汰もなかったブチャラティから、突然電話が掛かってきたかと思うと、

『ポルポがお前を呼んでいる。今から迎えに行くから支度をして待っていろ』

 と、そんなことを、素っ気なく告げられた。

―――何なのよ、もう…。

 車中、ブチャラティは一言も喋らなかった。痛く、重々しい沈黙。
 皮張りのシートも、渋い香りのフレグランスも、窓から流れる景色も、手をのばせば届く距離にいるブチャラティも―――、彼を構成する何もかもが、今のユウリには切なかった。

(誰かを好きになるって、こんな辛いものだった…?)

 出口のない迷路。そこに、ユウリだけでなく、ブチャラティもまた迷い込んでいることを、ユウリはまだ知らない。




「…来たか」

 ユウリを視界の隅に捉えると、ポルポは静かに微笑んだ。厳かに流れる讃美歌が、辺りの静寂をかき消していた。
 どうやら食事の真っ最中だったようで、目を見張るような中華のフルコースが、彼の巨体を取り囲んでいた。

「………」
「しばらく見ない間に、ずいぶんと綺麗になったな」

 言いながら、巨大な北京ダックを数秒と掛からず食べ尽くす。

「そう睨むな。…若い女性にこんな仕打ちをして…私も良心が痛むのだよ」

―――心にもないことを! ユウリの眼光はますます怪訝なものになる。

「…わざわざこんなトコロに呼びつけて、一体、何の用?」

 ふるえる声で、そう、しぼり出す。胸の前で、右手をぎゅっと握る。
 組織に対する憎悪や、ここ数か月間の苦悩、ブチャラティへの慕情、それらの強烈な感情が胸にわだかまっていく。

「キミに聞きたいことは一つだ。わかるだろう?」
「………兄さんの絵の在り処なら、絶対に割らないわよ。私から、兄さんの絵をすべて取り上げておいて…それ以上を望むなんて、………そんな身勝手、許されないわ」

 怒りか憎しみか、涙を湛えて訴えるユウリ。ポルポは悪びれる様子もなく、ふゥむ、とエビチリを口にした。拳ほどの大きさの海老である。

「キミは何もわかっていない。財産は金にしてこそ存在価値が生まれるのだよ。キミのような、遊びたい盛りの若者が、あんな絵をいつまでも手元に置いておいても仕方がないだろう?」
「…勝手なことを!」

 カッと頭に血が上り、防弾ガラスに手を叩きつける。悔しそうに唇を噛むユウリ。

「ああ、気に障ったのなら謝ろう。そうだな…ワインは好きかね?ちょうどラフィットが飲み頃なのだよ」

 と、小さな出窓から、赤ワインの注がれたグラスを差し出した。ユウリはそれをしばし見つめ、眉をひそめたかと思うと、ぐい、と一気に飲み干した。ユウリの見えないところで、ポルポが妖しく笑う。

「良い女には、やはり、良い酒が似合うな。素直になれば、もっと可愛がってやるんだが」
「それなら尚更、素直になんてなれないわね」

 皮肉めいた口調で言うユウリに、ポルポは、強がっていられるのも今のうちだと、聞こえないほどの小声でつぶやいた。

「ふ…」

―――女など、欲に溺れさせてしまえば容易いもの―――

 栓をあけたヴィンテージのワイン。ユウリの、あまりの警戒心の無さに、笑いさえこみ上げてくる。
 拉致されたときの、あの威勢の良さはどこへ行ってしまったのか…。
 ヒトの心というのは脆弱だ。誰かを愛することで弱くなる。けれど、自分以外の誰かを愛さずにはいられない。誰もが、一人では生きてゆけない。ユウリもまたその一人。ブチャラティと出会ったことで、彼女は心の強さを失ってしまったのだ。

「ヒトを愛し、傷つけ合い…そして互いを不幸にする、不完全な存在。…お前たちは、結ばれるべきではないのだよ」
「…何…?何のこと?」
「…いや…。フフ、何でもないよ。ただ、キミには心底、同情する」
「何ですって?」

 ポルポのつぶやきは、ユウリの耳には届かない。ただユウリの眉間のしわが深くなる。

 やがて面会時間は過ぎ、時間を超過したことによりユウリは刑務員に呼び戻された。

(ったく…何だったのよ…)

―――ボディチェックを受けている最中だった。ふと、女性看守の手が妙にくすぐったく感じられ、ユウリは、ンッ、と身悶えた。

(ヤダ、さっきは何ともなかったのに…)

 変な声を出してしまい、恥ずかしくなる。こんなことにも慣れっこなのだろうか、看守の女性は特に何か言うこともなく、淡々とボディチェックを続けた。


 刑務所から出ると、ブチャラティが、道路に車を横付けにして待っていた。緊張した面持ちで、お待たせ、とドアを開け、車に乗り込むと、ブチャラティは何も言わずに車を発進させた。
 ギアを入れ替える仕草に胸が高鳴る。行きでは気にならなかった彼の香りに、めまいを覚える。ブチャラティはこんなにも良いオトコなのだと、あらためて思い知らされる。


(どうしちゃったんだろう、私…)

 いつも以上に、ブチャラティを愛しく感じる。私を見て欲しいと思う。もう、自分のものにはできないとわかっているのに。


 じん、と熱をもった頭を、窓にもたれさせ、ユウリはぼんやりと外を眺めた。


 …思えば―――、予兆はすでにあったのだ。
 ユウリがすべてに気づくのは、もうしばらくあとのことだった。




2012.05.29

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