俺は隣の席で涙目になって必死に問題を解いているクラスメートをちらりと見る。この光景、もう何度目か分からない。
次の科目は数学で、その担当の教師は必ずと言って良いほど毎回宿題を出す。特段難しいものではなく、復習を兼ねたもので当然俺は出されたその日に必ず終えているし忘れたことは一度もない。しかし隣のクラスメイト、瀬戸は違うらしい。毎回授業の始まる寸前で慌てたように解き始める、当然あまり覚えていないから何度も手を止めては唸って、解けないあまり半ベソをかく。
ぐすん、と鼻をすする音にハアとため息をつく。

「瀬戸」
「は、はむろくん…」

舌ったらずな呼び方はまるで小さな子供のようで、自分が泣かせてしまったような罪悪感に陥る。潤んでいた目から期待するような目に変わり、ほら、とその机を引き寄せる。
何度も消しゴムで消したせいか、ノートはやや黒ずんでいる。自分のノートを開いて、説明するために身を乗り出す。

いくつかのヒントでようやく答えを導き出したところで、チャイムが鳴り担当教員が入ってくる。瀬戸はほっとして、それからありがとう、と囁いて笑った。

瀬戸は、どこか気の抜けた生徒で授業中に少し丸まる背中で顔は前に向いているものの意識はすぐどこかにいく。宿題は毎回忘れているし、たまに寝落ちをするし、寝癖をそのままで学校に来る。くしゃりとシワのあるシャツを着てきたことも。この学園にいるのだからどこかの坊ちゃんに違いない筈なのに、そんな部分は一瞬も見えない。
俺にとって瀬戸は自分の真反対をいく男だった。どこまでもだらしなく緩く、自分に甘い男。
そんな自分に自覚があるのか、時折瀬戸は憧れの目を俺に向けてくる。当たり前のことをするだけなのに、何でも出来てしまう天才を見るかのような目で。
ノートを見せれば必ずと言って良いほど字を褒める。綺麗で読みやすい。ノートの取り方もうまいね、と。そしてまた舌ったらずに名前を呼ぶ。
それがやたらとくすぐったくて、恥ずかしい。

そんなことを考えて、授業は終わった。
うたた寝をしていたせいでまだ書き終えていなかった式がさっさと消され、しょんぼりとしている瀬戸の方を見る。

「瀬戸」
「なあに?」
「授業とかちゃんと聞いた方がいい。宿題忘れすぎだし、授業中も寝過ぎ」
「う…ごめん」
「先週も謝ってたけど何も変わってない」
「ごめんなさい」

ぺこりと下げられた頭。何も言わないことにおそるおそる頭が上がったが、目が合うと慌てたようにぴゃっと頭を下げる。

「…分かったならいい」
「うん」

瀬戸は、宿題を終えた時のようにホッと胸を撫で下ろしそれからカバンから大事そうにカメラを取り出した。瀬戸は写真部の数少ないちゃんと活動している生徒で、カメラをとても大事にしている。今日も今日とて、被写体を探しに出掛けるらしい。「また後でね葉室くん」怒られていたこともすっかり忘れたように、にこにこした瀬戸に、ついに脱力した。



今の自分はいつになく苛々している。自分は風紀委員で全ての生徒の模範であるべき、その一点のおかげで物に当たらず済んでいるものの目の前の机を蹴り飛ばしてしまいたかった。
尊敬する委員長への報告があまりに中身がなかった。求められている情報を集められなかった。何でも思い通りに上手くいく筈はない、それは分かっている。

ーー木崎さんは何も言ってこなかった。

それに安堵するほど俺は悠長でも自堕落でもない。何も言ってこなかったことこそ問題だった。もっと責められて然るべきだった、葉室はそう信じて疑わない。
誰もいない教室のドアを勢いよく開ける。バンっと大きな音が廊下に響き渡る。
早足で座席にいくと、カバンを机に放り投げ、そのまま拳をぶつけた。鈍い音。少し凹んだだけのカバン。
少しも気持ちが晴れない、それどころか息を呑んだような音に心臓が思い切り跳ねる。

