年齢=童貞年数なんて、高校の時は馬鹿だと思った。大学に入れば誰でも彼女は出来るとか、そんなネットの言葉を信じて早三年。通学時にはこっそり電車ではじめてのキスとやらの記事を読みふけっていたのがまるで昨日のことのようだ。

未だに彼女のかの字もないどころか、女の子との出会いの場もなかった。

不思議なのは、それが理系大生の末路だからと言っていた友人たちの傍らには彼女がいることだ。もう誰の言葉も信じられない、と俺はこそこそと図書館に入り浸るようになった。

彼女が出来ないならせめて成績良く、いい会社に入ろうと安直な俺は人の少ない図書館に籠る事こそ出会いが減っている原因だなんて思いもしていなかった。
そんなこんなで半年以上は入り浸っている図書館。そろそろ顔パスで通してくれるんじゃないかな、なんて期待しながら学生証をかざす。迷いなく向かったのは分野ごとにまとまった大きな書架が並ぶエリア。

書架の奥にある古い建築関係の雑誌をめくっていた俺は、ふと目の前に影が差したことに気付いて顔を上げた。自分がいるときに、こんなところまで人が来るのは半年は通い始めた中で初めてのことだった。

邪魔だったかな、と小さく「すいません」と謝って壁際に寄る。その際にちらっと見上げた顔は見覚えがあった。
というのも、有名人だったから。一個上の四年の先輩で、理系の大学にいる数少ない女子たちがみんな目を輝かせてみていた人だ。頭が良くて教授たちの覚えも良い、後輩や先輩など幅広く知り合いがある有名人。

確か――花宮先輩。イケメンは名前も格好いいんだと驚いた覚えがある。図書館で初めて見るななんて思っている俺は一向に動く気配のなさに怪訝に思って、正面から見つめるとキラキラした漫画のようなイケメンが「白瀬」と名前を呼んできた。間違いでなければ俺の名前だ。

本じゃなくて俺に用があったとは、先生の呼び出しかなと首をひねって「はい」と返す。

「はじめてのキスが知りたいんだろ」
「は……はい?」
「だから―――まあ、いいや。教えてやるよ」

困惑する俺は壁に押し付けられ、自分より高い位置にある顔がゆっくりと近づいてきたのを呆然と見つめるしかなかった。
むにゅ、とか、むに、とかそんな感触が口に押し付けられて、俺の頭は真っ白になった。

はじめての、キス?それって昔読んでた記事の名前だっけ……?え?俺のファーストキスが…?なんで?俺が、なんで、先輩と…?え?―――は?

「ん、ちょっと…先輩、っ」

ようやく回ってきた頭でなんとか拒否しようと先輩の胸を咄嗟に押して、離れる。でも一瞬で腰に回ってきた腕に引き寄せられて腕が先輩と自分の身体で板挟みになって身動きが取れなくなってしまう。
あむ、とまた唇に温もりが戻ってきて、俺はううう、と呻く。

ーーどういうことだよ。
確かに彼女は欲しいしキスもしたい。でもそれは俺が好きになった女の子であってこんな、成績優秀で院進も決まっているイケメンで女子にも後輩にも教授たちにも人気の男の先輩としたい訳じゃないのに…っ。

「ぁ、んぅ…」

角度を変えて、何度も合わせてくる唇の感触は不本意ながら、……とても気持ちよかった。
ちゅ、ちゅ、と繰り返されるリップ音。腰に回っていた腕は緩んで、今は壁に押し付けられて身体を囲われていた。

「は…ふ、ぁ、ぅ」

ふわふわと心地よい気持ちになりながら、唇の動きをつい心の中で追ってしまう。
なんで、という気持ちは未だにある。だってこんなこと五分前までの俺ならあり得ないでしょと一笑できる事態だ。この先輩はなんか間違えてるんじゃないかと。例えば俺が女の子って思いこんでーーーいやいやあり得ないあり得ない。

思考に耽る俺を咎めるみたいに、下唇を優しく歯で挟まれる。

「はっ……ん、ん……っ」

ってか、なんだこれ…気持ちいい?きもちいい、こんなにキスは気持ちいいんだ。
大学に入ってずっと知りたいと思っていた感触を思い知らされて、俺はうっとりした。それがいわゆる初心者に対するお優しいキスと知るのは、後日から始まったキスの関係で嫌というほど思い知らされることになるとは、まだ俺も知らない。

壁に寄りかかってキスをしていた時間は一分もあったのか分からない。長い時間に感じた。
ちゅ、と音を立てて離れた唇におそるおそる瞼を開くと先輩が満足気に目を細めて笑って見下ろしていた。

「どう?ーーー気持ちよかっただろ」
「は、い…」

頭で考えるより先に頷いていた。だって今までで一番、気持ちよくて。
蕩けた目をしていたのだと思う。前髪を横に流されて、顔をまじまじと見つめられて。それでもなお俺はキスの感触のとりこになっていた。

ふ、とまた近づいてくる気配に反射的に目をつむると、ぬる、と唇の上を柔らかく濡れた感触が滑る。めくれた唇から、歯にも触れた。なめ、られた…?
しっとり湿った感触からじぃんと熱が広がった。

「続きは…また今度な」

低い声で囁かれて、こくりと頷くのを確認した先輩は足早に書架の奥に消えていく。そのあとの俺は閉館時間のアナウンスが入るまで呆然と、立ち尽くしていた。唇に残る感触を頭で何度も反復しながら。




