完全に錯綜した感情を鎮める事に精一杯だったレオンハルトには、接近して来るもう一人の人物の気配を察知する事が出来なかった様だ。



「ヒルデ様?如何されましたかな?」

少し嗄れた独特の抑揚を持つ聞き覚えがある初老の男の呼び声に、びくりと彼の肩が跳ねる。

「っ…!」

視界を真っ白に遮る強い日差しの中に佇む人物の姿に、レオンハルトは慄然とした表情で息を呑んだ。

自分の罪を許し、受け入れ、宥免を唱えてくれた人物の一人。

其の名は、バルヒェット・ズィーガー。



「何をなさって━━…、」

ヘルガヒルデの目前のレオンハルトの姿に視線を移したバルヒェットは、哮けり立った。

「お、お前…!?ま、まさか、レオンハル…、」

「駄目です!」

悲愴に満ちた口調で、彼は切に叫んだ。

「俺をその名で…、呼ばないで頂きたい!」

己の意思とは無関係に、レオンハルトは捨てざるを得なかったのだ。それは、氏名だけの事柄では無い。

深く負った哀傷の痛みに、顔が歪む。

「今の俺は、あなたに受けたご恩を仇で返す事しか出来ない、只の咎人です…!」

溢れ返りそうな程に溜まった滓が、胸を突き上げる激情が去来した。そして其れ等は彼を支配しようと、暴れ出す。

その心緒を圧殺する為、レオンハルトは目一杯に奥歯を強く噛み締めた。



暗愁の影が差すレオンハルトの両肩をバルヒェットはしっかりと掴んで自分の方に向き直させるも、彼は視線を下に落としたまま戦慄く唇から拒絶の言葉を吐いた。

「申し上げるは、己の保身の為ではございません。どうか━━…、お立ち去り願います。」

「そうばいね、言いたい事は良く分かるけん。ばってん、少し落ち着かんね?」

バルヒェットの口から飛び出したのは、耳に慣れない彼の郷言葉だった。

「考えてんみろ!本国ばこんなに離れたこの場所で、一体誰がぬしん罪ば知っとって、一体誰がおい等ば裁くて言うんか?」

レオンハルトの肩を掴む両手にぐっと力を籠め、バルヒェットは切に声を張り上げた。

「おい等には、ぬしゃと話しばする権利すらもなかとか…っ!?」

「ああ、そうだ!尤も、権利がねえのは俺の方だがな!」

「な、何だと…っ!!」

まるで夜叉のような形相のレオンハルトは、バルヒェットの手を強く打ち払った。





今、バルヒェットの脳裏を支配するは、レオンハルトが十字軍の軍服を身に付けて会した日。

長身で、一見して骨太で強健と分かる風采の立派な彼は、琥珀色の瞳が良く似合う非常に端正な見目をも持ち合わせていた。

バルヒェットはその様に驚愕したものだ。

お仕着せではあろうが整った身形の彼からは、到底、蛮行を繰り返して来た海賊とは思えぬ程の気品と風格が感じられたからだ。



ところが、現在の眼前の彼はどうだ。



暗に語るは、自身に対して閑却な此処での生活。乱れた長髪や酷い無精髭がそれを示していた。

更には、濁った怨嗟と激しい憎悪を讃えた鋭利な眼光。

バルヒェットは憂慮する。

道理を持たず、義を知らない頃の『彼』に━━、リュユージュと出逢う以前の『アンバー』に、回帰してしまうのではないか、と。

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