なあ、と声をかけられ顔を上げると、白河がいた。同じクラスになったことはないが、学年に何人もいるバレー部の部員がこのクラスにいて、同じチームメイトの白河は度々このクラスに現れるから顔も名前も知っている。でも、それだけだ。顔がいい方言を喋る同級生というくらい。
ついこの間話しかけられたもののそれっきりで、相変わらず赤の他人という感じだったのに。
少し釣り上がった目が、じいっとこっちを見てくる。睨んでいる訳じゃないだろうと思う、少しだけ喉が上下したのが見えた。

「今日、午前中体育あったやろ?」
「あったけど…?」
「ジャージ部屋に忘れたから、貸して欲しいんやけど」
「え」

何故、と開きかけた口を閉じる。このクラスにはバレー部のチームメイトがいて、そっちのがよっぽど親しい筈なのにたった一度話しただけの俺のジャージを借りにきた?別に、教科書でも何でも人に貸すのが嫌という訳ではないし貸したことも借りたこともある。でも、白河がってなると、何で、と聞きたくなってしまう。
そんな沈黙の間、白河はむむむと口を尖らせると急に距離を詰めてきた。緩められたシャツのボタンからほどよく焼けた肌がしっかり汗ばんでいる。今日、そんなに暑くないのに。

「もしかして、俺やから貸したないんか」
「え?いや、そんなことはない、けど」
「じゃあはよ…しろや」
「うん」

机の横に掛かっていた手提げごと差し出すと、白河は意外にもゆっくり受け取った。パッパと奪って行ってしまうと思ったから。

「今度俺のも貸したる」
「いいよ、別に…他の人に借りるし」
「ゼッタイ俺のとこ来るんや、分かったな?」
「あー…はい」

それだけ聞くと満足そうに白河は笑って、じゃ、とさっさと走って行った。
とりあえず体操着は忘れないようにしとこう、と心に決めた。



「あっれー、好きな子に体操着を借りに行った白河クンじゃないですかー」

部活引退が決まった白河たち3年は、後輩指導のために体育館に集まっていた。せっせとネットや得点盤を準備する生徒を見ていた白河の後ろから、勢いよく肩に腕が回る。
白河と同様に引退が決まった元チームメイトでレギュラーたちが、そこにはずらりと並んでいる。

「はあ!?おまっ…な、何で知っとるんや!」
「どこのクラスにもバレー部員がいるからな、諦めろ?…しかも2回も会いに行ったんだろ?もう体操着返したの?」
「まだや、借りたし汗もかいたから洗って返すに決まってるやろ!」
「じゃあ、なに、洗って返すでーって言いに行ったんだ、口実じゃん。借りる時に言えよ」
「そ、そんなんちゃう。別に」

口をへの字にしてそっぽを向いた白河は未だにめげることなくアプローチをしていた。それが実は本人には面倒だと思われていることに気づいていないが。

「俺がもし好きな子の体操服借りたらまずすることは匂いを嗅ぐことなんだけどどう?そこんとこどう?」
「んなことするか、変態ちゃうんや」

必死に探りを入れてくるチームメイトから逃れようとする白河だが、匂い、と言われた途端首も耳も赤くなるのが見えた。誰も言わないが、あ、こいつしっかり堪能したな、とその場にいた全員が思っていた。
白河のガタイには合わないかも、と思った小鳥遊のジャージは緩めに着るのが好みらしくサイズはちょうど良く、着た瞬間から白河の頭は小鳥遊でいっぱいになっていた。

「告白とかすんの?」
「…まだ早いやろ、流石に」
「意外と待てるタイプなんだ。意外」
「2回言うなや。無理に詰め寄っても逃げられる気しかせんねん。久ヶ原みたいなやり方は好かん」
「ふうん?真面目に考えてるんだ。でも久ヶ原はあのやり方でちゃんと物にしてるけどね」
「なっ…そこはテクニックや、押してダメなら引いてみたりすればな、俺の顔も相まって何とか…」

ぼそぼそと、だんだん小さくなる声に吹き出すのを堪えるのが大変だった。顔に自信があるくせに、相手が顔で見るようなタイプじゃないと分かっているのだろう。

どんどん自信がなくなって、仕舞いにはケッと呟いた白河は頭の中に小鳥遊を浮かべた。なんて事の無い同い年の生徒で、少し伏し目がちで、真面目で、それでいて面倒くさがりな、甘い匂いのするだけの男。清潔感のある匂いが好まれる運動部員たちの中にいると、その甘い匂いがじわりと脳に滲んでいくのが分かって、授業中一切集中が出来なかったほどだった。
あれは洗剤の匂いだけでなく、本人の匂いだ。母親のつけるような香水の甘さではなく、多分本人の生まれ持つ体臭なんだろう。

本当は白河は体操着なんて、忘れていなかった。ロッカーの中にしっかりと置いてある。ただ小鳥遊と話したくて、あわよくばその匂いをしっかりと嗅ぎたいという欲望が生まれて、抑え込めなくなっていただけだ。

「まあ、頑張れよ、白河も」

恋を拗らせる白河にチームメイトは何の足しにもならない言葉をかけた。



「あー…アカン」

あかんあかんあかん、と何度も呟いた白河は脱衣所でそのジャージを抱えた。

部活後部屋に戻ってきた白河はいつも通り1番にシャワーを浴びようと脱衣所に入った。
ジャージを持って。
カバンから取り出したのは、当然自分と同じデザインのジャージなのに、小鳥遊のものだと言うだけで白河の目には光り輝いて見えていた。病気や、と呆れながらも匂いの濃い襟の部分に鼻を埋める。馬鹿らしいことに、授業の時より興奮するのは小鳥遊の匂いに白河自身の匂いが混じったせいだ。
すう、はあ、と繰り返し匂いをかぐと甘い匂いが脳に染みる。洗わなければいけないのにずっとこの匂いを嗅いでいたいという欲望に駆られ、その場で蹲る。
換気扇の静かな音や水滴がぽつんと落ちる音が聞こえるほど静かな場所で、白河は呻き声を出す。
生きていて困ったことは一度もなかった。類稀な美貌を持って、運動神経もよくて、何一つ失敗を経験したことがなかったというのに。
恋とはなんて厄介なものなのか、と白河は思い知らされた。

脳裏に浮かぶのは、小鳥遊と出会ったときのこと。
バレー部のメンバーと廊下を歩いていたとき、前から歩いてきた小鳥遊と肩がぶつかり、小鳥遊と目があった。ゴメンと短い謝罪の後にふわりと香った甘い匂いに、心臓を撃ち抜かれた気がした。
少女漫画にもなさそうな地味で、なんて事のないワンシーンが白河の学園生活を180度変えた瞬間だった。
それからは教室の前を意味もなく通ったり、チームメイトがいるのをいい事に教室の中に入り、ついには隣にまで座った。

「ストーカーやん完全に」

はあとため息をつく。
ぎゅう、と握り締めたジャージを返したくない。どれだけ物理的に距離が近くなっても、まだ遠い。小鳥遊は白河のことなんて、どうとでも思ってないことくらい分かっている。
話しかける理由がいらない関係には至っていない。違うクラスな以上タイミングがない。久ヶ原のようにはうまくいかない。

「あー…てか、どないしよ、これ」

腰の奥の熱、疼き。
ジャージの匂いだけでこんなんなってしまうのはあかんやろ、と白河は呆れ果てる。より一層返すのが惜しくなり、あと10分だけにしよ、と再度顔を埋め、ようやくそれを手放したのは1時間後だった。

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