あれは、何だったんだと何度思い出してもその答えは導かれることはない。次の日も図書館のあの場所に行ったけれど、キスを思い出したら何も手がつかなくて、そんな自分が不安になって、あんなに通い詰めていた図書館にはもう一週間以上足を運んでいない。
構内で先輩には会っていない。卒業論文の実験やらで忙しい時期で、見かけた他の四年生の先輩もぐったりしている様子だった。

これでいいんだ。あんなのは夢のようなもので、何かの間違いだった。だからもう思い出すな。
頭でそう思い込んでも、授業中やふとした瞬間自分の唇に指を当てて思い出してしまう。そのせいでせっかく配属された研究室でも、毎週出される課題を忘れてしまい、次は二週分提出しなければいけなくなったというのに。

ーー課題のためだ。
そう言い聞かせて、図書館に足を運ぶ。何となく周りを見渡しても先輩はいない。人も少なく、構内のどこよりも静かな図書館で俺の心臓が一番うるさいんじゃないかと思った。

奥の書架を覗くと、もちろんいつも通りいない。ほっとしたような、がっかりしたような、どっちの気分なのか分からない。
とりあえず借りる本を、と背表紙に目を走らせていく。い、一時間くらいここにいよう。借りるだけで済むけど、もしかすると他にも参考になる本があるかもしれないし。

抜き出した一冊をぱらぱら捲っていると、足音が聞こえた。どんどん近づいてくる。
図書館の職員だろうか。それとも、もしかするとーーー俺の期待する人なのか。神経が尖って、無意識に何度も同じ行を目で追ってしまう。内容だってちっとも頭に入らない。

そしてあの日と同じように、先輩が姿を現した。無表情の中に不機嫌な感情がチラついていて、いつもは笑っていることのが多いイメージだったから初めて見る顔だった。
無言で近寄ってきた先輩を見上げる。自分がどんな表情をしているのか分からない。嬉しい?怖い?不安?でも期待に胸が膨らんでいる。
唇を先輩の親指の腹がなぞっていく。この間の感触を覚えているか、と確かめるみたいに。

先に目を閉じたのは、俺だった。

「ん、んぅ…」

この間と同じ、押し付けるキス。でも距離が近くて、鼻をこすりつけ合うように何度も頻繁に顔の角度を変えて、先輩はキスの出来なかった時間を取り戻すみたいに、俺の唇と溶け合うみたいに、何度もキスをする。
後頭部に回った左手は俺の髪をくしゃりと撫でつけて、梳いてくる。頭皮を触られる感触に背中がぞわぞわして身体が脱力していく。

「ぁ、…ん、ふ、ぅぅ…」

漏れる甘い吐息に顔を赤くしながらも、俺は抵抗せずにそのキスを甘受した。一週間以上も何度も思い出して、待望したキスだったから。
ぐいぐいと唇で押されて、気づけば背中が壁にくっついていた。ふにゃふにゃになっていた身体は壁に寄りかかって、もう先輩のキスに支えられているような状態だった。
よく口が小さいと言われる俺の唇を飲み込むように、先輩は口を開けては俺の唇を覆って、吸い付く。先輩の荒い息が何度も唇に触れて、その興奮に俺の息も荒くなる。

「は、ぁ、…っ」

息つく間もなく容赦ないキスに、心が満たされていく。気持ちいい、気持ちよくてほんの少し息が苦しくて頭がぼんやりしている。
身体の横にだらりと放置された手から滑り落ちそうになっていた本がするりと抜き取られる。書架に音なく置かれると、空いた右手に先輩の空いた右手が触れてくる。指の間に節張った指が入ってきて、長い指先が手の甲をすり…すり…と撫でてくる。

「く、ふぅ…ん、ぁ、」

甘えたような声が漏れて、それを先輩がくすりと笑う気配がする。恥ずかしい。童貞でお付き合い経験のない俺はキスや密着している状態や手をつなぐなんていう行為にいちいち反応してしまうのだから。
恋人のようにぎゅ、とつないで手が上に引き上げられる。

「ん、…顔真っ赤だな」
「は、ふ……息、くるしくて…っ」
「……鼻で息するって書いてあっただろ、出来ないのか?」

書いてあった。記事には確か。ふと、先輩はあの記事を知っているのか、なんて思った。

鼻で息を吸おうにも長年鼻炎を患う俺はずる、と汚い音を立てるだけで吸える空気が多くないのだ。先輩は思わずといったように笑っていた。
その無邪気な笑いにむっとして反抗しようと開いた口は、またキスで防がれた。
その代わり息をつく余裕を与えるように少し経っては離れて、そのたびにちゅ、ちゅ、と音が鳴る。こっちの方が恥ずかしいんじゃと思いながらも、先輩の与える時間に少し息を吸ってはキスをした。

先輩の膝が足と足の間に入り込んで、その太ももが俺の…ほんのちょっと勃起してしまったちんこに当たっている。たぶん気付かれていない。キスと、そこから広がる熱にうっとりしながら、堪能するしかなかった。

しばらくしてようやく解放されーーもう少ししたかった、なんて思っていないーー先輩はこの間とは異なり、また明日、と言った。
明確な約束をしなかったせいで一週間以上も会わなくなった俺に焦ったのかもしれない。こくりと頷くと、またあの時のように唇を舐められる感触。下唇と、上唇をしっかり舐めてまるで明日まで忘れるなと言わんばかりに。

去っていく先輩の背中を書架越しに見つめながら、既に明日が恋しくなっている自分がいた。

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