ブチャラティに迫られる
 退勤の時刻を迎え、ユウリは勤めて2年になる中央銀行のオフィスを足早に歩く。
 手堅い職業に就くのが昔からの夢だった。学生時代は勉学に励み、念願叶って金融機関に就職したのだが、今のユウリには悩みがあった。

「ユウリちゃん、そんなに急いで、なにか用事でもあるの?」

 エレベーターで乗り合わせた先輩に尋ねられる。

「いえ、用事っていうか…」

 口ごもるユウリに、先輩社員は不思議そうな顔をした。このあと友人に会うとかなんとか適当なことを言ってごまかせばよかった。
 エレベーターは1階へ降り立った。当たり障りなく挨拶を交わし、エントランスを出る。

(よし、今日は大丈夫そうかな…)

 そう思って最寄駅へ向かおうとしたときだった。マセラティの白いボディが横付けに停車する。

「ユウリ。今日は早いんだな」

 忘れたくても忘れられない青い瞳。逃げるつもりでさっさとオフィスから出たというのに、ユウリは思わず足を止めた。
 まったく、イヤになる。
「……ブローノくん」呆れたようにその名を呼んだ。「来なくていいって言ったのに」

 運転席の男───ブチャラティはいたって真面目に言う。

「お前の顔が見たかった。……ダメだったか?」

 その言い方ってズルい!!
 高潔なこの美青年に微笑まれてなお拒絶できる強固な理性は、あいにく持ち合わせていない。ユウリは吸い込まれるようにマセラティ・ギブリに乗り込んだ。













 初めてブチャラティと出会ったのは、今から約6年前のことだ。
 高校生になって間もないころ、ユウリは友人達とネアポリス郊外の港町を訪れた。
 女子4人でクルージングやビーチスポーツ、バーベキューを楽しみ、ナンパしてきた男たちと遊んだりもした。そのさなか、彼と出会った。



「……はぁ」

 ユウリは防波堤でぼんやりとため息を吐いた。
 沖へ出てどんどん小さくなるフィッシングボートを眺めていると、あの、と背後から声が掛かった。

「……あなたは船に乗らなかったんですか?」

 凛と通る声に振り向くと、黒髪の少年が立っていた。少年の顔には見覚えがある。
 そうだ、あの釣船の主人の息子だ。たしか先ほど、仲間達が船を借りるとき父親のそばにいた。
 年は11、2歳くらいだろうか。幼さの残る顔立ちだが、雰囲気はどこか大人びている。
 ユウリは海を眺めながら、答えた。

「うん。私、船酔いするから」
「なるほど」
「釣り、やってみたかったんだけどね」

 仲間達は少年の父親にボートを出してもらい、釣りへ出かけた。船酔いしやすいユウリだけが陸に残った。
 みんなが帰ってくるまで、カフェで本でも読もうかな。でも不思議と、海を眺めていると心が落ち着く。
 そんなことを話していると、少年はなにか考え込んで、言った。

「釣り、やってみますか?」
「えっ」
「道具なら僕のを貸してあげる」

 少し待ってて、と少年はどこかへ走ってゆき、しばらくして両手に釣り道具を持って戻ってきた。
 釣竿を受け取ると、ユウリは「わぁ」と頬をほころばせる。

「すごい、本格的! 私、釣りって初めて。教えてくれると嬉しいな」
「いいですよ。ちょうど今はスーロ(鯵)やロンボ(平目)なんかが釣れます」
「へえ。さすが、詳しいのね」
「父に教わりましたから」

 友人達が船上で悠々と釣りを楽しんでいる間、1人で孤独に過ごさなければいけないと思っていたので、少年の申し出は有り難かった。
 少年は小さな折りたたみの椅子をふたつ広げると、ひとつをユウリに差し出した。
「ありがとう」ユウリは椅子に腰掛けて言う。「キミ、名前は?」

「ブローノです。ブローノ・ブチャラティ」
「そう、ブローノくんね。私はユウリ。キミ、こんな小さいうちからお父さんのお仕事手伝ってえらいね」
「そんなことは…」
「あっ、照れてる? カワイー!」

 ブチャラティは頬をうっすらと赤く染めて俯く。
「……えっと」気を取り直して餌箱を取り出すと、その瞬間、つい先ほどまでニコニコしていたユウリが金切り声を上げた。

「キャ〜〜〜〜〜〜ッ!!」
「えっ!?」

 ユウリは涙目になり、勢いよくその場から飛び退いた。ガシャッと音を立てて椅子が倒れる。ブチャラティはわけがわからず、餌箱を持ったまま目を白黒させている。

「あの、ユウリさん。どうしました?」
「イヤーっ! ミミズ無理!! 気持ち悪いぃぃ!」
「あ」

 ようやく合点がいった。ブチャラティが持ってきた餌箱の中身は、生きたイソメだ。正確にはミミズではないが、彼女からしたらどちらでもいいことだ。
 半泣きで荒ぶるユウリを、ブチャラティは慌てて宥めた。

