フィズ
 フーゴがトイレから戻ると、診察室内はシンナーの異様なにおいに包まれていた。フーゴは思わず眉をひそめた。
 彼女の仕事場であるこの診療所の、薬品の無機質なにおいには慣れたのだが、この、鼻を突くような特異なにおいは覚えがなかった。
 おまけに、この狭い診察室内で、ユウリの姿は、カーテンに隠れて窺えない。

「ユウリ?」

 シャッ――とカーテンを開けると、診察台の上で、向かい合って座るユウリとパープル・ヘイズの姿があった。ユウリは、時折こぼれるパープル・ヘイズの涎をふいてやりながら、手元の小瓶をいじくっている。どうやら、においの元はこれらしい。

「マニキュア、ですか」
「ええ」

 問いかけると、フーゴの方は見ずに、ユウリは答えた。
 何を以て「彼」を飾ろうと思ったのか、ユウリは、パープル・ヘイズの爪にマニキュアをぬっていた。明るく、けれど深い紫、チャロアイトのような色合い。

「色味が気に入って買ったんだけど、私には似合わなくってね」

「このコなら似合うと思って」そう続ける彼女に、フーゴは、なるほど自分をよくわかっている、と思う。病的なほどに白い手をした彼女には、この色はあまり似合わない。たとえばもっと柔らかい、そう、今彼女の爪を彩っているこのベビーピンク。そういう色がなんとも、しっくりくる。 

「それで、パープル・ヘイズに会いたがっていたんですね」
「そう」

 一瞬、合った視線はすぐに、マニキュアの小瓶に戻っていく。
 普段、落ち着きのないパープル・ヘイズだが、今は爪を行き来する、ぬれたハケが心地いいのか、鼻歌を口ずさみながらじっとしている。本体であるフーゴ自身も見慣れない、なんとも異様な光景だった。
 それに、殺人ウイルスを孕んだ彼の拳も恐れないユウリの度胸も大したものだ。

 フーゴは、定員オーバーの診察台を避け、そばにあった事務椅子に腰かけた。

「あっ」

 ユウリがつぶやく。同時に、パープル・ヘイズの太ももに、ぽた、と、涎が垂れた。

「もォー、しょうがないわね」

 マニキュアの小瓶はひとまずキャップをしめる。ユウリは、ポケットからバーバーリーチェックのハンカチを取り出し、惜しげもなく、パープル・ヘイズの口元を拭いた。

「ハイ、綺麗になった」

 糸で縫われたような彼の口が、グルル、と獰猛そうな唸り声を上げる。それは喜びからくるものだったらしく、パープル・ヘイズは勢いよく、ユウリに抱きつこうとした。

「あ、こらッ。ネイル、ヨレちゃうでしょ」

 ユウリが言うと、途端にパープル・ヘイズは大人しくなった。「よしよし。良い子良い子」おまけに頭まで撫でられている。
 ひょっとすると、僕よりも上手くパープル・ヘイズを飼いならしているんじゃあないか?―――普段の凶暴さを忘れさせるほどの、人に馴染んだパープル・ヘイズの姿に、フーゴはそんなことすら考えた。

 けれど―――


「ユウリ。僕のことも構ってください」

 そろそろ我慢の限界だ。ユウリに会いにきたというのに、肝心のユウリは自分の分身、パープル・ヘイズに構ってばかり。フーゴ自身、そう気は長い方ではないのだ。

 フーゴは、立ち上がると、診察台に腰かけたままのユウリに近づき、その華奢な肩を抱き寄せた。許しを乞うような姿勢で、においたつ首筋へと口づける。

「ん」ユウリの口から、吐息がもれる。

 首筋から、鎖骨へ。鎖骨から胸元へ。フーゴの唇が下降していく。

「ちょ、っフーゴ、…やめ…」
「やめません」

 ちゅ、と胸元に口づけながら、ユウリの手元からマニキュアを取り上げる。

「ん…もう、フーゴ…ってば」

 ユウリは、くすぐったさから身をよじる。

 いくら大人びていても、フーゴはまだ十六。こんなに大胆な胸元を見せつけられて、我慢しろという方が無茶だろう。

「ン……、ぁ」

 欲望の昂ぶりに身を任せ、フーゴは強引に唇を重ねた。
 ユウリの唇は気持ちいい。うすくひらかれた唇を舌で割り、歯列をなぞる。

 うすっぺらな胸板を押し返そうとする小さな手が憎たらしい。いつもはユウリの方から誘ってくるくせに、フーゴが誘ったときばかりは、こうなのだ。

「ユウリがいけないんですよ。コイツにばっかり優しくして、僕に構ってくれないから」

 咎めるように、生白い首筋に爪を食い込ませると、ユウリは「痛ッ」と小さく悲鳴を上げた。その声に反応し、フーゴを睨みつけるパープル・ヘイズ。

「アナタ…自分のスタンドに嫉妬したの?」

 痛みに喘ぎながらも、そう問いかける。
 するとフーゴは、尖らせた口元にユウリの指をはこび、どこか泣き出しそうな顔で、

「…僕が嫉妬深いこと、知ってるくせに…」

 と、くわえた人さし指に歯を立てた。ガリ、と嫌な音がして、口の中に、錆びた鉄の味が広がっていく。

 ユウリは、とっさの痛みに顔を顰めた。けれど、くいくいと引っ張られるような感触がして、ふと視線をずらす。と、パープル・ヘイズが涎をたらしながら、ユウリの袖を引いていた。

「グ…グギ…」

 そこまで知能の高くない彼だが、ユウリの言ったことはちゃんと聞き分けているらしく、ぬったばかりのマニキュアがヨレてしまわないよう、遠慮がちに、指の腹で布地を引っ張っていた。

 凶悪そうな風貌に似合わない、かわいらしい仕草に、ユウリは一瞬、呆気にとられる。

「パープル・ヘイズ…? なに、もしかして、アナタも構ってほしいの?」

 その問いに、パープル・ヘイズはコクン、と頷く。

「まぁ」

 ぽたぽたとたれる涎で、自身の身体を汚しながらも、かまって、とアピールするパープル・ヘイズに、ユウリは自身の母性本能が刺激されるのを感じた。――「カワイイ」のだ。普段こそ、獰猛そのものである彼の風貌、仕草、それらが、今のユウリには全て、可愛く見えた。

(…そんなコト、フーゴに言ったら怒られそうだけど)

「何です?」
「ううん、何でもない」

 小さく笑って、ユウリは、フーゴの腕からするりと抜けだした。

「あっ」フーゴが面白くなさそうに声を上げる。それを聞き流し、ユウリは、良い子良い子、とパープル・ヘイズの頭をなでた。

「…もう!ユウリっ!」
「いいじゃあないの。言いつけを守ったご褒美よ」
「はあ?」

 何ですか、それは? フーゴは頭に疑問符を浮かべる。

「アナタも、これくらい素直で可愛かったら、甘やかしてあげるンだけどね」

 そう言って、パープル・ヘイズの頭をなでていた手を、頬にすべらせるユウリに、フーゴは、

「…それはこっちのセリフですよ」

 と、本日何度目かわからない溜息を吐いた。




2012.05.19
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