冷たい夜風が涙で乾ききったかさついた頬を撫でる。こんな真夜中でも眩しいネオンで明るい街が心なしか、いつもより暗いように感じる。

嫌になる程泣いて泣いて、全身の水分がなくなったんじゃないかと思うくらい涙を流したのに、いま思い出すとまた泣きそうになる。いくらなんでも女々しすぎると自嘲しながら、そんな自覚があっても許せないものは許せないし、悲しいのは変わらない。
今日から元のついた彼氏に言われたことが俺の心の深いところに大ダメージを与えていた。

『おまえなんかガバガバだよなー全然締めてくれなくて気持ちよくない』

あまりにも品がなく、容赦のない言葉に思わず頬を引っ叩いてしまった。もちろん相手の顔には赤い大きな手の跡がついた。けれども気分はちっともスッキリしない。
確かにたくさんの男とセックスしてきたけど、もれなく全員恋人だったし一夜限りの関係を築いたり簡単に男と寝たことはない。惚れっぽい性格だとは思うけど、セフレなんていなかったし、発展場で気軽くヤったこともない。
それなのに、ちゃんと付き合っていた相手に正面からガバマンと言われた。
あーもう、最悪だ。考えるだけでイライラとムカムカが沸いて溢れてくる。仕方ない、今日はヤケ酒だ。

ふらふらと夜の街を歩きながら、たどり着いた一軒の店。小さな看板は目立たないけど知る人ぞ知る店。好きなママがいるゲイバーに入るとカウンター席の端っこの方に座る。だいたいいつも空いている席で、店の1番奥まった場所。ここが落ち着く。辛いときはこの店に来て一杯。

ママに強めの酒を頼んで、肩の力を抜く。
ここのママはゲイにしては珍しく、無口であんまり口を挟んでこない。だから好きだ、人として。店の狭さも気に入っている。お酒も美味しい。雰囲気も好きだ。そういうママが良いっていう人が集まってる気がする。

出てきた酒をまず一杯飲んで、今日の出来事を改めて思い出して、またむかむかしていると、隣に人が来る気配がして顔を上げる。
カウンター席しかないし、人もそれなりにいるから隣に来るのはしょうがない。ゲイバーなのを良いことに俺はその顔を無遠慮に眺めた。

よく来る店だけど見覚えはない、初めて見る顔だった。なんというか純粋そう。元彼よりは背が低い。体格はそんなに良くない、元彼が良かったからそう思うだけかも。普通っぽい体型だ。全体的な感想としては素朴そうで好みではない。自分はどちらかというとちょっと乱暴で強気そうな人が好きだから、元彼みたいな。

...別れたばかりで忘れたい相手とついつい比べて、思い出してしまう自分に腹が立つ。

あーあ、やだやだ早く忘れよう。
でも、見つめすぎたのか、ばちっと目が合って、不思議そうに首を傾げられる。仕草が子どもっぽいというか、若い。うーん、これはネコかな。
それからママの方を見て、ゆっくり口を開く。

「ええっと、軽めのでお願いします」

頼み方もなんか素人くさい。
けれど穏やかそうだ。元彼は騒ぐのが好きでパーティー好き。セックスと酒とタバコが好きな最低男だったけど、この人は真逆な感じ。ある意味新鮮だった。こういう人は俺の周りにはいなかった。というより好みじゃ無かったから気持ちを割かなかっただけかもしれないけど。

良い人そう。相づちも上手そう。多分聞き上手なんじゃないかな、無意識に甘えさせてくれそうなタイプ。そんな印象だ。だから気付いたら俺は小さな声で話しかけていた。

「お兄さん、よかったら愚痴聞いて」

自慢の顔でウインクする。こう見えて女顔でモテるのだ。元彼は俺の顔ばっか褒めていたし自分でも自信がある。さりげなく太ももに手を置いてみる。
ぽかんとした顔で、俺?とでも言いたげ。そうだよ、と頷く。

「…いいですけど」
「ありがとう。ってかお兄さん初めて見る顔だね」
「来たのは2回目かな。雰囲気が良かったから、また来てみたんだ」
「俺と一緒だ。気が合うね」

目の付け所がいい。この店は良い店。
それに喋りやすいのは低くて静かな喋り方だからかな。安心感があった。
もう一口、お酒を飲む。ママにもう一つ同じのを頼んでそれも一口。間隔を空ければ良かったかも、ちょっと酔いが回ってきた。今日はもちろん酔いたいけど、まだ早いのに。

「俺さ、今日彼氏と別れちゃって、もう、ついさっきのこと」
「はあ」
「結構何度もヤってきて、俺にしては珍しく続いた方だったんだよね。ほら、ちょっと惚れっぽくて、分かる?」
「ちょと分かるかも」
「でしょ?それで一緒に出かけるのも楽しくてバカ騒ぎとかもして喧嘩してもすぐエッチして仲直りしてた。俺単純かな?」
「…そうかな」
「そうだよ。でも、そいつ...むかつくことに、格好いいし面白いし自慢の男だったわけ。ムキムキマッチョだし。エッチも気持ちよくて身体の相性抜群じゃんって。猿みたいに毎晩ヤってさ」

猿みたいに、で目の前の彼は少し顔を赤くして眉を寄せている。やっぱり初心なのかな、ちょっと可愛いかも。
その表情を堪能しながら、口は止まらなかった。やっぱり話しやすい雰囲気だ。今はこういう相手が欲しいとこだった。