「大丈夫ですよ、エサは僕が付けますから」
「うん、うん、おおお、おねがい」
「……ふっ」

 おっかなびっくりといった様子で釣竿を渡してくる年上の少女に、ブチャラティは思わず笑みをこぼした。そんなに怖がらなくても、イソメは噛みついたりしない。
 慣れた手つきで釣り針に生き餌を取り付けると、はいどうぞと釣竿をユウリに渡した。

「あ、ありがとう」

 ユウリは餌のイソメに触れないよう細心の注意を払って、波打つ海へと釣り糸を投げ込んだ。

「あとはひたすら待つだけです」
「そっか」

 先ほど倒した椅子を起こし、また座り直した。隣に座るブチャラティも、自分用に持ってきたもう一本の釣竿に餌をつけ、海へ投げ込む。

「ブローノくんて、いくつ」
 ただじっと待っているのも暇なので、少年をかまうことにする。
「11です。もうすぐ12になります」
「へー。学校行きながら、お父さんのお仕事も手伝ってるの?」
「はい」
「えらーい!」

 聞けば、ブチャラティの家は父子家庭だという。彼の父は元々は漁師で、家計の足しにするため、ユウリたちのようなレジャー客に釣り船を提供しているらしい。
 ユウリはごく普通の一般家庭で育ち、全寮制の高校に進学した今は離れ離れだが両親も健在だ。苦労してきたであろう目の前の少年に対して、並々ならぬ尊敬の念を抱いた。

「小さいのにしっかりしてるね。私達なんてすごいちゃらんぽらんだよ」
「ちゃらんぽらん…」
「あ、でも一応将来の夢はあるよ。金融とか医療機関とか、手堅い職業に就いて、それでいつか年上のお金持ちつかまえて玉の輿に乗るの!」

 リアリストなのか夢見がちなのか。ブチャラティは小さく笑った。
 父の仕事を手伝うつもりで、仲間とあぶれたこの年上の少女に声を掛けたのだが、彼女との語らいは存外楽しかった。
 ローマ郊外の出身だという彼女は、年相応の健康的な美少女で、朗らかで快活だ。化粧をほとんど施していなかったが、まぶしいほどの若さを湛え、見る者を振り返らせる。
 表情豊かで美しいこの少女を、ブチャラティは好ましく思った。

 不意に、ユウリの持つ釣竿のティップ(先端部)が弓なりにしなった。

「あっ!」
「え?」
「引いてます! ユウリさん、リール! リール巻いて!」
「えーっ!」

 ユウリは思わず立ち上がり、リールハンドルを回そうとするが、咄嗟のことで操作ができない。
 ブチャラティは慌てて彼女の手ごと釣竿を握り、正しい持ち方を教える。ユウリはというと、操作に慣れないながらも、きゃあきゃあと初めてのヒットに大興奮だ。

「ここをしっかり握って、こっちに回して…!」
「こう!? 合ってる!? 」
「そうです、あと少し!」
「きゃー! きゃー!」

 ブチャラティの動きに合わせて竿を引くと、ぱしゃっと水面から仕掛けが上がった。糸の先には、小さいが銀色の魚が食いついている。
 ユウリはますますはしゃいで、そのせいで釣り糸がふらふらと揺れて危うい。ブチャラティは急いでタモ網で魚をキャッチした。

「きゃーっ! すごーい! 釣れたぁー!」
「わっ」

 テンション高く抱きついてくるユウリに、ブチャラティは行き場のない手を握りしめて赤面した。
「ちょ、ちょっと…!」少年はまだ異性に耐性がない。柔らかい胸やふんわり香るフレグランスに、否が応でも鼓動が速くなる。

