いつもより怠かったのに、引退したあとの部活ではしゃいでいた。未だに優勝した興奮は冷めないし、チームメイトとやるバスケは何よりも格別だ。たまらなかった。
夕方になって、体育館から帰るとあたりはすっかり暗くなっていた。高校大会優勝まであっという間だったから、そういえば今は冬なんだと思った。季節がどんどん移り変わっていくのを感じる前に、早送りみたいに過ぎていった。それくらいバスケに熱中したし、何もかも捧げた。

最近は寂しいけど。

ぽっかり胸に穴が空いたみたいに、何もかもが消えていった気がした。達成したからだ、目指すべきものを目指してきて、それをつかみ取って、そうしたら急にゴールが見えなくなった。バスケは楽しいけど、家業を継ぐには捨てなきゃいけない。
はあ、とため息をつくと体温が上がった。

「やべー...部屋、はあ、帰れっかな...ッ」

ここは寮だし、まだ遅い時間でもない。人通りは少なくても誰か来るだろうし、監視カメラにも座り込んでいれば気付くに違いない。でも多分ただの風邪だし、誰かの手を紛らわせるのは面倒だった。
だけど廊下は長いし、まだ階段も上る。壁に手をつきながら歩くのが精一杯だ。頼るなら知らないヤツより見知ったヤツ。1時間前まで遊んでいたチームメイトにでも頼ろうと、取り出したケータイがするりと手をすり抜けていった。あー最悪。かがむのも、辛いのに。

「...草間?」

そのとき、すぐ後ろから人の声がして心臓が出そうになるくらい驚いた。気配を感じなかったのは多分、調子が良くないからだと思うけど。振り向くと青海がいた。クラスメイト、毎日顔は見るし挨拶もする。仲が良いって訳じゃないけど、普通のヤツだし話しやすい。
その顔が心配げにこちらを見ていて、明らかに異常だと気付いたのか駆け寄ってきた。ぱたぱたと鳴る足音は普段体育館で聞くドンドンという低い音と違って、何というか可愛らしい、小動物の足音みたいだと思った。

「大丈夫?...うわっ、すごい熱いよ」
「多分風邪...じゃなくて熱」
「保健室連れて行くよ、ちょっと遠いけど」
「いや、部屋のが近いし、薬もあるから、ッ」

俺の言葉に青海は迷ったのか、何度も辺りをきょろきょろ見回して、えーっとと繰り返した。でも結局、俺の意見を採用したらしく頷いた。

腕を肩に回して何とか普段は2段飛ばしで登り切る階段を10倍以上時間をかけて上った。青海は重い俺の体重を支えているからか「よいしょ」と言いながら上っていた。
あとちょっとだよ、とか、大丈夫だよと声をかけられるのは新鮮だった。元々身体は丈夫だし、体調を崩したのも何年ぶりだろうって言うくらいだ。保険医なんて怪我をしたら面倒そうな顔をするというくらいだ、こんな風に言うヤツなんてそういない。
熱で心臓がばくばく言っていた。

なんとか部屋の鍵を開け、靴をもたつきながら脱ぐ。ルームメイトはこの時間だと飯を食べてるからいなかった。

「ソファでいいよ」
「ベッドのがいいに決まってる。ほら」
「部屋、きたねー、から」
「俺の部屋だって汚いから大丈夫」

何が大丈夫なんだ、という突っ込みの前に俺の個室が開けられて青海は息をのんでいた。俯いている俺の足下にころころと空のペットボトルが転がってくる。いつ飲み切ったのかも不明だ。

「確かに、とりあえずソファのがいいかも」
「......だよな」
「うん。横になってて。毛布だけ取ってくる」

そう言って青海は躊躇いもなくゴミ部屋へと脚を踏み入れていく。その背中はまるで戦士の背中...それは冗談だけど。一応踏む場所も避けていけばある。俺もあの部屋で寝て毎朝目が醒めるんだし、環境は最悪だけど生きていけるからな。まあ一応。
そのせいで熱になったのかは、不明だけど。

ソファにだらりと横になりながら、ぼんやりと開きっぱなしの扉の奥に消えていった青海を見つめる。わあ、と楽しそうな声が聞こえて何かが落ちる音もした。多分毛布を引っ張った時にベッドに置いてあったのも落ちたのだと思う。そうしてようやく帰ってきた。