「それなのに今日エッチしてたらいきなり…その、がばがばで緩いって言われてショックで思わず顔叩いちゃった」

がばがば、のとこだけちょっと声を潜める。周りは気心の知れたママとゲイばかりだったけど、それでも恥じらいがあったから。
誤魔化したくてちょっと笑いながら言ったけど、彼は笑ったりしなかった。

「激しいね」
「グーで殴らなかっただけマシだよ、多分。手加減したのは...俺の優しさ。で、なんか今まで気持ちいいって感じてたの俺だけなのかなって。...っ、彼は何も気持ちよくなかったのかなって。付き合ってた時間なんだったんだろうとか、ずっとがばがばのちょろい奴とか思われて他のかなあって。色々腹たっちゃって、そのまま、別れちゃった...ッ、フってやったんだよ」

さっき散々泣いたのに、目の前がぐにゃっと歪んだ。喋っている途中から、どれだけ気張っても無理だった。堪えようとして鼻を啜ったのに、涙が溢れて止まらない。しくしくバーの端っこで泣いて、ママが心配げに見ているのがわかる。目の前の彼も。
こんな湿気た空気にさせたかった訳じゃない。愚痴って、一杯愚痴って笑い飛ばして、さっさと次に行けるために話したかったのに。真面目に聞いてくれる姿勢が、そうはさせてくれなかった。

「……なんか、言って」

何も言わない隣の彼にそう言うと、何度か迷ったように視線がウロウロしている。元彼とは違ってちゃんと考えて言葉を選んでいる。初めて知り合った面倒くさい俺が傷つかないように。でも、一思いに女々しいと言って欲しい。そしたら傷付いてもっと泣けてスッキリ出来るかも。

でももう傷つきたくなかった。

「俺も、その、実はえっちに関して…で別れたことがあって」

なんて言われるんだろう、と思ってたら思いもよらない話だった。

「…嘘でしょ」
「いや、まあ…ほんとだよ。何回ぐらいだっけ...5回くらいかな、かなりショックだけど最近はちょっと慣れてきて」

こんなことには慣れたくないんだけど、とはにかんで言われた。
こんな純粋そうな男に5人も恋人がいたなんて、と変なところにショックを受ける。そして5回も同じ理由で別れたってこと?エッチが原因?どういうこと?
純朴そうに見えて実は絶倫とか?あとはたまにいるけど、ネコのこと考えずガンガン掘ってくるタイプとか?俺は良いけど、結構嫌われるよねそういう人。それとも相手に問題があったのかな?
悲しかった気持ちと涙は一瞬で引っ込んで、急に興味と好奇心が先走る。

「理由は?相手が、俺みたいに…ガバガバで嫌だったとか」

自虐みたいになって、途端に喉の奥が痛くなる。自分でも情緒が不安定なのが分かる。こんなのうざったいだけだ。
何言ってるんだろ。けど、否定してほしい、かも。

「ええっと……理由は俺にあって、その」
「?」
「俺なんか、大きいみたいで」
「何が?」
「え?…いや、ナニが」

小さく囁くような告白に俺は思わず男の股間をサッと見つけた。大きい?こんな男のアレが?
ジーンズの下に隠れていて、大きいかは正直よく分からない。でも体格的にはあんまりそう見えなかった。人は見掛けによらないとは言うけど、性格からも体格からも本当に想像もつかない。
露骨な視線に咳払いされて、慌ててグラスに視線を戻す。でも一度意識したらなんとなく気にかかって仕方ない。

「だから、童貞なんです…お恥ずかしいことに」
「そうなんだ...」
「...あんまり見ないで」

恥ずかしそうに、だけれど穏やかな笑みに俺はドキっとした。
今まであったことのないタイプだ。なのに、どうしてだろう。胸が高鳴る。思わずごくりと唾を飲み込む。

「大きいから、嫌って言われたの?」
「はい、まあ。痛いと可哀想だし、傷つけたくないからすごく慣らしてあげても、いざってなると怖いみたいで」
「…へえ」
「挿れる直前でみんな逃げ出してしちゃうんです。下着を脱いだ瞬間、顔色が悪くなるのを見ると、またか、って思うようになるし」
「そんなに?」
「時間をかけて指が4本入るくらいには準備するんですけど、やっぱり駄目らしくて」

いいなあ、と思った。元彼は俺を慣らすなんてしてくれなかった。指の1本も入れてくれたっけ。思い出そうとしても、覚えがない。もしかして、その時から緩いって思われてたのかも。緩いなら慣らす必要ないって。きっとこの人はすごく丁寧に愛撫してくれていたに違いない。時間をかけてたっぷりと。

それが、すごく、羨ましい。
会ったばかりの人の、顔も知らない元恋人たちが。逃げ出したその人たちに嫉妬してしまう。俺もそういう風に大切に大事にして欲しかったんだ。
気付いたら男の太ももを軽く撫でていた。そして、お互いの声しか聞こえないように、身を寄せる。

「あのさ…よかったら、シない?」
「え?」
「俺緩いから、多分大丈夫だよ、ね?」
「そんな、傷つけちゃうかもしれないし、今日会ったばかりなのに」
「大丈夫。信じて」

会ったばかりなのに心配してくれる。その事実だけで胸がじわじわと温かくなる。とにかく、この人に愛されたいと思ってしまった。付き合ってる人としかえっちしないと決めていたけど、この人なら全然いい。一夜だけでもいいと思えた。

彼はしばらく迷っているのか、口を噤んでいた。
お願い。縋るような思いで見つめた。断られていてもおかしくないのに、この機会を逃したくない。そしてお酒を一口飲んで背中を押されたのか、彼は静かに頷いてくれた。

「はい、お願いします」

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