「ブローノくんのおかげだわ! すごーい!」
「いえ、僕はなにも…」

 その隙にユウリの腕から抜け出して、獲れた魚をまじまじと見た。
 レモン色のストライプ模様の入った、小ぶりなタイ科の魚だ。

「これはサルパですね。この大きさなら、素揚げにするのがいいかも」
「綺麗な魚ね。食べちゃうのがもったいない」

 ユウリはバッグからデジカメを取り出し、初めて釣り上げたその魚に向けてシャッターを切った。

「そうだ! せっかくだからブローノくんも一緒に写真撮ろ!」
「えっ。僕ですか」
「えへ、記念にどうかなって」

 旅行の記念に。初めての海釣り記念に。
 ―――ふたり、出会えた記念に。

「あ、でも写真苦手だったら、無理にとは言わないよ」
「いえ、大丈夫です」
「やった! じゃあ撮るね。ほら寄って寄って」
「うッ…」

 ユウリはブチャラティの腕をぎゅっと抱いて、カメラを自分達に向けた。

「笑って笑ってー」
「………ッ」

 ―――近い!
 ブチャラティは他人への警戒心が強く、パーソナルスペースも広い方だが、不思議とこの少女に触れられるのは不快ではなかった。いや、それどころか…。

 シャッターを切る音が数回聞こえて、ブチャラティの腕は解放された。

「現像したら、郵送するね」

 そう言ってユウリはニコニコと少年の頭を撫でた。父とも母とも違う、髪を撫でる優しい手のひら。
 花が咲いたような微笑みを浮かべる目の前の少女に、ただ純粋に見惚れた。

 永遠の初恋が始まった瞬間だった。












 言葉通り、しばらくしてからふたりで撮った写真がユウリから届いた。そのあと何度か手紙のやり取りをしたが、ユウリに会うことはなかった。

 ブチャラティは、自分が大人になるのをずっと待っていたのだ。


 ふたりの出会いから数年が経ち、18歳になったある日、ブチャラティはついに花束を持ってユウリの前に現れた。

『ユウリさん、お久しぶりです』
『………どちら様?』

 初恋の女は存外、薄情者だった。

 



「―――ここでいいわ。降ろして」
「いや、家まで送る」
「いいってばぁ…」

 飽きるほど繰り返したやり取りだ。
 ブチャラティはユウリを家まで送ると言って聞かない。しかし彼に家まで来られると面倒くさい。社宅のマンションにほど近い交差点。赤信号で停止する車の中で、2人はしばし問答した。

「もーっ! ブローノくん、昔はもっと素直だった!」
「俺だって変わるさ。ガキのままのほうが好みだったか?」
「好みとか、そういうんじゃなくてぇ…」

 ユウリからしてみれば、学生時代に出会ったおとなしい少年が、誰もが振り返るような美青年に成長して自分を口説きにきたのだから、寝耳に水もいいところだ。

 ブチャラティはしばし考えるそぶりをして、ああ、と思い出したように言った。

「そういえば玉の輿に乗りたいだとか言ってたな」
「よく覚えてるわね」
「お前のことを忘れたことはないからな」

 サラッとそういうことを言う!
 ひえぇ、とユウリは赤面し、膝の上でぎゅっと手を握りしめた。
 乱れた心をごまかすように強気に言う。

「そんなこと言われても家には上げないからね」
「頑固だな。まさか男と同棲でもしてんのか」
「なに言ってんの…」
「答えろよ」
「…恋人はいません」

 はっきり言って、家の中でこんなふうに口説かれて迫られたら、断りきれる自信がなかった。
 ブチャラティは毎日のようにユウリを職場まで迎えに来たが、未だ自宅へ招き入れたことはない。いつも、マンションのロータリーかパーキングで無理やり降ろしてもらっていた。

 マンションの駐車スペースにマセラティを停め、さて、とブチャラティは助手席の女を見た。

「今日こそ部屋に入れてくれ」
「ダメだってば」
「何でだ。むかし『ネアポリスにお引っ越ししたよ。今度遊びに来てね』って手紙をくれたろ」
「あれは15歳のキミに宛てた手紙なの! もう時効よ!」
「そう思ってンのはお前だけだ」

 ハンドルに手を重ね、その上に顎をのせて、むかし釣りを教えてくれた少年が不敵に微笑む。

 どうしてこんなに良い男に成長してしまったんだ。
 はっきり言って、年下の男なんて趣味じゃない。それは男の好意を跳ね除けるのに充分な理由だ。…充分なはずだった。

「うまいトルタを買ってきた。これならどうだ」

 ブチャラティはそう言ってケーキの入った紙袋を後部座席から取り出した。最近テレビ番組で紹介されていた人気店のものだ。
 ユウリもその店は知っているが、未だ食べたことはない。人並みに甘いものは好きだ。もちろん食べてみたい。
「う…」手提げ袋にプリントされた店のロゴを物欲しげに見つめる。青年とケーキとを天秤にかける。

「………わかった。お茶くらいなら出してあげる」

 天秤は、ケーキの方に傾いた。











 湯気の立ちのぼるティーカップを差し出すと、ブチャラティは小さく礼を言った。
 ―――視線を感じる。一挙一動を目に焼き付けるみたいに、ブチャラティの視線が絡みつく。

