「なあ、ローズ。」

ヘルガヒルデは、ぽんとロザーナの肩を軽く叩く。

「何処かに落ち着ける場所はないか?レオン君と少し、話しがしたいんだ。」

口調こそ非常に穏やかなものだったが、ヘルガヒルデの翡翠色の瞳はそのような感情を映し出してはいなかった。

まるで、仕掛けた罠に漸く待ちに待った獲物の姿を認めた時の狩人の如く。

彼を決して逃すまいと、深く突き刺すかの様な鋭い表情を垣間見せた瞬間を、ロザーナは逃さなかった。

━━この女の真の目的は何だ?推測するに、カイザー殿を十字軍に連れ戻したところで今更どうにもなるまいに…。



「おい、大丈夫か?カイザー殿。」

ロザーナが声を掛けるも、レオンハルトの耳には届いていないであろう事は明白だった。

精一杯に虚勢を張る彼の顔色は白蝋の様に失われており、完全に萎縮した表情で唇は戦慄いていた。

「一旦、部屋に来させた方が良いのではないか?互いに、往来でこの状況は好ましくないだろう。」

レオンハルトの悚然は酷いもので、普段の従容とした様子は皆無だった。強く握られたその拳も小刻みに震えており、異様なまでの力が指先に籠っているのが見て取れた。

━━無理もなかろう、突然のこの状況では…。果たして、ルード殿がこの場に居ない事が吉と出るか凶と出るか。

「…行くぞ。」

現状では到底論理的に筋道を立てて思索する事など不可能だと判断したロザーナは、半ば強引に宿屋へ戻るよう彼を促した。






背中を丸めて覚束無い足取りで前を歩くレオンハルトを、ヘルガヒルデは凝視する。

彼女はレオンハルトの逃走は予測していたが、バルヒェットの混乱は全くの想定外だった。

彼が郷言葉を話さなくなってから、幾年が経ったのだろう。もう簡単には思い出せない程の月日が過ぎている事だけは、間違いない。

とある事情の下に長年に及び封印していたそれを無意識に解き放ってしまう程の、精神の錯乱。

━━バートがこんな動揺するなんざ、滅多にねえ。こりゃあ相当腹を据えてかかんねえと、俺まで持ってかれちまうぞ。

ヘルガヒルデは自身の右腕をここまで掻き乱すレオンハルトに対し、非常に危殆な存在として特別な興味を抱いた。

━━ニックの野郎から聞いてた話しと全然違うじゃねえか。これのどこが恭順な草履持ちだってんだ?相当な食わせ者だろうが。



彼等は其々の思惑を胸に、宿屋までの道を無言で歩いた。

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