足早に去る背中をじっと見つめた久ヶ原は、ゆっくり視線を戻して名雪を見下ろした。いつにもまして眉根を寄せて、困ったような表情の名雪はさっきの生徒と何かしらがあったことは久ヶ原の目にも明白だった。

「何があった」
「久ヶ原...何も、ないから」
「嘘だな」

どうにか視線を逸らそうと左右に揺れる目を、軽く顎を掴んで自分の方に向かせた。うろうろ揺れ動く目は久ヶ原に見られて、逃げられないことを悟ったらしかった。

「その助けてもらっただけ、迫られてて、ちょっと困ってたら」
「迫られた?...誰に」
「あの、クラスの人。でもさっきの子はそれを助けてくれたんだよ」
「へえ」

迫ってきたというやつの名前は後で聞くにせよ、助けられただけというには妙な空気感だった。何かされたという訳ではないだろう、黙ったまま暗に白状しろと目線で促すと名雪はあっさり折れた。

「その、迫ってきた人に、俺とあいつとどっちとなら......キス出来るって言われて」
「は?」
「ええっと、キスフレになろうって迫られてたんだ。あの、ちゃんと断ったんだけど、しつこくて」
「......で」
「その...咄嗟に、さっきの子に」

久ヶ原は内心舌打ちをした。腹立たしいのはしつこかったその男。だが名雪も断り切れなかったこと、自分の助けを待てなかったこと。名雪の性格上、難しいことは分かっていたが恋人がいる以上、どうにかしてほしかったところだった。

「まさか口にしたわけじゃないだろ」
「そ、そんなわけない。その、頭のとこに、一瞬だけだし」
「で」
「...ごめん」
「...赤の他人に出来て、俺には出来ないわけないな」

え、と固まった名雪の手を握ると強引に引っ張っていく。名雪は学園内で手を繋ぐことを極端に嫌がる。それは誰かに見られるのが嫌という理由で、出来るのは二人きりの時だけだ。幸いにも誰にも会わず、久ヶ原は自室に名雪を連れ込むと、手早く鍵を閉めた。

「ここなら誰にも見られない」
「お、怒ってるなら、その、ごめん」
「怒ってる。名雪からキスしてくんねーと、許さない」

そんな、と顔を青ざめて呆然とする名雪は、久ヶ原の顔を見つめて、言葉通り譲ってくれないことに気づいた。
本当にキスをしないと許してくれないんだ、と。頭とかじゃ駄目なのかな、と思うが背丈の違いから屈んでくれないとそんなことは出来ない。背伸びしてようやくキスが出来る高さだ。久ヶ原は名雪を離さないまま微動だにしない。

「ほら」

急かされて、名雪は頭が真っ白になった。
そもそも色んな事で今まで強引な久ヶ原に許して貰わなくてもいいのに、と思っても口に出せるわけがない。頑なに名雪を逃す気はないらしく、名雪は早々に白旗をあげることになる。

久ヶ原の薄い唇めがけて背伸びをする。それすら名雪の羞恥を煽る。そうしなければ届かないのだから仕方ない。

「ん、…」

よく出来ましたと言わんばかりに髪の間に指を差し込まれ後頭部を撫でられる。そうすると全身の血が沸騰したみたいにカッと身体が熱くなって、ぞくぞくする。手つきか感触か、熱を帯びる久ヶ原の目にか、自ら背伸びして口づけしにいったことへの羞恥心か、そのすべての気がした。
久ヶ原の目を見ていられなくなって、もうキスも終わったからと身体を離そうとして、それが不可能なことを思い知る。

肩を掴む久ヶ原の大きな手が熱い。もう片方は名雪の後頭部を押さえつけたまま。身体をよじって逃れようとしたら、一瞬唇が離れた。

「恋人なんだから友達より良いキスが出来るよな」
「なに、っ、んぅ...ッ」

熱い吐息が唇にかかって、その意味を理解する前に再び名雪の唇は言葉を紡ぐ前に塞がれた。
ぬるり、と熱くぬめった感触が口の中に潜り込んできて、その正体が何なのか名雪が気づいた途端顔に一気に熱が集まったのがわかった。
名雪の、奥に縮こまった舌を触れ合わせて、引きずり出す久ヶ原は獣のごとく、獲物を逃す気はさらさら無いようだった。微かな水音が部屋を支配した。

「ふ、っ...ん、んん」

唾液が混じり合って、鼻をすりつけ合いながら恋人同士のキスを交わす。そのおかげで久ヶ原の中にくすぶっていたさっきまでの嫉妬は一気に鎮火した。名雪がこんな風に許してくれるのは恋人の自分だけなのだ、と。

足腰が震え、そのままくたりと久ヶ原の身体にもたれかかった名雪はキスフレなんて、と恨みがましい目で宙を見つめていた。

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