汚い部屋に行った割にはあまり気にしていない様子だ。意外とたくましいのかもしれない。

上から毛布を被せられると青海と目が合う。
青海はゆっくり瞬きをして、へにゃんと笑った。口角は上がっているのに眉は困ったように寄せていて、なんだろう、本当にへにゃんという表現が似合う弱々しい穏やかな笑い方だった。

「悪いな」
「暇だったから丁度良いよ。薬ってどこにあるの」
「その棚の上から2番目の引き出し...あ」
「うわぁっ」

引き出しを開けた拍子に何かが飛び出して落ちた。空の箱で、なんとかルームメイトのおかげで保たれているリビングだけど、開ければ飛び出すびっくり箱だ。飛び出るのはゴミだけど。
目を丸くしてきょとんとした青海は、何度か瞬きをして、それから「えっ?」と言った。

「ごめん」
「......いいよ、えーっと熱...これかな」

体調は滅多に崩さないから薬の減りは早くないし十分すぎるほどあった。
それを持って青海はグラスに水を注いで持ってきた。手が熱いせいでグラス越しの水もひんやり感じて心地よかった。

肩に腕を回されてゆっくり起こされる。こいつ面倒見いいな。介護ってこんな感じなのか。ごくりと錠剤を水で流し込んで、水も飲みきると「もっといる?」と聞かれた。首を傾げる様子が動物みたいだ。妙に似合っていて、大げさには感じないし自然体みたいだった。

「...どうした?怠い?」
「んー...なんか、胸が」
「胸!?えっ、じゃあやっぱり先生呼ぼう。それか救急車、ね!草間!」
「痛いわけじゃねえよ...大丈夫だって」
「本当に?大丈夫?」
「大丈夫、分かったか?落ち着け青海」

おろおろとみっともないくらいに慌てて、頭を抱える青海は本当に心配してくれるらしい。ただのクラスメイトを。優しいヤツだ。
どうどう、と落ち着かせるとへなへなと崩れ落ちて、こっちを覗き込んでくる。なんだその木陰から覗くウサギみたいな顔。

思わず笑うと、全身の力がぐっと抜けていった。薬が効いてきたらしい。
まぶたを閉じる直前、見上げた青海はやっぱり小動物みたいな顔をしていた。




誰かがドアを閉めた音がして、意識が覚醒する。ぼんやりしながら音のした方を見るとルームメイトが丁度帰ってきたところだった。ルームメイトはソファで寝そべる俺を変な顔でこっちを見ていた。部屋じゃなくてリビングのソファで寝てるんだからな。
いつの間にか暑くて蹴落とした毛布を拾い上げて、辺りを見渡す。もう青海はいない。額に手をやるともう熱は冷めていたけど、心臓が相変わらずいつもより鼓動が早かった。

あー明日礼言っとこ。

毛布を引きずって部屋に戻ると、いつもと景色が違う。相変わらず汚いけど、ゴミがなくなっていた。ウェアはたたまれていて、足の踏み場がしっかりある。散らかっているけど汚くはないし、誰の仕業かは分かった。青海だ。
棚から閉まらないほど溢れたものや机の上のものには手を付けていないらしい。変なとこで礼儀正しい。知らなかったクラスメイトの好感度がうなぎ登りだ。

タンスの上の埃は以前と同じようにある。掃除機はルームメイトの部屋にあるから探しても見つからなかったのかもしれない。下手に開けることになるから、探さなかったのかもしれない。

部屋はマシになっただけで相変わらず空気は埃っぽい。空気を入れ換えよう、と久しぶりに窓の施錠に手をかけて、変なものが視界に入った。ものというか、何?
ゆっくり巻き戻しみたいに、視線を戻していくと長らく開けていないどころか触っていないせいで幅の広い銀の窓のサッシのとこには薄く埃がまんべんなく被っている。

一カ所を除いて。

「...ねこ?」

その埃を指でなぞって何か、多分ネコを描いたらしい。点の目がこっちを見ている。今にもにゃーと聞こえそうだ。

「なんだそれ」

かわいいなアイツ。
また心臓の鼓動が早くなった。

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