「びっくりした」
「っ…瀬戸…?」
「うん。こんな時間に会うなんて珍しいね」

瀬戸が教室の開きっぱなしのドアから入ってくるところだった。ざわざわと心臓あたりに変な感触が広がる。見られた、見られてしまった、と頭が真っ白になるのを感じた。

「カバン教室に置きっぱなしなの忘れてたんだ」

確かに隣の席にはカバンが掛けられたまま。気づかなかった。
そのカバンの中に瀬戸は大事にカメラをしまうと、よっ、という軽い掛け声と共にカバンを肩にかける。

「じゃあまた明日。ばいばーい」
「…瀬戸」
「え、なに?」

何も聞かずに帰ろうとする瀬戸を呼び止めていた。頭に浮かんだ言葉が、苛立ちもあって考える間も無く飛び出ていた。

「何で何も言わないの?」
「え、何が…?」
「見てたよね、机殴ってたの」
「うん」
「散々…今日も瀬戸のことだらしないって言った。言われたこともちゃんと出来ないし助けてもらって当然みたいな顔して、ただ謝るだけで反省してないって」
「そんなに色々言ってたっけ…?」

瀬戸は首を傾げながらも、カメラの入ったカバンを優しく誰かの机の上に置いて、こっちに戻ってくる。

「自分のこと棚にあげて、俺最低じゃん。それより、物にあたるなんてずっとだらしないし、屑みたいじゃん」
「うーん」
「そう、言いなよ。俺に言われて嫌だったでしょ、面倒だしうざいって思ったでしょ」
「そんなことないよー葉室くん」

瀬戸はこっちを覗き込んで、ね、と目を細めた。

「それに、一回だらしないのと百回だらしないのは釣り合わないよ。俺、葉室くんが普段からちゃんとしてるの知ってるよ」
「…」
「葉室くんは別にだらしなくないよ。だって葉室くんだもん、ちゃんと頑張ったんでしょ?」

するり、と机を殴った右手を取られる。カメラを抱えるような手つきで触ってくる瀬戸。

「手、痛くない?」
「…うん」
「でもしばらくこうやって撫でてあげるよ」

痛くない、なんて嘘だった。本気で殴ったのだから。教科書の入っていないカバンじゃなんのクッションにもならず、硬い机に躊躇なく骨がぶつかった。瀬戸はそれに気付いていたのかもしれない。手が痛い以上に、もっと胸が苦しかった。きりきり痛んで、さっきからずっと呼吸が辛いような気がしていた。
それがようやく、ゆるゆると撫でる少し体温の低い手によって、解けつつあった。

それから、少し経って葉室やはり瀬戸のことを甘い男、と位置付けた。自分に対しても他人に対しても、甘い甘い男。どんなことにも許しを与えて、二つ返事でいいよと笑う、居心地のいい男。

「葉室くんは大丈夫だから」
「…なにそれ」
「おまじないみたいな?俺もし葉室くんが困ってたら、それ言いに来るからね、大丈夫だいじょーぶって。任せて!」
「………あっそ」

それこそ釣り合っていないじゃないか、と内心思ってしまう。誰かに対して無限の優しさと許しなんて、そう与えるものじゃないし、与えられるものでもない。どれだけ心が広くても、俺には出来そうにない。そんなもの、他の何物にも釣り合わない高い価値がある。
それを隣の席というだけの自分に与えようとしている。まるで無償の愛のような。

「…今日の数学のノート、見せてあげるよ。あと一緒に宿題解こう?」
「えっありがとう!葉室くん優しい!大好き!」

こんなことに手放しで喜ぶ瀬戸に、顔が熱くなるのが分かった。

home/しおりを挟む