「そんなに見ないでよ」
「いや見るだろ。俺はずっとお前に会いたかったんだぜ」
「またそういうこと言う…」
「ちゃんと聞け。それともそんなに俺の言うことが信用できねえか?」
「そ、そういうんじゃないけどぉ…」

 強く腕を引かれ、おとなしく男の隣に腰をおろした。ソファがやわらかく軋む。
 子どものころから好きだったと、ブチャラティに追われるようになってから、幾度となく聞いた。
 ままならない人生だった。それでも折れずに進んでいけたのは、ユウリの存在があったからだと。

「俺はお前につり合う男になりたかった。だから急いで大人になったんだぜ」
「ふふっ。なにそれ」
「笑うな」

 でも笑った顔がかわいい。今も昔も変わらない。
 ふたりで撮ったあの写真はブチャラティの宝物だった。

 ごく自然に腕が腰にまわされる。「こら」ユウリはぺちんとその手を叩いた。

「大人だなんて、まだ18歳のクセに。私は年上のお金持ちが好きなの!」

 欺瞞だった。そんなのは単なる言い訳に過ぎない。
 ブチャラティはそんな浅はかなブラフを見通しているのか、からかうように言った。

「なあユウリ、青田買いって言葉を知ってるか」

 腕の力がさらに強くなり、腰を引き寄せられる。両手でぎゅっと抱きしめられ、身動きがとれなくなる。

「ちょっ、ちょっ…ブローノくん!!」

 唯一自由に動く口で、精一杯の抵抗をする。
 いけない。このままでは流される。

「なんでまだ抵抗するんだ」
「当たり前でしょ! 私はまだ好きかどうかもわかんな…あっ!」

 耳元に男の熱い吐息を感じる。ユウリは思わず喘ぐような声をあげた。
「ま、待って…」逞しい胸板を必死で押し返す。

「き、キスとかダメだから! 怒るからね」
「キスしようとしてるってよくわかったな」

 いたって真面目な顔で言う。
 至近距離にあるブチャラティの表情があまりにも色っぽくて、クラクラした。

「わかったよ。お前の嫌がることはしない」

 そのままの距離でブチャラティは続けた。「だが、知っていて欲しい」

「俺はお前が好きなんだ。信じられるか? ガキの頃からずっとだぜ」
「ブローノくんの気持ちは嬉しいよ。でもまだいきなりすぎて心の準備が…」
「わかった。それならゆっくり待つ」

 しかし言葉とは裏腹に、ブチャラティはユウリを押し倒した。無意識だった。気づいたらユウリの胸と腰に体重をかけてソファに沈めていた。

「ちょっと!? ブローノくん!!」
「別にキスはしてねえだろ」
「トンチきかすな!」

 キスはしていない、押し倒しただけだ。
 一休さんのようなトンチの抜け道を見つけてくるブチャラティに、ユウリは声を荒げた。
 ブチャラティは女の首筋に鼻先をくっつけて、はあ、と熱く息を吐いた。女の身体がかすかに震える。

「だ、ダメだってばぁ…」

 なぜだろう、ブチャラティの前だと生娘のようなことばかり言ってしまう。

「ユウリ、香水、変わってないんだな」
「んっ、もう、やめてよぉ〜…」

「あっ!」語尾は甘く上擦った。
 ブチャラティが首筋を舌で撫でたのだ。

「いいのか? 嘘をついてる味がするぜ」
「なに言ってんの!?」

 突然の奇行に、怒る気さえ湧いてこない。
 当のブチャラティは、どこか楽しそうにユウリのちいさな頭を撫でている。指の隙間からサラサラと髪がこぼれた。

「ずっと抱きしめたかった。…ユウリ」
「ひゃ…!」

 この声で、この瞳で、この熱で。
 耳元で囁かれると、ダメだ。腰にうっとりするような痺れが奔って、身体中がゾクゾクする。
「なあ、ユウリ」
 確信めいた声が、甘く切ない響きをもって鼓膜に届く。

「………これでもまだキスはダメか?」

 吐息が唇をかすめる。青い双眸は熱を孕んで、ユウリの返事を待っている。
 …なによ。なんでなのよ。

「ブローノくん、なんで、こんなかっこよく育っちゃったのぉ…」

 ユウリは赤くなった顔を手で覆ったが、「隠すなよ」とブチャラティがそれを制止する。耳まで真っ赤に染まっているのがわかる。
 その熱い肌を、ブチャラティは愛おしそうにゆっくりと撫でた。

「お前が好きだ」
「……う……」

 困ったようなその表情ごと抱きしめると、やがて初恋の女は静かに目を瞑った。




2019.04.29
お題「ブチャラティに迫られてタジタジになる」「ブチャラティと純愛」
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