王都一の遊郭の、一番人気の男は傾国と呼ばれるに値する男と言われはじめたのはここ最近であった。王もまた惚れ込み毎日とはではいかないが週に何度も訪れるほど気に入っている相手だという。
美しく、妖艶で。性技も群を抜いているといい、貴族たちは彼を抱くために、一夜の夢を見るためにありったけの金をつぎ込み破産させたという。
平民からしたら遠い人間で、姿を見ることなど到底叶わなかった。
下男は、その遊郭で働いていた。幼い頃両親に捨てられ、その遊郭で働いていた遊女に拾われ良くしてもらっていた。顔は秀でるものなく、売りには出せないということで裏方の役目で働いていた。
髪を結ぶのが得意で、遊郭の人気者たちはだいたい髪結い師に頼んでいるが、それほどのものたちは時折下男に結ばせていた。
下男は普段掃除をしたりと、忙しい。遊女たちとは違い昼に忙しく夜に眠る、もちろん客が暴れたりされたら叩き起こされるが。
下男は、傾国を見たことがあった。遊郭の一番高いところに住む傾国。はじめて見たのはたまたま食事を運びに行った時、あまりの美しさに一瞬時が止まったと思ったほど。そして畏怖した、恐ろしい、まさに傾国だ。
王を迷わせ国を傾けるほどの美貌だ。
怖かった、虎を見た時や幽霊を見た時などとは違う、別の恐怖。
下男はそれからは傾国には会っていなかった。もともと会えるような人間ではないのだし、当たり前だった。
その日は、夜に叩き起こされた。どうしても来いと言われ寝ぼけ目のまま連れて来られたのはその傾国の部屋だった。一気に冷水をかけられたが如く目を覚ました下男を一人置いていき、そして襖が開かれる。

「よく来た」
「は、…はい」

男も女も腰砕けにさせる声で下男を迎え入れた傾国は手招きをして下男を呼ぶ。おそるおそると入る下男は傾国が手を伸ばしても届かない位置で立ち止まる。

「すまない。寝ていたのだろう。先ほど相手をしていた者が暴挙に出て、髪を乱された。髪結いを呼ぶには申し訳なく、そなたに頼んだ。聞けば手先が器用と」
「そ、そんなこと…」

傾国の普段は結われている黒い髪は確かに解かれていて。下男は声を震わせながらかぶりを振った。

「謙遜するな。いつかそなたに結んでほしいと思っていた。ほら、寄れ」

もっと来いと、手招くそれにゆっくり近付くと傾国は小さく微笑んだ。それに下男ははて、と思った。傾国は美しく妖艶であるが笑わないと、聞いていた。

無防備に背を向けられ、その髪を掴んでみると質が違う。下男のものとはもちろん、別の遊女とは段違いなほど。
それに、おののきながらも丁寧に結んで行く。

「そなたはここに何年いる。私が知った時はもう既にいただろう」
「ええと、五つの時に拾って頂きそれから二十年ほどかと。あ、あの、髪留めは、」
「好きなのを選べ、そうか長いな」

髪留めはいくつもあった。どれも高いものと一目でわかる。石の輝き方が違うのだ。無闇に触るのもよくない、と思い一番端っこにある赤いそれを掴んだ。

「趣味が合うな。私の気に入りだ。誰がくれたか分からぬが」

それで結わえると、ほう、と傾国は感嘆の声を上げた。

「上手いな、使用する者より主張せず、それでいて引き立てる。良い、なるほど」
「ありがたき、お言葉です」

傾国は鏡に向かい角度を変えては見つめていた。そして下男と鏡越しに目が合った。

「感謝する。これから陛下が来るのだが、おそらく気に入ってくれるだろう」

最後にそう褒められ、下男は傾国の部屋を後にした。
それから傾国は下男を気に入り、時々下男に髪結いを命じた。

「そなた欲しいものはあるか」
「え、」
「そなたに髪を結ばせてもらっている。何か、金でも菓子でも髪留めでも、何か欲しいものはあるか」

ぎょっとする下男。髪留めも、菓子も高価なものばかりを持つ傾国。それをもらえるなんてとんでもない、と。
ふるり、と首を横に振った下男に傾国は顎に手を置いて考えるそぶりをする。

「そうか、貴族の男たちは私の唇を欲しがるのだが、」
「く、っ」

くちびる。そう呟いて傾国の唇を思わず下男は見てしまった。薄く淡い色を持つそれは、他の遊女とは違うと思わせる。だが、誰もが欲しがる色を放つ。ごくり、自然と鳴る喉に傾国は目を丸くして、そして振り返る。
鏡越しではなく、目の前に顔がある。美しく人を狂わせるその顔が。
そして唇が近付き、合わさる。柔らかく、あたたかい。良い香りもする。時間としてはすぐ、唇は離される。足りない、そう思ってしまった。
その考えを見抜いたように再び傾国と唇が合わさり、そして先ほどより深くなる。

「んぅっ…ぁ、んん…っ」

舌が差し込まれ、絡められる。与えられる唾液を飲み、顔を紅潮させる下男の頬を撫でた。
歯列をなぞるその口付けは下男を飲み込むような勢いで、下男はどんどんその口付けに溺れた。

「んむっ…ん、」

しばらくして離れた唇に、下男はぼんやりした。口付けですら快感を、覚えた。

「また、結ってくれたらしよう」

下男は、いつものように回廊の掃除をしていると歩いてくる遊女にぱたぱたと近寄った。その遊女は、下男を拾った遊女で、この遊郭で年は最年長ながらその美貌は冴え渡り、傾国の次の人気を誇る。
実は遊郭一の座を、つまりは傾国の位置を狙っているらしい。なんせ傾国が入ってきたおかげで二位の位置にいる遊女だったからだ。
けれど、母のように慕っていて、その遊女も下男に気付くと笑って迎えた。

「久しぶりですわ、元気でしたか」
「は、はい」

遊女より下男のが背が高いが、遊女は手を伸ばし下男の頭を撫でる。いいこいいこ、と母が子にやるように。

「そういえば、最近あの傾国の髪を結っていると聞きましたよ」
「その、お気に召していただいたようで」
「よかったわ。嬉しいです、あなたのその腕が認められて」
「まだまだですよ。傾国の方はお優しい」

そう、と言い景色に目を向けた遊女は、何処と無く寂しげだ。どうしたのだろうとオロオロする下男を見て、口を開く。

「実はですね、北の地方に私の古い友がいて、その方は髪結いとして有名な方なの。長いこと弟子ももたずやっていたのだけど、私があなたの話をしたら弟子にしたいと申し出まして。それで、よかったら行ったらどうですか」
「ほ、本当ですか」
「はい。しばらくはお手伝いとして、少ないですが給金も与えると言っていました」

下男は顔に喜色を浮かべた。ただ楽に髪結いになりたいわけではなく、誰かに弟子入りしてそばで学びながら一人前になりたいと考えていた。母同然の遊女を伺うと、行って来なさいと悲しげにも笑ってくれていた。

「荷物をまとめて、踏ん切りがついたらお行きなさい。たまに文でも頂けたら嬉しいですわ」
「わ、わかりました。お金も送ります、本当にありがとうございます」
「おやまあ、男が泣くもんではありませんよ。お拭きなさい」

手巾を渡されたが、ごしごしと服の裾で拭く下男を眩しげに見つめた遊女。穏やかな眼差しで見つめる中、下男は涙が止まらなかった。

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