ハロー、の言葉を皮切りに飛び交う異国の言語。それが耳に入ってくるのに、早瀬はようやく最近慣れてきたところだった。
海外の長期出張が決まった時、早瀬はまず頭にどうしよう、と不安が過った。そういう会社と分かっていて入社し、完璧とは言えないもののコミュニケーションをとるのに十分な英語も話せる。それでも文化や慣習の違う場所となると不安が生まれ、自分の覚悟がいかに甘かったことを痛感した。会社の先輩たちはそのうち慣れるから大丈夫、と背中を叩いたが不安は消えないまま、飛行機に乗り込み異国の大陸にたどり着いた。

それが3ヶ月前。
思ったより何とかなっている、それがいまの早瀬の感想だ。店にある食事が量が多いのが目下の悩みではあるものの、それも自炊をすることで解消しつつある。
周りとも仲良くなり、気軽に話しかけ、話しかけられることも増えた。多種多様な人種がいるだけあってアジア人もあっさり受け入れてくれていた。

大抵早瀬が言われるのは、高校生が来たのかと思ったよ、子供じゃないかと顔立ちのことばかりだ。三十路だと言えばみんな悪い冗談だと笑った。確かに、同世代どころか下の世代ですらこっちの人は大人びた顔立ちだ。アジア人が若く見られるのって本当なんだ、と思い知らされた。

コーヒーをすすりながらパソコンのスイッチを入れる。
起動の静かな音を聴きながら、窓の方に視線をやるとビルが乱立しているのがよく分かる。百階越えのビルの七十階に早瀬のオフィスはある。

車なんて米粒で人なんて砂粒ほどに小さい。長く覗き込むと気が遠くなりそうになるため、やめておいた。
起動しはじめたパソコンに視線を戻す最中、早瀬はとある視線とぶつかった。

このフロアの、この部署の唯一の仕切られた部屋。完全にルーバーで閉じられるものの、全面ガラスの個室の部屋。その奥からの視線だった。
早瀬が指示をもらう中で一番上の上司で、マシューの愛称で呼ばれる金髪のヨーロッパ系の男。

ーー短く刈り上げられた金髪と、彫りの深い奥に海のような鮮やかなブルーの瞳、透けるような白い肌、微笑みの似合う甘いマスク、とかなんとか他の女性社員が言ってたな。

早瀬が人生で出会った中で最上位の良い男で、女性の多くがうっとり眺めているのを日本からやってきて3ヶ月で嫌と言うほど見かけた。
スタイルも、シャツ越しに締まっているのがよく分かる、顔も身体もパーフェクトと言ったところ。

ーー俺には関係ないけど。

いくらあの上司がイケメンでも、早瀬にとっては上司という枠からは抜けない。もちろん部下を気遣える良い上司ではあるが。
その上司とやけに目が合う。早瀬が会社に来てからすぐに気付くようになった。

ーーなんせ視線が熱い。

熱心に、彫りの深い奥からじっと視線が飛んでくる。はじめこそ気のせいかと思っていた視線だが、毎日何度もとなれば気のせいでも何でもない。
こっちまで参ってくる、早瀬はなるべく自然を装って視線をずらす。
生まれてこの方、あまりモテる方でもなく女性と付き合ったことはあるが好意を寄せられたことはあまりない。それが、分かりやすいほどの熱のこもった視線におかしくなりそうだった。

ーーゲイじゃないのに。

なるべく気にしないようにしよう、と気を取り直してパソコンの画面を見つめ直した。

しばらく仕事に集中していると、時間はあっという間に経ち昼の時間になっていた。早瀬は基本外のカフェで食べているため、誰かと行くことなく財布とカードキーを持ってオフィスを出る。
早瀬は基本的に毎日同じ店の、同じサンドウィッチを頼みコーヒーを頼む。流石の店員も、毎日アジア人が同じものを頼んでいくから覚えたようで、最近はにこりと微笑まれることが多い。
いつも通りのものを注文し、外のテラス席に座る。

「やあ、上手くいってる?」

ようやく見慣れてきた街並みをしばらく眺めていた早瀬は不意に後ろからかけられた声に肩を震わせた。こんなとこで誰かに話しかけられるのは初めてだったからだ。

「…マシュー」
「驚かせたかな…よくここに来ているのを見かけたからさ。それで仕事はどう?」
「何事もなく、やらせて頂いていますよ」
「そう?それは良かった」

マシューは向かいの席の椅子を引いて、「失礼しても?」と尋ねた。断る理由もなく頷くと座って手を組んだ。
そうしてまた、あの視線。

「君の存在は既に僕のフロアではなくてはならない存在だよ。仕事も早く、穏やかな性格で、みんなの評判がいい」
「…そんなことは、」
「謙虚なところもね」

ただ、話している相手を見るだけかもしれない。それでもこっちの一挙一動を見逃さないような雰囲気があった。無難な返事を許さないような、強さ。

それが店員が現れたことでフッと消える。コーヒーが届いて、マシューはそれを一口。それから手を伸ばしてきて、ふ、と投げ出していた手を撫でられる。安堵していたところに不意だったのもあり、大袈裟に手が震えた。

「”かわいい”と言うのは君みたいな人を言うのかな」

かわいい、が聴きなれた音の奇妙な発音だったから一瞬意味が分からなかった。そういえば、かわいい、って世界でも有名な単語なのか。
分かっても、なんと返すか言葉が見当たらない。

「子供みたいに怯えているのを見ると、こっちまで変な気になりそうだよ」

足に何かが触れる。マシューの足が擦り寄ってきて、擦り付けるみたいな動きで心臓が一気に跳ねる。
布越しなのに、ゆっくり舐めるように、すり、すりと、いやらしささえ感じるような。

「リョウ」
「っ、あの、マシュー…」

名前で呼ばれ、カッと顔が赤くなる。
我に帰って手を引こうにも、早瀬より一回りは大きい手にがっしり掴まれていて逃げようがない。それどころか指と指の間にマシューの冷たい指が潜り込んできて、熱を奪っていく。
離して欲しくて顔を上げて「マシュー…っ」と呼んでも、マシューは軽くウィンクをするだけで、それどころか更に顔を近づけてくる。だんだんと、吐息が顎に微かにかかるほど。

目の前で見れば見るほどその顔立ちが整ったものか思い知らされ、束の間呆然とする。

こんな街中のカフェテラスで誰が見ているかも分からないのに、そう思うとどうにか払い除けようとするのに力の入った手を簡単に早瀬の抵抗を受け流していく。早瀬はぐっと仰け反り、マシューの方をキッと睨む。
それがマシューから見て、涙目で何とか抵抗する、欲望を唆るような姿とは早瀬は夢にも思わない。

「本当にかわいいな…参ってしまうよ」
「マシュー、あの…やめてください」
「つい、手を出してしまいたくなるな…リョウ」

早瀬はバッと椅子から立ち上がると、後ずさった。あまりにもマシューの直接的な誘いに引きずり込まれるような強烈な磁力を感じたせいだった。

「もう、オフィスに戻ります」

目を擦って、マシューを見ないようにして呟くとタッと走っていった早瀬にマシューは「残念」と足を組み直した。

「機会はまだあるけど」

早瀬とマシューは同じオフィスだ。話すことも、その身体に触れることも容易いことだろう。顔を赤くして、怯え、今にも泣き出しそうだった早瀬を思い出しマシューはしばらく悦に浸っていた。

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