アマネは、豆粒のような小さな色と色を視線でなぞる。まるで虫のひしめき合いのようだった。その中で珍しい色を見つけるのは、この現実味のない状況からの逃避のようなものだった。
何故なら間違っているからだ。こんなに歓声をあげられるような人間じゃない。振り返ると、大きな扉、その先は豪華爛漫の煌びやかな部屋。ここは国王が即位の表明に使われるような特別な場所のようだ。光を反射して視線を奪うような強い輝き。

「こんなに…?」

ぽつりと零れた言葉。それは目の前に広がる圧倒的な光景に無意識に飛び出ていた。
カヨウは「そうだ」と同調した。

「王都とその付近の民衆が殆どだ。ここに来れない地方の民からも山のように献上品が届いた」
「けっ、献上品…?」
「ああ…少しでもこの地に長くいてくれという国民の願いだ」

さあ、と血の気が引くのを感じた。

一度だけ、民衆に対して顔見世をすべきだということで決められた日取り。その朝、つまりは今朝アマネは一睡も出来ず体を起こした。薄らと浮かぶ隈にスイショウは血相を変えたほどだ。かと言って日程は流石にずらさないようで、許されたのはアマネは準備ギリギリまで横になっているくらいだ。
しかし朝起きた頃にはもう少しずつ、最前列で少しでもアマネの姿を見ようと願う民衆が集まり始め、まだまだ時間を残していると言うのに昼頃には人で埋め尽くされた。窓から入ってくる声に耐えきれず閉め切り、姿も見えるはずないのにカーテンもぴっちり閉めて布団にうつ伏せでアマネは埋もれた。このまま寝たら全て終わってくれればいいのにと祈るアマネを無情にもカヨウは迎えにきた。そして、足取り重いアマネを連れ立ってその部屋に入り、心の準備もまだだというのに窓を開け放つ。目の前の光景にアマネは眩暈すら感じていた。

自分がこれほど祝われると、小さく、無くなってしまいたくなる。そんな人間じゃないと無性に叫んでしまいたくなる。

アマネさま!アマネさまだ!
民衆の声は止まることを知らず、時間が経過するごとにむしろさざ波のように大きく広がっていく。
視線の先まで人の海。その全てが間違いなく、自分という陳腐な存在を神だと崇め信じて疑っていない。悍ましいほどの期待に、アマネは気分が悪くなり顔を背ける。
雨雲のせいで日もほとんど差さないというのに、多くの人と熱気に活気を感じる。どんな晴れた空も以前までは息苦しかった引きこもり生活を思い出す。あっちの方がマシだ、と。

「時間はそう長くない」
「ど、どれくらいで…?」

出たばかりだと言うのにもう戻ることを望むような言葉にカヨウは斜め上に視線を動かす。
そう長くないと言っても、時間が短すぎると余計な懸念をされかねない。

「あと少し立っていれば終わる」
「だいぶ、限界です…」
「しばし我慢しろ」

無理です、という言葉は掠れて消えた。

いつものアマネであれば大丈夫と遠慮している所だが、それも難しい様子だった。

いつになく弱々しいアマネに、カヨウは鼻で笑ったりはしなかった。そういう気分というものに嫌になる程身に覚えがあるからだった。王であるからこそ感じる重圧、それに慣れ切っているからここに微動だにせず立てるが、この期待に応えねばならないという使命はいつまでもカヨウの心を苛む。
当然、慣れていないアマネには辛い。

スイショウが甲斐甲斐しくお世話し、召使いが仰々しく頭を下げることにもいつまで経っても慣れないのだから、当たり前の反応だった。あんなものはほんの一部に過ぎないということだ。ましてやスイショウは慣れていないアマネを気遣い、アマネに対する態度をかなり軟化させている方だった。

「あの……っ、う」
「ここで倒れるなよ、…そうだな、一度手を振れ。あまり突っ立ったままでは何を言われるか」
「むっ…むり、です」

細かく花やら草やら掘られた手すりを掴むアマネの手は一向に離れる気配はなく、血の気もない。

「アマネ」

催促の声にもアマネはどうしようもなく首を振るしかない。手を振って終わるなら振りたいのに、指先に血が通ってないみたいに冷たく、固く動かない。
その姿を横目に小さく息を吐いたカヨウは、遥か下にいる民衆には見えないようにアマネの細腰を左手で掴むと、右手で肘のあたりを支え、下から上へゆっくり力を込めていく。
冷たい身体に体温を分け与えるような温もりを感じる。

「ゆっくりでいい」

歓声に埋もれることなく静かで低い声がアマネの耳にはっきり届く。宥めるようなものでもなく、慰めるようなものでもない。淡々とした声に、手のひらに急に温度が戻ってくるような感覚がした。
まず手首が浮き、そうして手のひらが離れ、指先もかなりの時間をかけて最後まで堪えるようにくっついていたが、ようやくパッと離れその手が浮き上がる。
ゆっくりゆっくり、アマネの冷たい身体は溶けて柔らかくなっていくように、上っていく。

民衆にはアマネの蒼白な顔も、今にも倒れそうなほどに震える脚も、誰かに持ち上げられてようやく上がる手も見えていない。
ただそこに神がいる。民にとってそれが全てだった。

ひら、と力無く振られた手のひらにドッと空気は揺れる。僅かな雨も気にせず、誰もがアマネの手をあげる姿を見つめ、歓喜の雄叫びをあげた。
その空気に押されるようによろけたアマネをしっかり支えた、大きな手のひらの熱。

それは民衆の熱気よりも強く、熱く感じていた。

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